2017年01月18日

【レオ】有名人がいないのが? … 「日本をもう一度ブッ壊す 小泉純一郎元総理守護霊メッセージ」のポイント感想

日本をもう一度ブッ壊す 小泉純一郎元総理守護霊メッセージ -
日本をもう一度ブッ壊す 小泉純一郎元総理守護霊メッセージ -

元総理大臣の守護霊霊言ですから、対談の内容は政治に関してがむろん多かったと思いますが、

それとは別口の、わたしが読んで、おっ!って思った小泉守護霊発言に関しての、感想のみをちょこっと書きたいと思います。



小泉純一郎守護霊 やっぱり、有名人がいないのが大きいんじゃないの? だから、もうちょっと、ちゃんと三顧の礼を尽くして拝み倒したら、来てくれる人だっているかもしれないのに、そういうことをしないで、自分たちの仲間内だけでやろうとしてるんでしょう? 捻じ曲げられるのが嫌で、自分らの考えどおりやりたいから。 そういう意味では、君たちだって偏屈なわけよ。自分らの考え以外は受け付けないからさ。




これ、信者の中でも思っている人、けっこういたりするんじゃないでしょうか?

幸福の科学の信者の中に、一般的な意味での有名人がもっといたらいいのに … とか、
すでに有名な役者さんや政治家、その他の著名人が、幸福の科学の信者になって、それを公の場で発信してくれたら、一気に広まるかもしれないのに、なんて。
そんな風に考えたりして。

けれども、これこそ現代の価値観の逆転現象があらわれている部分かもしれませんからね。
そうは簡単に行かないのが当たり前、と思っておいた方がいい。

むろん人気があったり、カリスマ性のある有名人には、それなりのパワーなり影響力があるのは事実だろうけれど、しかしそれは、彼らの魂としての<悟りが高い>ということとは違いますからね。
だから、人気があっても、宗教的素養のない人は、そう簡単に信者になりはしないだろうし、名前だけ登録してなってもらったって仕方がないでしょう。

それから、天上界の価値観が現文明では引っくり返っているのだとしたら … ?
本当に価値のあるものが顧みられなくなっており、その反対に、刹那的・享楽的・皮相なものが流行りがちな文明状態になっているとしたら、どうでしょう?
村上春樹の小説が何百万部売れたからといって、そこに神の栄光がほんの少しでも描かれているのだろうか?
そんなものが流行る世相そのものが、むしろ低俗なモノに満足して、精神の高貴さへの関心を失っていやしないだろうか?
宗教的無関心・無知の時代にあって、宗教的なる人の存在や活動が、注意も向けられず、尊敬もされずに蔑まれてきたのが、戦後の日本であり、いま現在の日本でもあるのではないか。

無神論・唯物論が常識であり、神を信じます、宗教団体に属しています、と真剣に言う人を見ると、危ない人間だと思うような風潮の世の中で、本当に価値あるものが見失われ、価値のないものに人々が群がるような、逆転現象が起きている。
そうした中で、有名になっている人物だとか、大きな影響力があるだとかいっても、それが偉人である証明ではありませんからね。
だから、有名な人の力を借りよう、名を借りよう、などという発想に頼っても、じゃあ、アントニオ猪木を幸福実現党に招いて、協力してもらったらいいのだろうか?キムタクに登場願って、その人気の力を借りたらいいのだろうか?
やはりこれは、本質的な戦い方ではないのではないか、と思います。

有名だとかどうだとか、そんなことは、現時点での価値判断の話ですね。

だってそうでしょう。
霊的な判断をしたら、ジブリの宮崎駿にしても、松本清張にしても、村上春樹にしても、その他、ここ数十年の国会議員たち、ニュースキャスターその他、知名度の高い人は数多く霊言に登場したけれども、
この人たちが、教団や政党のトップに立って、看板になって働けるかといったら、ほとんどの人は合格点はもらえないでしょうからね。
やはり宗教団体と宗教政党の働きを成すためには、当事者が、宗教的なる悟りを持った人でなければ意味はない。でなければ、宗教の香りが失われる。単なる世俗団体としての活動と変わらないからです。

景山民夫さんが、日本の小説家の中でナンバーワン小説家だったわけではないでしょうけれど、それでも景山さんは、小説の書ける、幸福の科学信者でした。
小川知子さんは絶頂期の人気女優時代は知りませんが、第一線で人気を博した女優さんだったようだし、それでも大切なのは、幸福の科学の熱烈な信者であった、ということでしょう。
だからこそ、この御二方は、教団初期の街宣活動などでも、大きな仕事を成し得てくれたのだし、わたしたちは感謝すべきなのだと思います。

古くを振り返れば、
イエス様の時代に、のちに十二弟子の筆頭と呼ばれ、初代ローマ法皇とされるペテロは、当時において有名人だったでしょうか?
イエス様は有名人だったかもしれないけれど、ペテロは、12弟子筆頭のペテロとして、名を知られていたでしょうか。
イエス様が捕まったときに、身近にいる人間に、あ、お前はあのイエスのそばにいた人間ではないか、と指摘されるも、いや人違いだ、といって逃れたペテロです。
当時は写真などはなかったにしても、ちょっと顔を見かけたくらいであって、そんな誰もが顔を見たら見間違えようのない有名人、などというほどの有名人ではなかったでしょう。
当時の有名人とは誰だったのか。エルサレムその他に住むユダヤ人からしたら、総督ピラトや大祭司のカヤパ、その他の世俗的な権力者たちの方が、遥かにおそろしい、大きな力を持った<有名人>だったのではないでしょうか。
彼らがイエスさまの弟子になれば、キリスト教はいっそうスムーズに広まったでしょうか。カヤパがイエスの弟子になり、ピラトが弟子になる可能性なんて、あったのでしょうか。そのことを思うべきかと思います。

有名であるとか、無名であるとか、そんなことはどうでもよろしい。
有名であるがゆえの影響力というものに、現文明の人間は毒されすぎているのではないだろうか。
そこには、量のみを求めて、質を見失っている姿が、ありはしないだろうか。
有名タレントのブログは、日に何十万という読者からのアクセスがあるのでしょうか?
でも、そこに書かれた内容が、単にそのタレントの日常のことどもが綴られているだけならば、それを読むことは、単にその有名人の追っかけ行為でしかないのではないか。
その人を慕う気持ちはわかるけれども、人気であるとかスターであるとかいうことを、偉人であることの証明のように勘違いしてやいないだろうか。
わたしは、そんな風にも思うんですけどね。

人気とは何なのか。もう一度よく考えてみる必要があるように思うのです。
それは、神さまの目から見て、霊的世界の真実から見て、天の目から見ても、本当に立派な人間であるがゆえの、人気であるのか。
人気と言えば、ポピュリズムという言葉もありますね。多額の税金をつかって国民に媚びる政策を行なえば、その政治家は人気を博するかもしれない。しかし、その人気は本物か。価値のあるものか。
議員の資格を失ったとき、その人はそれでも価値のある人間か。人気を維持し続けられる人間なのか。
組織の力であったり、所属する場の力であったり、肩書の力であったり、お金の力であったり、芸能人であったらプロダクションの力とも言いますしね。CM宣伝の力というのもある。
本当に、その人個人の人気であるのか。そしてそれは、本当に価値のある真の人気であるのか。


幸福の科学総裁である大川隆法先生の名は、いま現在の地上の有名人の名が、ほとんどすべて人々の口に上らなくなった、数千年後の未来でも、多くの人から名を呼ばれる<有名人>として語りつづけられるでしょう。
お子さんたちの名もそうだし、有力な弟子の名も語りつがれることでしょう。
ちょうど仏典に名の残る、弟子の名や、多くの尼僧の名などと同じように。

時代を超えて、数千年の後にまで名の残る人こそ、真の有名人ではないだろうか。
真に大切なこととは何かを伝える人。それが、本当の<有名になる資格のある人>の条件ではないかと、わたしは思う。




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posted by ガンレオ at 17:06 | Comment(1) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】論考レベルの記事を書くには、最低でも100倍の勉強と知識が必要

総裁先生は、関連するジャンルの書籍100冊を読んで、ようやくそのジャンルの本1冊が書けるくらいの認識レベルになる。
といったようなことを述べていたかと思います。

これはブログの記事にも言える比率でありまして、
読み応えのあるブログ記事を書こうと思ったら、書いている内容の100倍くらいの知識を持っていないと、簡潔に要点をまとめた記事などは書けません。
知らないことは書けないし、知っていることでも理解が浅ければ、平凡な内容のモノしか書けませんから。

わたしの記事は<長い>とよく言われますが(笑)、平均すると3000文字くらいの記事を毎日ひとつか二つ書いてるんですよね。400字詰め原稿用紙で言ったら、毎日8枚から10数枚書いてるってことですから、大変なのがわかるでしょう。
中学生や高校生の頃の自分では、とてもではないが、そんな毎日の量産は出来やしなかったと思いますが、長年の勉強の蓄積によって、いまでは毎日記事を書いても、それなりの質と量を維持しつつ更新できているのではないか。そんな自負もあります。ハハハ。

トランプ次期大統領の記事が好評だったので(http://ameblo.jp/space-people/entry-12238179323.html)、この記事を例にして解説してみると、

一つの中国論というのを深く理解するためには、第二次大戦後に中国で始まった、国民党と共産党による内戦、それから、国民党が台湾島に逃れて、そこに政府を打ち立てたこと。それ以来、中華人民共和国と台湾が、互いに睨み合いつつも、いつかは相手を併合して統一国家を作ると言い張ってきたわけです。だから、両者ともに、中国は一つと言っている。立場は正反対でも、言ってることは同じ。

中華人民共和国、成立の歴史と、複雑な、台湾こと中華民国の歴史を勉強しないといけない。要約を知るだけではダメで、詳細な歴史的経緯をつぶさに学んで、そうした緻密な勉強を実際にしてみて、どこがポイントなのか、それを自ら掴みださないといけない。
でないと、そこがポイントなのだ、ということを説得力をもって述べる文章が書けないんですよね。背後の詳しい事情を知っているからこそ、ここがポイントなのだと自信を持って言えるわけで、背後をまったく知らなければ、なぜそこがポイントなのか、わからないでしょう。
細かな些事のような内容を捨象して、大筋でまとめると、こういう大要になる。概要を示すとこうなる。
そういうまとめ方が出来るようになるためには、<まとめ>の背後にある知識を100知っていないといけない。100を知る人にして、初めて、1に要約できるのだと思います。

台湾の動向が、日本の国防上、非常に重要だと述べていたのは、岡崎久彦さんですが、岡崎さんの「台湾問題は日本問題」という論考を読んだり、
あとは実際に、台湾人である黄文雄さんの著書をたくさん読んでみたりですね。中でも「台湾は中国の領土になったことは一度もない」という著書は、歴史的な経緯を紹介してくれていて、とても勉強になりました。
それから、同じく元・台湾人の金美齢さんの自伝を読んだり、司馬遼太郎さんのエッセイもありますね。「街道をゆく 台湾紀行」。この紀行文の中では、司馬さんは李登輝総統と会って談笑していますが、
李登輝さんが書いた「台湾の主張」という本もあります。李登輝さんには思想系の本もあって「「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは」、とかですね。そういう本も読みました。「新・台湾の主張」というのもありますね。
現・台湾人である黄文雄さんの著書がなんといっても、台湾の真実を知らせてくれて素晴らしいですが、「蒋介石神話の嘘」という本では、美化された蒋介石の実像をこれでもか、これでもか、と暴露しています。
日本では、戦後、美化されてきた蒋介石像ですが、台湾人である黄文雄さんや金美齢さんから見たら、単なる独裁者に過ぎず、軍事政権が戒厳令を敷いて台湾を統治してきた実態を、強く訴えたいといった気持ちが、文章の合間に滲みだしていたように思います。
すべてがその記述どおりかは、また別途、蒋介石からの弁明も聞いてみないとわかりませんが、日本国内のメディア情報を読んでいるばかりでは、他国の実情はわかりませんからね。
日本の左翼新聞や、左翼政党が、北朝鮮を楽園と言っていたように、トンデモ情報をまともに信じてしまったら、判断を誤ることになる。


また、台湾の歴史ということですが、かつては日本の領土の一部でもあったわけですから、日本史の観点からもアプローチが出来ますね。
また、台湾関係法で台湾を守ると宣言しているアメリカの立場はどうなのか。ニクソン・キッシンジャーのときに、電撃的に米中国交回復が目論まれたわけですが、この時の首謀者キッシンジャーには「外交」という大著がありますから、これを読めば、当時のアメリカがなぜ中国に接近する道を選んだのか、また台湾に対してどのようなスタンスでいるのか、などを、政権中枢にいた人の証言そのものを学べるわけです。

それにプラスアルファとして、わたしたち幸福の科学信者は、霊言や御法話を通して、各国首脳の守護霊霊言情報をも得ることが出来る。
記事にも書いたように、トランプ次期大統領の守護霊を呼んで、まっさきに、この人を強く推していたのが大川隆法先生です。
そして霊言の中でのトランプ守護霊は、強い共和党大統領としての意見を開陳しまくっていました。
霊言には、キッシンジャー博士の守護霊霊言もありましたね。この方、過去世が初めて明かされていましたが、天才軍師の過去世があったんですね。さもありなん、です。
岡崎久彦さんは、キッシンジャー博士の著書や意見を非常に参考にしていて、実際、ご本人同士面識のある方同士だと思いますが、いずれも歴史に名を残す名軍師の過去世を持っている。
国家の興亡に関わるような、深い洞察と知見を述べられるだけの人物というのは、やはりそれだけの魂である、ということかと思います。

台湾絡みで、何冊かの本を紹介して書いてみましたが、ブログ記事3000文字というのは、文庫本で言ったら、4ページくらいの量です。
だからこの100倍といったら、400ページくらい読んでいたら、100倍の勉強には達するわけですが、実際は関連書籍を何冊も読んで書いている。そのくらいの勉強は最低でもやっておかないと、きれいにまとまった要約的な記事なんて書けっこないですから。
100倍以上の勉強をするのは、当然の義務、と言うしかないでしょう。

ブログをやっている人は大勢いると思いますが、その人の記事を読めば、どのくらいの勉強をして、どれだけのバックボーンがあってその記事を書いているのか、だいたいわかってしまいますからね。
大して勉強していない人の記事は、優れた洞察もないし、鋭い観察眼も見えない。月並みな、ありきたりのことしか書いていない。そんなレベルのものは、今さら読んでも面白くないので、わたしは読みもしませんが。
その反対に、圧倒的な教養をもって書いている人の文章は、その背後に膨大な知識と教養、思索があることが感じられて、そのすごさがわかってしまうんですよね。
ブログではありませんが、総裁先生のお子さんたちの講義、著作はいずれもそうしたおそるべき著作の山だと思います。とても20代の若者が書いた本だとは思えない。ものすごい教養の持ち主たちが、その上で書いているのがわかります。
真輝さんが総裁先生のご著書を解説している本がありましたが、そこに挙げられた参考文献のタイトルを見て、ぜんぶすでに読んでいる、と言えた人がどれだけいたでしょうか?いなかったのではないでしょうか。咲也加さんの著書も、裕太さんの著書も、碩学の書いた書籍といってもおかしくない、むしろ20代の人が書ける本ではないですよ。教養レベルが高すぎる(笑)。

ということで、モノを書くには、それに倍する、最低でも100倍するだけの勉強をしていないと、まともなモノなど書けやしない。
先人たちの調査や研究、考察を十二分に学んで、それを参考にしつつ自らの思索を深めてゆく、という努力をせずして、安易に何かを掴めるなどという楽な道は無いのです。



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posted by ガンレオ at 07:58 | Comment(2) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

【レオ】天が伝えたいことと、自分が書きたいことと、人々が聴きたいと思っていることと

天が伝えたいことを、天からのメッセージを伝えるメッセンジャーとして、伝えられる人は偉人だと思う。その人こそは、光の天使であるにちがいない。


一方では、人には<個性>というものがある。
独創的な発想や意見や作品を発表して、それが世間の耳目を集めれば、注目されて、その人の言に多くの人が耳を傾ける。

とはいっても、人気を博すること=天の正義、とは限らない。

吉川英治も松本清張も、国民作家と言われた人気小説家だが、吉川英治は天使の世界に帰っているのに、松本氏は地獄に堕ちているという。いみじくも松本本人が、吉川英治とは波長が合わないんだよ、とも言ってましたね。
かようにして、天使と地獄霊では、死んであの世に帰ってから行く世界がまったく違っているという、霊的世界の真実。
天使の世界に帰るのはきわめて難しく、深い魂修業と悟りを必要とする。
一方で、地獄に堕ちるのは簡単だ。間違った考えを世間に広めたり、自分勝手なエゴイスト人生をおくれば、誰でも行くことが出来る。

自分独自の発想や言論を展開するといっても、それが天からのインスピレーションからは程遠く、まるで真逆のものであった場合、
そこに生まれる独自性は、たいして誇れるものではない、ということだ。
単にオリジナルの独創的な人生を生きればよい、ということではないらしい。その独創的な人生の中に、自分という人間の魂のきらめきが、美しい天国的な思いがそこになければ、ダメなのだ、ということなのだと思う。
天に対する敬意と感謝を忘れれば、人は容易に慢心して、転落するものだ。それはただ、己の自我のちっぽけな自己主張てしかなくなるから。そこに光はない。


天からのメッセージを受けられる人は、さいわいだ。
この方はきっと、長い年月を転生しながら、自分の魂を徹底的に深く磨いてきたに違いない。多くの試練を乗り越えて、無数の人々に愛をささげて生きてきた人に違いない。
だからこそ、いま光の天使としての活躍を、なしえるまでの偉人となりえたのだろうと思う。
人類の世界に、こうした偉人が数は少ないとは言え、現に存在してくれていることを、ありがたく思う。


わたしたち普通の人間は、一朝一夕には、天使にはなれない。
天からのメッセージをそのままに受け取れる程に、進んだ魂の状態を作れてはいない。
だからこそ、間接的な方法だけれども、偉大なる人から多くの教えを学ぶことによって、つたないながらも、自分の人生をわずかなりとも、天の意にかなうような人生にすることが出来るのではないか。

誰にも学ばない傲慢な人間は、決して、天の意にかなうような人生を生きることはできないだろう。
自分の個に執着し、自分というオリジナルにのめりこんで慢心した人生には、光がないとわたしは思う。それは単なるエゴの世界であり、そのエゴの曇りが天の光が射すことを、遮るにちがいないからだ。


一個の人間として、なにをするか、なにを語るか。

その相手として、自分以外のすべての人間がいる。世界には数十億の人間がいる。
日本には一億数千万の人がいる。

ブログ村を訪れる読者は100人くらいだろうか、笑。
そういう人たちに語るにも、自分としてなにを語るか、それを深く自らに問うことは大切だ。

単に、読み手が読みたい情報を、じゃんじゃか流せばいい、というものではないだろう。
それでは単なる大衆迎合と変わらず、民主党のポピュリズムみたいなもんだ。
自分としてはなにを語りたいのか、その視点が欠けている、それは迎合というものだ。

だからわたしは思うのだが、ブログ記事を書くにも、
できうれば、天の願いを伝えられるような、そのような記事を書けますように。
自分のつたない能力で難しいのならば、日々偉大なる人からの学びを得つつ、天の意に少しでも沿うような内容を、発信できる自分となれますよう。
わずかの人なりといえども、そういう人たちに光が伝わるような、善き内容のものが書けますように。
そういう思いで書くことが大切だと思っている。



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posted by ガンレオ at 17:12 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

【レオ】トランプ次期大統領はやはり凄い!!大統領になる前から、この政治スタンスで動いてるとは!!

トランプ次期大統領が、中国とロシアに対しての、硬軟織り交ぜての発言するのを見て、さすがこの人は違う!本物だ!!と感じさせられました。

中国、ロシア、両国に対して、通商や外交に関して、考え方を改めるように、両国が譲歩するようにと促した、とのこと。
具体的には、

中国に関しては、
中国と台湾は不可分とする「一つの中国」政策も含めて「全てが協議の対象となる」との発言。
これは、毛沢東と蒋介石の対立以来、中華人民共和国が主張する「一つの中国論」、中華民国(台湾)も主張している(逆の意味での)「一つの中国論」、両者ともに掲げてきた「一つの中国論」自体を議題に上げる、との警告ですね。
これは、中華人民共和国にとっては、アメリカからまさかそこまで踏み込んだ発言が出るとは、思ってもみなかった議題ではないだろうか。

そもそもアメリカ自体、ニクソンとキッシンジャーによる米中国交の回復以来、表向きは、中華人民共和国を公式の中国と認めている、という立場なわけで、
このアメリカのスタンスに追随して、日本も田中角栄首相のときに日中国交回復を成して、台湾との国交を断絶して今に到るわけでしょう。
台湾は国連から脱退し、常任理事国には、中華人民共和国が入れ替わって、入ることになった。そもそも毛沢東の共産党は、第二次大戦の戦勝国でも何でもないんですけどね。

こうして、大陸での戦いに敗れて、台湾島に逃げ延びた中華民国は、その後、公式には国家としての立場をも主張しにくい状況に置かれてしまった。
中華人民共和国は、台湾はあくまでも、自国の一部が勝手に分離独立しているようなもので、いずれは自国に併合して中国の一部として戻す、という立場をくずさない。
それゆえ「一つの中国論」を断固として譲らず、李登輝総統が台湾の自立をせんがごとき動きを見せれば、ミサイル攻撃も辞さず、で威嚇したんですよね。
台湾が分離独立の動きどころか、中国と台湾は別の国である、という発言すること自体を許さないという立場なので、台湾が総統選挙を行なう際には、実際にミサイルを発射して牽制した。

この時のアメリカ大統領はビル・クリントンですが、親中政策を採っていたクリントンですら、この中華人民共和国の横暴は看過できずに、アメリカの艦隊を台湾海峡に派遣して、対中国の立場を採ったんですよね。
さすがにアメリカとの正面衝突までは望まぬ中国は、このアメリカの敵対行動の前に矛を収めざるを得なかった。

台湾の李登輝総統(国民党)や、民進党の政治家は、生粋の台湾人ですから、台湾と中国は別物、台湾は中国とは別の国である、別に「一つの中国」なんかにはこだわらない、というのが基本スタンスだと思うのですが、それを明言すれば、中華人民共和国からは、その発言だけで問題視され、下手をすればミサイルによる威嚇までが行なわれる。
厄介なことに、台湾の政党である国民党の方は、大陸から追い出された蒋介石の政党ですから、建前上は、自分たちが中国の正統政権であり、大陸の共産党は自分らを追い出した反乱分子のような意味において、「一つの中国」論を唱えている。この場合は、台湾の国民党が中国全土を支配するのが本来、という意味で「一つの中国」論なんですよね。
この「一つの中国論」という主張において、中華人民共和国の共産党と、台湾の国民党は、同じことを言っている。
台湾は台湾として自由でありたい、独立して別国家として立ち行きたい、と考えていたのは、李登輝さんを嚆矢とし、その流れを受けた民進党政権でしょう。
しかし、それを表だって主張するには、台湾だけの力では足りず、アメリカのバックアップなくしては不可能。
そのアメリカも、台湾関係法という法律によって、いざ台湾と中華人民共和国のあいだに有事が起きれば、介入して台湾を助ける、と言ってはいるものの、表向きは中華人民共和国と国交を結んでいるという、複雑な事情がある。

こういう背景があるにも関わらず、トランプ次期大統領は、場合によっては「一つの中国論」自体をも、議題にあげるつもりだ、と言っているわけです。
これは、親中のアメリカ政治家だったら、絶対に言わない主張だと思います。
李登輝さんが台湾総統だったときに、アメリカ大統領がここまでの発言をしていたら、台湾の完全独立、中国との完全絶縁は、その時に実現していたかもしれません。そのくらい、重い発言ではないか、と私は感じました。
そして、そこまで踏み込んだ強い発言を断固として言ってしまうトランプ次期大統領のこれからに、大いに期待できるな、とも思いました。

ロシアに対しても、EUと足並みをそろえての経済制裁の立場を採っているアメリカですが、これに関しても、ロシアの今後の考え方の変更しだいによっては、考え直すというようなことも言っているようです。
オバマ政権が採用した制裁の立場を、当面は続けるものの、これは絶対に続けるという立場をわたしは採らないと言っているわけで、ISとの戦いなどで共同歩調が取れれば、こちらからも歩み寄る気持ちはある、とのメッセージですね。プーチンロシア大統領へ向けてのメッセージ。

このあたりの動きを見ると、トランプさんが大統領に選ばれるよりも前に収録されていた、トランプ守護霊霊言、ワシントンの霊言の内容の真実性が、いっそう明白となりつつあり、これは霊言のスゴさをも立証するような、トランプ次期大統領の行動ではないかと感じます。

大統領になって以降の活躍に大いに期待が持てる。アメリカの神であり、世界を救うアメリカ復活の偉大なる人物の登場に、喜ばしい思いでいっぱいです。
日本の政治家は、このトランプ次期大統領の見識と気迫、勇気、行動力に見習って、がんばってほしいですね。





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posted by ガンレオ at 01:05 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月12日

【レオ】アナログとデジタル

アナログとデジタルという区分法も、あまり厳密な意味では使われていないらしい … 。

アナログというと、昔ながらの手作業的な行為を指し、デジタルというと、主としてコンピュータやハイテク機器などの電子機器を使っての作業、みたいなイメージがあるかと思うけれど、これも正確な使用法とは言えないようだ。
実際、機械を使っていても、アナログ配線とか言いますしね。データのやり取りも、デジタルとアナログの違いがあるので、電気的なデータ移動をデジタルというわけでもないという。まぁややこしいですが。

話が面倒になるので、主としてコンピュータに依存した在り方を、デジタル的、デジタル文化としておきましょうか。

ということで、わたしはどちらが好きかと言ったら、
ブログなどをやっているから、デジタル人間かといったら、そんなことはないんですよ。
何しろパソコンを自分で持ったのは、21世紀になってからですから。他の人たちがMacだのWindows95とか98だなんて言ってた時も、そんな高価なものは俺は買えんわ、という生活レベルであって、ひたすら紙の本を読んでましたしね。テレビも壊れかけの14インチをずっと使ってたくらいで。
それから携帯電話だって、9割以上の人が使っているとか聞いても、知ったこっちゃない(笑)で使わなかった。必要ないし〜、みたいな感じで。


だいたい、子供の頃からの趣味が、自分の手を使って絵やイラストを描くことでしょう。工作なんかも得意だったので、手先も器用で、そういうものを描いたり作ったり、そういうことが好きなわけです。
コンピュータに向かって、キーを叩いてデータを処理するだけなんて、そんな方法が当初から好きだったわけでもないので。
むしろ今でも、好きなのは昔ながらの手作業であったり、アナログ的な在り方ですよ。

だいたい、デジタル生活というか、コンピュータばかりに向き合う趣味・仕事というのは、机に向かいっきりで動かないで済んでしまうような生活だから、身体は鈍って固くなるし、肩は凝るわで、声も出さずにメールのやりとりだけで、すべてが済む話ではないですからね。

それにわたしは世代的に、アナログからデジタルに世の中が移行する時代にまたがって生きてきたものだから、
同じ仕事でありながら、それをアナログ的に処理していた時代から、コンピュータ化されてパソコンを利用して処理する仕事の、両方を体験する、という経験をしてきた人間でもありますからね。
それも一種類の仕事ではなくて、最初の仕事もアナログからデジタルへの変遷期に携わったし、その後も教育の仕事はアナログだったわけで、さらにはその後の仕事でもアナログからデジタルへと仕事のやり方がガラッと変わる体験をさせられたので、まぁー実際にやった以上に、違った種類の仕事を数多く体験してきたようなもの、という気がして仕方がありません。

それまでは、手作業で地道にしていた仕事を、今度はコンピュータ上のデータとして、さまざまな変換をしたり、処理をしたり、といったやり方に変わると、アナログで何十年もやってきていた人は付いていけない、なんて姿を数多く見てきました。
作るモノは同じでも、それを作り上げるまでの段取り、工程、やるべき仕事自体が、まったく違ったプロセスを経るようになったわけで、そうなってしまうと、それまでの経験の蓄積やノウハウが、そのままでは殆ど生かせない。というか、コンピュータは若手の方が覚えが早くて、仕事も早いわで、付いていけない人は多くリストラにあってしまって、やむなく転職、なんて人もずいぶんいましたからね。

20世紀から21世紀にまたがって、仕事がアナログからデジタルに大転換する時期に、その影響をもろに受ける仕事に携わった中堅世代は、大変だったろうなーと思います。
テレビゲームで育った世代でもなく、ビデオデッキの操作ですら面倒に感じる世代では、その後に出てきたブルーレイハードディスクレコーダーの複雑な操作など、まったく理解不能、というのが、日常生活でよく見られる中堅世代の悲哀だろうし、難しいんですよね。
そういう機械操作を、子供の頃から当たり前のようにやってきている今の若者とは違うから、携帯やスマホなんていっても、なにがどうなってるのかサッパリわからない。電話が出来れば十分で、メールのやりとりですら、もうわかんない。たくさん入ってるアプリなんて、知る由もない。使い方どころか、存在すら知らないで、困惑するばかり。
これは育ってきた時代が違うので無理もないことなんだと思います。デジタル機器を巧みに使える若者が、別に頭がいいわけでもありませんからね。

全自動で洗濯機に入れてボタンを押すだけの人は、洗濯機が壊れたら、自分の手で洗って、服を伸ばして、干すことが出来るでしょうか。
いまの若者は、ダイヤル式の電話を目の前に置かれても、使い方がわからないそうですね。実験でテレビでやってましたが、見たことがないので、使いようがない。

あとは、パソコンを使えるといっても、語彙力の無さは、甚だしいものがあるのではないでしょうか。大正や昭和前半生まれの人の方が、難しい漢字や言い回し、表現、それからことわざや格言など、そうした知識はよく知っているのではあるまいか。
自分で手書きで文章を書いて手紙を書いたりしていた世代の人は、きちんと正しい漢字を使いますし、誤字・脱字にも気づくでしょう。自分の手で書いているから、知らない漢字は書けないし、書こうと思ったら、辞書で調べて、その漢字を覚えて書くしかない。そうやって覚えた漢字は、決して間違った字を当てて、とんでもない手紙を出したりして恥をかくことはないでしょう。
ブログをやっていても、自分で手打ちで書いていかないと、単なるコピペや、コンピュータの自動変換ばかりに頼っていて、自分で確認、チェックをする習慣を怠ると、とんでもない誤字・脱字をほったらかしにしていて気づかない。そんな大恥をかくことにもなりかねません。
自分で正しい漢字を知らないから、チェックをしても気づかない。そうなったら、修正のしようもありませんからね。自動変換されたとしても、読書の習慣がきちんとあれば、この字ではない、ということに気づきます。さらには、書いたあとにチェックすれば、間違ってる漢字を発見することが出来ますね。

こういったことは、デジタル依存で、コピペや自動変換任せでは、身に付かない能力です。再チェックする習慣も身に付けないと、簡単に短時間で書けるのはいいけれど、誤字脱字だらけで、無教養をさらけ出すことになる。恥ずかしい話ですからね。初歩的な漢字ですら間違いだらけというのでは。
簡単な漢字ですら全部ひらがなで書くような、クイズ番組のタレントのような体たらくでは、やはりダメだと思うべきでしょう。基本的なところは、やはりきちんと学んでおくのが当然の姿勢ではないでしょうか。

結局、デジタル化の時代といっても、衣食住を考えたら、基本はやはりアナログでしょう。
デジタルの力を借りて、製造工程におけるコンピュータ管理などのデジタル依存はあるにしても、口からデータを入れたら食事の代わりになる、なんてことは有り得ないし、人間同士の会話も、単なるデジタル化された文章を、メールでやりとりするだけでは不十分。
意志の疎通のためには、面と向かって、相手の顔を見て話すこと。実際に対面しての会話には、身振り手振りによる補完も働いて、いっそう確かなコミュニケーションが出来るわけですから。
相手の反応を瞬時に察して、話の流れを巧みにつかむ、というのも、面と向かっての対話ならでは、ですからね。相手のちょっとした表情変化を観て、ニコッとしてるか、けげんな顔をしているか、その他、さまざまな相手の表情に合わせて、話というのは変わっていきますからね。相手の反応を見て、瞬時に対応を変えて、合わせてゆくことが出来る。円滑なコミュニケーションのためには、リアル対面の対話に勝るものはないでしょう。
メール等のやりとりも、すでに面識のある者同士なら、それなりに役立つことがあっても、一度も会ったことのない相手では、互いに、相手の表情を想像するどころか、どんな感じの人なのかも定かにはわからない。ただ、キーで打ちこまれた文章だけを見て、相手の考えを知ることが出来るかといったら、そこには当然、身振り手振りの補完もなく、相手の表情変化もなく、喜怒哀楽の動きもないし、やはりコミュニケーション機能としての力は落ちるメディアと言うしかない。

いろいろな論点を抱えつつ、アナログとデジタルの混在するのが、いまの世界であることを理解し、たがいの長所を生かしながら、短所は補完し合う、足らざる点があることをよく理解して、振り回されないよう、よく考えて対処することが必要なのだと思います。




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【レオ】十八史略と劉備玄徳 〜経書と史書を読みなさいと教えた、安岡正篤さんの父の教え〜

十八史略(上) 激動に生きる 強さの活学 (PHP文庫) -
十八史略(上) 激動に生きる 強さの活学 (PHP文庫) -



父は、古典の学び方として経書とともに史書を読むべきと常に強調していた。




中国の史書のひとつ「十八史略」の講義の最初に、安岡正篤さんが述べている言葉。

経書というのは、儒教のなかで特に重要な文献のことを、総称して指した言葉で、
これは仏教で言ったら<お経>だろうし、キリスト教で言ったら<聖書>ですね。
こういう重要な教えの書を、まずは読みなさいと。

しかしそれだけではなくて、史書をも読むべきであると。歴史の書ですね。歴史を知りなさい、ということでしょう。

わたしが思うに、偉大なる教えの書というのは、天上界の理念を語った永遠の真理の書だと思います。

一方で、歴史の書というのは、この三次元地上世界において、過去の人間たちが成してきた歩みを知るための本。洋の東西を問わず、近現代から遥かなる昔の古代、さらにはそれよりも以前の超古代も含めたら、神話や伝説のたぐいまで、これに含まれるかもしれませんが。
そこから人類の経験や智慧を学ぶ、教訓を得る。そういう学びですね。

一方では、天上界にあるところの「永遠の理想」を知り、その対極として、実際に人類が、この地上で為してきた「地上ユートピア化」の歩みを知る、歴史を知る、理想と現実の双方を学ぶ、ということではないかと思います。

理想を現実化することの難しさを知る、ということでもあろうし、それでもなお、多くの偉大なる人たちが、あくまでもその理想実現のために、この難しい地上世界での、教えの伝授や教育、政治的運動、その他の人生を生きたということ。そこに我らは学ぼう、ということでしょう。




父はよく中国の歴史の妙味は春秋時代から漢、三国までで、本当の人間、本当の文明・文化というものがつかめると語っていた。




これはよく引用される言葉だと思いますが、安岡正篤さんが、父から教わったことだったんですね。
中国の歴史は、春秋時代から漢、三国までで、ここが非常に面白い。さまざまな人材が輩出して、人間ドラマの宝庫となっている。
春秋時代というのは、孔子さまが出られた時代で、諸子百家の時代ですね。この時代にさまざまな思想家が輩出した。孔孟老荘、その他、墨子さまも出られたし、春秋から戦国時代にかけては、多くの思想家が出て、そのヴァリエーションの豊富さは驚くほどです。

戦国時代の末期に、秦の始皇帝が出て、中国を政治的に統一するも、後が続かずふたたび戦乱の世へ。
そのときに出たのが、項羽と劉邦ですね。この両者の最終決戦において、劉邦が勝って、<漢>という国が出来た。
この<漢>が400年続いた後に、ふたたび国が乱れて、群雄割拠の時代がやってくる。これがいわゆる<三国志>の時代です。曹操、劉備、孫権、が三国に分かれて戦った。

ここまでで、中国の歴史の妙味は出尽くしている、というか、これ以降は歴史としての面白味が落ちる、とも言われていますね。
その理由は、幸福の科学の信者なら知っている「霊的背景」によるのですが、要するに、中国史における偉人輩出の時期は、このあたりの時代であった、ということですね。
古代ギリシアに偉人が輩出したけれども、近現代にはそこまで大量に偉人が出てくる歴史は持っていない、というのと同じことでしょう。
光の天使たちが大挙して生まれてきたか、そうでないか、の違いということでしょう。


「十八史略」というのは、中国史における18の史書を、短く簡潔にまとめてパッと読めるように書いた、中国史のダイジェスト版のような本ですよ。
これを読めば、ぜんぶの史書を読まずとも、中国の歴史の大まかな流れと、大きな変化の意義を学ぶことが出来る。だから日本では、江戸時代以降ずいぶん流行って、知識人のあいだではよく読まれた、とのことです。

「史記」から始まって、後代の「宋」の時代までをつづっているので、隋や唐の話も出てきます。中国で仏教が栄えた頃ですね。

安岡正篤さんは、この「十八史略」を題材にして経済界の人たちに講義を行ったそうで、それが本の形にまとまっている。
その講義内容の深さは、つぎの、劉備玄徳の名前についての講義部分を読むだけでも、わかるかと思います。
これは、下巻の方に載っている内容ですが … 。



この「名は備、字は玄徳」というのは非常によくできておるのです。と申しますのは、玄徳というのは明徳と相対する言葉で、明徳というのはつまり明らかという文字ですから外に表現されるものですね。人間の意識でいいますと、専ら大脳皮質の作用に属するわけです。それに対する深層意識、隠れた意識、或いは限りない無意識層、それを玄徳というわけです。そこで明徳という方は外に発揮される徳ですから、おのずから限り、制限があるわけですね。ところが深層意識というものになると無意識層ですから無限なんです。無限を表すのは玄です。明は外に発揮する文字。そこで玄徳というのは無限の無意識層、玄妙なる人間の意識の蔵ですからそれは無限である。つまりあらゆる限りないものを含んでおるという意味で、備わるという、この備という字の註釈・演繹としては非常にこれはよくできたものです。名は備と付け、字は玄徳とするなんていうのは、とても無学な人間の付け得るところではない。だからこれはよほどの人物に付けて貰ったんだろうというのですが、正史はそこまで立ち入っておりません。劉備の伝記はいろいろありますが、ここに及んでおる記録・記事は日本ではほとんどありません。




さらっと読んで、わかりましょうか?(笑)。

劉・備・玄徳という名を、単に姓と名、それから字として覚えるだけでなく、その言葉それぞれの意味をも理解して、安岡さんは三国志のことを語っているんですよね。
真の教養人というのは、ここまで行って初めてそう言えるのではないかと思います。

近現代では脳科学も発達しているので、大脳皮質における働きにも触れられていますが、そうした表の頭の働きの部分を「明徳」とするなら、「玄徳」というのは深層意識に相当するのだと。そして深層意識に到ると、こは無限の広がりを持っている。玄とは<無限>であり、それが備わっているから<劉備>の<備>。あらゆるものを備えた、という意味を現しており … 、
それゆえ、このような名は、無学の人間がつけられる名前ではないと、安岡正篤さんは推測していますね。よほどの人物に、この名をつけてもらったに違いないと。

ここまで考察している本は、劉備の伝記は多かれど、ほとんど無いだろうと述べられています。真に教養の深さを感じざるを得ません。


こうしたレベルの考察をしつつ、それから、関羽や張飛、趙雲、それから諸葛亮孔明のことも語っているので、ひじょうにその考察が深く面白い。単に「十八史略」を読んだだけでは知り得ないことまで、安岡正篤さんの講義を読むと、学ぶことが出来る。
大川隆法先生の御法話も、御法話があって、さらにその講義までしてくださっていますね。奥は無限に深く、広いのです。霊言にしても、その霊言をさらに講義した御法話もあって、さらに奥、さらにその深い意味を探る、という学びは、無限なんですよね。
ここに、学びに終わりはなく、学ぶということは限りがない、という実証例があるのだと思います。
簡単に己惚れてしまってはいけないんですよね。それから無限といっても、些末な枝葉の議論を突っついてもしょうがないわけで、本質的に重要な論点を押さえつつの、広さと深さを求める学びでないといけない。
なぜなら、私たち人間には、無限の時間があるわけではないのですから。100年に満たない人生で、すべての人間の行ないや、あらゆる歴史、思想を学び尽くすことなど、到底不可能なのですから。
しかして、そうであっても、大切なことは、限りなく広く深く、出来得る限りの徹底学習をしてこその、本物の教養人なのではないか。そう、わたしは思うのです。





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2017年01月10日

【レオ】中国の未来 5つのシナリオ(2) 〜故・岡崎久彦氏の著書より〜 



四つ目は、ここで何度も提示した二十世紀初めのドイツ、十八世紀初めのフランスのケースである。  
中国の経済成長も軍事力増強も続き、それに脅威を感じた周辺諸国と米国が共同して、戦争に訴えてでも中国を抑え込まねばならなくなるケースである。  
その場合、ロシアに比べての中国経済の強靭性を考えると、米ソ冷戦以上の長い冷戦か、新英仏百年戦争、あるいは二十世紀初めのドイツの場合のように、お互いの存続を賭けた対決となる可能性がある。




これは、3つ目とも似ていて、違いが今一つわかりにくいですが、20世紀初頭のドイツというのは、第1次大戦のときですね。それから18世紀初めのフランスは、スペイン継承戦争のことでしょうか。
いずれにしても、最初のは、ドイツが覇権を賭けて英仏に挑戦した戦いであるし、スペイン継承戦争でのフランスは、ヨーロッパの覇権をかけて、周辺諸国と戦ったそうなので、

これらと対比させて、中国がアジアでの覇権をかけて、アメリカを中心とした同盟国たちと、実際に戦争状態に入る。あるいは米ソのように数十年の長きにわたって<冷戦状態>に入る。
短期決戦で終わらずに、かつての英仏百年戦争のように長期にわたる戦争状態が、継続的につづいてゆく、など。

3と4のシナリオは、アメリカ側と中国が、実際に軍事衝突する可能性をも含んだ、熱戦、もしくは冷戦の継続、ということでしょうか。
いずれにしても、中国は、国家存亡を賭けた戦いを挑んでくるケースになるわけで、2のシナリオのように、ソ連崩壊のような比較的穏健なシナリオよりは、戦火による被害は大きく出るであろうシナリオかと思います。





最後は、十九世紀末の英米関係のケースである。英国が西半球における米国の覇権を認めてカリブ海の制海権を譲ったように、米国が東アジア・西太平洋における中国の覇権を認めて、軍事力を引き上げるケースである。  
その結果、全東アジア、東南アジアにおいて、中国は覇権国家となる。  
日本にとっては望ましくないケースであるが、米国の親中の識者のなかには、少数であるがそのような言説をなす人もいる。




これは、日本にとっては、いちばんマズいシナリオですね。

太平洋を東と西に分けて、半分のアジア側は、中国が支配するという体制を、アメリカが認めてしまう、というシナリオですから。

完全にアメリカがアジアから撤退する道を選んだ場合、アジアの覇権を中国が握るのを、防ぎようがないですからね、いまの軍事バランスで言ったら。
この事態になった時に、唯一、それ以前のバランスを維持し続けるためには、日本がその高い技術力と豊かな経済力で、アメリカがいなくなって空白になった軍事力を、自国の軍事力で埋める、相当な軍事パワーを持つ国家になる以外に、道はないでしょう。
この場合は、軍事予算は当然、今より遥かに多い予算を組まないといけないはずですし、憲法の改正がなくば、急激な対応はそもそも無理。アメリカが引いてから手をつけたのでは遅い、と言うしかありませんが。どうなるのでしょうか。

米国の識者には、このシナリオになるのが必然だろう、と予測している人もあるとのことなので、決してあり得ないシナリオでないことがわかります。安閑として、楽観主義的な判断をしてはいけない、ということですね。最悪、このシナリオが現実のものとなり得る、ということでしょう。
したがって、日本の政治家や国民は、この最悪の事態が起きる可能性をも踏まえて、今後の政治を考えないといけない。危険である、ということですよ。





これのどれか、あるいはその混合が、今後二十年間に日本が直面する東アジアの情勢であろうと思う。  
こうした世界情勢のなかで、日本はどうすればよいのであろうか。  
経済政策は私の分野ではないが、一つだけいえることは、政治情勢判断として、もうアメリカは経済面で日本を潰そうとは思っていないということである。むしろ対中政策において良きパートナーとなってほしいと思っていると考えてよい。





ジャパンバッシング、パッシングのときの、アメリカが日本を警戒していた状態とは、いまはもう違っている。
アメリカは、経済的な面で、日本を潰そうとは、もはや思っていない。それよりも、覇権主義の思惑が明らかとなってきた、中国への警戒の気持ちの方が、いまでは勝っている。

したがって、アメリカと日本は、対中政策において、しっかりと手を結んで、良きパートナーとしての同盟関係を保持しなくてはいけない。
日米関係に関しては、岡崎さんは一貫して、日米同盟堅持、ですからね。これを外してはいけないと断言しています。













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【レオ】中国の未来 5つのシナリオ 〜故・岡崎久彦氏の著書より〜

二十一世紀をいかに生き抜くか -
二十一世紀をいかに生き抜くか -


2012年に発刊された、岡崎久彦さんの著書。岡崎さんは2014年に亡くなられているので、亡くなる直前に、日本人に遺してくれた「外交のための遺書」と言ってもいい本かと思います。
この本の中で、岡崎さんは、中国に訪れる未来に関して、5つのシナリオを予想しています。




将来を予測することは、どんな場合でも危険が伴う。私は、ここでは中国の将来についてあり得る五つの仮説を提示するにとどめたいと思う。  

第一は、一九九〇年代の日本のケースである。中国経済がインフレ、環境などで行き詰まり、軍事力の拡大も止まり、昨日までの中国の脅威がいつの間にか過去のものになってしまう可能性である。  




ここで言う<日本のケース>というのは、本を読めばわかりますが、90年直前の日本は圧倒的な経済大国として、アメリカやヨーロッパからも警戒されてきていて、アメリカからは激しいバッシング、パッシングを受けていた時のことです。
アメリカから見た日本は<要注意国>だったところが、バブル崩壊によって、脅威の大国・ニッポンではなくなってしまったケース、に似ているということです。

いまの中国は経済成長著しく、軍事力も年々増大していて、近隣諸国にとっての脅威であるわけですが、
この脅威が、中国内部の経済崩壊によって、覇権主義を取れなくなる。内部の改革で大わらわとなって、外に出てくる危険性が減る、というシナリオということでしょう。

もっともこの場合であっても、逆に、責任を外部に展開して、外征行動に出る危険性がかえって増大するかもしれませんけどね。
いずれにしても、経済面の崩壊によって、90年以降の日本のごとく、世界から脅威視されることがなくなる、そうした国家になるかもしれない、という予測ですね。これが一つ。





​第二は、一九八〇年代後半のロシアのケースである。中国の急速な軍事増強に危機感を抱いたアメリカが、経済の回復を待って、日本など同盟国、友好国に呼びかけて軍事力の増強でこれに対抗したときに、中国のほうが息が切れて、競争を諦めるケースである。  
もしその結果としてのソ連邦解体のケースが繰り返されるならば、中央の統制力を失った中国が、チベット、新疆などの分離を招く可能性も出てくる。  




冷戦時代の米ソの対立が、アメリカ大統領レーガンが仕掛けた軍拡競争、スターウォーズ計画の推進によって、ソ連に音を上げさせた例のようなことが起きる。

アメリカが経済的に回復する、という条件づきですが、その上で、米日およびその他の友好国でもって、軍事的に包囲網を敷いてしまえば、中国の方が対抗しきれなくなる。
こちらがわの結束力でもって圧倒してしまって、中国の覇権意志を諦めさせる、という方法がある、ということでしょう。
この場合は、ソ連が崩壊して、各民族国家が分裂・独立していったように、統一中国がバラバラになって、チベットや新疆などの被支配国も、ふたたび離脱・独立できるだろう、というシナリオがある、ということでしょう。





三つ目は、一九三〇年代の日本のケースである。国内で強硬派の意見を抑えきれず、その時の勢いで台湾を征服しようとして米国と衝突し、中華人民共和国建国以来積み上げたものをすべて失うケースである。  
結果としては、日本が長城線を越えて中国本土に入って、かえって満州も朝鮮も台湾も失ったように、チベット、新疆、内モンゴルまで失うこととなろう。  
このシナリオの系として、一九三九年のドイツのシナリオもある。中国の電撃的な台湾征服をアメリカが守り切れなくても、それがきっかけで中国の脅威に目覚めた米国との対決に入り、やがて力及ばずして滅びるケースである。




それから、もう一つは、だいぶ年代が遡りますが、1930年代の日本を例に引いています。

これは、1931年の満州事変以降、1937年に始まるシナ事変(日中戦争)のことですね。
万里の長城を超えて、中国本土にまで日本軍が入っていって、泥沼の戦いになってしまった。
満州国の建国までで止めておけば良かった、というのは、満州事変の実行者である石原莞爾も口を酸っぱくして言い続けていたことだし、後代では、この岡崎久彦さんも、安岡正篤さんその他、識者が等しく言っていることです。
万里の長城の外は、漢民族の支配地域じゃないんですよ、元々ね。なので、そこで止めるべきだった。
しかし万里の長城を超えて南下し、漢民族の本領に入り込んでしまったら、これはもう、漢民族を完全に屈服させるかしなければ、終わるはずのない戦い、ということになる。
結局、支那との戦争は、日本がアメリカに敗れて、やむを得ず中国大陸から撤退するまで、終わることはなかったのですから、終わりのない愚かな戦いだったというしかない。

この敗戦で、日本は結局、満州国からも引き上げ、朝鮮半島からも引き上げ、せっかく育ちつつあった台湾をも放棄するしかなくなりました。

これと同じように、中華人民共和国が、台湾併合を強行したら、それが発火点となって、アメリカと激突することになるかもしれない。
アメリカには台湾関係法という法律があるので、これをてこにして、対中国に宣戦布告したら、かつての真珠湾攻撃に始まる日米決戦ならぬ、米中決戦になるかもしれません。

この場合、本格的にアメリカと中国が軍事衝突したら、最終的にはアメリカが勝つでしょう。
日本も無関係ではいられないでしょうが、アメリカがいる側が勝つことは間違いがない。第二次大戦と同じです。
そして、中国がかつての日本のように、徹底的にアメリカに倒されてしまったら、その後に中国を訪れるのは、台湾を諦めるどころか、既存の併合国である、チベット、新疆、内モンゴルまでをも失うことになって、ずっと以前の、本来の領土だけに押し戻される。
すべての新領土は手放すことを要求され、それらの民族は、分離・独立を果たすことになる。

こういうシナリオですね。



 … つづく。






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2017年01月09日

【レオ】心で感じ、頭で考えたことを、自分なりの言葉で書く!!

心で感じたままを、素直な気持ちで書いていけば、前の記事のような文章になる。

頭で考えたことを、整理しながら書いて行くと、論述形式の文章になったりもする。

理性や知性を使うということ、感性的な思いの表現を試みるということ。
いずれにしても、そうした言葉がつむぎだされてくる大元は、わたし自身の心であり、頭脳であって、
そういうプロセスを経るためには、

まずは学んだことを十分に、自分のものとして消化していないといけない、ということかと思う。

単なる受け売りが面白くないのは、その人自身のものとして消化していないからですね。
消化しないままに、右から左に流すだけの情報は、未加工の純粋物といえば聞こえはいいけれども、それは、
その人個人の理解や学びが入っていない、という意味で、個性の刻印が欠けているんですよね。だから、面白くないのです。

その人は何を感じたのか、どう思ったのか、どのような理解をしたのか。
それを踏まえて語れてこそ、個人としての学びであり、神の愛を個人が具現化するという、個性の意味ではないかと思います。


学校の授業などでも、教科書を棒読みするだけの先生の授業は、面白くないですよねー。
その先生ならではの、オリジナルエピソードであるとか、その先生ならではの面白い考察だとか、発想だとか、そういう肉付けがなければ、個性的な授業の面白みは出てこない。
誰がやっても同じになるような、金太郎飴のような話はつまらんものです。

だから大切なのは、自分なりの学びを、自分の言葉で述べること。
国語の時間の読書感想文もそうですが、あなたは何を感じ、なにを考えましたか。この本からなにを学びましたか。それを<あなたの言葉で>語ってみましょう。
それこそが、あなたにとっての本当の学びであって、あなたの力となったものなのですから。


やはり人は、多くのことを体験し、学びを深めて生きているものでしょうけれど、
学んだものは、いったん自分の心の奥深くへ、あるいは頭の中でよく考えるなどのプロセスを経て、よく消化・吸収しないといけませんね。
そうでないと、その人なりの学びの言葉であるとか、深い洞察であるとか、個性的な独自発想などというレベルまでは、決して到達できませんからね。
上辺だけの学びに終始している限りは、魂の奥深くにまで下ろして、醗酵させる、深く読み込む、という学びかたにはならないのでしょう。

深く学んだ人にして、はじめて、その人なりの、何とも言えない味わいのある考察であるとか、美しい言葉の調べであるとか、あるいは教養の裏打ちある洞察、そういったものが出てくるんですよね。
テキストを参考にしながらも、その解説を、その人ならではの、他の誰かでは決して代わりができない、独自の話ができるのです。
やはり、そこまで行かなければ真に学んでいるとは、わたしは思わないし、そこまで深く学んでいる人のスピーチや講義こそは、聴いていても非常に面白い、学びになり得るのではないかと思います。

学んだことを単に受け売りして事足れり、とするのではなく、普遍的な学びに、さらに自分としての個性ある味わいを付け加えられるような、そんな個性的な学びを目指すことが大切なんだと思います。


ただ勘違いしてはいけないのは、自分独自の考えに突っ走りすぎて、今度は逆に、本来の知識を好き勝手に歪めて解釈する、そうした邪道の学び方ですね。
これは反対に、自分という個にこだわりすぎて、自我我欲が過ぎてしまって、実は偉大なる先生の教えを、謙虚に学ぶという姿勢に欠けている。
虚心になって、素直に、あるがままに学ぶ、という姿勢の欠けた、自分勝手だと思いますね。これは、通り一遍の杓子定規の学びよりも、さらに悪いエゴ学習ではないかと思います。

だから、真なる学びは、この両者の中なる道、中道にこそ、やはりあるのでしょう。

普遍的に尊い、永遠の真理を、あるがままに素直に学びながらも、
その学びを、自分という個性の中で、しっかりと深く消化・理解してゆくこと。
自分という個人の人生において、自分自身の魂の学びとして消化して、実感すること、感じること、腑に落とすこと。
魂レベルで真に知り、その人自身の悟りとして確信されたものは、

その人の口から、その人なりの言葉や表現として、語られるようになりますね。
普遍の真理が、その人特有の、個性ある言葉として、発されるようになる。

偉大なる人たちの言葉とは、みな、そうしたものではないかと思うのです。
みな、永遠の真理を、その人なりに掴んだ内容を、自分なりの表現で、自分の言葉として語っている。

本物には、力があります。魂のきらめきがある、光がある、読み手の胸に響く何かが宿っている。

そうした、個性的な理解と表現、そして活動を、どこまで行えるだろうか、この人生で。
それがわたし自身にとっての、人生の悟りの表現なのだろうな、と思うのです。




信者のみなさん自身も、「何が大切であるのか。何を伝えなくてはならないのか」ということについて考え方を整理し、自らの言葉で、人々に対して丁寧に答えられなければいけないのです。

「いかに分かりやすく、簡潔に伝えられるか」ということが、ある意味で、みなさんの悟りがどれだけ進んだかということと関係します。
「幸福の科学の本をたくさん読めば、分かるようになります」と言うだけでは、十分ではありません。
みなさん自身の言葉で、伝えることができなければいけないのです。

「宗教のすすめ」より<幸福の科学月刊誌・連載時の文章>







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【レオ】守護・指導霊の導き、主のお導きに感謝をしつつ … 

自分の努力によって、道が拓ける、とばかり思っていてはいけない。
そこにはすでに自信過剰と慢心の思いが紛れ込んでいるから … 。

本当に苦しいときに、自堕落にならず、なんとか踏ん張って真面目に頑張ろう、努力して道をもう一度拓いてみよう、と決意し行動する時、

本当に、道は拓けてゆく。


そういう経験を、わずか数十年の人生でも、何度か経験したように思う。

しかし、そういう時でも忘れてはならないのは、感謝の思いを持つ、ということだ。
自力のみで為し得ることなど、本当は何もないのだから。
当人が自覚しなくても、他力の恩恵というものは、常にある。
それは他人の助力であったり、見えざる守護・指導霊のお導きであったり、そして大本には、主なる神の愛のまなざしがあるのだから。
そのことに気がつこう。


苦しくなる前に助けてくれてもいいじゃないか、と思わぬでもなかったけれども(笑)、それは「甘え」というものだろう。
逆境の中に足を踏み入れてしまい、さらに踏み込んでしまって、にっちもさっちもいかなくなって、みずから苦境に陥った時に、人は初めて謙虚に、自分の責任でそうなったことを自覚し、反省するのだろう。
だからこそ、苦い経験には大切な意味がある。単に、泥沼を避けさせることが、守護霊の指導ではないと、わたしは思う。
少なくとも、自分の守護霊さんは、手取り足取り、なんでもやってくれてしまうような存在ではないな、という実感がある。
基本的には、自助努力で頑張って生きよ。肉体に宿っているお前が、主体的になって、その人生を生きよ。我らは時にアドバイスをし、インスピレーションを送って導くが、安易に答えを授けるようなことはしない。
したがってお前も、安易に我らに答えをのみ求めるのではなく、自分自身で考えなさい。
そして、徹底的に考えて、どの道を歩むかを決意したなら、勇気をもってその道を歩みなさい。我らを信頼し、主なる神を信頼し、その人生の道を歩みなさい。

道は拓ける。


それは確かに、本当のことだ。

そして、そうして道が拓けたときに思うべきことは、まず主への感謝、守護・指導霊への感謝であろう。
苦しい中で、進むべき道を模索しながらも、実はひそかに支援してくれているのが、守護・指導霊の間接的なる導きであり、主の愛だと思うからだ。

本当の逆境を経験してみれば、そこから抜け出すことの難しさを、人は痛感して、知ることになる。
非力で、愚かな自分が、そこから「自力で」這い上がれたのだ、などとは、思いあがることすら出来なくなる。

本当の苦しみとは、自分の小ささを知り、主の大いなる愛を真に知るための、学びの機会でもあるのだと、わたしは思う。


自分の力で、自分の才覚で、生きていると思いあがっている人よ。
自分に自信を持ち、信念を持って生きることは大切だけれども、
そこに他力の恩恵を感じる視点がなければ、すでにそこには慢心の兆しがあることに、注意しようではないか。

自分の力だと思いあがれば、それがすなわち慢心であり、傲慢だと、わたしは思う。
主への感謝と、守護・指導霊への感謝の思い、それから、他の人から助けられたことへの感謝の思いが強ければ強いほど、そこには、自分に対しての過度の驕りは、入る余地さえなくなってゆく。

傲慢さとは、謙虚さの欠如、感謝の不在、の心に生まれる、悪しき傾向性ではないか。

その傲慢な自惚れを治すには、謙虚な心を持つこと、感謝の思いをもって日々を生きること、そうした対極にある精神傾向を深めてゆくことが、いちばんの治療薬なのではないかと思う。


ゆえに、日々を、主なる神への感謝と喜びの中に生きよう。
守護・指導霊への感謝の祈りをささげよう。
ともに生き、自分を助けてくれる同胞たちに、感謝のまなざしを向けよう。
あなたたちのお蔭で、いまのわたしは生きていられるのです。仕事においても、家庭においても、その他、あらゆる人間関係の中において、多くの人の存在が、わたしという個人の生を支えてくれているのだ。

たとえ、一生懸命、自分が努力して生きていたとしても、そのことに思いあがる必要などは無いはずだ。
努力しながらも慢心せず、己惚れず、自己を過信せず、
謙虚な心、感謝の思いを日日に新たにするような、そんな心でもって生きようではありませんか。




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【レオ】今世の、キリスト教との出会い 〜キリスト教のよいところは、人を謙虚にするところ <再掲記事>

3年近く前に書いた記事の再掲。
これが、自分が宗教に足を踏み入れたときの、第一歩の頃の気持ちですね。
いま振り返ってみても、ああこのとおりやなー、涙がボロボロこぼれたんだった。2000年も前に生き、そして亡くなったイエス様に、自分は魂を救われたのだった。
この体験が自分の記憶として。経験としてある限り、つねに原点回帰して、この時の気持ちを決して忘れまい。
そう思いながら、いまのときを生きている。
神の世界を知ることは、そのキッカケを得ることさえ難しい。その人にとっての時があり、出会うべき真理は、そのとき生まれている国や世界によって違っている。
けれども永遠の真理は普遍である。その普遍の真理に出会えたことこそ、最大の幸福であると、本当に心から思います。


↓ 以下、再掲記事です。




わたしことレオの過去記事を見ると、わりとというか、かなりキリスト教関係の記事を書いているように思います。
けれどもわたし自身は別に、正式のキリスト教徒でもなければ、洗礼を受けている者でもありません。
ただ個人的に、聖書を読んだり、中世から近現代への歴史の中で輝いていた、偉大なキリスト者たちの著作を読んだりして、学んで素晴らしかったところを紹介したくて、記事にしています。

むろん今では、幸福の科学の信者ですし、幸福の科学の中心には、仏教的な世界観・人生観がありますね。
総裁である大川隆法先生は、再誕の仏陀であると同時に、主なる神エル・カンターレのご降臨の姿である。
それゆえ、わたしは三宝帰依をして信者となり、総裁先生を深く敬うと同時に、先生の説かれる教えを出来るかぎり深く学ばさせていただき、みずからの魂を磨き、少しでも光輝くものにしていきたいと願っています。
主エル・カンターレは、キリスト教の開祖イエス・キリストを、霊天上界から指導し、導かれていた「天の父」、イエス様がわがアバ、わが父よと呼んだお方ですね。
なので、キリスト教精神には、明らかに主エル・カンターレの教えが流れ込んでいると思いますし、それは主として、イエス様の愛の思想の中に結実していると思います

仏陀の教えは、みずからよく精進し、自助努力して仏の子としての光の輝きを放ちなさい。己の心の中にある仏性を輝かせなさい、という自力型の教えが基本だったと思います。
けれど、仏陀入滅後、人間仏陀は単なる優れた覚者というだけではなく、永遠の昔から人類を導いてこられた、永遠の仏陀、大毘盧遮那仏の下生された姿である、という考えが発展していきました。
仏陀は、わずか80年の人生を生きたのみならず、その奥には永遠の宇宙の真理を体現した、久遠の仏陀がおられる。
されば、その久遠の御仏を信仰するということは、キリスト教における、天なる父を信じるのと同じことでもある、ということになりますね。

イエス様は言いました。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、と。

これは主なる神エル・カンターレに帰依することと同じだと、今のわたしは理解しています。

一般的にいって、キリスト教のいいところは、人を謙虚にさせることですね。
本当にキリスト教の精神を学んだなら、人は謙虚にならざるを得ない。
キリスト教では、造物主としての神は、あまりにも人間とは隔絶した偉大なる存在だと語られています。
それゆえ人は、その神の前にひざまずき、心を尽くして仕え、その愛を受けて感謝の日々をおくります。

食事の前に、神へ感謝のことばをささげてから食べ物に手を付けるシーン、西洋の映画の一シーンなどでよく出てきますね。日々の食事でさえ、それを与えてくれた神への深い感謝から始まるのです。
この謙虚なる姿、神さまを深く深く敬い、その神さまから生かされ、愛されていることに感謝する人生。
その感謝の心、生かされていることの喜び、実感が、他の人への優しさとなって表れてくる。
それがキリスト教における、隣人愛というものだと思うし、だからこそ信仰と愛が、キリスト教におけるもっとも本質的な教えであると言われるわけですね。

イエス様は言いました。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

これを第一の掟として、その次に

隣人を自分のように愛しなさい。

と、おっしゃったんですね。信仰と愛を、この短い御言葉の中に、簡潔に述べられて、その言葉は2000年以上ものあいだ、キリスト教徒のなかで語り継がれてきたわけです。

先に記事で紹介した、教父アウグスチヌスの『告白』。
アウグスチヌスは、キリスト教最大の教父とも言われ、この方の残した著作は膨大な数にのぼり、その思索の成果は、のちのカトリック教会の教義体系の基礎となるほど、優れた信仰と思考に支えられたものですね。
その巨人にして、イエスさまと、そのイエス様が崇めた天なる父に対して、あれだけ敬虔なる信仰の姿を吐露している。あそこまで謙虚な姿勢で、神の前にみずからを小さくし、ひざまずいて祈りをささげている。
みずからを導いてくれたことへの感謝と、それゆえ、みずからがこの人生で果たさねばならぬ使命を、神の前で深く深く自らに問い、自覚を深めていった。
この謙虚さと、深い深い信仰心、神の使徒としての使命感の自覚、そこには今のわたしたち信者にとっても、大いなる学びがたくさん存在していると、わたしは思います。それゆえわたしはこのアウグスチヌスを、深く敬愛し、尊敬してやまない者です。

自分のプライベートなことは、あまり詳しく語りたくないので、なるべく一般論の形で記事を書きたがる自分でありますが、今回はちょっとだけ書いてみようと思います。
それは、幸福の科学に出会う前に、自分を導いてくれたのが、キリスト教の教えであり、聖書であったから。
とくに新約聖書の福音書ですね。この書を読まなかったら、幸福の科学にたどり着くのは、もっと遅くなっていたかと思うので、キリスト教および、イエス様の教えとその人生には、深く思いを馳せることがどうしてもあるんですよね。

学生時代に、とても深く悩んでいた時がありました。
よくある悩みと言えば悩みなんですが、人は何で生きるのか、自分は何のために生きているのか、これから生きて行けばいいのか、それを本当に深刻に悩む時期が、自分に訪れました
それは自分にとっては、この生の意義があるのか無いのか、むしろ死んでしまった方が楽ではないか、人の一生とは何だろう、自分の一生とは一体なんだろう、これから先、生きるに値するものなのか。というほどに深く思い悩むテーマだったのです。

まだ青年の頃のことでしたが、深い挫折体験のなかで、自分の人生を悔い、未来への希望を失い、自分を完全に見失っていた時があったんですね。詳しくは書きませんけれど(笑)、それはそれは苦しくて、もう一日たりとも生きているのが辛いという、そんな状態でした。

人は何で生きるか、自分は何で生きるか。

スウェーデンボルグだとか、エドガー・ケイシーだとか、そういう神秘思想はすでに読んで知っていたし、霊界の実在や、転生輪廻のシステムがあることも信じていた自分です。
けれども、魂の挫折と苦しみのなかで、この自分個人、自分自身はどうしたらいいのかが、わからなくなって、途方に暮れました。絶望していたといってもいいでしょう。
なぜ人は生きるのか、自分はこれから何を魂の柱として生きたらいいのか。切実に心の底から求めるのですが、自分の中からは答えが見つからない。つたない自分の知識や経験ではわからない。
両親に問うても答えはわからないだろうと思いました。両親はわたしを深く愛してくれているし、相談にも乗ってくれるでしょうけれど、人間みな悩むことがあるけれど、それでも何とか生きていくものだ。あまり深く考えすぎないことだよ、と言われても、自分が求めているのはそういうことではなくて、もっと魂そのものがこの人生を生きる目的、意味、それを知りたいという悩みなんですよね。
なんというか、幼い自分の精神ではうまく表現できないのだけれど、求めているのは、人が人生を生きる意味、この世で生きる意味の、もっと普遍的な意味、そういったもの。進学して就職して家庭をもって幸福に生きる、という具体的なことではなくて、その根本にあるべき普遍の部分というか、何というか。それがわからねば生きられない。人生の根本がわからない。意義がわからないという苦しみなんです。

まぁ、そんな何とも言えない悶々とした苦しみのなかで、身近に答えを教えてくれる人も見当たらないように思うし、友人に訊いても、自分の心の内面、その説明自体が困難です。
身近に答えを求めても、とうてい得られそうには思えない。自分で探すしかありません。
そんなとき、わらにもすがるような気持ちで手に取ったのが、新約聖書のなかの、福音書、でした。

新約聖書 福音書 (岩波文庫)/岩波書店

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その中で語られる、イエス様の生涯、イエス様の語られる言葉に、わたしは衝撃を受けました。

なんという美しい言葉、なんという深い叡智にみちた愛の言葉の数々でしょう。
ときに語られる厳しい言葉は、かたくなな自分の心の殻を打ち破り、魂の奥底に突き抜けてくるような、神さまの声に思えます。
ひたすらに、神さまの思い、神さまの願いを伝え、この地上に神の国を打ち立てるべく、独り獅子吼するイエス様の生き方、その言葉に衝撃を受けながら、最後まで読んでいくと、
その偉大なるお方が、十字架に磔にされて殺されてしまう。
なんということでしょう。こんなことがあっていいのでしょうか。
神の言葉を伝えた、これほど偉大な魂のお方に、なんという仕打ちを人類はしてしまったのか。

けれども、その最期のときにあっても、イエス様は、両隣に並ぶ囚人たちに、許しを与え、命を終えていくのです。
読んでいるだけで、涙がボロボロこぼれました。

これだけ偉大な方が実際に、この世界に生きていらっしゃったことがあるのだ。ひたすらに、人々への愛のために生きた御方がいらっしゃったのだ。
その事実を知ったとき、そんなイエス様の生涯にくらべたら、自分ごとき小さな存在が、どう生きるべきか、オレは何をしたらいいのか、なんていって、自分のことばかり悩んでいたのは、何という恥ずかしい姿であったことか。そう思いました。

そして思ったことは、

ささやかな人生でもいいじゃないか
ささやかでもいいから、一生懸命に、精一杯、自分なりに生きて行けばいい。
人生の途上で出会った人との縁を大事にして、その人たちへの優しさ、愛に生きよう。
イエス様の生き方に見習って、ささやかでもいいから、自分なりの愛の人生を生きてみたらいいのではいか。
明日からは、それを人生の指針として生きていこう。

そう思いました。

それまでの自分は、教養を深め、みずからの知を高めることに、夢中になっていたんですね。
けれども、その知は何のため?、自分をかざるための知は空しいだけ、知とは何なのだ。
そうした悩みの中で、自分自身を失いかけていたんですけれど、
福音書のイエス様を知ったときに、愛のために生きよう、愛のために知を使えばいいのではないか。
そう生きていこうと決意した瞬間、世の中が今までとは全く違って見えたことを思い出します。
本当に違った世界に見えたんですね。
何か目の前が、パーッと明るく、幸せな世界が展開しているように見えてきた。
自分のちっぽけなプライドと、その中での葛藤を乗り越えたとき、世界は確かに違って見えました。

こういう体験があったので、宗教のすばらしさというのは、実体験としても自分なりに痛感しています。
幸福の科学にたどり着いたのも、この経験があってのものだと思います。
イエス様を尊崇していたからこそ、キリストの霊言を手に取り、その内容に衝撃を受け、
それと同時に、総裁先生の理論書「太陽の法」を読ませていただき、信者になることを決意することになったわけですから。

ちょっと、そんな体験を振り返りつつ、記事にしてみました。
内面の吐露は恥ずかしいし、葛藤した時期のことを書くのは尚更はずかしいけれど、正直に当時の気持ちを書いたものです。

やっぱり過去世、どこかでキリスト教を学んでいたことがあるんでしょうかね?(笑)
わかりませんが、とても好きな教えであることは事実です。

おしまい。

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2017年01月08日

【レオ】若いとは、いったいどういうことなのだろう

あさっての風―あなたと共に考える人生論 (角川文庫 緑 437-1) -
あさっての風―あなたと共に考える人生論 (角川文庫 緑 437-1) -




若いとは、いったいどういうことなのだろう。ほんとうに若い人というのは、どんな人をさすのだろう。きょうは、このことを考えてみたいと思う。

「あのね、この小説、とってもおもしろいのよ。読んでみない?」 「小説なんか、読むのめんどうくさいわ。マンガなら、読むけどさ」  こんな中学生同士の会話を聞いたことがある。  

あなたは、このふたりのうちのどちらの人間だろうか。そして、どちらが、ほんとうに若いといえる人だろうか。  
ひとりは読書好きで、自分の読んだ本を人にもすすめずにはいられない。だが、もうひとりの中学生は、おもしろいといわれても、 「小説なんて、めんどうくさいわ」  と、実にめんどうくさそうに、なんの興味も示さない。
このふたりのうち、若いといえるのは、やはり本をすすめたほうではないだろうか。なぜなら、この人のほうが成長しつつあるからだ。本は人を成長させてくれる、大切なものだ。  

いま、わたしは成長ということばを使った。わたしは、若さの一つの特徴は、成長するということにあると思っている。  
若木はぐんぐん成長する。四方八方に根を張り、養分を吸収して成長する。成長しない若木なんて、ありはしない。 「小説を読むなんて、めんどうくさいわ」  などというのは、養分を吸収する力を失った老木と同じだ。成長しようという意欲の何もない人間の言葉だ




解説の必要もない、三浦さんの説明がすべてを説明してあまりある、そんな名文章でしょう。

若さとは何か。

若さとは<成長>することだ。成長しようという意欲を持ち、努力しつづけている人間のことだ。
そう、三浦綾子さんは明快に述べてくれています。

ぐんぐん伸びようとしている若木と、すでに疲れ切った老木とを比較しながら、
伸びようとしている生き方こそが<若さ>なのだ!と言いきっているわけです。

これは<勇気の原理>ですね。<希望の原理>でもあります。
言い換えれば、若さや老いは、年齢ではない、ということ。

年齢が若くても、惰性の日々を生き、成長の意欲を失っている人は、すでに老いている。
一方で、
年齢は重ねていても、いまだ成長の意欲を失わず、人生にチャレンジしている人は、若いのである。



成長しつづける人こそ、若いのだ。  
わたしたちは、ここで、自分がほんとうに若いかどうか、立ちどまって、ふり返ってみよう。 「めんどうくさい」などという言葉が多く出る人は、年齢は若くても、もう老人なのではないだろうか。




この三浦さんの力強い、信念のことばには、なんという力があることでしょう。
魂を打つ、光の言葉だと感じます。わたしは、三浦綾子さんは絶対に光の天使だと思いますね。まちがいない!!



「あまり出歩かないで勉強しなさいよ」  と、母に注意されても、 「大きなお世話だわ」  と、そのことばを無視する人。何に対しても、 「関係ない」  と、つっぱねる人。また、いまの高校生、大学生の一部で盛んに使われている、 「ナンセンス」  を連発する人が、すなわちそれであろう。 「大きなお世話」 「関係ない」 「ナンセンス」  など、いずれも、相手にものをいわせまいとすることばばかりではないか。これらのことばには、なんと、人の好意を拒絶する、冷たいひびきのあることだろう。ここには、うるおいや、優しさ、そして美しさはまったくない。このことばのなかに、若さが本来持つべき、成長の意志が、果たして、少しでもあるといえるだろうか。





具体的な話もしながら、説明してくれるので、ひじょうにわかりやすいです。
光の天使の特徴は、すばらしい例え話が上手である、というところにも出ているのではないかと思います。例え話が上手い方が多いですよね。偉大なる光の天使、光の指導霊と呼ばれる人たちは。それは、人生の機微を知りつくしている、あらゆる人の人生を、それだけ広く深く知っているからこそ、縦横無尽に、適切なたとえ話を引き出せるのだろうと思います。

ここでも念押しされていますが、「関係ない」「ナンセンス」などという言葉を連発する、冷めた人間にはならないでほしい。もっと暖かな心を持った愛の人になってほしい。

これは、キリスト教の愛の教えを、深く深く学んだクリスチャンならではの、愛の人生へのいざないではないかと思います。



「若いときに、老人のことばを、思いやりをもって、聞くことのできる人は、年をとってもけっして若さを失わないであろう」  といった人がいる。なるほど、それは、たしかであろう。  
いま、 「文句をいうな」 「子どものくせに生意気をいうな」  と、どなっているおとなは、若いころには、年上の人のことばに、 「大きなお世話だ」  といっていた人なのだ。  つまり、いま、おとなに対して、 「大きなお世話だ」 「ナンセンス」  と、拒絶のことばを投げつけている人が、このようなおとなになっていくのだ。ともに、成長を忘れた、ひからびたことばである。




若さの話もありましたが、
自分が10代、20代という若さの中にあるとき、人は、若さに驕り、老いを疎んじることがあるのではないかと思います。
けれども、そうして傲岸に生きている若者も、あっという間に、その老いの世界に入っていくんですよね。

先ごろ大ヒットしたドラマでも、アラフィフの石田ゆり子さんに、20代の若い女性が、わたしは若いが、あなたは私より20以上も年寄りね、みたいに傲岸な態度に出たところ、
あなたがバカにしているその年齢に、やがてあなたもなってゆくのよ。自分がさげすんでいるものに自分が向かっているのだ、ということを理解してるのかしら?みたいに返事して、一蹴していましたが、
これこそ、若さの驕りを知る人と、それを知らない若者の差、ですね。

若い、若い、といって自惚れていても、そんな肉体年齢の若さなど、わずか10数年の話です。80以上の平均寿命の世の中になってみれば、若い時代よりも、老いてゆく時代の方が長いでしょう。
しかも、真の若さとは、成長しつづけんとする意志と意欲だとしたら、本当の若者は誰なのか?わかったものではありませんね。

あの世に帰れば、年齢など不要でしょう?要するに、肉体上の若さと老いに、惑わされてはいけない、というのが、霊的真実ではないでしょうか。

心の若さを持った人こそが、真に若々しい魂である。そう、言えるのではあるまいか。

幸福の科学の信者は、80歳になっても、いや、まだ自分には学ぶことがある。成長するための課題が与えられている。まだまだ自分は成長してゆくぞ、という気持ちで、生きている人が多いですね。
これは、真の意味で、若い人間たち、ではないでしょうか。

そして実際に、こうした方々は、死して後、あの世へ還ったあとも、さらに自らの魂を磨き、成長せんとして努力する人たちでありましょう。

真に若いと言われる人間になろうではありませんか。

若々しい魂として生きることこそが、本当の意味での若さ、永遠の若者の証明ではないでしょうか。







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2017年01月07日

【レオ】関係ない?

三浦綾子 電子全集 あさっての風−あなたと共に考える人生論 -
三浦綾子 電子全集 あさっての風−あなたと共に考える人生論 -

三浦綾子さんの著書は、電子版で全集が出ているので、かなりの数の著作を読むことが出来る。
そして、いずれの本も素晴らしい。

わたしは、キリスト教理解のいちばん最初期に、三浦綾子さんの影響を受けて入っていったので、この方には本当に恩義を感じており、素晴らしい方だと賛美してやまない気持ちを持っている。



ひところ、しきりに、 「関係ない」  ということばがはやったのを覚えている。このことばは、わたしのきらいなことばの一つである。こんなざらざらした冷酷なことばをしきりに使う人は、体内を流れる血も、氷のように冷たいのではないかと、わたしは思う。




三浦綾子さんは、「関係ない」と言う言葉が嫌いだと、おっしゃっている。
自分には関係ない、知ったことではない、無関係だ、知らん、ということですね。

これを非常に<冷たい言葉>ではないか、と指摘しているんですよね。

愛の反対は憎しみではなく<無関心>と言われますが、その<無関心>こそ、この「関係ない」という言葉の正体ではないか、ということでしょう。
自分には「関係ない」。その無関心は、愛の対極にあって、愛の欠如の状態なのかもしれません。
与える愛の正反対にあるのが、この「関係ない」という言葉、心なのでしょう。

三浦さんは、このことを解説するために、子供の頃に教わった少年少女向けの物語を、話してくれています。こんな話です。



大げさにいえば、この世のどんな人間も、自分とは全く無関係だとは、いい得ないのではないだろうか。  

わたしが小学校のときに読んで、忘れられない話がある。  
ある金持ちの娘が、汽車の中でバナナを食べていた。そしてその腐ったバナナを、食べられないからといって、窓からひょいと投げてしまった。そこに、ある貧しい子どもが通りかかって、そのバナナを拾って食べたのである。ところがその子はおなかをこわし、熱を出してしまった。  
その夜、金持ちの娘の父親の工場が全焼した。夜警の男が、その夜に限って、夜警を怠ったのだ。それは、わが子が、拾ったバナナを食べたため、熱を出したからである。  
たぶんこんな筋だったと思うが、少女のわたしはこれを読んで、人間の世界というものは、自分の思っているよりも、密接なつながりのあることを思って非常におそれを感じたものである。  
この話は、少年少女向きに書かれているので、因果関係がハッキリしているが、わたしたちは日常生活において、案外これに似た深いかかわりを、ほかの人と持ち合っているのではないだろうか。




関係ないと言いながら、当人の知らないところで、人と人とのあいだには、このような不思議なつながりがある、ということ。これは真実ですね。

幸福の科学においても、重々無尽と教わりますし、縁起の理法から、宇宙樹としての生命のつながりから言っても、<関係ない>なんてことは有り得ないわけです。
ただ、そのつながりを知らない、気づかない無関心な人が、「関係ない」と言っているだけであって、
それは実際には<関係があるのに>、関係がないと思っている<無関心>、<愛の欠如>に他ならないのでしょう。

仏教で学べる<縁起>の視点から世界を見ることの大切さは、無関心な世界観では見えていなかった真実を観る、ということでしょう。

さきのお話でいったら、バナナと火事は無関係なようでいて、実際は縁起によってつながっている。バナナを捨ててなかったら、その子の父の会社が火事になることはなかった。
火事の原因は何かと問われたら、夜警が警備を怠ったから、と指摘されて、彼は解雇されるかもしれません。けれどもそれは、直接原因ではあっても、大本の原因ではありませんね。
物事の因果関係はもっと深く、複雑に結びついて、あらゆる事象は起きている。夜警の人だけの責任で済む話ではない。ということです。
最初の娘さんは、バナナを窓からポイ捨てするような行為を、しないことも可能だったはずですね。腐ったものはゴミ箱に捨てれば、こんな事件は起きなかった。
そのバナナを食べた子は、腐ったバナナを食べなければよかったけれど、そういうものでも食べないといられないほど、お腹を空かしていたのかもしれません。だとしたら、その責任は誰にあるのか、どこにあるのか。
縁起は世界のなりたちの複雑さを知ることにつながり、それは神さまの目に、すべてのものが結びついて運行している、世界と人間の姿が映っているのかもしれないなぁ、ということを夢想させますね。

このお話ののち、三浦綾子さんは、自分をキリスト教に導いてくれた<幼なじみ>との再会を語ります。その再会の不思議と、神の見えざる導きの手の、有難さを語ります。



十年後、わたしたちは再び、めぐりあった。そして、わたしが小学校の二年のとき以来、初めてことばをかわしたのである。実にその間二十年の歳月が流れていた。




少女時代に隣に住んでいた少年がいたのですが、やがて彼は引っ越してしまい、それから20年のあいだ、なんの関わりも持たずに、たがいの人生を歩んでいた、とのこと。
それが、20年後、青年に成長した彼が、三浦さんをキリスト教の世界へ真剣に導いてくれたんだそうです。



路傍の人と思っていた彼は、わたしを真剣にキリストに導いてくれた。当時自殺を企てるほどに虚無的だったわたしを、堕落の生活から、救いあげてくれたのである。  
とにかく、よくも悪くも、わたしたちは、実に多くの人と、かかわりのある存在なのである。しかも、わたしたちは、遠い外国におけるひとりの人の生き方さえ、自分にかかわるということも知っている。  
たとえば、シュバイツァーの生き方に感動して、自分の生き方が変わったという人は、世界にどれほど多いことだろう。  同時代のみならず、三千年まえに生まれた釈迦や、二千年まえに生まれたキリストが、いまの世にも、生き生きと、どれほど強力にわたしたちを導き、どれほどわたしたちの人生を変えているかわからない。  
わたしたち現代に生きる者が、怠惰な者は怠惰なりに、真実な者は真実なりに、どれほど大きく作用し合い、かかわりあっているかわからないのだ。  
つまり、小さいながら、わたしたちひとりひとりの生き方が、多くの人の運命とかかわりあっている。  
それは、少し想像力の豊かな者なら、ただちに理解できるこの世の現実なのである。 「関係ない」とか、「ナンセンス」とかいう、干からびたことばをみずみずしく若い人は、どうか使わないでいただきたい。若い人は若い人らしく、豊かな感受性と、あたたかい、愛に満ちたことばをもって、人と人の間を、つないでほしいものである。




三浦さんは、人と人との縁や結び付き、その不思議を、まさに仏教の縁起を知るが如くに、深く理解なされていることが、上の文章を読むだけでわかりますね。
過去の聖人の教えや生き方に学ぶこと、そのことによって魂が救われ、導かれるという事実を見ても、人と人との関係というのは、数千年の時間を超えてまで作用するほどの、強い関わりを持ちうるのだ、という気づきですね。
そしてここには、三浦さんの信仰心と感謝の思いが満ち溢れていますね。お釈迦さまやイエス様、シュバイツァー博士の名をあげて、こういう方への限りない感謝の気持ちを抱いていることが、伝わってきます。

こういった人間同士の深い結びつきは、少し想像力の豊かな者なら、ただちに理解できるこの世であるにも関わらず、
自分には「関係ない」とか、「ナンセンス」とかいう、干からびたことばを使う人は、いかに愛なき人間であるか、縁起を知らぬ人間であるか、と指摘しながら、
どうか今後を生きる若者たちには、そうした冷たい言葉を使わないでいただきたい、と三浦さんはお願いしています。

すべては関係があり、つながっているものなのだ。
それを知ることが大切、ということですね。感謝の気持ち、導きへの有難さを知るには、関係ない、ではなく、関係あり、の世界に生きなければ、わからない、ということでもありましょうか。





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2017年01月06日

【レオ】中国はアメリカを攻撃しない、ただ撤退させれば目的達成と見ている  「米中もし戦わば 戦争の地政学」を読んで … その5



中国大陸から発射される対艦弾道ミサイルや高速双胴船から発射される従来型の巡航ミサイル一発の価格は数百万ドルだが、そのどちらも、一隻一〇〇億ドルのアメリカ空母を破壊するだけの能力を持っている。また、それらが直撃した場合、五〇〇〇人の命が失われることも忘れてはならない。




わたしたち日本人は、何だかんだいっても、アメリカの軍事技術はまだ中国を遥かに凌駕しているから、日米安保があれば安心、と思ってしまっているふしがあるように思いますが、

アメリカの軍事技術の高さは、中国政府も知っているわけでしょう。それでいて、アメリカがアジアに介入できないように、撤退してくれるようにと、そういう戦略を採っているわけですね。

アメリカがいなければ、ベトナムと戦争になろうが、フィリピンが不満を言おうが、問答無用で島を取ることが出来るわけですから、アメリカが引いてくれれば、中国としてはOKなわけです。最初から正面から戦おうなんて思ってもいない。

しかも、そうした軍事技術の差を埋めるために、中国はそれなりの兵器開発をしてきているわけで、アメリカの艦船をミサイル攻撃するための、弾道ミサイル発射技術を今では持っている、と言います。
その対艦弾道ミサイルは、大気圏を突破して宇宙空間に出てから、再度、大気圏に突入して、目標物の艦船をロックオンして着弾するという、高度な性能を持っているらしい。
それが真実であるならば、アメリカの第七艦隊といっても、そのミサイルで攻撃することが可能なわけです。基地を狙うことも可能でしょう。

そうした兵器があるんだぞ、と中国が発表しただけで、アメリカを威嚇するに十分な効果がありますね。
しかもそうしたミサイルは、一発で数百万ドルの価格しかかからずに製造できるとなったら、一隻で100憶ドルもするアメリカの空母を、そうした兵器の射程内に晒すのは、経済的にも割に合わない、ということにもなる。



ここではっきり言っておかなければならないのは、一連の非対称兵器の開発において中国が必ずしもアメリカ艦船の撃沈を目標としているわけではないということである。中国はむしろ、「戦わずして勝つ」ことを最上の目標とする孫子の兵法に則り、中国がその気になりさえすればアメリカの空母を撃沈できるのだとアメリカに思わせようとしているのである。




中国に、対米攻撃兵器が十分になければ、第七艦隊がにらみを利かせているだけで十分かもしれない。沖縄に駐留する海兵隊があれば、抑止効果は十分かもしれない。
けれども、中国だって安閑として年月を過しているわけではなく、そうしたアメリカを倒せぬまでも、アジアから引いていかせるにはどうしたらいいか、という手段は念入りに計画して、実行してきているんですよね。

だから、アメリカを軍事技術によって凌駕しなくても、中国にとっての勝利は有り得る、ということでしょう。
アメリカが沖縄基地から撤退して、グアムに引いただけでも、それはもう、アメリカが日本を保護するための戦いから、一歩、腰が引けてしまっているということですから。
竹島を韓国が取っても、アメリカは何もしなかったように(安保以前)、尖閣諸島を中国が取っても、その時点のアメリカは尚更、日本を助ける行動に出ないかもしれません。
フィリピンからアメリカ軍がいなくなったら、現にフィリピン領有の島嶼を奪い取ったように。それを別にアメリカは奪還してくれるはずもなく、中国の実行支配下に置かれて何十年も過ぎていくだけの話になります。

中国は、アメリカと全面戦争する気まではないだろう、なんて甘い考えを持っていると、実際に、中国とアメリカが戦火を交えることがないのに、知らぬ間に、徐々に中国による海上支配権は拡大していってしまうかもしれませんよ。



中国は、アメリカ海軍大学校教授ジェームズ・ホームズの言う「ハード・シールド」(「アメリカ海軍を完全にアジア海域から駆逐するための」防御壁)を構築しようとしているわけではない。中国は単に、アジア海域で作戦行動をおこなうアメリカ艦船のコストとリスクの負担感を上げようとしているに過ぎない。そして、そうすれば、すでに戦争に疲れているアメリカが戦わずして逃げ出すだろうと踏んでいるのである。




アメリカは、膨大な軍事予算を減らしたい、という問題を抱えているだけでなく、アジアで今まで通りの戦略を維持するだけでも、コストとリスクのみ増大するばかりで、メリットがない、中国を追い込むことも出来ない、撤退の方向で引いていくしかない、と考えるようになっているのだったら、

それこそ、中国の狙った通りのシナリオが実現しているわけで、現に、アメリカは、アジアへの肩入れ度を上げるどころか、引いていく方向で動いているわけでしょう。きわめて危険ですね。
中国政府首脳は、ほくそ笑んでいるかもしれません。



アメリカの政治家や軍司令官は、「アジアに駐留することで得られる経済的・国家安全保障上のメリットは、著しく増大しつつあるリスク及び海軍やアジアの基地の付随コストに見合っているだろうか」という不愉快な問題に直面せざるを得ない。中国の力が増大するにつれて、費用対効果を厳密に考えれば、この重大な問題にアメリカはいずれ「ノー」と答えざるを得なくなる、と中国は考えているのである。




著書の中では、ナヴァロ氏はさらに詳細な論を展開して、中国の実態に肉薄すべく努力しています。
このナヴァロ氏を招へいして、新政府の政策顧問にしたのが、トランプ次期大統領なわけですから、このナヴァロ氏の中国対策論は、今後のトランプ政権において、具体的に展開してゆくであろう政策の、バックボーン、指針となるような、重要な論述ではないかと推定します。

ということで、さらに詳細に知りたい方は、ナヴァロ氏の著書そのものを、読んでみることをオススメしておきましょう。わたしも、さらに継続して、勉強してゆくつもりです。

 … おしまい。

米中もし戦わば -
米中もし戦わば -


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2017年01月05日

【レオ】中国の海洋戦略2 〜島々を奪ってきた近年の歴史〜 「米中もし戦わば 戦争の地政学」を読んで … その4

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地名がいっぱい出てくる文章を読む時は、地図をひたすら見ながら、位置関係を把握しつつ読むのがいいですね。地名だけでは、その地理上の意味がわからないので、漠然とした名前だけの暗記になってしまいますから。
前回の地図と比べてみるとわかりますが、南沙諸島すなわちスプラトリー諸島の位置は、↑この位置と範囲になるわけですが。



一九八八年、中国が今度は南沙諸島(英語名:スプラトリー諸島)の領有権を主張したことから、中国軍とベトナム軍は再び衝突することとなった(スプラトリー諸島海戦)。ブルネイからもフィリピンからもマレーシア領ボルネオからもベトナムからも近い、戦略上重要な海域に位置する南沙諸島は、中国本土からは、いちばん近い場所でも九〇〇キロ以上離れている。  




この南沙諸島の領有権を巡って、ふたたび、中国とベトナムが激突したわけです。
西沙諸島の争奪戦が起きた1974年から、わずか14年後の1988年です。中国がいかに着実に、その地歩を固めつつ、領土を拡張せんとしてきたのか、その動きが明確にわかりますね。拡張意欲満々の覇権志向があるのは明らかでしょう。
説明にもあるように、この南沙諸島(スプラトリー諸島)は、その南にブルネイとマレーシアがあって、東にはフィリピンがある。これらの国々の方が遥かに近いのに、そこを中国固有の領土であると言って、武力侵攻したわけです。周りの国々はたまったものではありませんね。そういう状況で、ベトナムと中国が再び戦うことになった。その結果は … 。

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南沙諸島のあたりを拡大すると、大小さまざまな島嶼があるのがわかります。
この図を見ながら、著書の解説文章を読むと、


中国がファイアリー・クロス礁に監視所を建設し、「歴史的に中国固有の領土」として南沙諸島の領有権を主張しようとしたのを受け、ベトナムはその海域に武装船を派遣して対抗した。近くのジョンソン南礁に上陸した軽武装のベトナム兵は、中国の侵略に抗議してベトナム国旗を掲揚した。これに対して中国の軍艦はベトナム兵に大口径の高射砲を向け、六〇名以上を殺害した。この虐殺ののち、中国はケナン礁とヒューズ礁を含む南沙諸島の六島を実効支配下に置いた。  




ファイアリー・クロス礁、ジョンソン南礁、ヒューズ礁などの文中の島嶼がにおいて、どのように兵が展開して戦いが行なわれたのか。ベトナムはどう対処しつつ、しかして中国の軍艦からの高射砲攻撃を受けて、兵が殺害されたか。
その後、結局、中国の武力圧力に抗しきれず、ベトナムは撤退して、実質上、中国の支配を認めざるを得なかった、という顛末になるわけですね。
国際的に見て、正義ではなく違法であろうが、取ってしまって武力を背景にした実効支配をしてしまえば、周辺諸国は、ただ口で文句を言うしか出来なくなる。領土そのものは、力のある側の支配下に置かれてしまう。

再度言いますが、日本固有の領土であった竹島は、戦後、韓国軍によって侵略され、それ以後、韓国領として実行支配されたままだし、北方領土はソ連・ロシアに支配されたままですね。
これを取り戻すには、口で文句を言うだけでは戻ってくるわけがない。国連に提訴しても戻ってこないのは言うまでもないことです。強大な国家が権利を主張したら、それを上から押さえつけるだけの権限は、国際連合には無いのだから。

このようにして、多国間にまたがって存在する上位機関、のはずであった国連も、実質的には、国同士の戦いにおいては、強権発動することも出来ず、ただ非難決議を行なうことくらいしか出来ていないんですよね。
それゆえ、大国が覇権主義の行動を取ってきた場合、周辺の小国は戦々恐々とならざるを得ない。そのことを知っていなくてはなりませんね。
平和ボケした日本人の地位に安閑としてしまって、世界情勢に鈍感であってはいけないでしょう。
これと同じ状況は、尖閣諸島から沖縄、それから台湾において、現に起きているのですから。
歴史の教訓から学びましょう。

中国は現に、20世紀の後半という直近の時期において、こうして着実に海洋戦略を実行しつつ、つぎつぎと島々を陥落させてきているのですから。



その後も中国は南沙諸島で領土拡大路線を取り続け、一九九四年にはフィリピンからミスチーフ礁を奪取した。フィリピン海軍が通常のパトロールをおこなえないモンスーンの時期を狙って、中国海軍がミスチーフ礁にこっそり入り込み、複数の構造物を建設してしまったのである。  フィリピンの政治指導者らは、この行為を「卑劣な侵略」だとして激しく非難した。この時点でフィリピンは軍事介入をおこない、これを阻止しようとすることもできたはずである。だが、一九七四年の西沙諸島の戦いや一九八八年のスプラトリー諸島海戦で中国軍がベトナム軍に対しておこなった残虐行為を見てきたため、装備に劣るフィリピン海軍は中国との戦いに後ろ向きだった。こうして、中国のミスチーフ礁実効支配は速やかに既成事実と化した。




ミスチーフ礁も、いちばん最後の地図に名前が出ていますね。ここはフィリピンの領土であったはずが、ここも中国に取られてしまった。ということです。
ベトナムが敗れた戦いを知っているフィリピンは、最初から、中国軍と正面から戦うことには尻込みせざるを得なかった。
着実に中国は、このようにして海洋戦略を進め、海においてもその支配権を拡大してきている。

その戦略が進めば進むほどに、周辺諸国は、戦わずして、中国に支配権を明け渡していってしまうかもしれません。
どうせ戦っても勝てない相手ならば、最初から諦める方が利口である。というか、そうするしか最早、選択肢がない、ということですね。

中国はまさに「孫子の兵法」の中の、最高の戦い方である、戦わずして勝つ、を地で行っているわけです。
そしてそれは偶然ではなくて、中国政府と軍は、孫子の兵法を研究して、それを実行に移しているんですよね。老獪で、深謀遠慮に長け、年数をかけて着実に、その遠大な目標を達成しようとしている。それが中国共産党という中枢部の本質といっていいでしょう。その老獪さを知らないといけない。


 … つづく。




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【レオ】中国の海洋戦略 〜島々を奪ってきた近年の歴史〜 「米中もし戦わば 戦争の地政学」を読んで … その3

引き続き、ナヴァロ氏の著作「米中もし戦わば 戦争の地政学」本文から、引用しつつの紹介記事です。



一九七四年、中国は、当時弱体化していた南ベトナムから南シナ海の西沙諸島(英語名:パラセル諸島)を奪い取った。




文章だけで、西沙諸島、南沙諸島といっても、イメージが掴みづらいですね。
そういう時は、地図を観ながら、位置をきちんと確かめながら、その島の地政学的意味を理解しましょう。

1974年に、西沙諸島が、中華人民共和国によって奪われた、とあります。

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全体図を見ると、西沙諸島はベトナムの真東にある島々ですね。中国からしたら真南。海南島のすぐ近くです。
ここの支配権をめぐって、ベトナムと中国が激突したものの、結局、戦いは中国軍の勝利に終わり、いまでは島のすべてが中国の実行支配下にある、とのことです。

戦いが始まった時点では、島々の西半分はベトナムが支配下に置いていたのだけれど、そこを丸ごと、中国に取られてしまった、ということです。
実効支配というのは、それくらい怖ろしいものですね。いくら文句を言っても、力によって奪取されてしまって、そこに軍隊を駐留されてしまったら、もはや、そう簡単には取り戻せなくなる。
日本で言ったら、竹島や北方領土がそうですが、国単位でいっても、チベットやウィグルなどは、国そのものを中国の傘下に置かれてしまって、もはやどうにも出来なくなっているでしょう。

法的な根拠があろうが無かろうが、実際に支配されてしまったら、それを覆すだけの力がなければ、抵抗すら出来ない。事実上、取られてしまった、という現実は変えようがないわけです。だから甘く見てはいけない。



当時、ニクソン政権下のアメリカは中国との関係改善に首までどっぷり浸かり、ベトナム戦争の泥沼から抜け出そうと必死にもがいていた。その結果、中国を怒らせることを恐れたアメリカは南ベトナムへの援助を拒んだ。
兵士の数でも装備の点でも中国に劣る南ベトナムには、撤退以外の選択肢は残されていなかった。西沙諸島の戦いはアジア史の中ではほんの小さな出来事だが、これは、アメリカの介入がなければ中国がその軍事力でアメリカの弱小同盟国を圧倒することを明確に示した例だと言える。




アメリカが南ベトナムを支援したら、中国による完全支配を阻止できたかもしれませんが、アメリカはすでにベトナム戦争から手を引きたかった状態であり、しかも中国との正面激突などする気はなかったでしょうから。結局、この戦いは、アメリカのいないところで、ベトナムが孤軍で中国と戦わざるを得なかった。

アメリカ抜きでは、南ベトナム単独では、中国に抗しようもなかった。敗れて、島を取られてしまった、ということですね。

この現実の歴史は、いまの日本が置かれている状況とも酷似しているでしょう。
もしアメリカが介入する気が無いことがハッキリしたら、中国は容赦なく、尖閣諸島その他の島々を奪いに来て憚らない。それは現実に起こり得る、ということです。
そしてそうなった場合、日本は単独で、中国軍と戦って島を守ることが出来なければ、奪われてしまう、ということでしょう。

いまは日米安保があるから、何だかんだ言っても、いざとなったらアメリカが戦ってくれる、守ってくれる、といって安閑としていて済む状態では、もはやないと思います。
いくら同盟があっても、アメリカは参戦せず、というアメリカの動向がわかれば、中国は動くんですよね。朝鮮戦争においては、北朝鮮ですら動いて、韓国に攻め込んだのですからね。アメリカは動かず、と見たら、いくらでも他国に攻め込む国は、現にいまでもある、ということでしょう。
フセインも、アメリカに反対されるとは思ってもおらず、クウェートに侵攻したはずですね。ただ、その読みが外れたために、その後のイラクの戦略と外交が狂ってしまい、フセインは滅びましたけれど。



一九八八年、中国が今度は南沙諸島(英語名:スプラトリー諸島)の領有権を主張したことから、中国軍とベトナム軍は再び衝突することとなった(スプラトリー諸島海戦)。
ブルネイからもフィリピンからもマレーシア領ボルネオからもベトナムからも近い、戦略上重要な海域に位置する南沙諸島は、中国本土からは、いちばん近い場所でも九〇〇キロ以上離れている。




そして、中国の海洋進出は、1974年の西沙諸島を支配下に置く、だけでは留まらなかった。
1988年には、今度はさらにその南にある、南沙諸島をも、中国は領有しようともくろみ、ふたたびベトナムと激突した、とあります。

この南沙諸島は、ベトナム・中国だけでなく、フィリピンやマレーシアその他の国々も、島の領有を主張している地域だそうです。なので、中国の相手はベトナムだけでなく、近年のフィリピンとの対立などにもつながるのですが、この1988年の戦いは、先の西沙諸島と同じく、ベトナムと中国の戦いでした。
結果はこれまた中国軍の勝利。南沙諸島のうち6つの島が、中国の支配下に入ったとのことです。

↓ 地図を見ると、このような状態です。

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赤丸で囲んだ、西沙諸島、南沙諸島に、中国が進出して、島を支配し、埋め立てを行なったり、建造物をどんどん作っていったりしているわけで、中国の実行支配地域は着実に増えていっている。
ベトナムやフィリピンと係争中といっても、実効支配を中国がしている以上、その海域は事実上、中国の覇権かにあるといっても過言ではない。

地図を見ればわかるように、西沙諸島と南沙諸島を押さえている中国は、そのあいだの海域をも、封鎖することが可能になっているわけで、いざとなったら、この海域は自由に航行することすら出来なくなってしまう状態に、すでになっている、ということですね。


 … つづく。



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【レオ】トランプ政権・政策顧問ナヴァロ氏の著書「米中もし戦わば 戦争の地政学」を読んで … その2



ミアシャイマーの理論は三つの仮定に基づいている。第一の仮定は、「世界体制は無政府状態だ(つまり、国家を取り締まる権威を持った組織は存在しない)」というものである。
この「警察官不在仮定」の意味するところは、「ある国がトラブルに巻き込まれても一一〇番して警察に助けを求めるわけにはいかない。だから、軍事力を構築して自衛措置を講じる必要がある」ということである。




ミアシャイマー教授の考察を引用しながら、教授の立てた3つの仮定というものを、ナヴァロ氏は解説してゆきます。

その第一は、「世界体制は無政府状態だ(つまり、国家を取り締まる権威を持った組織は存在しない)」という注意点ですね。

国家と国家の対立に関しては、それを上から押さえつける上位機関が存在しない。国際連合の安保理が、本来ならその役割を果たすべき、と言いたいのですが、実際には大国同士の対立に関しては、国連の力は及んでいないのが実情なのは、周知のとおりです。
大国すなわち、常任理事国である中国やソ連が拒否権を発動したら、国連の強制力が働かないことなど、ざらですからね。当事国が国連に干渉してほしくない、といって拒否したら、どうにもしようがなくなる。
国連の中心を担う国が、自国の利益のために、国連の制裁を無視するのだから、言ってみれば、強盗や泥棒が、警官を兼任しているようなもので、オレは自分を逮捕するつもりはないよ、と言っているようなものでしょう。

要するに、絶対的な上位機関が存在しないので、加盟国やその他の国は、自分で自分の身を守らないといけない。だから、軍事力を構築して、防衛体制を取らざるを得ない。

というのが、いまの世界の現実、ということですね。

このテーマに関しては、以前、記事でも書いて、紹介したことがあります。

警察と軍隊、ポジティブリストとネガティブリストの違い
http://ameblo.jp/space-people/entry-11915911184.html




「すべての国家は軍事力、つまり戦争のための兵器を増強する」というのが、ミアシャイマー説の第二の仮定である。




ミアシャイマー教授の仮説の第二は、それゆえこの、「すべての国家は軍事力、つまり戦争のための兵器を増強する」という命題になるわけですね。

いざとなったら、国連が守ってくれるという保証はどこにもない。というか、国連に頼って自国の防衛を疎かにしていたら、あっという間に大陸に蹂躙されて、支配下に置かれてしまうような国が、世界にはたくさんあるのですから。
それこそ小国からしてみたら、自存自衛のための軍事力は、持つのが当然、ということになる。
その上でさらに、自分を守ってくれる大国との同盟や、保護を求めるのが人情というものでしょう。

東南アジア諸国が、アメリカの保護を期待し、日本が力を持ってくれることを願うのは、強大な覇権国家の台頭を前にして、当然の不安から来る期待なのですから。



ミアシャイマー説の第三の仮定である。つまり、「他国の真意を知ることはほぼ不可能だ」ということである。




この第三の仮定から、話はさらに深く、面白くなっていきます。

大国同士が隣接し、たがいに疑心暗鬼となって、その不安がさらなる軍拡競争につながってゆき、やがては膨張した軍事力同士が激突してしまう。

かつての日本とアメリカのあいだの戦争も、こうした互いを不信の目で見る疑心暗鬼と、相手の真意が分からぬがゆえの、過剰な防衛本能とも言うべきものがあって、たがいを忖度しつつの戦争準備、そしてついには激突、という流れがあったように思います。

アメリカは日本を理解していなかったし、日本もまたアメリカを理解してはいなかった。

たがいが目指す国益を、双方ともに相手を理解することなく、自分の立場から見て糾弾しつつ、やがてその対立は激化していったように思います。
戦後において、この日米が同盟関係の中で70年の長きにわたって、平和的関係を続けてきたことを思うと、信じがたいほどの相互不信と無理解、憎しみが、当時の両国のあいだにはあったのですね。

では、なぜ、そうなってしまうのか。

「他国の真意を知ることはほぼ不可能だ」

国家というものは、その方針をすべてあからさまに、明確に外に向けて喧伝するとは限りません。

信用していない他国に、国家機密を晒して平然としている愚かな国はないだろうし、どうしても隠された裏の意図というのがありますからね。本音と建て前というものがあって、表向きの発言と、隠された本心は違うところがある。
これはふつうの人間同士の関係でもあるでしょう。社交辞令と、隠された本音、という区分けがあって、それを上手く使い分けるのが、大人の智慧だという部分がありますからね。人間関係を円滑に進めるためには、なんでもかんでも正直に言うのがいいとは限らず、上司は、部下の厳しい査定を、当人には言わないでしょう。リストラ候補であることを当人に告げられず、表向きは、君に期待している、なんて言う人もいるかもしれませんしね。
世の中には、正直さも大切だけれども、権謀術数的な裏面もあったりするので、それが国家同士のあいだにも現れざるを得ないのでしょう。
国家同士の信頼も大切だけれども、裏に隠された駆け引き、というのがあるのは、プーチン・安倍外交を見ただけでもわかるかと思います。
表向きの発言と、裏の本音を読み取る力。相手はいったい、本当は何を望んでいるのか。ハッキリとは言わずとも、それを見抜いて察して、それに応えるのが、優れた外交手腕を持った政治家というものです。

プーチンは、アメリカや日本、中国の裏の裏まで推測して、ロシアの行動を決めているように思いますが、安倍さんは果たして、どこまで裏を読めて行動できているのでしょうか。

それはともかくとして、

「他国の真意を知ることはほぼ不可能だ」ということ


これは非常に重要なテーゼですね。
すべてを明らかにオープンにしきっているわけではない以上、国の行動には、隠された裏の意図がかならずある、とも言えるわけで、それはスパイでも送り込むか、盗聴でもして秘密情報を傍受しないかぎり、なかなかつかめない、相手の本心とも言うべき部分です。

その部分を、不信をメインにして忖度してしまえば、疑心暗鬼の心はいっそう膨れ上がって、あいつは信用できない。どんな強大な秘密兵器をひそかに作っているかわからない。
だとしたら、こちらも秘密のうちに、相手を一気に殲滅できるほどの最終兵器をひそかに開発しておこう、なんてことになるかもしれません。

北朝鮮が軍事開発をしながら、その実態がどうなっているか、周りの国にはわかりきらない部分がありますね。ここをどう捉えるか。楽観的に考えていたら、気が付いたら手遅れになってしまうかもしれません。北朝鮮の真意がわからない以上は、最悪のシナリオに備えて、その場合でも対応できる体制を、こちらは構築しておかないといけない。


 … つづく。




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【レオ】トランプ政権・政策顧問ナヴァロ氏の著書「米中もし戦わば 戦争の地政学」を読んで … その1

トランプ次期大統領が、新政権内において、貿易政策を担当する「国家通商会議」を新設する、というニュースが各メディアで報道されていました。そして、そのトップとして、対中国強硬派として知られる、ピーター・ナヴァロ氏を起用すると発表。
http://www.bbc.com/japanese/38400746

聴くところによると、大学教授であるナヴァロ氏の著書を読んで、トランプさんはこのナヴァロ氏の起用を決断したのだとか。
そのナヴァロ氏が著した著書「米中もし戦わば 戦争の地政学」。
わたしは、今年いちばん最初の読書を、この本にすることにしました。

ナヴァロ氏が考える、米中がもし戦うことになったら … ?というIFの論考は、今後、トランプ政権が取るであろう対中政策において、現実のものとなる可能性が大でありましょう。したがって、前もっての勉強をしておくことは、米中の今後の動静を深く知る上でも参考になることが多いのではあるまいか。

米中もし戦わば -
米中もし戦わば -

冒頭、ナヴァロ氏は、シカゴ大学教授ミアシャイマー氏の言葉を引用して、紹介しています。



目の前にある問題は単純にして深い。中国の平和的台頭は可能だろうか。私の答えは「ノー」だ。




これは、ミアシャイマー教授の言葉であると同時に、それを引用するナヴァロ氏の意見でもありましょう。



国の為政者たちは「中国は平和的台頭を望んでいるだけだ」と繰り返し主張しているが、それならなぜ中国はこのような攻撃能力を急速に開発しているのだろうか。
これは核時代の最も重要な問題であり、本書が「地政学的推理小説」たる所以でもある。読者には、「米中戦争は起きるか」という問題をともに考え、答えを見つけてもらいたい。




地政学的推理小説、という表現を使われています。
中国の本心はなかなか掴みがたいところがありますからね。平和的台頭を望んでいるだけだ、と主張していたとしても、その本心はいかに?
その本心を探るために、いま現在得られている、中国の過去の行動なり発言を精査して、その奥にある本心を推理する。見抜く。その上で、もっとも適切な対中政策を取らねばならない。ということでしょう。


この著書の中には、さまざまな観点からの問いが複数あげられています。
そして、その問いに対して、二択の答えが求められている。そういう形式で書かれているので、読者もともに答えを模索しながら、学びつつ読むことが出来るようになっています。

まずは、過去の歴史において、大国と大国が遭遇した時に、いったいどのようなことが起こったか?両国のあいだには、かならず戦争が起きたのであろうか。それとも、平和的な共存を行なうことが出来たのか。
それを、歴史を振り返りながら、考察していっています。



既成の大国と台頭する新興国が戦争に至る確率は七〇%以上




基本的には、大国と大国の遭遇があった場合、それが、既成の大国と、あとから急成長してきた新興の大国との遭遇である場合は、両国のあいだに戦争が起きる可能性は、なんと70%にも上る。
というデータを、ナヴァロ氏はあげています。

既成の大国アメリカと、新興の大国・中国の関係は、まさにこれに相当しますから、単純に考えたら、戦争が起きる可能性の方が、平和的共存の可能性よりも、遥かに高い、という推定がなされる、ということでしょうね。



アテネとスパルタ、ドイツ帝国と大英帝国のような、新興勢力と既存の強国との組み合わせがなぜ戦争という結果を招くのかという問題について、シカゴ大学教授ジョン・ミアシャイマーが説得力溢れる理論を『大国政治の悲劇』の中で展開している。  
ミアシャイマーの理論は三つの仮定に基づいている。第一の仮定は、「世界体制は無政府状態だ(つまり、国家を取り締まる権威を持った組織は存在しない)」というものである。この「警察官不在仮定」の意味するところは、「ある国がトラブルに巻き込まれても一一〇番して警察に助けを求めるわけにはいかない。だから、軍事力を構築して自衛措置を講じる必要がある」ということである。




アテネとスパルタが、例にあげられていますが、

映画「300」(御法話で総裁先生が紹介されていましたね。)では、ギリシア征服を企んで、大国ペルシアが大軍を率いて来航した時には、
このアテネとスパルタは連合を組んで、共通の敵ペルシアに立ち向かいました。

本来、犬猿の仲であり、政治体制もまったく違うアテネとスパルタが、手を組まねばならないほどの、ギリシア民族全体の危機だったからです。

そして、このペルシア戦争は、ギリシアの自由を守ったギリシア人の勝利に終わり、ペルシアは野望を打ち砕かれて、祖国に還らざるを得なかった。元寇を破った日本の勝利のようなものでしょう。

しかし、この戦役のあとでは、今度はまるで米ソの冷戦のような事態が生まれました。

第二次大戦では、共通の敵・枢軸連合を破るために、アメリカとソ連は手を組みましたね。
けれども、第二次大戦が終わるやいなや、アメリカとソ連は、冷戦時代に突入してしまいました。昨日の友が今日の敵となったわけです。

それと同じことが、古代ギリシアでも起こったわけですね。アテネとスパルタの対立です。
この両国が中心となって、アテネ陣営、スパルタ陣営の二大陣営に、ギリシアは真っ二つに分かれて、結局はギリシア全土を巻き込む、大戦争に到ってしまったんですよね。

米ソが実際に戦争を行なっていたら?と考えるとイメージが掴みやすいけれど、そうなっていたら、米ソ両国とも崩壊していたであろうことは、想像に難くないでしょう。核戦争が起きれば、地球が滅んでいたかもしれません。

ギリシアにおいては、アテネ陣営vsスパルタ陣営の戦いは、結局すべてのポリス国家を疲弊させ、ギリシア文明の衰退、そして崩壊への道を歩むことになってしまったわけです。


 … つづく。




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2017年01月04日

【レオ】教えるのが上手い人 下手な人

教育というのは、教わる側と教える側と、両方を経験してみないと、わからないことかもしれません。

学校の勉強でいったら、生徒の経験は誰しもあるでしょう。
そして、あの先生の授業はわかりやすい。あの先生の教え方は下手くそだ。わからない。
あとは、あの先生は優しいので好きだ。あの先生は怒ってばかりで嫌いだ。厳しいばかりで嫌いだ、なんてことがあるでしょう。

学校の勉強に限らず、仕事に関しても、
新米は、ベテランから仕事を教わりますね。
その際に、教えるのが上手な人と、下手な人がいるでしょう。

単に、技術を伝授すればいい、というものではないんですよね。
ベテランとして、作業の段取りを教える、技術を教える。それだけだったら誰でも出来るんですからね。何年もその仕事をやっていたら、段取りくらい知っていて当然ですよ。だから、そのやり方を教えるのは誰でも出来る。
わたしが問うているのは、それをいかに上手に教えることが出来るか、それとも下手くそな教え方しか出来ていないか、その違いです。

上手な人は、教わる側の立場に立って、教えようとするんですよね。
だから、段階を追って、徐々に新人が上達するように、順繰りに上手く導いてくれる。そういう教え方が出来ます。
新米はいきなり全部は出来ませんから、出来るところから徐々に教えて、出来るように成長していってもらう。無理強いはせず、段階を踏んで、一歩一歩、前に進めるよう指導する。
わかるように、そして優しい口調で教えることの出来る人は、新人からも信頼されて、あなたが教えてくれて有難かった、という思いを抱かれることでしょう。
それは先輩に対する感謝の念、尊敬の念として、ずっと後まで続く、自分を導いてくれた人への畏敬の念として残るものです。
これが残る人が、真に人を上手に導いている人だと、わたしは思います。


学校の先生もそうですね。
単に、その科目の知識を教えるだけなら、別に偉くもなんともないんですよ。そんなことは、その知識を専門で勉強すれば、誰だって出来るんですから。
大切なのは、その知識を、いかに生徒たちの立場に立って、わかりやすく、優しく、生徒たちからの信頼を得るような雰囲気の中で、行えるか、です。

素晴らしい授業を行える先生は、のちのちまで、そこで教わった生徒たちの胸の中に、残るんですよね。
あの先生に学べてよかった。あの先生に教えてもらえてよかった。おかげで、あの科目がよく理解できた。楽しい授業だった。面白い授業だった。お蔭で、その科目が好きになることが出来た。すべてはあの先生のお蔭だった。

そう思われるような先生こそが、真の先生だと、わたしは思います。

厳しいだけの先生ではダメですね。怖いから従っているだけの先生は、陰では生徒から悪口を言われ、嫌われていることでしょう。卒業したら、その先生のことなど、誰も思い出しはしない。思い出したとしても、そこに尊敬の念や、感謝の思いなど無いでしょうしね。
恐怖で縛るだけの教育は、ダメですね。教育は、信頼と感謝と喜びの中で行なうのが理想。そこに厳しさがあったとしても、その厳しさはあとで、生徒たちに真の意味が知られるような厳しさでなければ意味がない。
単に自分の言うことを聞かせたいがための強制授業ではあかん、ということです。

学校の先生にしても、会社の上司や先輩にしても、生徒や後輩に、単に勉強や仕事内容を、技術の伝授、という意味だけで伝えている人は、決して、すぐれた先生ではないし、すぐれた先輩でもない、とわたしは判断しますね。

すぐれた先生はそうではない。技術の上にプラスアルファがある。というより、技術の伝授の土台に、人格の香りがある、人格から来る感化力があるんですよ。
それは、先輩後輩、上司部下の関係でも同じです。人格の力、徳の力から生まれる感化力をもって指導している人は、単なる技術の伝授ではなく、人間としての教育・感化を行なっているんだと思います。
だからこそ、その教育は、後輩や生徒たちに、のちになるほど感謝の思いで振り返られるような、あたたたかな感化を与えている。心の中に残るような、優しいまなざしや、育む愛情を残していってくれている。

教えるのが上手な人というのは、そういうレベルで教えている人なんだと思います。

教えるのが下手な人は、単に技術を伝えているのみ、そこにあるのは知識の受け渡しのみ、人間的な交流だとか、愛のもとの感化とか、そういった情の部分が欠落している。

情が必要ですね。教育には愛情が必要なんですよね。愛情のもとに、技術を伝えること。
これが大切ですね。

果たして自分は、愛ある教育を行なえる人間でしょうか。それとも単に、技術を伝えるだけの教育しかしてこなかったでしょうか。
自分自身に問うてみれば、今後の人生の課題がまだまだ多いことに、気づくのではないかと思います。





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posted by ガンレオ at 21:08 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする