2017年04月15日

【レオ】誰しも、その人なりの<神>概念を持っている。問題はその<神>概念が正しいかどうか、深さはどうかだ

LEO幸福人生のすすめ、より転載(2017-03-23 の記事)
http://ameblo.jp/space-people/entry-12258825515.html

無神論者の述べる「神の不在」の証明というか、根拠にあげる例に、

神がいるなら、なぜこの世はこんな不幸で満ちているのか。
神がいるなら、世界の不幸など簡単になくせないとおかしい。
なくならないで現に不幸が満ちているのだから、神はいない。


こんな論法によって、自分は「神の実在」など信じない。神は存在しない、自分は無神論者だ、と言う人がいる。

他にも、神を否定する論拠には、その人なりに色々な主張があるのだろうけれど … 。
たとえば、
人間を創っておきながら、楽園追放する神など信じない、というのも似たような考え方で、旧約聖書の創世記の記述を自分なりに読んで、そのような結論を下して、この人は(旧約聖書的なる神は)信じない、といって拒絶しているわけでしょう。聖書を読んで作った、自分の神イメージでもって、真実の造物主がいるかいないかを即断している。

けれども、その神概念は、ほんとうに正しいのだろうか?
そう考える必要があるのではないだろうか。


要するに、こうした「神の否定論者」でさえ、その人なりの「神概念」を持っているわけですが。
最初の例で言えば、この人の持つ「神のイメージ」は、

全知全能の神ならば、世界の不幸を放置などせず、あっという間に解決できないとおかしい。そもそも、そんな不幸がはびこる世界を「創造」した神は、幸福を約束してくれる神ではない、ということになるから、わたしはそんな存在を信じない。もしいたとしても、そんな神は信じたくない。自分は自分で生きていく。

こんな考え方をしているのかもしれない。


その人なりに、神とは何かを定義していて、神が愛ならば世界に不幸は存在しないはず。世界の人々の苦しみを放ってはおかず、助けてこその愛の神ではないか。
しかし現実の世界には不幸や苦しみが存在している。神がいるならば、これはおかしい。
ならばやはり神は「存在しないのだ」。

などという思考によって、神の実在を否定、もしくは、自分の考える「神」に適合しないであろう、そうした存在を否定する。

しかし逆の立場から見たら、その人個人が、どんな神概念を持とうが、否定しようが、
世界の創造者があるのならば、その創造者の在り方を純粋に探究するのが、神に近づく道であるべきであって、
自分個人の勝手な神解釈や、自分の抱く神イメージを先行させてしまって、それに適合しない世界創造者としての「神」などはありえない。もしいたとしても、そんな神など自分は信じない。
などと主張して憚らない人は、あまりにも、あまりにも傲慢な人間ではないだろうか。

なぜなら、自分の未熟なる「神概念」すなわち、神さまに関して知っている知見を優先して、
それに適合しない造物主など、自分は認めない、と言って、神を裁こうとしているのだから。

自分の考える概念に合わない存在は、神として認めない、と言うのなら、これほど傲慢な態度はあるまいと、わたしは思う。

人間の立場というのは、そんなエライものではないのであって、立場が完全に逆ではないかと、わたしは思うのだ。


神とはいかなる方であるのか、存在であるのか。
愛であり、叡智であり、信仰の対象であり、世界の創造主であり、生命を育んでくれる大いなる宇宙意識であり … 、
などなどの、古代から伝わるさまざまな<神を表現する定義>でもって、もっと深く深く思索しないと、いけないのではないだろうか。

愛である神が、世界をこのような形で生かされているのは何故か、と考えるのが、神と世界の関係を知るための、正しいアプローチの仕方であって、

世界がこうだから、神はいない、と考える短絡思考は、あまりにも単純なモノの見方でもって、世界の創造主を否定している、傲慢の罪そのものではあるまいか。


宗教否定論もそうですね。

宗教どうしの戦いが延々と繰り返されている。だからわたしは宗教などは信じない、という人がいる。
宗教が愛であり、たがいを認め合うものであるのなら、なぜ宗教戦争があるのか。おかしい。
戦争をやるような宗教はおかしい。だから宗教などにはまるのは間違いだ。自分は宗教など信じない、という人がいる。

この人もまた、先の「神概念」と同じような思考パターンによって、宗教を否定している。

自分の勝手な「宗教イメージ」でもって、宗教が愛ならば戦争などしないはず、といった決めつけでもって、宗教を自分勝手に定義づけている。
それに合わない宗教がたくさんある以上、宗教というものそのものがおかしい、という結論をこの人はして、無宗教に陥っているわけだが、
果たして宗教というのは、そんな一面的な判断でもって否定してよいもの、なのだろうか?

あまりにもこれは、宗教に関しての知識の不足、無知ゆえの短絡思考ではあるまいか。

宗教は戦争をしない、などという決めつけでもって、宗教そのものを否定しさる権利が、たかだか人間一個人にあるのだろうか。
人生観は勝手だからといっても、宗教そのものを否定するだけの論を発表する資格が、果たしてこの人にあるだろうか。
仏陀やイエス・キリストに脱帽敬礼してから、その言を吐き給え、と言うしかないように、わたしには思えて仕方がない。

人類の歴史と、宗教の歴史、あらゆる宗教の教える教義を、どれだけこの人は知って、宗教そのものを否定しているのだろう。

あまりにも貧弱で、単純な論点のみによって、すべての根本とも言える大いなる理念存在を、否定する暴挙に走ってはいないだろうか。


神と言い、宗教と言い、根源的なるものほど、その中に含まれる理念・概念は精妙で複雑で、かつ、あらゆるものを内包しているものだ。
それゆえ、高次の概念ほど、それを真に深く知ることは極めて難しく、単純な思考では到底、その本質には肉薄できない。

白か黒か、AかBか、なんていう単純な二分法で結論を出せるような、低レベルの話ではないんですよね。

世の中に不幸が満ち溢れているように見えても、神が大いなる愛であることとは、まったく矛盾していない、という理解があり得るんですからね。
宗教の教義を奥深く理解し、信仰と愛、霊的世界の秘密、転生輪廻と永遠の生命の神秘を知れば、この世の不幸は、神さまが放置しているわけでもないし、愛の欠如でもないことがわかります。

さらには、宗教同士が戦争をすることは、宗教が平和や愛を謳っていることと別に矛盾しない
これまた、地球に生きる生命の多様さを真に知れば、その魂のルーツの違いから、さまざまなぶつかり合いや切磋琢磨が生まれていることが、理解できるようになる。
戦争という表面の争いのみをみて、その奥にある精神の煌めきを見ないでは、宗教そのものを否定するには、早計すぎる判断でしょう。
キリスト教とイスラム教の戦いにしても、双方の教義を本当に深く知ったうえでなお、なぜ争いが起きるのかを、あなたは解説することが出来るだろうか。そこまで深く宗教を知っているだろうか。それを知らずに、武器をもって戦っているという面だけを見て、単なる世俗の戦争と同じか、あるいはそれよりも下等な争いのように見るのは、これまたあまりにも短絡的な判断と言うしかないでしょう。

宗教という理念もまた、もっとも大いなる高次概念のひとつですからね。それを極めるほどに深く知悉して、判断をしているのかどうかを自らに問わないといけない。

世界の果ては、滝のようになって、海の水が流れ落ちていっているはずだ、という世界観を持っている人が、

いや世界の果ては、滝ではないよ、ずっと海が続いていて、その先をずっと進むと、ぐるっと回って元の場所に船は戻ってくるんだ。地球は丸いんだよ。
と主張する人の話を聞いて、

そんな世界観は信じられない。お前の主張するのは、妄想の世界観だ、といって否定したとする。
どちらが正しい世界を見ているのだろうか。今となっては明らかですね。


最初の人は、世界の果ては滝のようになっているはず、という概念を固執していて、

滝のようになっていない世界の果てなど有り得ない、信じられない、妄想だ、といって否定しているわけですが、
世界の不幸を放置している神など有り得ない、信じられない、といって否定する人間は、これと同じような思考パターンに陥っているのだと、わたしには思えます。

もっと謙虚になって、
神とは何か、宗教とは何か、真実そのものを探究しつつ、それを学ぶことが大切なのだと思います。

自分の考える神概念、宗教概念に固執して、それに合わない神など認めん、宗教など要らない、という人は、とてもとても傲慢な、そしてまた、短絡的な判断に陥っていないかどうかを、深く反省する必要があるのではないか。
霊的に言ったら、そういう魂はひじょうに危うい境涯にあると、わたしは考察する者ですね。




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posted by ガンレオ at 09:48 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月14日

【レオ】ブログ記事について

2010年からブログを始めたので、すでに足掛けで8年目に突入してるところ。
ということで、継続は力なり、で我ながらずいぶんと更新がんばってきたのではなかろうか。などと自負しつつ。

ブログ記事について、あらためて考えてみるのでした。

なんのために、こうしてブログをつづっているのだろうか?


無名人のブログですから、ランキングサイトにでも登録しないと、そうそう多くの人に読まれることはないであろう、ブログというもの。

けれども、自分としては「善き記事」を日々、書いているつもりでありまして、無神論の人のエッセイなんか読むより、よほど良いことをタダで読めまっせ〜、というものを綴っていると、これまた自負しております。ハッハッハ。


霊界の構造を考えてみたいのですが、

最初にあるのが、善と悪の分かれ目ですかね。善人界という天国と、地獄界という悪霊の住処に、死後の人間が住む処は分かれている。

当然、善人になるべく生きるのが正しいことだし、悪人になってしまっては、間違った人生を生きたと言うしかない。

ブログ記事で言ったら、善き記事を書くのは、天国的な行為だと思います。これは読者の人に、読んで、ためになる記事や、心にプラスになることを語っているブログですね。

一方では、不平不満を並べるばかりだったり、間違った考えを述べているブログもあるでしょう。
一私人の作るブログであっても、善なるものと悪なるものに分かれている。

まぁ、邪悪なブログは基本、見る必要はないですね。というか、下手に覗いて毒素を受けるより、最初からシャットアウトして、シカトした方がいいでしょう。
ネット情報はそれこそ情報の洪水の場だから、邪悪でくだらんものなど見てるのは、時間の無駄というものです。

なので、心根の善い人のブログ、善いニュースサイト、などを見るのが、最初の出発点かなぁと思いますが。

それでも、幸福の科学で学んでいる信者であってみれば、単に、内容が善であるだけでは物足りない。

そこに高度な思索なり、深い考えや洞察なりがないと、知の面において不十分に思える。
なので、善にして、知的にも洞察を含んだものが望ましい。

そういうブログでありたい。ということですね。

読者の数の多寡は、とりあえず、どーでもよろしい。
善い内容を書き、知的にもきちんとした洞察を含んだ記事を書こう。
それを読んでくれる愛読者の数が、たとえ数名、数十名であったとしても、
熱心に読みに来てくれる人は、わたしの書いていることを、心から理解して賛同してくれている方々でしょう。
言ってみたら、魂の同胞であり、仲間ですね。

そういう人に向かって、記事を日々発表しつつ、なおかつ、少しづつでも、まだ未知の人がこのブログを訪問して、幸福の科学で学ぶことのキッカケなりを得てくれたら、これほど嬉しいことはない。

これも、一つの種まきの姿だと、わたしは思っています。

ブログを訪問してくれる読者さんへの、わたしからの語りかけであるし、
さらには、自分自身の能力を鍛えるための鍛錬、という意味で、自分自身の魂にも、種を蒔いていることになっている。そう、わたしは考えています。

なぜなら、ブログで書いた記事は、自分で考えて書いた内容ですから、どこかで同じテーマでスピーチしてくれ、とか、さらに内容を濃くして語ってくれ、とか言われても、そらで行なうことが出来ますからね。
誰かと同テーマで話す場があったら、わたしはブログ記事で書いたようなことを、何も見ないでペラペラしゃべるだろうから、レオ当人だということがわかるくらいの会話は、おそらく出来るでしょう。

自分で考えて、自分の言葉で書く、ということは、自分の考えを整理してまとめる、ということですから、いくらでも別の場所で、自分の言葉で同内容を語ることが出来るようになるんですよ。
その考えを単なる思い付きで留まらせずに、確固とした考えとして確立し、それを自分のものと出来ている。ということです。
自分で考えた内容だからこそ、自分のものに出来ている。自分の言葉で語れる。今後、いつ、どの場所においても。ということです。
コピペだけやっているだけでは、こういう力は身につかないでしょう。読んで貼り付けるだけでは、書く練習には全くなっていないからです。

これは、自分で努力して記事を書く、考えて記事を書く鍛錬を続けていくことで、自分の頭の中をも整理している。ということだから、
もし、読者がまったくいなくなったとしても、自己鍛錬の意義は残る、ということです。
だから、読者がゼロでも、続ける … かどうかはわかりませんが、ブログを書き続ける意義は、やはりあるのです。

それは、他者への誘い、という種まきでありながら、
自分の能力を鍛えるための、種まきにもなるのですから。

ということで、頑張りましょう。
いつまで続けられるか、チャレンジし続けよう(笑)。




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posted by ガンレオ at 10:08 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする