2017年04月07日

【レオ】第一に忍耐することを特別に学ばねばならない。

いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -



第一に忍耐することを特別に学ばねばならない。




「忍耐の大切さ」というのは、深い精神修行を語る人は、みな等しく述べているポイントだと思う。

総裁先生も、いちばん難しかったのは「忍耐」であった、と確か述べていことがあったかと思います。

忍耐、忍耐、忍耐。

その対極にあるのが、せっかち、であるとか、焦り、であるとか、あるいは、早急に結果を求める結果主義ですね。
こういう、手っ取り早い手段によって、成果を得んとする心。
これは、忍耐とは正反対の、時間を耐えることを知らない心ではないか、と思います。

本当に、長い時間を待つことが出来るだろうか。
10年と言わず、30年、50年、70年。
あるいは、今世の全生涯を通しても、望んだ成果が得られないとしても、その目的を目指して努力し続ける意志がありますか?
真理を求めるというのは、そのくらい、耐えて耐えて、求めて求めて、それでもなお得られぬかもしれない、永遠のテーマではないでしょうか。

結果主義者というのは、霊的に言うと、天狗・仙人のような世界に通じるものであって、王道ではない道につながっているようですしね。

王道というのはやはり、忍耐の先にある真理を、着実に、地道に求めてゆく姿勢なくして、辿れない道ではあるまいか。
物質主義ではなく、精神性を大切にする心。
あるいは、結果主義ではなくて、心がけや動機を大切にする考え方。
長い時をかけて、魂の成熟を目指す、着実なる進歩の道を歩む者は、決して焦ったり、結果を早く得ようともがいたり、性急な態度は採らないものですね。
忍耐づよく待つ心がある。淡々と、日々を努力して生きることを知っている。その大いなる心が、その人の魂に落ち着きを与え、外見にもその落ち着きが現れるのではあるまいか。

ルドルフ・シュタイナーは著書「いかにして超感覚的世界の認識を可能にするか」で、続けて、つぎのように述べています。



魂と霊の育成のために、私はどんな努力も惜しまない。
しかし高次の存在たちが私のことを悟りを得るにふさわしいと見做してくれるまでは、まったく静かに待ち続けるつもりだ」。
この思考内容が自分の性格の一部分になるまでに深くそれを心に作用させうる人は、正しい道の上に立っている。
その時はすでに外見の上にもこの性格的な特徴が現れてくる。眼差しは落ち着き、身のこなしに確かさが加わり、決断力が増してくる。神経質な要素も次第になくなる。





悟りとは、安直に手に入るようなモノではありませんからね。
それに相応しい魂にみずからがなるまでは、決してわからない世界のはずでしょう。
その悟りが得られるのは、いつの日か。それは定かではないけれども、その日を夢見て、淡々と、努力精進を当たり前のように、日々実践できる人ほど、王道を歩んでいる仏道修行者と言えるのではないでしょうか。
そういう人の特徴は、落ち着いた眼差しや、穏やかな性格などとして、現れてくる。
繊細な魂は、得てして神経質だったりしがちだけれども、やがてそうした神経質さも消えてゆき、本来の、繊細なる精妙なる心へと、成長してゆけるのではないか。
それが、王道を歩んでいるかどうかの、一つの物差しなのかもしれません。

次の言葉も、興味深い指摘ですね。



次のような言い方は何の役にも立ってくれない。「私は前世の生活を知りたい。その目的のためにこそ神秘学を学びたいのだ」。むしろこのような願望をすべて捨て去り、しばらくは何も意図せずに学ぶことができなければならない。このような意図をもたずとも、学習に対する喜び、その学習内容に対する畏敬と帰依の念が強められねばならない。そうすることによってのみ、成就させるにふさわしい真の願望を持つことをも、同時に学べるのである。





