2017年04月05日

【レオ】褒めて伸ばすか、欠点を注意して教えるか?

基本的には、人は「褒めて伸ばしてあげる」方が良いのだと思う。

当人的にも、褒められながら成長していった方が、喜びながら成長できるのだから。
それに対して、良くやっても褒められず、失敗した時ばかり注意するといった「減点主義」スタイルの教え方をする人は、他人を伸び伸びと生長させることは出来ないに違いない。

仕事に関しても、
リスクを減らすために、チェックを増やしたり、書類を増やしたり、あとは経費削減とか、こういったマイナスチェックに主眼を置く人は、
ミスは少なくなるかもしれないが、ちんまい人間になる危険性が高いでしょう。
官僚的なお役所仕事には向くかもしれないが、スケールの大きい人物にはなりにくくなる。
リスクや失敗を恐れるあまりに、過度に神経質になりすぎると、人は伸び伸びと生きる大らかさを失う。

得てして、仕事一点張りでクソが付くほど真面目すぎる仕事人間には、減点主義のタイプが多いように思う。
しかし、このやり方では、部下は伸び伸びと成長するのは難しいだろう。
最初のうちは、小さな失敗は大きな経験やで〜!、くらいの大らかさでもって教え、積極的に褒めて、伸ばしてあげるのが、先輩や上役の度量であり、愛情ではあるまいか。と、わたしなどは思う。

減点主義であって、欠点にばかり目が行って、ミスをすると注意するが、成長した部分は別に当たり前、褒めてもあげない、なんていうのでは、教え方としては下の下だと、わたしは思うんですね。
本来はその逆で、褒めて褒めて伸ばしてやり、ときどき危ない点は注意すると、そのバランスが大事だと思うのだけれど。

減点主義者というのは、欠点や失敗には厳しいが、長所や成長の伸びしろは見てあげない。出来て当たり前、出来ないと注意したり叱る、というやり方では、親が子供を教える場合にも、上手くいかないだろうと、わたしは思う。子供の立場になってみればいいのだ。

頑張っても、それは当たり前で、ダメなときは叱るというのは、
最初から、成長先のハードルが高すぎるんですよ。
親の目で見たハードルの最低ラインが高すぎて、そこに到れば、当たり前。行けない場合は、減点で足りていない、叱る、ということでしょう。

これは、姑と嫁の争いなんかも似たところがあって、姑は自分のやり方を良しとしていて、それに近いところまで行けて当たり前、足らざる場合は、ダメな嫁だと言って叱るわけで、そうなると、嫁の方はふてくされるのが当然なんですが。

結局、
減点主義者というのは、エゴイスティックで自己中心な人、くそまじめすぎるタイプに、多いように思うんですね。
エゴイスティックというのは、自分のやり方を良しとしていて、というか、それを最上級のように思っていて、そこに近いか近くないかで、他の人の在り方に、優劣をつけるわけでしょう。自分の立場でしか実はj見ていない。
まったく違うタイプは理解できず、褒めてもあげずに、自分のやり方こそを良しとして、それに固執して、そこを合格点として、至らざる場合はその足らざるを叱る、注意すると。

失点ばかりを注意されて、喜んで頑張る人はいませんから、これはやはり、教え方の未熟、みずからの度量の狭さといって、反省すべきところがあるのではないかと思う。

足らざるを注意するのなら、足りているところは、その倍くらい褒めてあげて、ちょうどいいのではあるまいか。

要は度量の問題。寛容さだとか、大らかさだとか、懐の深さ、キャパの広さ。自分と違った在り方を良しとする、魂の器の大きさですね。
これは、指導者、リーダーの必須条件の一つではあるまいか。

クソまじめに過ぎて、あとは自己視点に偏りすぎて、偏狭な減点主義者になっていないかどうか。
子供や部下に対して、褒めること少なく、注意することばかり多い、そうした態度で生きていないかどうか。

生かす愛のレベルというのは、これを克服して、自己の視点からは徐々に離れていき、その相手の成長そのものを見守る。そういった境地でこそ芽生えてくる、他人を生かせる視点の獲得、ではないかと思うのでありました。




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2017年03月10日

【レオ】品性のある人は、下品な言葉は嫌い

 … なのだから、下品な言葉は見ただけで、弾かれるもの。

ということが、下品な人たちには、わかっていないらしい。


下品な人たちは、その邪悪な不平不満を、思うがままにブチまけることに夢中で、
その怒りを言葉の表現そのものの中に投入してゆく。
怒りの激しさは、言葉の激しさとなり、激しい憎しみは、暴言、悪口雑言の嵐となって、
心が邪悪な怒りに満ちているほど、その言葉もいっそう醜く汚いものになってゆく。


地獄の悪霊、悪魔たちの、言葉の汚さ、下品さを見るがよい。

そこに表れているのは、心の醜さであり、その心が荒れているからこそ、言葉も荒く汚いのだ。


ベーという悪魔の言葉の下品さは、霊言を読めばわかる。
これを見れば、
似たような、下品な言葉づかいをして憚らないP吉のような人間は、この手の悪霊に好き放題操られる理由が、よくわかる。
言葉と思いの邪悪さが、ものの見事にシンクロして同通しているからですね。
心が同じ邪悪さで共通しているから、類は友を呼ぶで、悪魔・悪霊の手先になるわけだ。
傍から見ると、その同類ぶりがよくわかるのに、肝心の当人はまるで自覚が無い、魔の操り人形となっている。

いかに邪悪な意志を持った悪魔・悪霊であっても、
心が善性で満ちた人に、完全に取りついて操ることは出来ない。
心が違っていて、同通できないからだ。
接続できない以上、操ることも出来ないのは、理の当然。

波長同通の法則があるお蔭で、
人は、自分の心を正しくコントロールして、善に生きれば、悪に翻弄されることなど決してないのだ。
悪魔・悪霊は、その人のそばにいる、操れる人間を使って、間接的に惑わしてくることはあるかもしれないが、
その人本人を、直接的に惑わして、操ることなどは出来はしない。
家族全員が善人であれば、その家庭に入ることすら、悪霊には出来ない。
光の出城とは、そういうことだ。


品性の低劣な人たちは、自分の不平不満を、世に喧伝して聞いてもらいたいのだろうか、
あいにくなことに、

多くの人は健全な心の持ち主であって、善なる心を持って生きているのだ。
だから、彼らに共鳴してもらうためには、
自分自身が、善い思いを持ち、善き言葉を発する、品性のある人間にならないといけない。
邪悪な思いを、激しい言葉で訴えても、まともな人には知らんぷりされるのだから。

そのことを、下品な人たちは知らないのかもしれない(笑)。

といっても、下品な心のままで、言葉づかいだけ丁寧を装っても、その心根の卑しさは、その言葉の中身に出るからね。
善人をあざむくことは出来ないよ、ということも、付け加えておきましょう。


おしまい。




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