2017年02月23日

【レオ】孤独…人間にとって一番つらく苦しい状態

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孤独。
人間にとって、いちばん辛く苦しいのは、孤独であること、なのだという。

実際、誰も知り合いがなく、
誰も語り合える相手がおらず、毎日一人きりでいたら、その侘しさは、やがて耐えがたいものになるでしょう。

孤独の辛さを経験したことのある人は、孤独ほど悲しい状態はないことを、知っていることでしょう。

話し相手がいることを、当たり前のように思っている人よ。
その相手がもしいなかったら、自分の毎日はどうなるかを、考えてみたらいい。
愛する相手を失ったときの喪失感、その悲しみは、孤独の辛さを教えてくれる。
話し相手がいることの有り難さと、その人がいないときの悲しさを、教えてくれる。

あの世においても、いちばん深い地獄にあるのは、絶対の孤独ですね。孤独地獄といい、無間地獄というけれど、誰も語る相手がいない世界で、何十年何百年と過ごす孤独の辛さは、いかばかりか。
その隔離状態の厳しさが、そこに堕ちた人の罪の深さを表している、とも言えましょう。

エドガーケイシーのリーディングでも、人にとって一番辛いのは、孤独であること、だと述べられていました。

愛を他の人に与えるのではなく、その反対の人生を生きたら、人は、愛が得られない世界に堕ちてゆく。
孤独の世界とは、そうした世界ではあるまいか。

むろん、魂の経験と学びのために、時として人は、人生の中で、孤独な時を持つことがありますね。
しかしそれは一時的な孤独の時に過ぎないのであって、そうした悲しい経験の中で、愛を与えることの大切さを知りなさいということなのでしょう。

与える愛に目覚めた人が、一生涯のあいだ、ずっと孤独ということは有り得ません。
もし自分は生まれてからずっと孤独であり、これからも孤独なんだと言い張る人がいたならば、それは、愛を与えていない人生を生きているからだと思います。

あの世においても、孤独地獄になど堕ちたくないように、この世においても孤独な人生を生きたくはないものですね。

孤独から脱却するためのキーワードこそは、愛。
他の人に愛を与えて生きなさいという、人生の秘技なのでしょう。


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posted by ガンレオ at 10:54 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

【レオ】文は人なり、その人固有の表れ 2013 / 文は人なり 2014

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LEO幸福人生のすすめ、過去記事より2編転載

文は人なり、その人固有の表れ
http://ameblo.jp/space-people/entry-11654586883.html
2013-10-27


これだけいっぱい文章を書いていると、読んでくれる人の目に多く触れるだけでなく、自分自身の目にも、自分の主張や好みなどが明らかになってきます。
書いてみなければ、それほど明確ではなく、曖昧模糊としていたものが、書くことによって、よりいっそう明らかになることもある、ように思えます。

書いてきた記事の、テーマ分けなんかを見ると、自分の関心領域の比重がわかってしまうし、それは、読んでくれている人にもおのずとわかってしまうことですね。
そういう意味ではちょっと恥ずかしい気もしますが … 。

まぁ、自分が深く関心を持っている分野で、より良い記事を書ければよいかなー、それで少しでも誰かのお役に立てれば、それでよいかな。そんな気持ちがいたします。

文は人なり、といえば、書く内容がその人を表している、ということもあるけれど、
その人の文章の書き方「文体」というものがありますね。その人独特の言い回しだとか、好き好んで使う表現の仕方、などなど。

小林秀雄氏と田中美知太郎氏の対談を読んでいたら、そうした文体のことが少し出てきて、ちょっと面白い箇所がありました。
お二人とも既に故人ですけれど、田中美知太郎さんはプラトン研究や、その翻訳を多くなさってくれてた哲学者、哲学研究家ですね。
この方が対談のなかで述べているのですが、
プラトンの文体は、初期のものと、晩年のものではだいぶ違っている。
したがって、著作の年代がわからないものに関しては、プラトンの書き方、文体から類推して、書いた年代を逆に特定していく。
プラトンの著作に関しては、そうしたことが行われているそうですね。

近現代の著作物は、誰が何年に発表した作品なのか明白なので、逆に、こうした文体の変化や相違というのは、それほど研究されてないらしいですが、
はるか昔の古典などは、書かれた年代を特定するために、著者の文体の変遷なども、追うことがあるらしい。プラトンの文体はしたがって、かなりの研究がされているみたいです。

一方、プラトンの弟子のアリストテレスの著作は、オリジナルの著作というより、ノートやメモ書きを後で編集して本にしたものが多いので、アリストテレス自身の正確な文章はよくわからないんだそうです。だからアリストテレスの文体研究は、あまり行われていないらしい。

ところで、この田中美知太郎さんは、西田幾多郎さんの授業を受けていた教え子でもあるんですよね。
で、田中さんが言うには、西田先生の哲学授業は、難しくて何を言っているか皆ほとんどわかっていなかったけれど。
アリストテレスの講義のときだけは、なぜか授業が生き生きとしていて面白かった。
そんなことを、別の対談本で述べていたのを読んだことがあります。
とっても意味深な感想だなぁと思って、ほぉ〜ってなった記憶があります。

話が脱線してしまいましたが、
要するに、文体を見れば、その人の考え方や特徴がわかる。
同じ人物のものであっても、書かれた年代が違えば、その文体も違ってきて、書いた人の心境の変化や考え方の変遷までも、辿ることが出来る。

文は人なり。面白いですね。
自分自身の文章をみても、いまの書き方と、むかしワープロで書いていた時とは、まったくといっていいほど違ってしまっています。
それは単に、書き方だけが変わったのではなくて、内面が変わってきたからこそ、その表れである文章も、違ってきているということだと思います。

その人の書き方、考え方、文章の展開の仕方は、やはりその人特有の精神のたまもので、他の人がなりかわって書けるものではないと、つくづく感じます。
いくら真似て似せようとしても、書き手の精神が違う以上は、やっぱり出てくるものも、おのずと別の文章になってきてしまう。
その人ならではの文章に、自然と変わってくるんですよね。文は魂の表れですから


ちなみに、文の書き方を覚えるためには、最初は、自分の好む作家の表現の仕方を真似していくことが、上達の早道なんだそうです。
真似て書いていても、いつしか自分独自の書き方に、自然と変わっていって、知らず知らずのうちに、自分の文体というものが出来上がってくるに違いありませんから、最初は真似でも全然かまわないらしいですね。

カント哲学を学んだフィヒテのデビュー作などは、まるっきりカントが書いたかのような文章でしたけど、後期のフィヒテはまったく違った書き方になっていましたから、
やはり最初は、尊敬する人物の書き方に影響を受けて、それを真似た書き方をしていても、やがて徐々に、その人特有の書き方というものが出来上がっていく。そんな風に感じます。
絵描きさんにしても、最初は誰か、自分が好きな絵描きさんの真似するとこから始めて、やがて徐々に、自分の作風を作っていくように思いますけれど、その変化は長年月の努力に比例して、自然と出来上がっていくものですね。
魂そのものの表現形式は、やはり魂の在り方や性質と直結していて、その人にいちばん合った表現の仕方が、いつしか出来上がっていくように思います。
文体も画風もみな、こうして、作者特有の、唯一無二の作風として、現れてくるように思います。

総裁先生も初期のころからおっしゃっていましたね。
幸福の科学で学んでいると、総裁先生が語るがごとくに、同じように考え、同じような言葉を使って話すようになり、似てくると。
それはとっても良い傾向だと、わたしには思われます。それこそ、しっかりと教えを学んでいることの証左ですからね。
けれども、同じ先生から学んでいても、やはり学ぶ側には千差万別の個性があるから、みな同じくコピー人間になるわけではありません
総裁先生の教えを学び、同じようにものを考える傾向性が身に付いても、
そこからまた、各人独自の表現形式の違い、現れ方の違い、みたいなものも出てきますね。

根本の幹にはしっかりと、主の教えが燦然と輝きながらも、
そこから派生したさまざまな枝である、各人各人は、個性的な発言や、個性的な行動を取って、この教えを世界へと展開していきます。

さまざまな個性は、唯一無二のものであって、他の人に変わりようがない。
その人の個性は、その人独自のもので、話し方から文章の書き方まで、実際には二人と同じ人はいませんね。

面白いなーと思います。

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文は人なり
http://ameblo.jp/space-people/entry-11949249649.html
2014-11-07


文は人なり、と言いますが、

文章には、その書き手の心の状態、性格、雰囲気、その他、いろんなものが現れていて、とても面白いと思います。

しかも、同じ書き手であっても、時とともに変遷して変わっていくことがある。
子供時代に書いた文章と、大人になってからの文章では、むろんかなり違った書き方になってるだろうと思います。

もっとも、ある程度の年齢になると、その人特有の書き方なり、表現方法なり、というのが自然と固まって来て、
たとえば、著者名が書かれていなくても、その文章を読めば誰が書いた文章かがわかってしまう。
そのくらいの独自性や、個性の表現形式としての文体、というものが確立する
ようにも思います。

人間の生涯においても、半世紀くらい生きると、だんだんその人の考え方というものが固まって来て「有(う)」という状態になるそうです。仏教用語ですね。
そうやって、心の状態が固まればなおのこと、文体にも、著者独特の特徴が、いっそう明確に表れてくるものかもしれません。

別の例で言うと、ちょっと話は変わりすぎるかもしれませんが(笑)、
新連載のマンガなどをみると、第一話ではまだ絵柄が安定していないのに、ずーっと話が進んでいくと、どのキャラも容姿が安定して定まってくる。
あんなような感じで、たくさん書き続けていくと、その人の文体というものが、ある一定の型となって定まってくる。そのような感じとも言えましょうか。

たとえば匿名で文章を書いたりして、著作を発表したとしても、
その著作をつぶさに研究されたりすると、その書き手は実は作家の誰それではあるまいか、などと推理されて、やがて候補が絞られて、かなりの精度で特定されることがありますね

文壇では、匿名作家の正体を探る、などということが、わりと昔からよくあったようにも思います。
女流作家でも、以前は女性という立場で出すと批判されることも多かったため、男性名義を使って作品を発表していた人もいますね。
けれども文体に、女性ならではの繊細表現があったりするようで、この作家は女性ではあるまいか、などと推定されたりして、見る人が見れば、独自の特徴があるようで、いろいろ気づかれることが多いようです。

短い文章ではわからなくても、ある程度の文章の分量があると、その人特有の言葉づかい、好んで使う単語などが頻出して、特徴がハッキリと出るのでわかるんですよね
古代の哲学者のプラトンには著作がたくさんあるけれども、その文体や内容表現をみて、それが本当のブラトンの真作なのか、それとも誰かが真似して書いた偽作なのか、そうした判定がなされているはずだし、
あるいは、本物のプラトンの著作であっても、書いた年代によって、微妙に思想や表現の仕方が違うので、その違いによって、書かれた年代を特定する、なんてことも行われているらしい。

いずれにしても、書き手の個性、モノの考え方、思想、といったものは、長い文章を書けば書くほど、より一層鮮明に、ハッキリと現れてくるので、
そのくらい、文章というものには、その書き手の個性・魂が具現化して現れるものなのだ、ということなのでしょう。
わかってしまうということです。

ただ、言葉には、言い回しとしての特徴、というだけではなしに、
そのことばに込められた「思い」というものがありますね。

まったく同じような文章を書いたとしても、その書き手の心がどういう状態であるのか。
喜びに満たされた、幸福な心の持ち主が書いた文章と、
見せかけだけ、それらしく丁寧に書いている文章とでは、
その文章に込められた「思い」がまったく違っているので、
必ずしも、言葉づかいだけで、その文章の良し悪しは決められないところもあるのだろうな、ということも、最近はよく感じます。
文章全体から醸し出される、雰囲気、オーラといったもの、本屋に並んでいる本も、単なる文字や文章を束ねた、物体としての本というのではなくて、
実はそれぞれの本から、オーラのようなものが発散されている、とも言われています。
思いが込められている文章からは、たとえ印刷されたものであっても、そこから作者の思いが、やはり発され続けているのだな、ということ。
ならば、文章とは、単なる言葉の羅列ではなく、そこに込められた思いこそがその本質であって、大切なのは、書き手の心なんだな、と思わずにはいられませんね。

したがって、たとえブログの記事程度のはなしであっても、
自分で文章を書く時にも、気が滅入っているときや、疲れている時に無理に書くのはダメだな、今日はやめておこうと、書くのを止めることがよくあります。
やはり、善き心の状態があってこそ、善い思いが流れ出してきて、それが善い言葉にのって、リズムが生まれるように思います。
気持ちがマイナスのときや、疲れているときには、思いの方も弱っていると思うので、控えた方が賢明かな、と思うのですね。

文章なり、言葉なり、物語でも思想でも同じことだと思いますが、
その中に込められた、作者の思い、というものが、実はとても大切なものなんだな、ということを、つくづく感じる、今日この頃であります。


おしまい。

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