まるで超能力願望か何かのように、スーパーマンのような超能力や、霊能力を得たい、あるいは自分個人の隠された秘密だとか、前世のことを知りたい、だとかいう目的ですね。
そういう能力獲得願望のために神秘学を学ぼうというのは、ある意味、興味本位の態度で、摩訶不思議な世界に興味を持っているだけの話で、修行態度としては不純でしょう。
宇宙の叡智だとか、大いなる神秘そのものを知りたい、だとか、途方もない秘密ばかりに興味を持って、あるいは摩訶不思議な秘密ばかりに興味を持って、それ目的で真理を学んでも、その真理の本当の意味は理解できないだろうなぁ、と私は思います。
永遠の真理は、仏神への信仰の世界であり、仏神から流れる慈悲の世界でしょう。そうした叡智を知るのに、信仰なき態度、愛なき心でもって、その秘密を知らんとしても、本当の意味での理解は決して出来ないでしょうからね。
単なる知識欲だけで、神秘を理解できると思ったら大間違い。それは邪まなる態度、興味本位の気分でもって、神の叡智を覗き見しようという邪心ではあるまいか。そういう反省もあり得るはずですからね。
シュタイナーが言うように、畏敬の念と帰依の心なくして、神秘学の奥義を知ることは出来ない。字面だけ暗記しても意味はない、それは理解ではない、ということですね。



真の忍耐の中での温和と寡黙とは魂のために魂界を、霊のために霊界を開示してくれる。

直ちに魂と霊の世界を見聞きできるなどと期待するな。

ふさわしい成熟に達したなら、いつかはそうあるべき自分になるであろう』という想念をその間にも深く心中に刻み込んでおけ。恣意的に高次の力を引き寄せようなどとは決して思うな」。これははじめて道を歩むに際して、すべての神秘学徒が師から受ける教えである。この教えに従う者だけが進歩する。この教えを守らねば、どんな努力もむなしい。




これは、霊能力信仰に陥りがちな、邪な態度で真理を学ぼうとする者に対する警告であり、鉄槌であろうと、わたしは思います。 知ったつもりになるな。理解できたと思うなよ。ということですね。 外面的に、知識的なことを理解したつもりでも、魂の認識として本当にわかっているのか、どうか。 心の変革を行なわないでいて、神秘を知ることが出来るなどとは、思うなかれ。ですね。



あなたの知っている秘密の知識を伝授して下さい、しかし私の今までの感情と表象はそのままにさせておいて下さい。
もし師に対してそのように要求するとすれば、その人はまったく不可能な要求をしていることになる。その人は単なる好奇心、単なる知識衝動だけを満足させたがっている。このような態度では神秘知識を獲得することは決してできない。




自分のいま現在の、不完全な理解力、わがままな性格、問題の多い性格や考え方はそのままにして、まるで変えるつもりもなく、要するに、正しき心の探究は<無し>で、変革の意志などサラサラ無い。 
そうした現状維持の自分であるにも関わらず、神の叡智、永遠の真理を知りたい、というのは、本来、知る資格が無い分際で、それを知りたいと主張している<わがまま勝手>以外のなにものでもない、ということ。 
神の叡智を知りたくば、己の心を、神の使徒たるに相応しい、神近き心を持つための自己変革を行なう以外に無いはずなのに。 心は未熟なままで、神の叡智を教えてくれ、という自分勝手、わがままですね。そんな甘っちょろい態度で知ることの出来る叡智など、この宇宙には有りませんからね。 
幼稚な精神が知ることの出来るのは、その幼稚なレベルに相応しい範囲での、ささやかな理解でしかないでしょう。 亀が、亀の歩ける範囲の世界をすべての世界だと思い込んで、慢心していたように。







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2017年04月06日

【レオ】蒔いた種を刈り取ることが出来る「ありがたさ」

ふつう、カルマの法則というと、前世で犯した悪さの報いを受けるとか、そういった重苦しいイメージを持っている人のが多いのではないだろうか。

なぜそうなるかと言えば、
人は、人生で悩み苦しんだりする時に、神秘やスピリチュアルの知識を求める。
そして、そういう経緯でカルマの法則を知ることが多いがために、

苦しみの原因は前世にある。
前世かくかくしかじかの行いをしたがために、あなたは今世このような苦しみを担うはめになったのである。

という理解が、カルマ理解の中心になりがちだから、ではないだろうか。

アドラーの霊言を読んでいて、ふと、そう思ったので記事に書いてるんですけどね。

蒔いた種は刈り取らねばならない。

前世、よくないことをした結果、今世、苦しみが結果として、現れてきている。

マイナスの原因が、マイナスの結果になっている、という原因分析ですね。
これによって、自分の悩みの原因を知りたい、解決したい、ということでしょうか。


けれども、公平に言って、カルマの法則というのは、
悪因悪果だけではなくて、善因善果も同じくらいあって、不思議はないはずなんですよね。
善人の魂の方が、悪人の魂の数より多いなら尚のこと。

悪因悪果よりも、善因善果を、もっと思う必要もあるのではないだろうか。

これは、今世、自分に優れた才能があったり、善き性格が備わっていたりしたら、
自分の魂の兄弟姉妹が、前世がんばってくれたということでもあろうし、

あるいは、積極的人生のすすめとしては、
今世、善い思いと行ないを続けていけば、その結果として、善き結果が現れてくる。
それは今世の収穫であることもあれば、来世の収穫にもつながる、カルマの善き働きの面ですね。そこに注目したい、ということ。


ふつう、そちらにはあまり目が向いていないのではないだろうか。

けれども、自分が持って生まれた性格や特技、得意なこと。こういったものは、大抵の場合、前世どこかで自分が体験して、磨いてきた能力の結果であったりするわけでしょう。

たとえば、今世、子供の頃から絵が上手だったとしたら、それは偶然ではなくて、おそらくは前世のどこかで、趣味レベルかプロの画家かは知りませんが、絵を描くということをそれなりの期間、この魂は経験を積み重ねているはずなんですよね。


今世の才能は、前世までの努力の蓄積である。

これは真実だと、わたしは思います。

対人能力にしても、人との付き合い方が非常に上手な人というのは、前世においても、対人能力を磨いた人生を生きたのではないでしょうか。
商売で多くの人の相手をした、だとか、多くの人と交流するような人生を生きた過去世を持っている、だとかね。

学問的な知性にしても、過去世よく勉強した魂は、生まれ変わった来世でも、やはり勉強がよく出来るようになる可能性が高いんですよね。
運動の才能にしても、そう。

才能とは、過去、自分が成してきた努力の質と量の蓄積のことである。

こういってもいいのではないでしょうか。


だから、

蒔いた種は、刈り取らねばならない。
という、マイナスイメージのカルマ理解だけではなくて、

蒔いた種を、刈り取ることが出来る「喜び」
という視点も持つ必要があるでしょう。

それは、前世の自分に対する感謝にもなるし、
来世の自分のために、いまの人生を「生き切る」ことの大切さを知る。
そういう責任感にもつながるでしょう。

発展的に、肯定的に、自分の人生を捉えよう。

今世、努力したことの多くは、必ずしも直接的な実りにはなっていないかもしれない。

絵を描く勉強をしたけれど、画家やイラストレーターにはなれなかったかもしれない。
けれども、少しだけでも絵の腕を磨いたことは、来世にも、絵を描くことの上手な才能として、持ってゆくことが出来るんですよ。
ということ。

野球部に入って、厳しい練習をしてきたけれども、プロ野球選手にはなれなかったかもしれない。
けれども、そこで鍛えた根性だとか、運動神経だとか、持続する精神、その他。あらゆる精神的特質や、肉体を操るセンス、とかですね。
こういった鍛錬の蓄積は、来世にも、なにがしかの才能の一端として、持ってゆくことが出来る、ということ。


蒔いた種を、刈り取らねばならない、ではなく、刈り取ることが出来るのだ、ということ。

善き種を蒔いて、善き収穫を得ようではありませんか。

それは来世の収穫になるかもしれないし、来来世の収穫になるかもしれないけれど、確かにその種は、何かの実りを生んでいるのであって、決して消えることはないのである。
それを信じようではありませんか。





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