2017年03月05日

【レオ】「考える」ということ

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総裁先生は「八正道の再発見」で、

反省が出来ない、出来ない、というけれど、
反省が出来ないのではなくて、それ以前の「考える」ということが出来ない人が、ほとんどなのである。
ということを、おっしゃっていました。冗談まじりですけどね(笑)。

要するに、自分の心を見つめて深く反省するためには、じっと静かにして、自分の心を見つめる時間を持たないといけない。
そのためには、集中力も必要だし、孤独な時間も必要だし、その孤独に耐える忍耐力も必要だし、それから、

ひとつの物事をずっと考える、考え抜くこと。すなわち「考える」という習慣を、まずは身に着けていないと、そもそも、反省行への入り口にすら立てない、といったお話です。

すぐにテレビをつけないといられない、誰かと話していないといられない、独りで黙っているのは耐えられない。などなど … 。
なにか、すぐに手を出して、刺激になる情報を求めて、新聞を手にしたり雑誌を手にしないといられない、じっとしていられない。
という性格では、自分の心をじっと見つめて観察する、どころか、ものごとを集中して「考える」力すら、まだ身についていないのだ、ということですね。

「反省」が出来ないのではなく、実はそれ以前の「考える」ということが、実はまだ出来ていないのである、ということ。

何かを見て反応して、いろんなことを思うのは、考えているのではなく、「反応」しているに過ぎないのだ、ということ。

「考える」というのは、そういうものではなく、
外的な情報に条件反射で、あれを思い、これを思いと、思いがポコポコ勝手に浮かぶ状態を言うのではなくて、

自分で意志して、これから5分後に、こういうことを考えよう、このテーマで考えてみよう、といった風に、自分の意志によって思考をコントロール出来ること。

外的な情報に振り回されている状態は、自分が主体性を持って「考える」レベルには、まだ達していない「反応」人生、ということなのでしょうね。

一方の、「考える」習慣を持った生き方というのは、自分で主体的に意志して、考えるテーマを決められる。自分でこれを考える、と決めた方向性で、ものごとを集中して考え抜けること。
そうした集中思考、主体的なる思考を、みずからコントロールできる状態だということ。


独り座して、黙考する、とか。
瞑想状態で、自分の心の奥深くにあるものに、思いを馳せるとか、そういったことは、

ひとり静かに、心を落ち着けて、自分の心にあるものに集中して、そこに何があるのかを、徹底的に観察することなくしては、出来ないことかと思います。


人は、外的な事物を見てばかりであったり、誰か他の人と話しているばかりであったり、あるいは、本を読んだり新聞を読んだり、テレビを見たりもそうですが、
そうした「反応」ばかりに時間を使っていると、自分自身の心と向き合う時間が無いし、そもそも、自分の心を知らずに生きている人が、相当数いるのだろうなぁと。
そんな風にも思いますしね。


なにも無いところで、たとえば目を瞑る、電気を消して、刺激物を消し去る。
その状態で、自分の心と、一時間二時間と向き合えるだろうか。
それだけの精神集中と、自分の中にある思考や思いにのみ目を向け、それを観察できるだろうか。
第三者の目でもって、自分自身の心と、対峙できるだろうか。

これが出来ないと、自分の心を振り返り見て「反省」する、ということは、なかなか出来るものではないのでしょう。奥は実は思っている以上に「深い」ということでしょう。


レオナルド・ダ・ヴィンチは、

立派な画家は、孤独でなくてはならない、と言っていたそうです。

そのこころは、

作品を創るときに、自分と語り合う環境を作るため、なんだそうです。
孤独でないと、自分自身が、自分のものにならない、と言っています。
人間は独りでいるとき、はじめて、自分を、完全に自分のものに出来る、と。
自分の心に何があるのか。
それを知るためには、孤独の時間がどうしても要る、ということなのでしょう。

優れた作品を残したいと思うなら、画家は自分と深く語り合いながら、作品の制作を進めるべきだ、と。

多くの人と付き合うことも大切だけれども、他の人たちの意見に振り回されてばかりいると、自分の心が何を願っているか、何を求めているかが、わからなくなったりしますね。
それでは、自分の心の奥から湧き上がるテーマ、心そのものが描きたいと思う絵が何であるかが、わからなくなる、ということでもあるでしょうか。

心を見つめる時間を持つ … 大切なことですね。



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posted by ガンレオ at 15:46 | Comment(2) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】パクリについて <2016-12-20の記事、追記あり>

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わたしは、あからさまなパクリ行為は大嫌い。

しかし、ある時、会社の後輩が、
いやぁ、ぼくらの世代は、パクリなんか当たり前ですよ、とか言ってきました。

それは違うだろ!とわたし。

誰かの作品に啓発されて、似たようなアイデアを使ったり、そういったインスパイアですね。
刺激を受けて、似たようなものを書く。模倣する、というのはいいでしょう。
まったく完全なモノマネではなく、しかも、インスパイアの場合は、オリジナルに対しての敬意があるでしょうからね。

最初は誰しも模倣、ものまねから入るものだし、そこから努力を積み重ね、自分独自のものを生み出すように成長するのが、習いの常でしょうから。

オリジナルの傑作に対して、大いなる尊敬の気持ちをもって、モノマネをする。
オマージュ作品とかも、こういうものですね。
オリジナルに似てはいても、やはりそれは、オリジナルを称えるがための模倣であって、あえて似たようなアイデアやストーリーを描いて、大本の作品を称えている。

しかし、パクリ行為というのは、これとは違って、ひそかに盗むことではないかと思います。
盗作というのも同じことですね。
実際には、完全な盗み行為であるのに、さもそれが自分のオリジナルアイデアのようにして書く。
そこには、他者の努力のたまものを盗んで、その作品やアイデアにともなう世間の喝采を、自分のものにしてしまおうという貪欲がある。

優れたアイデアを見た場合に、それを著者に黙って、こっそり盗んで、バレないように隠れて、さも自分が考え出した、オリジナリティーある作品やアイデアのように見せかけようと企んでいる。明らかにこれは企みですね。
そして、オリジナルが優れていれば、当然その作品に対しての賛辞が得られるでしょう。
これまた、本来は、オリジナルの作者が得るべき賛辞をも、その盗作者は盗んでいるわけですよね。

作品を盗むだけでなく、その作品への絶賛評価をも盗んでいる。
他人の努力と功績を盗んで、それを自分の手柄にしようとしている点で、こうした盗作やパクリは<悪>だと、わたしは思います。

中国や韓国が、日本人の作品を、許可も取らずに勝手にアイデアを盗んで、ソックリの作品を作ったりしていたら、これは盗みであり、悪であると私は思います。

仏教で言っても、これは<貪>でしょう。
自分の努力や成果でもないものを、得ようと欲する。他の人が生み出した果実のみを欲しがる。それへの賛美を欲しがる。自分が得るには値しない評価を求める思いは、貪欲というしかありません。

それから、<盗むなかれ>の不偸盗にも完全に引っかかっていると、わたしは思う。

それが盗みでない、パクリでない、悪意でない、と言うためには、
オリジナルの著者に敬意を表して、なおかつ出来れば、著者の許可を取ってアイデアの借用を許してもらうとか、これは誰それの作品へのオマージュです、とか、そういった敬意を表しての作品づくりをするはずだと思うんですよね。

それをやらずに、ひそかにパクるのは、盗みであり、貪であり、悪である。
わたしは、そう思います。

インスパイアして、似たような作品を作るといっても、やはり単なる亜流で二番煎じであっては、オリジナルを超えられないのが普通ですしね。
なぜ、そうなのかと言ったら、
オリジナルには、その作品の背後に遥かに深い思索と思いがバックボーンとしてあって、それが結実しての、その作品であるのに対して、

盗んだ人のパクリ作品には、それだけのバックボーンなり、背景がないからでしょうね。
出来上がった結果のみパクったとしても、それを生み出すための根源部分を、その盗作者自身は持っていないから、いくら結果だけ真似しても、それは単なるイミテーションの二流であり、深みがないんですよね。

オリジナルの作者は、類似のレベルの作品を、今後もドンドン生み出してゆくことでしょう。
しかし、それをパクっただけの人は、自分自身でアイデアを生み出す能力は持っていない。
オリジナルの優れた作品を生み出すためには、その人自身に、どれほどのバックボーンとしての、蓄積なりイマジネーション能力なりがあるかに係っている。
結果だけ盗んでも、その大本の才能自体を盗むことは出来ない。
それが、オリジナルのアイデア者と、パクリ者との決定的な差かと思います。

中国や韓国が、アメリカ製品や日本製品を解体して、その技術を盗んで安売りしようとも、それを超える新技術を、彼らはいつまで経っても創造できないのではないか。
結果だけ盗むという行為は、そこまでに到る技術開発や創造の力を身につけることをサボって、出来上がったものだけを盗む行為でしかない。
どうせ学ぶのなら、作る過程で必要となる、オリジナル者の考え方、その才能にこそ学ばないと意味がない。
そうでなければ、自分自身の才能が育つことは、金輪際ないのだから。


だから、パクリはダメです。

たまたま、同時期に同じアイデアのものが出る。そういう偶然はあるかもしれませんが、その場合は、双方ともに、傑作の名をほしいままにすることでしょうしね。
優れたアイデアは、その背後に、深い思いと発想、思索、熟考、作者の実体験から来る重みとか、いろんなものがあるんですよね。
そうでなければ、スゴイオリジナル作品、オリジナルアイデア、というものは出ないはず、ということです。

やはり、バックボーンとしての、みずから考える力、創造する力をこそ、みずからの内に育てていきたいものですね。
模倣に終始したら、終生、たんなるパクリの模倣しか出来ないままに、過ごすことになりかねませんからね。




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posted by ガンレオ at 09:23 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする