2017年01月30日

【レオ】「仏教の思想1 知恵と慈悲<ブッダ>」を読んでみる その1

角川文庫で<仏教の思想>シリーズ、という評論&対談本がある。全部で11巻。
 

既存の仏教解説というのは、どういう内容なのかを知ろうと思って、90年代に読んでみたんですが、1巻のブッダ編から始まって、2巻がアビダルマ編、3巻が龍樹などの中観派、4巻が唯識派、 … それから中国仏教や日本の鎌倉仏教の諸宗ですね。

そういう区分けで、全部で11巻ある。ま、参考までに読んだだけなんですが。

 

監修しているのが、梅原猛と上山春平というお二方で、役割分担をしています。

いずれも本職は哲学の方なので、各巻では、仏教の専門家を招いて対談する、さらにはその人に解説文を書いてもらう、といった形式の本です。

ぜんぶ解説すると長くなるのでしませんが、対談のところを読むだけでも、これらの人たちの仏教理解が奈辺にあるのかよくわかって、このあたりに問題あり、と感じるところが多々あり。

一方では、きちんとした理解をしている方もいたりで、同じく仏教を語っても、その人の認識レベルはいろいろですね。

ちなみに、梅原猛という人はダメですね。たぶんダメな方。一巻の対談は増谷文雄という仏教学者と対談してますが、この人もダメでしょう、たぶんね。仏教コーナーに行くと名前をよく見かけますが、渡辺照宏さんとは違う理解を、この二人はしています。

 


仏教の思想 1 知恵と慈悲<ブッダ><仏教の思想> (角川ソフィア文庫) -
仏教の思想 1 知恵と慈悲<ブッダ><仏教の思想> (角川ソフィア文庫) -

再誕の仏陀であられる大川隆法先生の仏教書を読んでいる幸福の科学信者が読んだら、おそらくは噴飯ものであるに違いない。ちなみにわたしは、最初に読んだときに、あまりに愚かな仏教解説に腹が立って、ゴミ箱にぶん投げて捨ててしまいました(笑)。

渡辺照宏さんの本はすでに何冊か読んでいたんですけどね、その時点ですでに故人であった渡辺さん的ブッダ論を否定する論調というか、揶揄する側の立場かなーと感じて腹が立ちました。

 

まぁ悪い側の例なので、引用する価値があるか疑問ですが、電子書籍で安く買って、ざっと再読しての感想など、少々述べてみたいと思います。

日本のシロウト仏教学のトンチンカンぶりですね。仏陀理解がまったく出来ていない、既存の仏教学の問題点がよく出ていると思うので、反対の参考例として紹介します。

 

間違っているなーという意見の場合、わたしはグレーで囲った引用をします。ということで。

 

梅原 六師外道の中にはデモクリートスみたいのやエンペドクレスみたいのがいるでしょう。またゴルギアスみたいのもいる。 



増谷 西洋哲学のほうでも、これまでは、ソフィストの価値はあまり高く評価されていなかったようですが、それとおなじことがインドの場合でもいえるのであって、これまでの仏教学者たちは、仏教の価値のみを讃えて、六師外道をまるで無価値なものだとする偏見にとらわれていたようであります。六師外道はつまらんものではなくて、それをもっと研究しなければほんとうの仏教はわからんと言い出したのは先年なくなった宇井伯寿氏(一八八二―一九六三、仏教学者)であります。

 

デモクリトスは唯物論でしょう。原子論を唱えた人だけれども、思想的には唯物主義者ですね、十中八九。それからゴルギアスは、ソクラテスに論破されたソフィストです。

 

こういう連中を指して、ソフィストの価値をもっと高く評価すべき、とこの人たちは言っているわけです。

そしてそのことと比較して、仏教を知るためには、仏教だけを研究していてはわからないのであって、それと同時代の六師外道をもっと研究しないといけない。などとアホなことを言っているんですよね。それを言い出したのは宇井伯寿だと。中村元の師匠ですね。

これでは全員、落第でしょう。

 

ソクラテス、プラトンを知るためには、それ以前のソフィストをもっと研究すべき。

仏教を知るためには、当時の別の流派である六師外道も知るべき。

そうすると、その対比によって、ソクラテス・プラトンや仏陀の思想の意義がいっそうよくわかる、と言いたいのでしょうが、これは一見もっともな意見のようでありながら、実は枝葉に入り込む本末転倒の議論かと思います。

 

本論そのものを深く入り込んで探究するのではなく、その周辺の雑学やら知識をたくさん集めれば、理解はいっそう深まる、というのは誤解であり、逃げですね。かつ、枝葉に走って、本質が見えない人がよく採る考え方ですよ。

 

ソクラテスは対話によって、ソフィストたちの間違いを指摘しながら、持論を展開しています。偉大なるソクラテスに学ぶのなら、そうしたソクラテスの論を徹底的に学べばよいのであって、さらにソフィストたちの考えを深く調べ尽くす、なんていうのは、労多くして益少ない、余計な回り道というものでしょう。

仏教を知るために、懐疑論者のサンジャヤの思想を徹底的に調べる必要など、どこにあるでしょうか。仏陀の教えとは対極にあるような六師外道の思想などに入り込む暇があったら、その時間を使って、仏陀の教えをさらに徹底的に深く掘り下げて学ぶのが本道ではないでしょうか。わたしはそう思います。

周辺情報はざっと知っていればいいのであって、大切なのは本質的な学びの方ですね。

この本質的な学びが出来ない懐疑主義者たちは、本質がわからないからこそ、枝葉の周辺情報へと目を向け、それをさらに知ることが大切、だなどとと言って、ますます本質から遠ざかるのではないか。そんな気さえしてきます。
 
ヨーロッパにおいて、ソクラテス以前の哲学者を再評価したのはニーチェです。ヘラクレイトスとかアナクサゴラスとかを大きく持ち上げて、むしろソクラテス、プラトンから哲学はダメになったという視点がはじめてニーチェによって出された。

 
こんな言葉を発しているのを見ても、あんたはカール・ポパーか?と突込みを入れたくなるでしょう。 ソクラテス・プラトンを否定したニーチェを褒めたりしているのでは、プラトン哲学を閉じた哲学と批判したカール・ポパーと変わらない。イデアの哲学がわからない、この世だけの論理でこの人たちは考えているとしか思えないですね。愚かと言うしかありません。
 

さらに酷いのは、梵天や悪魔との対話ですね。そのことに関しての、この人たちの理解は次のようなものです。

 
梅原 梵天との対話というのは、ぼくは、自己の内部との対話みたいに……。



増谷 ええ、そうなんです。その問題を解いていくために、わたしは、原始経典の文学形式をいろいろと分析してみたんです。そうすると原始経典には心理描写がほとんどない。心理の動きというものが、ブッダの場合、ひじょうに大事なのに、それがほとんどしるされていない。その理由を追求して、やっと気がついたことは、悪魔説話や梵天説話がその役割を果たしているということであったのです。たとえば、躊躇だとか、疑惑だとか、そういう心理を描くときには、その文学形式はいつも悪魔説話なんです。また、自信が確立したとか、よい思いが生まれたというときには梵天説話です。

 

悪魔との対話や梵天との対話は、心理描写の文学的表現だ、などと言っています。

せっかくの霊的な対話の貴重な記録を、単なる心の中の自問自答だ、と解釈して、しかもその解釈を述べながら悦にいっている。

 

原始経典には心理描写がない → 心理描写が梵天との対話や悪魔との対話として表現されているのではないか。躊躇や疑惑が、悪魔との対話として描かれている。

 

こういう勝手な解釈と誤解は、論理的な思考とも呼べない独断でしかないでしょう。

そんな梵天だとか悪魔なんて存在は昔の迷信にすぎないから、いるわけがない。だからこれは心の中の葛藤を、そういう架空のイメージで表現したのだ、なんて言って、自分で勝手に解釈をつくり上げて、それで自己満足しているわけですね。

学者というのは得てしてこういう風に、自分勝手な解釈を暴走させて、事実をありのままに見ることから、かえって遠ざかることがありますね。学者的自尊心や自分への自惚れが、独自解釈を立てることに向かわせてしまって、虚心坦懐にあるがままに物事を受け入れることから、かえって遠ざけているところがある。わざわざひねくれた解釈をして、それが独創性だと勘違いをしているのでしょうか。そんな気さえしてきますね。

 

むしろ、素人が仏典を読んだら、そのストレートな霊的対話の記述を読んで、ああ、本当に悪魔というのは存在するんだな、梵天というのはどういう存在なんだろう、などといって素直に驚き、きちんと受け止めるのではないだろうか。

 

なのに、この学者たちはしつこいです。自分の解釈に固執して、それを説得的に論証しようとして、屁理屈をこねまわす。
 
悪魔、悪魔というが、なにが悪魔ですか、とブッダに問うているんです。すると、ブッダはそれに答えて、例の色・受・想・行・識ですね。人間の肉体と心理を五つに分けて、その一つずつをあげ、「色(肉体)が悪魔である」、「受(感覚)が悪魔である」といったぐあいに説明しているのです。  そこまでブッダがはっきり言っているのなら、そこでは心理描写が悪魔説話の形式で説かれているということは、もはや疑いなしといってさしつかえありますまい。

 

悪魔とは何か、とブッダに問うたら、仏陀は、色・受・想・行・識、と答えたと言う。五蘊の仮和合ですね。肉体感覚の5つの要素がそれである、ともし言ったとしても、その意味は、

 

肉体煩悩に囚われ、迷う心こそが、悪魔を呼び込んでいるのである、肉体我に惑う心こそが誤りのもとであり、ゆえにその偽の自分を去りなさい、執着を捨てなさい、肉体我を自分であるという迷いを捨て、真なる自分に目覚めなさい。

そういう意味でありましょう。

 

なのに、色・受・想・行・識が悪魔である、と仏陀が言ったのなら、そうした心の作用、感受作用こそが悪魔である、と仏陀自身が述べていることになるから、やはり梵天対話・悪魔対話は、心理描写の象徴表現だ、という私の解釈は正しいことになる。疑いようもない正しい解釈である、などと言っているわけですね。

 

ブッダは、色・受・想・行・識は人間の本質ではなく、肉体に宿りたる人間の仮の姿である、と言っていたわけでしょう。本当は。

なのに、この学者は、人間とは五蘊の仮和合だから、色・受・想・行・識といった内面、すなわち心理描写を、人間の本質だと思っている。

 

ブッダが仮のものだ、といった肉体我を、この学者たちは、人間の本体だと思っている。だから、議論の立脚点が最初から、肉体の自分というところに置かれていて、それが最後まで抜けきれない。

霊的視点に参入するのではなく、心理描写である、という理解が最終説明だと思っている。これは霊的世界を信じていない、肉体にもとづく頭脳や心理をのみ人間の本質だと見誤っている、唯物論ですね。仏教を研究しているつもりでいて、実はこの人たちは、肉体としての人間という視点を抜け出せない、単なる唯物論的、仏教研究家に過ぎないのでしょう。

だからこういった、間違った結論を出してしまい、それを仏教だと言うわけです。

 

このあたりを見ると、総裁先生が仏教シリーズで、既存の仏教学者の学説や評論を幾度も取り上げて、本当の仏教を全く理解していないといって批判していたのが、本当によくわかるかと思います。

 

本屋さんに行って仏教コーナーを眺めると、この手の著作家の仏教書が数多く並んでいるんですよ、本当に。釈尊伝とか、題名だけは立派でも、中を開いてみたら、こんなような内容の本が山ほどあるんですよね、怖ろしい話です。

 

幸福の科学は、仏教的精神を中核に置いている宗教団体ですが、仏教とは何か、を知るためには、既存の仏教解説書では決してわからないでしょう。

「釈迦の本心」「悟りの挑戦」「沈黙の仏陀」「心の挑戦」「仏陀の証明」、それから会内経典の仏教用語をたくさん使った主の解説書を多く読むことなくして、2600年前のブッダの本心は、知ること能わず。

 

あらためて、そう感じるのでありました。

 



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2017年01月29日

【レオ】読書とネットと考える力(2014/12/12の記事)〜LEO幸福人生のすすめ、より転載〜

http://ameblo.jp/space-people/entry-11963617054.html

さまぁ〜ずが出てたCMだかで、日本全国の書店の数が出てたと思うけど、
たしか15000くらいのものなんですよね。
日本全国でたったそれだけ?少なっ! Σ(゚д゚;)


 … と気になって調べてみたら、確かにその通りらしい。

しかも1999年以降、着実に減り続けていて、
1999年には22000店あったのが、2014年には13000店台にまで落ち込んでいて、ここ15年のあいだに、8000以上の書店が姿を消しているのだとか。

このペースで行くと、あと数年で10000を切るのは確実かなぁ。
 → 書店数の推移 http://www.1book.co.jp/001166.html


おとといの晩、NHKのクローズアップ現代で、ちょうど「読書」をテーマにした話をやっていました。
別にこの番組、ふだんは見てないんだけれども、テーマが面白そうだったのでとりあえず見てみました。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3592.html
(こちらで、冒頭の13分くらい、動画で見られます。↑)

パソコンやスマホで、インターネットから情報を取る人が多くなって、
それに反比例するかたちで、読書をする人が減っているのではないか。

たしかに、Windows98が出たあたりから、日本でもかなり多くの人がインターネットを常用するようになっていき、2000年以降はパソコン利用者がかなり増えていったのは、事実だと思います。

もともと読書の習慣があれば、パソコンを利用するようになったからといっても、いきなり読書ゼロにはならないでしょうけれど、
読書の量が減っていくことは、間違いないようにも思えます。

さらには、もともと読書の習慣がない人は、
パソコンやスマホでインターネットにアクセスすれば、必要な情報はすぐに手に入るし、わざわざ苦労して本を読むなどということは、ますますする必要がない、と思い違いをしてしまい、
番組でのインタビューでもあったように、ネットを見るのに忙しくて、本など読んでいる暇などない、という考えの人までいるようです。

番組のなかでは、面白い実験をしていました。

本をふだん全く読まない学生と、一日2時間の読書の習慣がある学生とに分かれて、
パソコンを利用して、あるテーマについて小論文を書いてもらう、という実験ですね。

みなパソコンに慣れているので、調べるべきテーマについて、キーワードをパパパッと打ち込んで、いろんなサイトに飛んでは答えを探し始めます。

で、最終的に学生たちが提出した論文ですが、

読書をまったくしない学生たちの論文は、ほとんどがサイトから拾ってきた文章のコピペの連続で、あちこちから寄せ集めた文章をそれらしく並べてあるだけで、自分個人の意見は、最後に2、3行程度の感想しか書かれていない。
論文の9割以上がただのコピペで、自分の考えではないんですよね。
しかも、その2、3行の感想文自体が、感想とも呼べないような、当たり障りのない一般論、誰でも言えるような月並みなことしか言っていない。
この問題は重要なのでよく考えるべきである、とか、そういった抽象的な言葉を漠然と述べるだけで終わっている。

それに対して、読書の習慣がある学生の論文は、ネットで関連事項を検索するところまでは一緒でも、そうしたサイトで紹介されている参考文献などを、実際に図書館へ行って手に取って来て、しかもその近くにある関連書籍まで持ち帰って、それらを読破して、自分なりの問題意識をもって独自の着眼点を持ちながら、論文がきちんと書かれている。
そういう違いがあったそうです。


ネットで得られる情報は、断片情報の集積に過ぎない、とはよく言われますが、
多くの情報のあいだにある物事の連関を、因果関係を理解しながら思考する、自分自身の考えをきちんと組み立てて論じる、ということは、
ネット散策をしているだけで得られるものではなく、
ふだんから、しっかりとまとまった文章を読み込んで、自分でもよく考えるという習慣がなければ、そう簡単に出来ることではないのでしょう。

アメリカの子供たちは、日本よりも早く、すでに20世紀後半からパソコンやネット依存が進んでいたみたいですけれど、その当時から、同じような問題はすでに指摘されていたようです。
学生たちが提出するレポートも、ネットから集めてきた文章や画像をコピペして、はい終わり、みたいなものが増えてしまったのだという。
自分で考え、努力して、手書きで書いたり、作成するのではなく、コピペを集めてそれらしい体裁を作ってしまえば、一見それっぽいレポートの形にはなるけれど、
自分自身の考えではなく、努力でもなく、力でもない、という視点が見失われてしまっている。
なんのためにレポートを書き提出するのか、という理由が忘れられていて、これでは本末転倒というしかありませんね。
自分の力を向上させるために、レポートを工夫して書くべし、という課題が与えられているのに、他人からの借り物で済ませてしまっては、なんの意味もない。
宿題をこなすのが目的になってしまっていて、誰かに代わりにやってもらったのでは、自分の勉強にはならない、ということなんですが。


番組の最後では、キャスターの国谷裕子さんとゲストの立花隆が、何やらトークをしていました。二人とも、その守護霊霊言がすでに幸福の科学出版から出ている方たちですね。

わたし、ガヤガヤしている場所で見てたもので、その対談の内容、よーくは聞き取れなかったんですけども(笑)、読書の意義だとかについて、国谷さんが質問し、それに立花隆が何か答えてたけど、見ていて、ふーん、みたいな内容だったかなぁ。

いずれにしても、やはりインターネットにアクセスして得られる情報は、所詮は「情報」にすぎず、多くの場合はさらに「情報の断片」にしか過ぎないことが多いので、

やはりもう少し、じっくり長く、同じテーマについて、集中して読み込む、物事の連鎖を辿って、積み上げながら考えるための、まとまった読書体験、というのが欠かせないように思います。
これを欠いてしまうと、ハイパーリンクであちこち飛び交うことには長じていても、じっくり一つの物事に1時間2時間と集中して、自分の考えを練りこむ、という傾向性は身に付かないように思うし、
そもそも思考回路そのものが、分散的で断片的、集中力の無い考え方に染まりかねない。そういう危険性もあるように思います。
あちこちクリックして飛び交う癖がつきすぎると、地道な努力が苦手になって、避けるようにさえなってしまうかもしれません。

小説にしても、夏目漱石の小説を読むには、何時間か何日かをかけて、順繰りにページをめくって読み続け、物語の流れを追いつつ、最後まで読み終えないといけません。
根気も必要だし、時間をかけることも必要だし、没頭する集中力も必要だし、そうした努力を経て、理解がすすみ、それがやがて読み手の読解力の向上につながっていく。

そうした読書体験を経た人ほど、今度はアウトプット、読書感想文なども上手に書けるようになっていく。
自分なりに読み込み、考え、問題意識をもって、多くの本を読みこなしていくからこそ、次は、
自分としては、どう思うのか、何を感じるのか、考えるか、ということを、自分の言葉でもって書くことが出来るようになる、語ることが出来るようになる。

そういう意味でも、ネット依存100%で、読書はゼロ、という生活はやはり問題ありであって、読書はネットで代替できるものではない、と思えます。
読書は読書、やはり必要なこと、しかも極めて大切な、自己訓練の最良の場だとさえ思います。
一方のネット散策は、便利は便利だけれども、やはりそれはプラスアルファの新機能としての便利さであって、これがあるから読書は不要、というものでは断じて有り得ないように思う。

最終的には、自分自身の「考える力」がどれだけ向上しているのか。

そのために「読書」「ネット利用」が、どれだけの鍛錬になっているかを振り返れば、
両者の役割と意義が、あらためて判明してくるのではないかと感じました。





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【レオ】コピペとは、他人に考えてもらうことである 〜LEO幸福人生のすすめ(2016/9/23の記事)より転載〜

http://ameblo.jp/space-people/entry-12202671050.html

スマホやネット依存の危険性についての御法話が随分とあったので、今まで自分で書いてきた関連記事をあらためて見直して、再度、考えてみました。

大学の先生の発言で、インターネット利用者の考え違いが、よく指摘されています。
これはアメリカでも日本でもそうですが、ネットから拾ったコピペを貼って、レポートや作文を済ます傾向がある、とのこと。
そういう学生は、考える力が鍛えられていない、自分で考え、自分の言葉で語る力が身に付いていない、という指摘ですね。それが問題だと述べている人は多いです。

「ゾウの時間ネズミの時間」の著者、本川達雄さんも、つぎのように述べていました。



コピペはダメダメづくし  

ものを書くという作業にも、より速くという効率主義が入り込んできています。他人の文章をコピーしてそのままペーストしてレポートを作る学生が出てきて問題になっていますが、これも効率主義の表れでしょう。

書くという作業は時間をかけ、考え考え書くものです。他人の考えに同意して同じような文章を書くにしても、手で書き写すなりキーボードをたたくなりしていく間に、他人の思考の流れを追体験するのだし、書き写せば、それなりに自分の言葉に替えたり省略したりもするものです。内容を理解すればするほど、おのずと丸写しにはなりません。  
コピーペーストでそのまま印刷するのでは、そういう写しながら元の文章を理解していく時間が省かれてしまいます。  

書き写すといえば写経があります。これは丸写しする作業ですが、時間をかけて言葉を書き写す作業を通して、お経の有難みが身に染みこんできます。写真機で写経してもだめなのです。
コピペのレポートは、オリジナリティーがなくてだめという以外に、コピーされる相手の考えをきちんと理解し、その考えに共感する時間をもたないからだめなのであり、それは結局、その考えが自分のものとなっていないからだめであり、かつ相手に敬意をはらっていないからだめなのです。

(「人間にとって寿命とは何か」より引用)




とのこと。
これは私も同感です。
わたしもニュースや幸福の科学サイトの情報を、多くの人に知ってもらおうと、自分のブログにコピペしたりしてきましたが、やはりこれは本道ではないし、あくまでも紹介の意味しか持たない作業ですからね。よって、サブの意味しか持たせていないつもりです。

何しろ自分で書いているわけではないので、書いているのは、誰か他の人です
その人が、さまざまな勉強をして、自分で考え、自分で言葉を選んで書いた労作ですからね。それをコピペするというのは、紹介の意味はあっても、自分で書いた作文ではないから、所詮は借り物の情報に過ぎません。情報の受け売りに過ぎない、ということですね。

実際、自分で考えて、文章を書くというのは大変な作業です。
何しろ、まずは最初に、自分の勉強がなくてはならない。一つの記事を書くためには、その十倍から場合によっては百倍くらいの勉強が必要でしょう。
それだけの勉強があって初めて、自分なりの考えや理解を、自分の言葉でもって語ることが出来る。
書くのにかかる時間は、一記事あたり、30分から1時間はかかるでしょう。
そして書いたら書いたで、書いたあとのチェックも必要ですからね。誤字脱字がないか、文章におかしいところがないか、再確認して初めて、他人さまに見せても恥ずかしくない文章がアップできる。
内容があって、の話ですけどね、むろん。

それだけの労力と時間をかけて、初めて自分で書いた文章というものは出来上がります。

しかるに、他人さまの書いた記事をコピペするという作業にかかる時間は、たかだか数分のものでしょう。
パッと記事を読んで、ああ良い記事だな、コピペ!!3分もかかりません。
すでにアップされている他人の記事なので、誤字脱字のチェックも要りません。楽チンです

けれど、それだけ楽々できるということは、自分では大した努力をしていない、ということですから、付加価値などあろうはずもありません。
紹介の意味はあっても、労作とは言えませんし、その記事が良い内容だったとしても、偉いのはその文章を書いた著者であって、コピペした人は単なる紹介者に過ぎないでしょう。

以上のことを踏まえれば、ひとつの記事を自分で書くことは、コピペを100個するよりも遥かに大変な作業であって、なおかつ価値のある仕事であると、わたしは考えます。
そもそも、コピペの元になるオリジナル記事というのは、みなそうやって自分で努力して書かれた自作記事のはずですからね。元の記事を書くには大変な努力がかかっているのだということを、よく知るべきでしょうし、敬意と礼儀をもって対するべきでしょうから。
そこには個性の刻印があり、その人個人のオリジナリティーがあって、ゆえに付加価値がある。
だからこそ、どうせブログをやるなら、このあたりをよくよく考えてやるべきだと、わたしは思います。
コピペも結構だけれども、コピペが9割10割では、自助努力など無いに等しいのではないでしょうか。自分で考える力、発言する力は、1ミリだって成長してないかもしれません。そういう点に、注意が必要だと思います。


関連記事

読書とネットと考える力
http://ameblo.jp/space-people/entry-11963617054.html


自分では語るほどの独自意見を持っていない、だから偉い人に代わりに語ってもらう、ってどうなの?
http://gunleo.seesaa.net/article/446771339.html




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posted by ガンレオ at 00:22 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】インプットとアウトプット(2015/11/9の記事)〜LEO幸福人生のすすめ、より転載〜

LEO幸福人生のすすめ、より転載
http://ameblo.jp/space-people/entry-12093559280.html

インプットとアウトプット


素人ブログの記事とはいえ、それなりにまともな内容の記事を一つ書くというのは、けっこう大変ですよ。
慣れるとホイホイ書けるようになるのかなー、って気もしますが、それでもひとつの記事を書くのにかかる時間は、短くても30分。長いと1時間とか、それ以上かかりますし。
イメージが浮かぶままに、サササっと書いたとしても、書き終わったあとで、誤字脱字がないか、言い回しにおかしなところがないか等の推敲まで行わないといけませんから。
自分の考えを述べるということは、そこまで責任が発生するわけで、そうしたことも踏まえると、毎日1時間から2時間くらいは時間をかけないと、記事更新というのは出来ないんですよね。だから大変です。

大変なのに山ほどアップする時は、要するにヒマなんでしょうか私?そうかもしれません(笑)。
なんてことはなくて、いや若干はそうかもしれないけれど、一応慣れから来る、合間をぬっての記事アップってことで〜。


こうした記事が、誰かに読んでもらえたら嬉しいけれど、誰も読んでくれなかったら、ひそかに家で自分日記を書いているのと変わらない、かもしれません。
けれども、自分で考えたことを、自分の言葉でつづるというのは、頭の整理のためにも有効だし、あとで誰かと会話したり、スピーチに立たされた時なんかにも、いろいろ日頃から書きまとめていると、それを元にペラペラしゃべれたりするので、書く習慣って身に付けると、かなり有益だと思います。

記事をひとつ書くのに、1時間も2時間もかかるのなら、その時間を使って、もう1冊本を読んだ方が、インプット量は増えるといえば増えるんですが、
それよりも、読んだら書く、読んだら書く、のサイクルをやっていった方が、自分自身の学習にとっても良いのだと、今では感じています。

インプットとアウトプットっていうのは、逆方向の作業だから、両方やるのと、片方だけやるのとでは、頭の活性化という意味でも違ってくるのかなー。そんな気もします。

あとは、インプットだけやっていると、自分勝手な理解に突き進んでしまう危険性もあるので、ときにはアウトプットをやって、他の人と話したりしないと、客観性を欠くようになりかねないんですよね。

本を読むときというのは、基本自分ひとりで読むものでしょうから、自分の理解力と読む速度によって、その本と1対1で対峙していますよね。
で、自分のペースで読んでいくんだけれども、その本の内容を何パーセント理解しているか、本当にきちんと理解できながら読んでいるか。誰からのチェックも受けずに、自分の主観的な読み方が許されちゃっています。
よほどに慎重で謙虚な性格の人ならば、正しく丁寧に読んでいくのかもしれないけれど、自己中心で勝手な思い込みや決めつけの過ぎる性格の人だと、自己都合で好き勝手な解釈を入れて、妙ちきりんな読み方をしちゃってることも多くなってくるでしょう。

なので、読んだ内容を、今度は外に向かって発してみる。
果たして自分が読みこんだ内容は、きちんとした理解になっているのか。客観的に、正確に読み込めているのだろうか。
自分の言葉で、その理解を語ってみること
偉人たちの書いた名文を、いくら山ほどコピペ紹介したとしても、それを自分の言葉でも語れなければ、その人自身がわかっているとは言えません。その人の実力はわからないし、アウトプットの訓練にもなっていないでしょう。

読書感想文などは、こうしたアウトプットの一例だし、書いてみることによって、読んだ内容がどれだけ自分のものになっているかが、実は初めてわかってくる。
そうした部分があるのだと思います。
書くのではなしに、話してみる、でもいいですけどね。いっしょですが、ともかくアウトプットをしてみないことには、独りよがりの勝手な解釈で、分かった気になっている。ホントは全然わかっていない、間違った読み方、トンチンカンな読み方をしているのに。そのことに気づかない。
そうした独りよがりの読み方をしている危険性が大、なんですよね。インプットだけに甘んじていると、です。

文章にして書いて、他の人に読んでもらったり。
誰かとその話題をもとに、会話をしてみたりすればいいのだと思います。

そうやってアウトプット作業を行って、自分から出たものが、他の人に通用するかどうか。理解してもらえるかどうか。
そういう作業を経てみないと、本当に普遍的な理解が出来ているのかどうか、定かではないでしょう。ぜんぜん通用しなかったら、勉強のやりなおしです。

生徒に教えるのが下手な先生、というのがいると思いますが、自分ではよく勉強していても、生徒に上手く伝える技術が備わっていない。
ということは、まだまだ独りよがりの勉強しか出来ていない、ってことなんですよね。一面的な、自分好みの読み方しか出来ていない。
だから色んな生徒に対して、工夫して説明するとか、相手に合わせてわかりやすく語るとか、そういった多面的な理解が出来てないんだと思います。自分と似たようなタイプにしか通用しない、そういう独りよがりの状態で、勉強したつもりになっている。そういうことかなーと思います。

だから、客観的な理解をきちんとすること、他の人が聴いても納得性のある、そうした説明が出来るところまで、自分の理解をしっかりとしたものに高めるためには、アウトプット作業がぜひとも必要なのかなーと。
その部分に相当するのが、他者との交流であり、会話であり、文章に書いて読んでもらうとか、そうしたアウトプット作業なのかと思います。

「智慧の法」で、インプットだけでなく、アウトプットを心がけることの大切さを教えていただいていたと思いますので、ちょっとこんなことを考え、述べてみました。
「智慧の法」研修でも、アウトプットの習慣、単に読んでいるだけではなく、外へ向かって発信していくことの大切さを学び、その実践のなかに、伝道というものもあるのだと考えさせられました。


初投稿日時 2015-11-09 15:55:32


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2017年01月28日

【レオ】御法話「奇跡を感じよう」に魂を救われる。受け入れること、運命を抱きしめること 〜「ストレス・フリーの幸福論」より〜



2007年に大分支部精舎で行われた御法話「奇跡を感じよう」。
この御法話抜粋動画は3年前からネットでアップされています。紹介しているブログも数多い。
「奇跡を感じよう」御法話そのものは、書籍「ストレス・フリーの幸福論」に収録されていますね。発刊は2012年の7月。

心を癒す ストレス・フリーの幸福論 (OR books) -
心を癒す ストレス・フリーの幸福論 (OR books) -

わたしは発刊してすぐに読んだわけですが、その内容が魂に本当に深く、深く入って来て、心が<救われる>体験を得たのは、翌年のことでした。
読んだ直後ではなく、まさにここに書かれたような、魂の悩みや苦しみを自分が実体験して、苦しみのどん底でもがくハメになった時に、この「奇跡を感じよう」の一つ一つの言葉が、あらためて思い起こされ、魂に響いて、そして、救われたんですよね。



幸福の科学では、「努力の教え」を中心に法の体系が出来上がっていますが、物事には何でも反面というものがあります。
みなさんのなかには、「努力の教え」に基づいて、日々、頑張っていても、自分自身の悩みや苦しみから、なかなか抜け出せずにいる人も、いるのではないでしょうか。その場合には、「自分は、今、なぜ悩んでいるのか。なぜ苦しんでいるのか」とお考えいただきたいのです。
その原因は、おそらく、ただ一点に集約されるはずです。それは「自己防衛の気持ち」です。「何とかして自分を防衛しよう」と思い、それに基づいて考え方を組み立ててはいないでしょうか。そのことを点検していただきたいのです。




自己防衛の気持ち、これが原因だと書かれています。悩みや苦しみの原因は、この一点に集約されると、書かれています。
そしてわたしはそれを2012年の7月に、活字としては読んでいます。読んではいたけれども、そのことが本当の意味ではわかっていないんですよね。その時点では。

それゆえ、翌年になって、悩み苦しむ問題にぶつかって、もう魂が身もだえするほどに慟哭して苦しんだ。別に信仰の問題ではないですよ。自分自身の、人間としてのふつうの悩みですね。これで悩み苦しんだ。
わかっているようで、わかっていなかったわけです。
言葉では読んでいても、まだ自己防衛の気持ちゆえに、その自我から来る苦しみに、身もだえするような未熟な自分であった。ということです。

真面目に生きてきた自分が、なぜこんな目に、こんな苦しみに遭うのか、なぜだ。

といって苦しむ。抽象的に書いていますが、わたしにとっては、人生最大の苦悩とも言うべき大問題となりました。
必死で考える、自分が学んできた真理に基づいて考える。ああでもない、こうでもない、何が違っていたのか、違っているのか、自分のどこに勘違いした部分があったのか。自分は真理をそれなりに学んできたつもりが、まるでわかっていなかったのか。自分を責める思いと自己不信ですね。

こうして悩むわけですが、自分を責めるのは、反省ではないんですよね。それは自分を責めて、自分の悪い点を見つめているつもりでいて、実は単に自分を苛めているだけだったりするんですよね。
苦しみ続けているということは、それは<反省>にはなっていないということでしょう。だって、反省が進めば、心は洗われて綺麗になり、魂は救われた気持ちになれるはずなんですから。
したがって自分を罵り、自分に憤り、自分を責めるのは、反省ではなく、自分への攻撃でしかなくて、ひどい場合には、自分の仏性を汚していることになっているだけのこと。そういうことを私はこの時の体験で知りました。
それは反省ではない。自分の仏性を汚すな、という〇〇を受けましたのでね。

自分を責めるということは、他者を責め、他者に責任転嫁するのと変わらない。それは本当の意味での原因を探る行為にはなっていない。心の穢れを知るというのは、自分を責めること、自分の欠点を責めることではない。そんな態度は、反省とはまったく違っている。

自分を責めるというのは、自分を罵ることによって、仏性をも否定して、神仏を信じていない不信感にもつながるものです。自分を否定し、他者を否定して、そこに何の仏性があろうか。仏の光が見出せようか。

偽の我を捨てる、偽の自分を見出すというのは、自分の欠点を罵ることではない。自分のまちがいを潔く認める自分でありながらも、その奥に光る仏性、神の子としての自分の光は、素晴らしいものであると、信じる心がなくては意味がない。単なる自己否定だけでは、自分がみじめになるだけでしょうから。

あとは、極端な自己否定の心は、そこにもまた<隠された自己愛>があったりするのでね。要注意です。
自虐的に自分を見つめることが、自己反省のような錯覚を起こさせていて、そうした気持ちに酔っていたりしませんか。自分を見つめているつもりで、反省している自分という虚像に酔ってはいないだろうか。そういう体をしているふりをしながら、実際には、いまの自分をまったく変えようとしていない。現状の自分のまま、変革する意思もなく、オレはどうせこうなんだ、これがカルマだ問題だ、といって、単に現状の自分を見てああだこうだと、分析しているだけではないか。それは自分を見つめているのでなく、反省でもなく、単なる自虐的精神でしかありません。

本当に、ニセモノの自分を捨てるつもりがあるのか。それが問われている。



その自己防衛の気持ちとは何であるかというと、一つは「自己弁護」です。




自己弁護の理由をいろいろと探して、ああでもない、こうでもない、と理屈を並べて、なんとかして今の自分をそのまま変えずに、世界と、神と、他の人間の解釈を変えることでもって、自分を納得させようとしてやしないか。誤魔化そうとしていないかどうか。



不幸の説明を、内側に求める場合と外側に求める場合の両方がありますが、いずれの場合も、原因をグーッと絞っていくと、「自己防衛の気持ち」という一点に辿り着くはずです。 幸福の科学では反省の教えを説いていますが、どうか、「自己防衛の気持ちが働いていないか」ということを、よく考えていただきたいのです。

実は、それこそが、みなさんを悲しませたり苦しませたりしている本当の原因なのです。




苦しい自分がここにいて、その理由を、内に求める、自分に求めることもあれば、外に求める、他の人の原因にしたり、世の中の何かのせいにしたりと、いろいろと工作したがるけれども、
なんのことはない、もっと奥まで見たら、単に「自己防衛の気持ち」から、屁理屈をこねくり回して、自分を納得させようとしているだけだったりする。

ほんとうの意味で、裸の自分になりきれていない。自分を捨てようとはしていない。
しかし、裸の自分にならないと、自分の個我の奥にある<仏性>は見えてこないんですよね。
言い訳や自己防衛、屁理屈を並べて自己を正当化したい気持ち、こういう<逃げ>の気持ちであっては、神仏の前に、立っている状態にはなり得ていない。成り得ていない以上、仏の光を受けての、真の魂の救いの感覚は得られないでしょう。理屈では救われないんです。理屈だけでは救われない。



苦しみは「自己防衛の思い」から生じているものなので、「苦しみから逃れよう」と、あがいているうちは、本当は苦しみから逃れることはできません。 したがって、あきらめてください。他人を責めるのも、自分を責めるのも、あきらめてください。




あきらめてください、とあります。
このあきらめてください、というのは、苦しむしかない、という意味ではありません。
ヘレン・ケラーが最初の霊言で述べていたが如く、「自分の運命を抱きしめよ」という言葉が、まさにこのことだと、わたしは思うのです。
苦しみが自分に襲い掛かってきた時、自分特有の、他の誰かではなく、自分独自に与えられているこの運命、その中にある苦しみを見た時に、なぜ自分がこんな目に、こんな苦しみが自分に … 
といって悶え苦しみ続けるのではなくて、それを潔くあきらめて「受け入れること」、わかりました、わたしにとってのこの課題は、わたしに必要だから現れてきた運命なのだから、何かを私に教えんとして現れた課題なのだから、「受け入れましょう」。
主よ、わたしはこの運命を抱きしめる、自分の運命を受け入れます。すべては御心のままに。この課題、一見、苦しみにしか見えないこの自分の課題は、自分に何かを学べといって与えられた、慈悲ゆえの学びなのだと、心素直に信じて、わたしは受け入れます。すべては御心のままに、主よ、感謝します。

そんな気持ちになって、ゼロからやり直そうと思えたとき、裸の自分になり得た時には、涙がボロボロと頬を伝って流れ落ちる。
意地を張って人生を戦おうともがくのではなく、最後の最後では、すべてを主の御心に委ねて、甘受する気持ちを持つ。素直な心、赤子のような心でもって、すべての運命を受け入れ、抱きしめる。

生きているだけでいいじゃないか。いまの一瞬に、この命があるだけでもいいではないか。それだけでも私は、主に感謝いたします。ありがとうございます、主よ、主よ。

涙がボロボロこぼれます。

偽の自分というのは、なかなか捨てられるものではない。本を読んで、偽我を捨て、真我に目覚める、といくら言葉で読んだとて、本当にどこまで自己滅却が出来ているのだろうか。
苦しみの中に置かれたときに、それがハッキリと出てしまうんですよね。苦しみ悶える自分の根本に、執着がたくさん残っていて、その執着、執心、未練だとか、プライドだとか、口惜しさ、自己愛、そんなものがまだまだあって、そこに苦しみの根があることに気づく。ぜんぜん捨ててないんですよ。執着がたくさん残っている。
だってそうですよね。執着を去るための精神修行、本当に、本気でやっているだろうか。瞑想実習しているだろうか。反省行に徹底的に打ち込んだことがありますか。と問われたときに、ああ、やっていないなそこまでは、ということに気づくはずですから。
やっていないんだから、執着はまだ去れていないんです。名誉欲、金銭欲、その他、あらゆる欲が、言葉ではわかったつもりでいても、心の方はしっかりと執着したままだったりする。だから苦しみが現れてきて、消せないんですよね。



「今、自分の目の前に起きている現象は、すべて、起きるべくして起きているのだ」ということを受け入れてください。
「今、起きている事態は、他の人の原因や自分自身のミスによって、たまたま起きたことではない。現在、自分を苦しめ、頭のなかを占領している問題は、実は、起きるべくして起きているものであり、今の自分に必要な課題が現れてきているのだ」と思っていただきたいのです




いまの自分に現れてきた苦しみや悩みは、現れるべく現れている。それは、起きるべくして起きている。

では、どうするか。

受け入れよ。です。受け入れて、運命を抱きしめる。もがくのではなく、心を静かにして、欲を捨てて、赤心になって、裸の自分になって、ゼロでもいいじゃないか、何もなくてもいいじゃないか、という心境になって、すべてを受け入れる。仏の御心のままに、この事態を受け入れる。受け入れるのです。

すると、その時にはじめて、魂が救われるという経験を、人は体験することが出来る。



瞑想の時を持ってみてください。あれこれと分別知で考えるのではなく、心を止めてみてください。 「善か悪か」「プラスかマイナスか」「前か後ろか」「右か左か」など、分別知によって考え、「結論を出そう」として焦る心が、実は、自分を苦しめているのです。 そのときには、まず一切を受け入れてください。判断を下さずに、「今、ここに、自分に対して宇宙の意志が現れているのだ」と考えてください。




わたしは日頃、あれこれと考える傾向が強いので、悩みのときにも同じく、ああでもない、こうでもないと、一生懸命に頭で考えて、問題を解こうとしてしまいます。
けれども、それでは救われない。会社の仕事や、学校の勉強や試験問題を解くのとは違うのです。

分別知によって考えるのではない。分析的思考によって、理屈を考えるのではない。

そうではなく、受け入れる。抱きしめる。あるがままに、魂のすべてで、その状態を受け止める。
ヘレン・ケラーの言う「自分の運命を抱きしめる」だと思います。

善悪の判断や、白黒の区別、右か左か、といった判断能力に頼るのではなく、そういう分別する心を超えた、もう一段、奥深くにある心そのもので、受け入れる。



一切を受け入れることも、人生における勉強の一つなのだ」ということを知ってください。

自分を責めたり他人を責めたりすることをいったんやめて、それを受け入れてください。「今の自分に必要があって現れている問題なのだ」というように受け入れることが大事です。 そして、心静かに瞑想してください。判断は中止してください。判断してはいけません。そのときに、「善か悪か」「前進か後退か」「捨てるか取るか」といった判断をしないでください。 今のあなたに必要があって現れてきたものなのですから、それを静かに受け止めてください。 大宇宙の意志が働いて、今のあなたに必要な課題を与えてくださっているわけなので、その意味を静かに受け取ることが大事です。あなたの今世の魂修行に必要な内容が、そのなかに必ず含まれているはずです。 繰り返しますが、「自己防衛の考えで、すべてを解決しよう」「会社の仕事のようなかたちで解決しよう」などとは思わず、逆に受け入れることです。そして、そのなかに、大宇宙の意志を、あるいは、神の心、仏の心を感じ取ってください




本当の意味で、ちっぽけな自分へのプライドやこだわりを捨て、赤子のような心でもって、仏さまの前に立ち涙することが出来た時、たしかに魂が救われる光が、降り注いでくることを感じる。そういう体験が得られるでしょう。

その日のあと、いきなり世の中がバラ色になるとは限りませんが、それでも世界は確かに、それ以前とは違って見えてきます。
ちっぽけな自分のこだわりを捨て、つまらないしがらみに悶えることを辞めた時に、心はサッパリとして、ささやかな日々を一歩一歩、もう一度ゆっくりと歩み初めていこう。そういう爽やかな気持ちになって、自分の魂が新生したことを感じられるでしょう。
かつての自分とは、いまの自分は違った存在になっている。つまらないプライドはもう要らない。そこから生まれる苦しみもない。ただひたすらに、仏の御心のままに生きていける自分であろうと、そんな気持ちになれるのではないか。

そう、思うのです。





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2017年01月27日

【私論】天使と悪魔の戦いの歴史を考察する その2  〜LEO幸福人生のすすめ、より転載〜

サービスで<その2>までは、オープン記事にしちゃいましょうか。

↓<その1>よりの続き

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本来は、イエス系とゾロアスター系(ムハンマド系)のあいだは、そこまで敵対関係にならずともいいように思うのですが、

ひょっとすると、ここを攪乱している存在がいるのではないか?というのが、わたしの推測です。
それがエンリルではないか。ということです。

以前、エンリルの魂の片割れである高橋信次は、
自分はユダヤ・キリスト教の神であるヤーウェであり、
イスラムの神アラーでもある、と霊言で主張していました。

これはウソであったことが今では判明していますが、自分こそ、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の神であると述べているわけで、詐称ですね。

エンリルは本来、そこまでの勢力はないはずであって、
というのも、そもそもゼータ星からレプタリアンを引き連れて3億6千万年前だかに、彼らが飛来したときに、その数は6千万人くらいだったはずで、人口としては少ないです。

これでは我らの数が足りんといって、パイトロンを使って増やそうとして失敗、したわけだから。
さらにはそのために地獄の増大の原因を作ったわけだから。

そもそも、ゼータ系のレプタリアンがそんな大勢力のわけがありません。というのが私の推理なんですが。
後に来た、オリオンからの10億、ペガサスからの20億と比しても、圧倒的に少ないのが、実はエンリル系直属の魂群ではあるまいか。小勢力なのではないだろうか。

という仮定をしつつ、


「宇宙の法入門」で、エンリルは非常にわかりにくい説明をしていましたが、
シュメールをアッカド系が滅ぼした。それがハンムラビ(ムハンマド)やゾロアスター系の流れであって、
この流れを立ち切るために、エル・カンターレがユダヤにイエスを送り込んだ、とか言っていましたが、これがそもそも嘘っぽい。と私は見るわけです。

上の説明は、エンリルが自分の国シュメールを美化し、それを滅ぼしたムハンマド系は悪、であるかのようにいって、そこにイエスを主が送って流れを切り替えようとしたと述べることで、

イエス系と、エンリル系が正しい側で、ムハンマドが悪いみたいな言い回しになっている。
こういうところに私は、エンリルの狡賢さを見るのですが。
これは、

シュメールの自分をまるでエル・カンターレ系のように言い、それを滅ぼしたハンムラビらのアッカド系が悪いと言い、そのアッカド系を倒しに送られたイエス系が、ムハンマドらと敵対関係にあると強く主張することで、
微妙に嘘を紛れ込ませて自分の悪さを誤魔化し、自分の立場を正当化しようとする策略を入れているように思えるわけです。

上のエンリルの発言が正しいなら、ではなぜ、
高橋信次は、イスラム教のムハンマドに通信を送ったアラーこそ、わたしである、と詐称したのか。実際はアラーとは、エローヒムの神であったというのが真実であるのに、自分であると偽ったのか。

それから、アラーの大警告などでも、イスラム勢力の勃興を語り、イスラムにも大義ありというようなことを言っていたのが高橋信次だったような気がするのですが、
イスラムの神であり、というわりには、エンリルはムハンマド系を意図的に貶め、自分の立場を正当化に持って行こうとしているように見えてしまう。

宇宙の法入門ではさらに、
アメリカを応援しているのか、アメリカを攻撃しているのか、どっちなんだかエンリルの立ち位置がよくわからない、矛盾したことをエンリルは発言していたと思いますが。

イスラムを攻撃するアメリカはけしからんと言って、宇宙からレプタリアンが催眠攻撃をかけていると言いながら、
そのアメリカを応援しているのはミカエルなわけでしょう。しかも、アメリカが攻撃しているイスラムは、ゾロアスター・ハンムラビの流れであって、シュメールを滅ぼした系統であって、エンリルが霊言でそうそうに述べていた、ハンムラビが悪いみたいな表現とは矛盾しますよね。

イスラムを嫌っているのか、応援しているのか。
アメリカの攻撃を是としているのか、否としているのか。矛盾しまくっている。

これはどこかに、エンリル特有の嘘が入っているから、読んでいてややこしくなっているのではないだろうか。そんな風にも感じるわけです。
他の9次元霊の霊言を読んでいる場合は、このような明らかな矛盾というか、読んでいて、んんん?どういうこと?それは、という矛盾はふつう無いですよね。

そもそも、自分が爬虫類型宇宙人であることも、宇宙の法入門で明かすまでは隠していた。
「ノストラダムス戦慄の啓示」の映画では、レプタリアンを追い出す正義の宇宙人のような姿でゼータ星人は出て来ていたくらいだから。
嘘がいっぱいあったわけですしね。

… つづく。

つぎは、シュメール時代の、エンリルの立ち位置を考察します。



続き、その3から17は、すべてアメンバー限定記事です。
http://secret.ameba.jp/space-people/amemberentry-12184880563.html





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posted by ガンレオ at 09:44 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【私論】天使と悪魔の戦いの歴史を考察する その1  〜LEO幸福人生のすすめ、より転載〜

こちらは去年2016年の7月に、LEO幸福人生のすすめ、で書いたアメンバー記事の<その1>です。
こんな感じの内容の記事を、全部でその17まで書いてあるんですが(笑)、まぁ秘密の会内情報などをかなり交えて書いているものだから、アメンバー限定記事にしてあります。
けれども<その1>だけくらいなら、公開記事にしてもいいかな、ってことで、こちらに転載してみました。
わたしレオの個人的な、勝手な推理がたぶんに入っていますので、幸福の科学の公式見解ではないことにご注意ください。その点、誤解なきように、よろしくお願いいたします。

なお、LEO幸福人生のすすめ、を長らくご愛読くださっており、頻繁に<いいね>を押してくださっている方は、もしご興味がおありなら、アメンバー申請してくだされば承認いたしますので、ジャンジャン申請してみてくださいませ。
こちらの共同ブログを御覧になっているかはわかりませんが、LEOブログに100回以上<いいね>を押してくださっている方は、特に今までコメントなど一度もしたことがなくとも、わたしにとって信頼できる読者さんですので、承認いたしたく思っています。よろしくお願いいたします。
<(_ _)>


以下、アメンバー記事より

------------------------------------------------------------
【私論】〇〇と✕✕の戦いの歴史を考察する その1


伏字を解くと

天使と悪魔の戦いの歴史を考察する

かな?あとでタイトルは変えるかもしれないけども。


昨年末、とあるところで書いた文章を元にして、しばらくアメンバー記事にて、もろもろ、
わたしレオなりの推理を書いてみようかと思います。

いま現在、当会情報でわかっていることを元にして、勝手にわたしが推理しているだけの話なので、とんでもない間違いをしているところもあったり、なかったりするかもしれませんが … 。
その点はご容赦を。<(_ _)>

あくまでも、現在情報から考えて、こう考えると頷けるんだけども、といった<私論>レベルの話として読んでいただければ、幸いです。

では。

書き始めた順に再掲しつつ、少々手直ししながら連載します(笑)。

------------------------------------------------------------
【イエスさまとムハンマド、キリスト教系とイスラム教系】

古代イスラエルは南北に分裂して、北イスラエルと、南ユダに分かれたけれども、
これは何か、朝鮮半島の分裂に似ていて、北朝鮮、韓国みたいです。

で、北は先に滅んだけれども、南のユダは、新バビロニア王国に攻められて、大量に捕虜として連れ去られてしまいました(バビロン捕囚)。
このとき、預言者エレミヤが逆さ吊りの憂き目にあっているわけですが、

それをやったのは、文鮮明の過去世の霊?だと、霊言で自分が述べていました。

南ユダのユダヤ人たちが大量に捕虜にされて、それを責めたてたのは文鮮明。

南の韓国で流行っている邪教が統一教会で、文鮮明に霊的に捕獲されてしまっているのと、偶然でしょうが、似ています(笑)。たまたまでしょうが、ユダ王国も韓国も、南側の片割れですね。

ところで、この捕囚を行なった新バビロニア帝国ですが、
この帝国を滅ぼして、ユダヤ人を開放したのが、ペルシア帝国です。

ペルシアはゾロアスター教ですから、アフラマズダ(エル・カンターレ)とアーリマン(宇宙の邪神もしくはベルゼベフ)の善悪二元です。
(注;アーリマンとはベルゼベフのこと、というのは、ゾロアスターが霊言で述べている。)

このペルシア帝国が新バビロニアを滅ぼして、ユダヤ人を開放したわけですが、
例えるならこれは、巨大蜘蛛に捕獲されていたユダヤ人を、エルカンターレの下にあるペルシアが救った、という関係に見えなくもありません。
当てはめて考えるとね(笑)。

ペルシアのゾロアスター教について考察すると、
このゾロアスターが後にマニとして転生して、同じ地域に、マニ教を打ち立てましたが、このマニ教は、キリスト教勢力に敗れて滅びてしまいました。
そのため、マニ教はペルシアに根付かなかったのですが、ここに後から出てきたイスラム教が、その代わりといっては何ですが、ペルシアや中東地域の主力宗教となってゆきます。

ところで、ムハンマドを霊的にバックアップしていた9次元霊は、ゾロアスターだろうというようなことを、ミカエルが霊言で指摘しています。
これが事実だとすると、

ゾロアスター&ムハンマドの系譜は、やはりエル・カンターレの下にある、一つの正統な系譜でもあって、
いくらミカエルがイスラムへ敵対意識を持っているからといって、必ずしも間違った流れというわけではないように思えます。宇宙ルーツの起源が違うといえば違うのかもしれませんが。

ちなみに、このムハンマドは一方で、イエスさまことキリスト教をあまり尊敬していないように見えます。霊言での発言をみても、政治・軍事的にも地上で勝利した自分の方が上、といったニュアンスの発言をたぶんにしています。
さらにイエスさま本人に対しては別としても、
ムハンマドを筆頭としたイスラム霊人は、キリスト教圏に対して敵対意識があるようだし、その逆に、キリスト教側もイスラム圏に対して敵対意識を持っているのは明らかです。

これは十字軍の例を引いて、地上の人間同士の敵対に留まらず、霊的にいっても考え方が違う、方向性がやや違うからぶつかっている、2つのグループのように感じられます。

とはいっても、本当は必ずしも、キリスト教系とイスラム教系が、完全敵対の憎み合う関係ではないはず、とわたしは信じたい。
なぜなら既刊「愛無限」のなかで、イエスもゾロアスターも、エル・カンターレの右下にいる、と主が語っているからです。同じく右下、というのがポイントではないでしょうか。
左下にいる霊人は別の9次元霊ですが、なぜか右側にイエスさま、ゾロアスターの流れがあるので、ムハンマドのイスラム教もやはり右下に位置するのでは?と推定されます。

というところまで考察したところは、お次はエンリルについてです。

… つづく。






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2017年01月25日

【レオ】今月はやたらと長〜く感じる 〜密度の濃い時間は、体感時間を長く感じさせるのだろうか〜

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子供のころの<一年>というのは、ひじょうに長く感じたものだ。

ところが大人になると、あっと言う間に<一年>が過ぎてゆく。大晦日を過ぎたと思ったら、あっという間に、つぎの大晦日がやってきたりする。そんな気がしないでしょうか?(笑)

子供の時には、一か月という期間でさえ、けっこうな長さに感じたものだし、40日ほどの夏休みはそれこそ、とっても長いお休み期間に思えたものです。
ところが大人になってみると、ひと月、ふた月、三カ月、などという期間が、アッと思う間もなく過ぎていってしまう。光陰矢の如し。本当に不思議です。時間感覚というものは。
ひと月くらいの時間しか経ってないような気がするのに、カレンダーを見たら確かにもう三カ月が過ぎている。
歳を取れば取るほど、時間の体感速度は速くなっているような気がする。


でも、それは本当でしょうか?


というのは、今月のわたしは、いつにもまして、長い時間を生きているような気がするからですね。
いつもと逆で、光陰矢の如しではなくて、飛んでる矢は止まっている、ではありませんが、ゼノンのパラドックスのようなものです。
というか、もう三カ月も経ったような気がするのに、まだひと月すら過ぎていない、という、いつもの逆の時間感覚の中を生きている気がするんですよね。
これは何故だろうか。


と考えるに、どうやら、今月はいつもと違ったことを新たに初めてチャレンジしている。そういう月だからだな、ということに気づきます。
どうやら、新しいことを毎日毎日いろいろと覚えたり、挑戦したりしないといけない時は、年齢が行ってようがそんなことにはおかまいなく、時間を体感する速度、感覚的な時間速度が遅くなる、というか。

密度が濃い時間を生きているので、その期間の時間を<長く>感じている、ということではないかと思うのです。言い換えれば、充実した時間を生きていたり、新たな経験をいっぱいした時というのは、ひじょうに色々な体験をしている気分になっているので、長い時間を生きているように<感じる>ということではないか、と思うのです。
わずか一週間であっても、楽しかった海外旅行の思い出は、充実した時間体験として、記憶に強く深く残っていたりしませんか?

人は、漫然と時間を過ごしてしまって、新たなことにチャレンジしない、いつもと同じような代わり映えのない、刺激のない、たとえば慣れた仕事を機械的にこなすとか、同じような日常を淡々と過ごしてゆくだけになると、あっという間に時間が過ぎていくように感じるようですね。わたしはそう思うのですが。
毎日、なんの大変さも感じることなく、同じように日常をおくる、仕事も無難にそつなくこなす、慣れている業務をこなすだけで勤務時間が過ぎる、という繰り返しをしていると、
それは平和な毎日であっても、新たな苦労や刺激が足りない、そういう時間であるでしょう。そうすると、特に精神が緊張することもなく、新たな刺激も受けることが少ないので、大して頭が刺激されない、淡々と過ぎていってしまうので、それこそ体感時間も淡々と、あっという間に過ぎていってしまうように感じている。
光陰矢の如し。

10代のころは、一年というのは非常に長く感じたものであり、20代もまた、それなりに一年一年が長く感じられてはずで、20代の10年間はとっても長い青春時代だったように、今では思いますが、
その後の年代はそれこそ、加速度的に、あっという間に10年20年と過ぎていったように感じないでしょうか。年配の人はわかると思いますが。

これは、年齢が上がっていって人生経験が豊富となり、新たなことを毎日毎日覚えていかなくてはいけない、という子供時代や青春時代のような、新たな発見の喜びが、年齢とともに減っていっているからではないか。
人生に<慣れ>てしまい、日々を気楽に生きられるようになるのはいいが、新たなことを学んだり、チャレンジしたり、苦労して覚えたり、そういう挑戦的な生き方をだんだんしなくなる。
楽な道を選んで、気楽に生きたいようになってゆくと、年月はそれこそドンドンあっという間に過ぎてゆく。
そんな感じがしますね。

年老いてもなお、今年は新たなことにチャレンジしてみよう。この資格を取るために、研修を受けてみよう、学校に通ってみよう、なんてことに取り組むと、その新たな挑戦時間は、いろいろと学ぶことが毎日あるので、ひじょうに充実した、長い時間を生きているような錯覚を、その人に与えるのだと思います。
充実した時間を生きているので、そのひと月は長く感じる。ひじょうに有意義な、今まで知らなかった経験をたくさんすることの出来た一か月であった。その時間の体感速度は、そのひと月を、1カ月の長さではなく、三か月かそれ以上の長さの時間が、ぎゅっと凝縮されて詰まったような、そんな充実した時間を人に与えてくれるのではないか。

だから、客観的な時間が正しいとは限らないのだと思います。主観的な、体感時間の方が、むしろその人にとっての、本当の時間なのかもしれない。
それは、有意義な時間を生きるということ。密度の濃い時間を生きるということ。新たなことにチャレンジすることを忘れずに、歳をとってもなお、そういう時間をみずから持とうと頑張るような、そういう生き方をしてみること。

人生の時間とは、どれだけ有意義な時間を過ごしたか、ということにこそあって、
単に客観的な、時計で測れるような年月や年齢に、それほど意味があるわけではない。
大切なのは、その時間をどれだけ有意義に、充実した時間として、あなたは生かすことが出来たのか。
新たな学びはあったろうか、誰かのために生きる時間を持てただろうか。

充実した時間。密度の濃い時間を生きる、ということ。これが大事だと、ふと思ったのでした。

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2017年01月24日

【レオ】自分の言葉で自在に語れるくらいに、理解を深めてゆくことの大切さ(2016/6/8の記事)

まもなく発刊予定の新刊「政治と宗教」。

内容紹介のCM動画をみると、冒頭からいきなり、

「"政教分離"は是か非か!?あなたは誰かに説明できますか?」と、デカデカと大文字でドーンと出てきます。

それからさらに、対談シーンの抜粋部分には、総裁先生の言葉で、

「宗教が政治やっていいんですか?」って言われたときに
ちゃんと言い返せるための材料として必要だろうと思ってつくってるところなんですよね


ともあります。

で、この新刊を実際に手に取って読んでみたら、わたしたちが何を知っておくべきかを、総裁先生と真輝さんが問題提起しつつ語ってくれている会話を読むことが出来、勉強ができるかと思いますが、

さて、では本をまだ手にしていない、いまの時点で、上の質問に対して、いま現在の自分は、自分の言葉でどれだけ答えることが出来るでしょうか?

という問いが一つ立てられてしかるべきなんじゃないかと、わたしは思うんですよね。

公案のごとくにして、いまの状態でどこまでの返事が出来るか。
誰かとまさに、明日にでも、上のような対話になり、質問が出た時に、自分はどのように答えることが出来るだろうか。自分の言葉で!

それがいま現在の、自分の知識の力であって、これはたとえ新刊を読んでも、そんなに急激には進歩したりはしないですよ。日頃から問題意識をもって、自分の解説能力だとか、意見を述べる力を高めていこうといった、前向きの努力・勉強方法を採っていないと、実は山のように本を読んでいても、そんなに発信能力自体は上がっていないように、私などは思います。

実際、今日のこの瞬間でもすでに、政教分離について、さまざまなことをどこかしらで読んできているはずだし、宗教が政治をやることの意義などは、すでにあらゆる当会系の本でも読んできたはずですし、

しかして、いま、では貴方自身の言葉で、簡潔にその点について説明してください。

政教分離は是ですか。是だと言うなら、その論拠を述べてくれますか。
宗教と政治がつながっていてもいいということを、相手にわかりやすく、説得的な言葉で語れるかどうか



そう考えてくると、途端に不安になってきたりしやしないでしょうか(笑)。

ということかと思います。


渡部昇一さんが学んだこともある、清水幾太郎さんは、


(読んだ本の)内容を自分の精神に刻みつけておく一つの方法は、読んで理解した内容を自分の手で表現するということである。読んだことを書くということである。

読むという働きより一段高い、書くという辛い働きを通して、読むという働きはようやく完了するのである。
即ち、書物を読むのは、これを理解するためであるけれども、これを本当に理解するのには、それを自分で書かねばならない。自分で書いて初めて書物は身につく

書こうと身構えた時、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことが出来る。しかも、同時に、自分の精神へ深く入っていくことが出来る。
書くことを通して、私たちは本当に読むことが出来る。表現があって初めて本当の理解がある。

(「論文の書き方」岩波新書)



といったことを述べています。

書くという作業には、それを書く前提としての、しっかりとした知識の把握が必要になるわけで、書くのに十分な知識の蓄えがないと、とてもではないが、まとまった明晰な文章などは書けないんですよね。
これは、書くのではなく、話すことでも同じだと思いますが、自分に十分な認識がないと、あやふやなことしか言えず、しどろもどろな事しか言えない、書けない、そういう顛末になるわけです。

だから、読書感想文を書きなさい、という課題がありきの読書だと、後で書かねばならないから真剣に読む。
読む時も真剣に、考えながら読むし、書く時にも気力をふりしぼって、精神集中をして考えを紡ぎだしていかないといけない。
単に漫然と、読んでいるだけの自由な時とは、精神の緊張度がぜんぜん違うわけですが、けれどもその緊張があるからこそ、読み込み方も深く鋭くなるわけだし、些細な論点も見逃さずに読み込む注意力が生まれる。

遥か昔に、お釈迦様の説法を聴いた弟子たちは、その話を、あとで誰かに伝えなければという思いをもって聴いている人ほど、よくその話を聴きおぼえ、再現できたのではないでしょうか。

単に、自分の興味があるところだけを、ボーっと聴いているだけの人は、その部分以外はあまり記憶にもよく残っておらず、あとで、何だったっけ?なんてことになっていたのではなかろうか。
そんな想像すらしてしまいますが。

映画などを観た場合でも、あー面白かったあ!で終わったら、日にちが経てば経つほど、物語の詳細や、登場人物の名前ほか、どんどん忘れていって、2か月後に誰かに話そうとしても、主人公の名前すら出てこなかったりするかもしれません。
けれども、映画を観た翌日に、その感想なり、おおざっぱなストーリー展開、その設定や出だしのところを、面白おかしく、友人なり同僚なりに話してみたりすれば、

主人公がどんな人で、何をやって、かにをやって、とか … 、
どんな状況設定で、どんな事件が起きるのか、とか、いろいろと自分の言葉で説明しないといけなくなりますから、
こうやって誰かに話す、すわわちアウトプットを後でしたものに関しては、ただ単に観て終わっただけの作品よりも、いっそう明晰に、自分の記憶にも残るし、語る力も鍛えられるものだと思うんですよね。

そして、上手く説明できなかったら、次の人に同じく説明するときには、あの部分の理解が自分は足らなかったから、もう一度観てみて、しっかり理解しよう、その上で説明しよう。
などといった感じで、アウトプットを前提とする学びは、いっそうその真剣度を増すわけです。

自分だけの学びでは済まないで、誰かに伝えることを想定して学ぶ。そういうスタンスで本を読んだり、勉強するようになると、物事の理解力がグンとアップするのは、

学ぶ際の気持ちの違い、真剣度の違い、自分だけの学びでは終わらない、あとで他の人に伝えることを踏まえて、考えながら学ぶから、ではないかと思うのですね。


真理は、誰かに伝えてみれば、おのれの未熟がわかり、さらなる学びが必要だと反省が生まれて、いっそうの学びを要求されることになる。
学べば学ぶほど、他の人に伝えれば伝えるほど、まだまだ自分の足らざるを知り、学びがさらに必要なことがわかる。
探究・学習・伝道のサイクルは、こうして循環するのだ、ともずっと以前から、大川隆法先生にはすでに教わっていますし、

自分の学びを深めることは、実は、伝えることを前提にして読むことによって、いっそうその学ぶ力自体が、強く、深く、鋭くなっていくものであることが、ここには示されているのではないかと思うのです。

誰かに話すこと、あるいは文章で書くこと。

自分の言葉でどこまで語れるようになっているか。このチェックポイントを外してはいけないと思うし、アウトプットの能力というのは結局、この自分自身の言葉で、自在にどこまで語れるほど、知識がみずからのものとなっているのか、それに尽きていると私などは思います。

課題をみずからに掲げて、さぁ、そのことについて語れるかどうか。書けるかどうか。

常にそうした気持ちで、読んだり聴いたり、情報収集の際にもそうした視点を持ちつつ学ぶのが大切で、

その後では、誰かに語ることですね。あるいは、書くこと。
アウトプットなしでは、どうしてもお気楽な気ままなマイペース読書になって、真剣みで劣るんですよね。
誰かに話すわけじゃないから、理解が足らなくても怒られるわけじゃないし、わからないものはいいや、興味ないからいいや、となって、自分の趣味の限界から抜け出せない。

ちょうど塩野七生さんの著書を読んでも、そういったことを書かれていました。


書くためには勉強せざるをえなく、勉強すれば考えるようになる。

「創造するという行為が、理解の「本道」であるからですよ。ダンテも言っています。考えているだけでは不充分で、それを口であろうとペンであろうと画筆であろうとノミであろうと、表現してはじめて「シェンツァ」になる、と。イタリア語の「シェンツァ」(Scienza)は英語に直すと「サイエンス」(Science)ですが、この場合は「科学」とか「学問」よりも、これらの言語の語源であるラテン語のシエンティア(Scientia)が意味した、「知識」ないし「理解」と考えるほうが適切でしょう。このダンテの言が正しいことは、あなたが今考えていることを、誰か他者に話すか、それとも文章に書いてみたらわかります。

(「ルネサンスとは何であったのか」新潮社)



表現してはじめて「シェンツァ」になる。これは英語だと「サイエンス」だとあるので、まさに幸福の科学の「科学」とも合致しますね。
本来の意味はさらに、サイエンスの科学に留まらず、知識、理解、そのもののこと、だそうです。

表現によって知識がしっかりとしたものになる、とのことです。

清水さんや塩野さんはプロの物書きですが、たとえ物書きではなくても、真に知識を把握するためには、自分自身が表現をしてみる、話してみる、書いてみる、そうした作業が必要不可欠なんだと思います。




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【レオ】<本日の格言>は、今日の自分にピッタリや!!って思うこと、ありませんか?

幸福の科学公式ページから、毎朝8時に届けられるメルマガ【本日の格言】

総裁先生の御著書から、ランダムに抜粋されて、毎日、登録した信者に配信される短い文章。

ランダムといいながら、送られてくる当人にとっては、ランダムではない。
まさに、いまの自分にズバリ必要な言葉だったりする。【本日の発言】


これは、今日の自分にピッタリの格言だ!!って思うことが、しばしばあります。
自意識過剰というなかれ。普遍の真理は、あらゆる人に当て嵌まって、心を潤し、励ましてくれるものです。そのタイミングの絶妙さは、まさに「神のみぞ知る」

かつての真理の使徒たちも、たまたま開いたページに載っていた言葉を読んで、回心のキッカケになった、という事例が結構あるんですよね。
だから、本日の格言が、とある信者にとって、かけがえのない【その日の格言】になることなど、いくらでも起きて不思議はないでしょう。

ちなみに、今日1月24日の【本日の格言】は以下のとおり。




職場に対して恩を売るようなあなたであれ。
そういう力強いあなたであれ。
積極的にみんなを引っ張っていき、みんなの生活をよくしていけるようなあなたであれ。
自分一人の生活がよくなることばかりを考えるのではなく、あなたがいるために、周りの人みんながよくなっていくような、そういうあなたでなければいけないのです。
一人でみんなの収入分を稼ぎ出すぐらいのつもりで生きていけばよいわけです。

『成功の法』 P.130




どこまで当てはまるかは別として、いまの私の職場での位置づけは、まさにこんな感じ。
恩を売るといったらアレですが、わたしがいることで「助かる」「有難い」と言ってくれる人、多数。
自分がそこにいることで、多くの人の役に立てるという実感は、人間同士ともに力を合わせて働く職場では、なおさら痛感する、生きがいのようなものですね。感謝されたら、そりゃ自分の存在意義も自己確認できるし、何より素直にうれしいもの。頑張って、いっそう働こう、と思えるものです。

みんなの収入分を稼ぎ出すほどは、働けてないけれど、少なくともそのくらいの報恩行を成すつもりで、働こう。そう思う、今日のこの日でありました。


職場に対して恩を売るようなあなたであれ。そういう力強いあなたであれ。積極的にみんなを引っ張っていき、みんなの生活をよくしていけるようなあなたであれ。自分一人の生活がよくなることばかりを考えるのではなく、あなたがいるために、周りの人みんながよくなっていくような、そういうあなたでなければいけないのです。一人でみんなの収入分を稼ぎ出すぐらいのつもりで生きていけばよいわけです。



【本日の格言】配信を希望の方は、↓こちらのページで、宛先のメールアドレスを打ち込めば、毎朝8時に、【本日の格言】が送られてくるようになりますよ。幸福の科学の信者でなくてもOK!!心にひびくメッセージを欲しい方は、今すぐ登録を!!


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2017年01月23日

【レオ】アメリカの世論を知ることが鍵!! 〜あえばさんと岡崎久彦さんと伊藤博文〜

トランプ革命 -
トランプ革命 -



当時、戦争しないという公約を掲げて当選した民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領に対しては、共和党からの監視の目があった。

日本が戦争に踏み切らざるを得なくなった理由を共和党に分かってもらうことができたならば、日本を戦争に引き込んだルーズベルト大統領に対する反対の声が巻き起こり、あれほどの総力戦をせずに手打ちができた可能性があったかもしれない。

しかし、当時の日本政府はアメリカを動かしている世論の力について理解が及ばず、非戦のチャンスを逃し、最終的には国土が焦土となるまで戦争を続けることになってしまったのだ。  

こうした教訓を考えても、アメリカの世論の動向をつかむことの重要さと難しさが分かる。亡くなった外交評論家の岡崎久彦氏も、生前、アメリカの現地マスコミに載る論評や議会での証言といったオープンソースをベースにして、アメリカの動向をつかんでおくことが、世界の情勢を判断するうえでの鍵になると指摘していた。




第二次大戦のときのアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、民主党の大統領。

ルーズベルトは、日本を追いこんで、日本が戦端を開かざるを得ないように工作していたと、今では知られていますが、
そのルーズベルトは実は、自分は戦争はしない、アメリカ国民を戦場に送り込むことはしない、ということを選挙公約にして、大統領に選ばれていたわけです。

だから日本が真珠湾攻撃という奇襲攻撃をかけなかったら、正当防衛としての戦争突入という方法は、ルーズベルトは採ることが出来なかった。

歴史の後知恵と言われるかもしれませんが、あえばさんが指摘しているように、
民主党のルーズベルトにとって、共和党の政治家たちが厳しい監視の目を光らせていたわけでしょう。政敵としてルーズベルトの失政を見たら、そこを攻撃しようと狙っているライバル政党が共和党だったのですから。日本の与党・野党の争いを見たら、反対政党の監視の目の厳しさというのが、わかろうものです。

この共和党を当時、動かすという視点があったなら … という歴史のIFですね。

日本が明治以降つかんできた成果を、すべて手放して、日本列島のみに帰れ、と言わんばかりのハル・ノートを、ルーズベルト政権が日本に突きつけていたという事実が、当時のアメリカ国民に知れ渡るように、たくみに国際社会で公表していたら。
ルーズベルトは日本と戦争をするために、日本をわざと挑発して追い込んでいる、といって、共和党がルーズベルトを非難する、格好の素材を提供できていたかもしれません。

パール・ハーバー以前だったら、アメリカ人の多くはまだ反戦の立場が大半で、ヒトラーのヨーロッパ征服が進もうとも、アメリカは関せずだったのですから、この逆宣伝によってルーズベルトの陰謀を止められたかもしれない。

アメリカという民主主義国家は、世論がどのように考えるか、何を望むか、によって国論が大きく変わる国なんですよね。
オバマがダメだとなったら、民主党の次の候補のヒラリーでもダメだとなる。
今度は共和党のトランプに期待する!といって、ガラッと選ばれる大統領のカラーも変わるように。
戦争をしたくない国民に、戦争を画策しているルーズベルトの陰謀を暴露していれば、その時点でルーズベルトは失脚していたかもしれない。それは有り得た未来であったのですね、現実的に取り得た、もう一つの選択肢だったわけです。


二十一世紀をいかに生き抜くか -
二十一世紀をいかに生き抜くか -

今は亡き岡崎久彦さんも、著書の中で述べています。



日本は、何よりも先に覇権国であるアメリカのワシントンの動向、その根源である米世論の動向を把握しておくことが大事なのである。そんな簡単なことが常識となっていなかったのが二十世紀前半の世界である。




岡崎さんは外交畑で働いていたので、vs共産主義の立場から、共産圏の情報を主として収集して分析していたそうで、
一方では、アメリカは同盟国なので、アメリカの国内事情はそれほど分析していなかったのだそうです。
しかし、本当に大切なのは、アメリカの国内事情を知っておくことで、アメリカの国民世論をこそ注目しておかないといえないのだと、そういうことに気づいたと述べています。

ベトナム戦争も、ベトナムだけを観察していたら、アメリカはこのまま戦力投入していけば勝てる、という予測を立てたものの、
実際には責任者が次々と失脚したり更迭されたりして、アメリカ国内の人事や反戦運動の蔓延によって、米軍はベトナムから撤退する道を選ぶことになってしまったと。

ベトナムの現場で見えた未来予測は、アメリカの国内事情の変化によって、あっさりと崩れてしまったのだとか。そのあたりのことを、次のように述べています。



私自身外務省の初代の分析課長をしていたころは、調査分析といえばもっぱら共産圏分析であった。とくに防衛関係者にとっては、米国情報は友軍情報であり、保秘の対象にはなっても分析の対象にはならなかった。  

私自身それが誤りだと初めて気づいたのは、ベトナム戦争の判断を誤ったときである。  
それまで中ソ、北ベトナムの新聞、要人の発言の情報分析と、ベトナム内の軍事バランスにばかり集中して、ベトナム戦の前途を占っていた。
一九六八年のテト攻勢のときはこれでアメリカは勝ったと思った。地下に潜入していたベトコンが表に出て一斉攻撃をしたのだから、これを潰していけば、ベトコンの再建には何年もかかると思った。  

しかし、そう分析しているうちに、ウェストモーランド将軍は解任され、マクナマラ長官は辞任し、ジョンソン大統領は再選を辞退した。つまり、アメリカは負けたのである。こんなことは米国国内情勢さえ見ていれば解ったことだと、あとから覚った。




アメリカが対外的に、どのような動きに出るのか。戦端を開くのか、それとも孤立主義を取るのか。それはアメリカ自身の内情を観察・分析していないと、わからない、ということですね。

そのことに、岡崎さんは長年の経験のあとで、ようやく気付いたと書いています。
しかし面白いのは、その岡崎さんは、明治の元勲について述べている個所で、つぎのようなことを述べているんですよね。



日本は、何よりも先に覇権国であるアメリカのワシントンの動向、その根源である米世論の動向を把握しておくことが大事なのである。そんな簡単なことが常識となっていなかったのが二十世紀前半の世界である。  
日本人でただ一人、それを喝破したのは伊藤博文だった。

日露戦争後、軍は満州の軍政をなかなか手放そうとしないで、列国、とくにアメリカの非難を浴びていた。  
伊藤は日本軍撤兵を促進するために会議を招集した。その会議では児玉源太郎などは、外国の例などから見て日本のしていることはそう不当なわけでもない、と理論的に抗弁した。それに対して伊藤は、「心配なのは、米国の世論が強大なことだ。米政府当局がいかに日本に同情的でも、いったん世論が動けば、やむを得ず世論に合った政策を取る」といって、軍政廃止を強行させている。二十世紀のすべての指導者を惑乱させた問題を真正面から指摘した伊藤のアメリカ理解は感嘆すべきものがある。




二十世紀はアメリカの時代だった。

第一次大戦もアメリカの参戦なくして、西部戦線の膠着は解消されず、ドイツが敗北することはなかったのと同じく、
第二次大戦もアメリカが参戦しなければ、ヨーロッパはヒトラー帝国が成立して、アジアは日本を盟主とした連合国家のようなものが出来ていたかもしれません。

この大戦二つを、アメリカという国が参戦することによって、歴史の結果はまったく違ったものになったわけですが。
このアメリカの動向を予測するということ。軍が参戦するかどうか以前に、アメリカ国民はどの道を選ぶのか。それを知ることが大切なのだ、という視点。

なんと、伊藤博文は、日露戦争が終わった頃ですら、そのアメリカ的本質を喝破していたと、岡崎さんは伊藤博文の言葉を引用しながら、解説してくれています。

日露戦争で日本は勝ったのだから、南満州の権益をもらうのは当然、と明治の高官の誰もが考えていた時に、伊藤博文ただ一人は、

米国の世論を心配していたわけです。そのことが、明らかな言葉として遺されている。
アメリカは何と言っても、アメリカ国民の世論によって動く国であると。
アメリカ政府が同情的であろうと、敵対的であろうと、そんな違いは、アメリカ国民がどちらを選ぶことによって、ガラッと変わってしまうものだと。
そうした、アメリカ国民の世論の力、民主主義国家の国民の意見の重要さ、というものを、伊藤博文はすでに見抜いていた。その眼力のスゴさですね。岡崎さんは、そのことに注目しているわけです。


伊藤博文といえば、釈量子さんですね。幸福実現党の党首として、すでに日本に再誕されている。再誕の伊藤博文こそ、釈量子党首ですよ。

この不思議なめぐり合わせを思えば、

トランプ大統領が誕生して、アメリカが共和党政権のもとでこれから動こうとする時に、

共和党アジア顧問に、あえば直道こと平清盛が配置されていてですねー。

そうなったら、日本政府の首班には、釈量子こと伊藤博文、もとい、源頼朝公を配置せずして、天上界の人事は成立しないでしょう。

 … とわたしは思うのです。




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【レオ】国民の財布に、政府はむやみに手を突っ込むんじゃない!〜あえば直道・著「トランプ革命」を読む その2〜

トランプ革命 -
トランプ革命 -



トランプ氏はこれまでの著書でも繰り返し、正直であることが自分の取り柄だと述べている。まさに、その、誰の批判も物ともしない正直さによって、今、国民の人気を集めていると言える。「嘘つきは泥棒の始まり」どころか、「嘘つきは政治家の始まり」と国民が考えているとしたら、彼らが望みを託すのは何よりも正直に思ったことをいう人物ということになる。それが何を隠そう、ドナルド・トランプ氏なのだ。




日本の民主党から出た総理大臣、鳩山由紀夫氏が、沖縄米軍基地を最低でも県外へ、と言って果たせず、沖縄県民から総スカンを食ったように。「トラストミー」と言いながら、まったく信用の出来ない行状を晒して、アメリカ政治家たちからそっぽを向かれたように。

言ったことをすら守れない、約束破りの嘘つきは、信用なりませんね。

正直であること。それは政治家の資質というより、人としての基本条件のように思えますけれど、権謀術数を駆使して、選挙のときだけ国民に約束し、あとではそれを簡単に反故にする日本の政治家を多数見てきた私たち日本人たちからしたら、この<正直さ>というものが、実は政治家の良し悪しを決める決定的に重要な要素かもしれないと、今では思えるのではないでしょうか。

トランプ大統領の、歯に衣着せぬ物言いは、その内容から見れば、非常に正直に本音をズバッと言う人だ、ということになりましょう。
だからこそ、世間受けの一見悪そうな暴言であっても、その真意を汲んだ国民から見ると、トランプよくぞ言った!となるわけであって、ここにトランプ大統領が国民からの支持を受けて大統領に選ばれた、大きなポイントの一つがあるのだと、今にして思えるのではないでしょうか。

正直であることの大切さですね。


あえばさんが著書で述べている考察で、面白く読めたのは、つぎの<税金>に関する、アメリカ国民の反応の仕方と、日本人の無抵抗主義の違いです。



ここで注目したいのは、税金の問題に対するアメリカ人のこだわりである。
たとえば日本では、消費税率の引き上げが民主・自民・公明の三党合意で決められてしまう。「社会保障のため」という錦の御旗に対して、マスコミも批判することができず、反対論は広がらない。日本的に″lえれば、減税運動が全国的なうねりになって政治を変えていくことなど、想像がつかないことだろう。  
しかし、アメリカは違う。そもそもイギリスの植民地だった時代に、現地に住む人々が議会に議席を与えられないにもかかわらず重税を課されたことに抗議して、市民が立ち上がり、建国したという国柄である。働いて稼いだお金は自分のお金であって、政府が国民の財布にむやみに手を突っ込むのは、財産権の侵害であるという発想があるのだ。




いま、日本の消費税は8%。なんだかんだ不満を抱きながらも、国民は大反対運動やデモを行なうこともなく、この8%への上乗せ増税を受け入れてしまい、いまに至っていますが、
この増税を決めたのは、民主党政権のとき、野田内閣のときですね。しかも民主党が独断で決めたわけではなく、その時に野党であった自民党と公明党も、この増税案を積極的に賛成して、国民そっちのけで、与党・野党が結託して、問答無用で法案を通して決めてしまった、国民お留守の増税決定でした。
選挙で選ばれるかどうかもわからない時は、増税はしない、増税のぞの字も出さなかった連中が、議員資格を取ったら、あとは好き勝手に談合して、増税をドンドン推し進めてゆく。それが日本の政治家のやり方で、国民主権などはどこ吹く風で、選んだあとでは全権委任された政治家の自由とでも言わんばかりの身勝手さです。
しかしアメリカ国民だったら、こんな政治家の横暴は許さない、という話ですね。
そもそもアメリカ独立戦争の発端が、イギリス議会が勝手にふっかけてきた税金ですよ。イギリス議会にアメリカ代表は議席を持っているわけでもない、アメリカに住む人間には政治に口出すする発言権もないのに、税金だけは勝手にイギリスで決めてふっかけてくる。発言権もないのに、なぜ金だけ取られるんだ?ふざけるな!という話です。税金の勝手な取り立てや、国民の理解も得ていない勝手な濫用は許さない。それがアメリカ人の、税金に対する考え方ですね。

だから、日本だったら<社会保障のための>増税です、と言われたら、誰も文句を言わずに、じゃあ仕方がないかな、なんて言っておとなしく払ってしまう。
ところがアメリカ人は、働いてもいない人間の保険料を、なんで働いている俺たちが払わないといけないんだ。ふざけるな!となる。
だから、オバマ大統領が国民皆保険制の実現を、なんて言ったって、ふざけるな!です。そんなことに税金を勝手に使うんじゃない。オレたちの血税だぞ、となる。国民の理解を得られないわけですね。
社会保障と言ったら、文句も言わずにホイホイ払う日本人とはえらい違いです。どちらが正しい国民としての在り方なのでしょう。
権利と義務の関係を正しく理解しているのはアメリカ国民の方でしょう。義務ばかり果たして、権利をうやむやにされて、政治家の好き勝手にやられている日本人は人が好すぎるお人好しと言うしかない。



政府の役人からすれば、政府が預かった国民の税金は、結局のところ他人の金。役人も人間。自分の金でないとすれば、どうしても無責任なお金の使い方が生じてしまう。
それならば、なるべく多くの国民のお金を手元に残して、本人が一番納得のいく方法で使ったほうがいい。共和党や心ある保守派が持っているのは、そうした考え方なのだ。集めた税金は、日本でいわれるような「国費」「国のお金」では決してない。それは、「有権者のお金(taxpayer's money)」であり、国民が、自分の財布を痛めてまで払ってくれたということである。そして、その使い道は市民が監視している。働く気もなしに社会保障ばかりを受け取っている人々を、自分の払ったお金で養うなど、もっての外だという話にもなるのだ。  
アメリカの市民は、自分が大切だと思う政策について、積極的に街に出てデモ活動をし、議員に電話をかけ、署名したりと、アクティブに政治に関わっている。




これは、総裁先生をはじめ、保守系の言論人の多くが指摘して久しいことですが、
役人たちは、税金が国民たちの血税であるという意識が欠落しているようです。勝手に徴収されて集まった国のお金、政府のお金だと思い込んでいる。
それが膨大な金額になるわけですが、所詮、自分で苦労して稼いだ金でもないし、書類の上で何百億とかいう数字を表しているだけなので、それが何かの失策で減ったり損失したりしても、別に自分の腹は少しも痛まない。その無責任感と無自覚が、さらなる税金の無駄遣いを助長している。
そんな金をどぶに捨てるような使い方しかされないなら、自分たちの手元に残しておいて、税金などは最小限の額に減らしてもらいたい。政府にバカな使い方をされるくらいなら、各人、自分の考えた通りに自由に使えるように残しておいてもらいたい。そもそも税金は、国のお金ではなく、国民それぞれのお金、有権者のお金なのだ。オレたちが苦労して財布に貯めたお金なのだ。それを勝手に、政府の権限の名の下に、財布に手を突っ込んで盗むなど、とんでもない話だ。オレたちの金は俺たちに返せ。無駄遣いするなら減税しろ。

ということでしょうか。

安倍政権の政策も、国民の財布にコッソリ手を入れて、それを抜き取るようなやり方に見えると、最近でもご指摘がありました。
睡眠貯金を、社会保障などに転用してもいいとの法案を通したりして、法的に国が勝手に使える根拠をでっち挙げているわけですが、国民個人が10年手をつけていなかろうと、それは眠らせてある個人の資産ですよ。そのお金を降ろしに来ないからといって、ちょっくら社会保障で使っちゃいますよ、は無いでしょう。
自分らの経済政策で、国を富ませるという発想ではなく、漏れて利用されていない国民のお金がどっかにないか、とか、そんな発想でしか物事を考えられないなら、単なる守銭奴でしょう。これが一国を担う政治家たちのやるべきことか。アメリカの政治家はこんな姑息な法案をせっせと作ったりするだろうか。

トランプ革命の波が日本にも押し寄せて、要らない議員を押し流してもらいたいものです。

アメリカでは、減税せよ!!という運動が、国民の側から起きるのだと、あえばさんは著書で解説してくれています。



住民が州の法律案を提案するものは「イニシアチブ」と呼ばれる。ワシントン州では2015年、州議会に減税政策を行わせるための画期的な住民投票が行われ、約53%の支持を得て認められた。
「イニシアチブ1366」と呼ばれる今回の発議が求めたのは、増税が難しくなるように州憲法を改正することだ。現在の州憲法では、議会で過半数の賛成を得れば、法案が成立するとされている。それに対して、「増税法案に限っては、議会の3分の2の賛成を必要とする」と憲法を修正する案を州議会が発議するよう求めたのが、今回のイニシアチブだ。  
もし、州議会が改正案を2016年の4月15日までに発議しない場合は、州の消費税が6・5%から5・5%へと減税されることになる。州議会議員に対して、財政に穴を空けたくなければ、憲法を変えよと迫るものだ。




選ばれた政治家たちが、勝手に増税法案を乱造したら、国民たちはそれを阻止できません。選んだあとの議会で勝手に作られ通されてしまう法案だからです。
だから、そうしたことが出来ないように、増税に関する法案に関しては、その可決条件を厳しくする、という提言ですね。そういう提言がワシントン州の住民投票で成されたという。こうした住民側からの提言や運動が、実際の州政治や国の政策にどれだけ影響を与えるか、その結果は別としても、こういう動きが出ること自体に、アメリカ国民の政治意識の高さが見られると、わたしは思います。
財産権が個人のものであり、個人資産、私有財産はあくまでも権利として主張さるべきであるのなら、これに安易に手を付けるべからずと言って、政府に注文をつけるのは、国民主権の民主主義国家においては、国民が主張できる当然の権利だと思います。


 … つづく。





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2017年01月22日

【レオ】読書とは、自分で考える代わりに、他の誰かにモノを考えてもらうこと(2015/3/8の記事)

LEOブログ過去記事より転載
http://ameblo.jp/space-people/entry-11998754940.html



読書とは、自分で考える代わりに、他の誰かにモノを考えてもらうことである。






これは、ドイツの哲学者ショーペンハウエルの言葉で、「読書について」という小論に出てくる言葉です。

ショーペンハウエルという人の考えは、決してすべて肯定できるものではないように思いますが、この言葉は、たしかにその通りだ!と思わずにはいられません。
ショーペンハウエルの言葉で、いちばん強烈に残っているのは、この言葉と言っても過言ではないくらい、名言だなーと今でも思います。

「読書について」の新訳を出してくれた渡部昇一さん御自身が、上の言葉を引用しつつ、




読書とはわたしたちの代わりに誰かが考えてくれることであり、その人の心の動きを反復しているだけだ、という指摘は真実である。





と述べられてます。

この文章を渡部昇一さんは、紹介しつつ、自分の経験などを交えて解説してくれているんですが、

他人の書いた文章を丸暗記し、それを暗唱するだけの勉強では不十分、と明らかに述べていますね。
そういう段階で勉強が止まっている人は、自分の考えや思想を遺すことはなかった。
他人の書いたものを読むことに専念するばかりで、自分で考えることが奪われてしまった人なのであろう。
みたいなことを述べています。

続けて、

自分で考えないことは楽だし、論文を書かなければ、まったく批判を受けない。
そういう意味で、誰かがこう言った、ああ言った、ということだけの勉強は、
まさに最初にあげたショーペンハウエルの指摘のごとくになると、渡部さんは言っています。





読書とは他人に考えてもらうことだというショウペンハウエルの指摘は鋭い。
読むことばかりに慣れていると、極端な場合は自分で考える力をまったく失ってしまうのだ。





そう、解説文で、渡部さんはまとめてくれています。


大川隆法先生は、その初期の教えの頃から、弟子たちに対して、

わたしの教えを聞いたら、それを教わったということを忘れるくらいにまで、深く読み込み、
最初から自分の考えだったと思うくらいに、自分自身のものとしなさい


といったことを教えてくれていました。

なので、やはり最初は、素晴らしい先生から教えを教わり、その教えを諳んじるくらいにまで学ぶ、覚える、理解する、というのは、やはり大切なことなのだと思います。
自分でゼロから考え出すなんてことをやっていたら、人生の時間がいくらあっても足りないでしょうから。
失敗の連続ばかりで、なんの知恵も見出すことが出来なかった、なんてことにもなりかねません。
したがって、優れた先生に学び、生きる道を教わることは、とても大切なことだと思います。

けれどもさらに大切なのはその先で、
そうして学んだことを、単にスピーカーのように繰り返すだけではなく、
自分自身の魂の力になるまで、学びを深めてゆくことなのではあるまいか。

何かの問題に直面したときに、自分自身の判断でもって、学んだことに応用を効かせることが出来る、自分で対処できる。そこまで学びを深めておく。
手とり足とり何から何まで教わらずとも、言われる前から、そのように動けるような弟子となれればなぁ。などと考えます。

よき先生に学び続けたがゆえに、その後はごく自然と常に、
先生と同じような視点でもって物事を見、同じように考え、同じような方向性の答えを出せるような、そうした認識力・判断力を身に備えた人間となれれば … 。
弟子としてよく学ぶということは、そういうことなのではないかと思えるし、
自分自身の魂の力が、成長・発展し、先生と同じような方向性でもって、自分自身でも考え、自分の言葉で語れるような人間になること。行動できるような人間になること。
そこまで行くことが、大切なのではないかと思います。

道のりは遥かに遠かれど … 。ですけどね。('-^*)/

大切なのは、学んだことをヒント・参考としつつ、その真理を、自分の頭でもよく考え、かつ、自分の言葉で語り、自分の行動としてあらわしていくこと
そういうことなのではないかと思います。





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【レオ】あえば直道・著「トランプ革命」を読む 〜トランプ語録「俺、金持ちだから」〜

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トランプ氏が出馬して以降、トランプ氏を応援し称えるような評価は殆ど無く、
その反面で、トランプ人気は一時のあだ花で、結局そのうち姿を消す、などといった意見が多数。
であったはずが、あにはからんや、そのトランプ氏が次期大統領に決定する。

昨今では、トランプ、トランプ、とトランプ関連書籍が次々に出されて、なぜこうなったのか、の分析から、トランプが米大統領になったら世界はどう影響を受けるか、の好き勝手な未来予測本が、山のように出版されている。
しかし、選ばれてから慌てて応援書を書いているような人は、所詮、先を見る目のない物書きに過ぎないだろう。そういう人の現時点の未来予測などが、当たるわけもない。

トランプに逆風が吹き、トランプが大統領になるなど有り得ない、と誰もが否定していた時に、

いや、次の大統領はトランプだ!!と言い切っていた人の洞察こそが、現時点では最も信頼できるのではないか。
その人は、トランプ当選を予測し、未来の世界の姿を見ることの出来ていた人だからだ。先見の明があるというのは、こういう人のことを言うのだ。

トランプ革命 -
トランプ革命 -

あえば直道さんのこの著作は、2016年3月23日発刊。

2016年11月初頭に行なわれた大統領選の本選をさかのぼること、8か月も前に出された本だ。
その本の中で、あえばさんは、次の大統領はトランプ!!と言いきっていたという。
共和党の関係者ですら、トランプには入れない、と言っている時期での、トランプ支持。この判断の自信はスゴイと思う。

守護霊インタビュー ドナルド・トランプ アメリカ復活への戦略 (OR books) -
守護霊インタビュー ドナルド・トランプ アメリカ復活への戦略 (OR books) -

ちなみに、大川隆法先生がトランプ守護霊を読んで霊言を収録したのは、それよりさらに2か月さかのぼって、2016年の1月です。実際に大統領になる、ちょうど1年前からトランプ氏が本物の偉大なる人物であることを喝破した、この霊言のスゴさを、今こそ強く宣伝して、主の偉大さを称えましょう。

トランプ氏が共和党の大統領候補に選ばれるよりも前から、次はトランプ!!と言いきっていた、あえば直道さんによる、この本を、遅ればせながら読ませてもらうことにしました。

ということで、読み始めながら、内容紹介の意味も込めて、ちょっと引用紹介しようと思いますが、



多くの人が知る通り、ここまでのトランプ氏の快進撃は、彼の「暴言」の記録でもある。出馬表明の演説の中で、メキシコから米国に来る不法移民を「強姦魔」と呼んで以来、トランプ氏はその発言のたびに、主要メディアからの攻撃に遭ってきた。




トランプ氏の快進撃は、彼の「暴言」の記録でもある。

と、あえばさんは述べています。これは決して悪口ではなく、トランプ暴言の奥には、もっと深い意味がある、と読み取ったあえばさんならではの、愛情表現と言うか、褒め言葉に聴こえてきます。

その後、トランプ氏の放った「暴言」の数々。マスコミを賑わせた「暴言」ラッシュが、これでもかこれでもか、と引用されるのですが、次々に読んでくだけで、笑ってしまいます(笑)。

二酸化炭素による温暖化をどうする?と質問されたら、いともあっさりと、そりゃ天気は変わるなんていくらでもあることだろう、みたいな生返事。要するに、どーでもいい、と(笑)。そんなのは単なる天気の話だろ、晴れだとか雨だとか、天候は変わるもんだ。温暖化だの冷暖化だの言ったって、天気の変化じゃどーしようもない、と言わんばかりで、知らんぷり。

バカみたいに、二酸化排出量をいついつまでに、このくらいの量にまで減らします、などと言った鳩山とは、比較になりません。
鳩山のときにトランプ大統領だったら、お前のたわ言なんて一行だって信じられるか!!で、終わりだったでしょう。



不動産王トランプは、こともあろうに出馬表明で、自分の持っている資産と負債の額を読み上げた。選挙戦で何度も聞くことになるその決めゼリフは、「俺、金持ちだから」。




「俺って金持ちだから」

なんて、ふつうの人が言ったら、イヤミ以外のなにものでもないでしょうが、トランプ氏が言うと、まぁトランプが言うんじゃ仕方がないかな。といって許されるような愛嬌が、トランプ氏にはあるのではないでしょうか。

というより、現に金持ちだから仕方がないし(笑)。おっしゃる通りで。

しかもこの発言は、別に自慢のために言ってるわけじゃなくて、オレは金があるから、資金を誰かに援助してほしいと頼んで回る必要もないし、金銭がらみで不正をする心配もない人間なんだ、だから信用してくれ、このオレを。

「俺、金持ちだから」

言いたくても言えないこのセリフ。一度、言ってみたいもんですよねー(笑)。

それから、習近平に一目置かざるを得ずに、夕食会なんかに招待しているオバマを一蹴。
そのときのセリフがこれ。



「もし、俺が大統領だったら、でかい夕食会なんかやらない。習近平にはマクドナルドのハンバーガーをやって仕事に戻ろう≠ニ言うだろう。なぜなら、通貨の切り下げを放置しておけないからだ。




習近平には、マクドナルドのハンバーガーでもやっときゃいい。夕食会なんか要らない。

これ、大統領になってからも同じ発言をしたら、それこそトランプはスゴイ!!ですね。しかも、言いそうなところが現にあるでしょう。少なくとも、オフレコだったら、いくらでもトランプ暴言は続くでしょう。

トランプ氏のスゴさは、行動の意外性だけではなく、このド・ストレートな爆弾発言の数々ですよ。
こうした発言が出るたびに、今後の世界は、トランプの本心はいかに?これは本音か、ブラフか、はったりか、それとも相手を探る牽制か?などといって、戦々恐々となって、トランプ氏の言葉によって世界は振り回される可能性すらありますしね。
アメリカ大統領の権限で、アメリカの国際社会に対する行動方針も一変することが、現に出来る立場に立ったトランプ大統領は、大統領候補者としてのトランプとは、レベルが数段上がって脅威となる、と見るべきでしょう。

インターネットに関しても、もの申していますよ。



「イスラム国」がインターネットを使ってプロパガンダを広げ、戦士を募っていることに対して、トランプ氏はインターネットの一部を閉鎖すべきだ主張した。
「便利なはずのインターネットのおかげで、我が国はたくさんの尊い人命を失っている。俺たちはビル・ゲイツに会って、インターネットの一部のエリアを閉鎖する方法について相談する必要があるだろう。どこかの誰かさんは、おお、言論の自由が損なわれる≠ニ嘆くだろう。それはバカなやつらだ。俺たちの中には、バカなやつらもいっぱい、いる。それでも今後、俺たちはインターネットの功罪について、真剣に議論しなきゃいけないだろう」




インターネットは便利なシロモノだが、問題も多い、と、トランプ氏は言っている。
一部は閉鎖すべきだ、とまで言っています。

日本でも、不平不満ばかりが蔓延している掲示板みたいなシロモノがありますが、こんなのはまさにこの「閉鎖すべき対象」かもしれません。

そういうことを言うと、言論の自由が損なわれる、とか言うヤツが出てくるだろうけど、そういう奴らは、バカなやつらだ、とトランプ氏は言っています。わたしも、そう思います。

好き放題、自分勝手のやりたい放題をしたいだけの人間ほど、すぐに「言論の自由」だとか言うんですよね。自分の愚痴や不平不満、他者への悪口を言う場を、言論の自由だ、とかいって、自己正当化する。
そういうバカなやつらの溜まり場は閉鎖すべきである。
もしトランプ氏がそう言ったなら、わたしは諸手を上げて賛成します(笑)。

言論の自由の意味など知りもしない、バカなやつらほど、すぐに「言論の自由」がどうのこうの、と言いたがるんですが、こういうバカ連中の語る「言論」の中身は、ではどの程度のものなのか、といったら、そんな傾聴するに値するような内容など、まるで無かったりするんですよね。
バカらしくて、まともに聴く値打もない、単なる個人的な恨み・つらみ、不平不満、愚痴の山でしかなかったりする。
世の中を改善するような、ものすごい言論でも述べているのならともかく、そんな素晴らしい内容など皆無です。くだらん駄文が続くのみ。それでいて、言論の自由、といって自分の愚かな言論を守ろうとするバカ者が、世の中にはいくらでもいるんですよね。

総裁先生のように、中身のある発言を次々としている方が、自由主義世界には「言論の自由」が必要である、と述べているのと、先にあげたようなバカな奴らが自己正当化のために使う「言論の自由」発言とは、真逆のものです。その人の語る中身を見れば、本物か愚者かの違いはわかろう、というものです。


トランプ氏の発言は、ストレートで歯切れよく、しかして暴言のようでありながら、その中身は真実です。



俺たちはビル・ゲイツに会って、インターネットの一部のエリアを閉鎖する方法について相談する必要があるだろう。どこかの誰かさんは、おお、言論の自由が損なわれる≠ニ嘆くだろう。それはバカなやつらだ。俺たちの中には、バカなやつらもいっぱい、いる。それでも今後、俺たちはインターネットの功罪について、真剣に議論しなきゃいけないだろう




痛快ですね。バカな奴らの言論を封じるために、ぜひとも、ビル・ゲイツと会って、インターネットの中の闇を消し去るシステムを、新たに開発してもらいたいものです。
まともな言論を語る人は、言論の自由の深い意味を知っているものです。不平不満の場を設けてもらうことを、言論の自由などとは言いません。そういうことを言う連中は、トランプ氏の言うバカな奴らですね。
まぁ、そういう人間をわたし自身もネットで何人か見てきたので、ああ、あいつとアレと、あいつなんかは、まさにこの、トランプ氏の言う「バカな奴ら」そのものだな、と感じます。


解説が長引いてしまいましたが、トランプ氏の暴言ばかりではなく、あえばさんが見たトランプ氏の姿を、この著書の中では活写してくれているはずなので、
つづきを読んだら、また感想文にて、紹介したいと思います。

 … つづく。






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2017年01月21日

【レオ】読んでるだけでは、認識力はあがらない 〜LEO幸福人生のすすめ(2012/7/22の記事)より転載〜

http://ameblo.jp/space-people/entry-11308664843.html


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誰かが書いたものを読んでいる時というのは、実は考えているようでいて、そんなに自分の頭では考えていないのだと思う。
それは言ってみれば、その文章を書いた、誰か別の人の思考や叙述を追いかけているのであって、自分自身の力でゼロから組み立てて、その文章なり発言を語れているわけではないからです。

試しに、いま読んでいる本なり文章を閉じて、自分で独力で再現できるかどうかを試してみると、その違いがよくわかります。
短い文章でもいいから、読んだあとでそれをパタンと閉じて、まったく何も無い白紙に、いま読んだ内容をどこまで再現できるかどうか。

学生時代を振り返ってみればわかると思うのですが、授業中は、教科書を見たり、参考書を開いたりしながら、先生の話を聞いています。
そして黒板に書かれた先生の説明書きなどを、一生懸命ノートにとっている。
この勉強の結果が、どれほど自分の身についているかは、試験のときにハッキリ現れます。
教科書を見てはいけないし、参考書も開けない。先生のヒントもない。ただあるのは、答えを書くべき空欄のみ。
そこに、記憶だけを頼りにして、何とか自分の頭の中から、適切な回答を取り出さなくてはならない。何も取り出すことが出来なければ、問題用紙は白紙のまま提出しないといけなくなります。

要するに、勉強する過程においては、教科書なり参考書なりを読んでいて、その内容を確かに自分の目で追っている。そしてその瞬間瞬間には、なんだかわかった気になっている。
けれどもいざ本をパタンと閉じて、何も手がかりが無い状態にした時に、さぁ自分の中にどれだけの知識が根付いているのか。
まったく何もない白紙のところへ、今さっき学んだことを、見よう見まねでもいいから書いてみましょう。
そうすると、丸ごとパクッてもいいですよ、と言われても、それですらなかなか思うようには出来ないことに気づくと思います。
いろんな情報にドップリつかっているように見えても、いざその情報の入力が遮断されてしまったら、自分では思うように再現すらできないわけです。


結局、自分自身の力で考える、だとか、自分の言葉で語れるところまで腑に落とす、というのは、単に目に映るものを読んでいるだけでは、それほど身につかないということですね。
いろいろなものを読んで、他の人が書いた文章なり小説なり、さまざまな評論・発言をいくら追いかけても、それはあくまでも、他人のやっていることを後追いして、ついていっているだけだから、自分自身でそれを同じように語れるところまでは、なかなか行けていないわけです。
ショーペンハウエルは、『読書について』という著書の中で、読書とは、他人に考えてもらうことである。と言っています。
あまりに読むことばかりに偏っていると、自分で考えることを忘れてしまう。というよりも、自分で考えているようなつもりになっていても、実は頭の中にあるのは、他の人が考えたことの寄せ集めにしか過ぎない、自分で考える力が向上しているとは限らない。そのようなことを言っています。

だからそうならないためには、情報摂取をある程度の量こなしたならば、今度はいったん、その情報収集の窓をピタッと閉じてしまい、いわば情報のインプットが無い状態で、無の状態になって、自分の力で考えてみる
読んだことの再現なり真似でもいいから、それを出来る限り、自分の記憶の中だけから呼び出して、書いたり語ったりしてみる。そういう訓練が必要なのではないか、ということだと思うのです。


本を読んだり、テレビを見たり、新聞を読んだり、ネットのニュースを見たり、サイト情報や、他の人のブログ、その他もろもろ、現代はあらゆる情報が飛び交っていて、そういったものにアクセスすれば、いくらでも情報はインプットすることが出来ます。
けれども、単なるインプットの段階というのは、あくまでも、他の人が考えたもの、作ったもの、考えたことがら、などを後追いしながら辿っているだけなので、本当の意味での、自分で考える力にまでは、至っていないのです。
そうした力を身につけるためには、定期的に情報のインプットを時々やめて、いわば教科書や参考書が無い状態で、果たして自分は、どれほどのことを思い出せるだろうか。考えることが出来るだろうか。
ある一つのテーマなり前提を出発点として、そこから自分自身の力でもって、論理を立て、次なる展開を自分の言葉で進めていき、ひとつのまとまった意見なり考えを述べることが出来るだろうか。
こういった訓練が、是が非でも必要
なのだと思うのです。


これは宗教修行でいう、反省や瞑想のところにも、通じるところがあると思います。
毎日毎日、世の中の喧騒の中を生き、自分の身の周りで起きることに、反応したり、対応したり、さまざまなリアクションをしたりして、人は生きています。
けれども、そうやって外的なものに反応しているだけの毎日だと、案外、自分の心のうちを深く見つめる、ということはなおざりになってしまっています。

心静かにして、自分の心に静かに向き合う時間をとれば、思わぬ自己発見をすることも可能なはずなのに、どうしても、周囲で起きることにばかり向き合い、それに関わっていることの方を人は好んでしまう。
情報遮断の無の状態というのは、耐え難く感じてしまうのか、ついついテレビをつけたり、何かそのへんにある雑誌や書籍などを手に取ってしまう。
けれども、そうした時に、ちょっと待てよ、といって、あえて何も手に取らず、自分の心だけを見つめる時間を持てばよいのです。その時に思わぬ発見があるはずなんですね、本来は。


話を元に戻すと … 。

本を読むという作業も、読めば読むほどに知識が増え、教養が蓄積されていくわけですけれど、ただ単に、読んでは次、読んでは次、といって、次から次へと読んでいるだけであると、案外それほど、自分自身で考える力というのは上がっていなかったりするわけです。
情報摂取は過剰にしているけれども、自分の力で書いたり語ったりという、作り出す方の訓練を十分にしていないから、読んでいるわりには、語る方の能力はそれほど上がっていなかったりする。

けれども自分の日常をふと振り返ってみれば、たとえば … 。
ふだんの友だちづきあいなどで、もし読んだ本の内容を誰かに話す機会があったとしても、本を朗読しながら語るということは普通しないでしょう。
そうではなくて、何も見ないで、自分の読んだかぎりの印象や記憶を元にして、自分の言葉で語るのが普通だと思います。

あるいは観た映画の感想を誰かに語るときも、何も見ないで、自分の記憶の限り、思いの限りを、自分の言葉で一生懸命話したりするのが普通ではないでしょうか。
日ごろの生活においても実は、何も見たりしない無の状態から、自分の記憶のみを頼りに語るということを、人はしているのだと思うのです。
これが実は大切なことであって、すなわち何も参考書を持たない状態で、ただ自分の内面の記憶・認識・思い、そこからのみ言葉を取り出し、自分の言葉で語るということが、実は思っている以上に大切なことであり、アウトプットの能力そのものを高める訓練にもなっているのだと、わたしは思うのです。

要するに、情報過多の現代においては、情報が溢れかえっているからこそ、時にはその情報の洪水をあえて遮断して、自分の頭で考える時間を持つ必要があると思うのです。
まったくの白紙を前にして、自分の言葉で書けるかどうか試してみる、語れるかどうかチャレンジしてみる。そうした意識的な努力や訓練が、実は大事なのではないか、と自分は思うのです。
そういう意味でも、ブログで記事を書くなどというのは、案外とても貴重な訓練の場なのではないだろうか。そんな風にも感じております。

どこまで書けるか、がんばってみよー!!。(^▽^)/


以上、読むことと書くこと、パート2でした。



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【レオ】奴らを高く吊るせ! 〜LEO幸福人生のすすめ、から転載〜

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昨日、BSで放送されていた映画です。
子供の頃、テレビで見た西部劇映画ですが、主演はクリント・イーストウッド。
(以下解説のため冒頭の展開のみ、ネタバレ有なので、注意のこと!!)

主人公のクリント・イーストウッドこと、クーパーが、河辺で牛を引き連れていると、そこへいきなり9人の男たちが馬に乗ってやってくる … 。

クーパーが怪訝な顔をして彼らを待っていると、
いきなりクーパーは彼らに取り囲まれて、しまいには首に縄を懸けられて、縛り首にされ、吊るされてしまう!!

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そんな衝撃的な始まりで物語がはじまるんですが、

これは、子供の頃に見た時は、なんてひでえ奴らなんだ!!と子供ながらに憤りを感じ、その後、偶然通りかかった保安官に助けられ、なんとか命を取り留めたクーパーがどうなるのか。
気になってしまって、もう最初から画面に釘付けにされて見入ってしまいます。

そもそも、なんでクーパーは縛り首にされたのかというと、

お前の連れている牛は、盗まれた牛だ!!という言いがかりなんですよね。
言いがかりというより、クーパーからしたら、牛を売ろうとしている男に、きちんとお金を払って買った自分の牛なんですが、

9人の男たちは、その持ち主夫婦は殺されていた。お前が犯人だろう、というわけで、クーパーを犯人と決め付け、反論も殆どまともに訊かずに、さっさと縛り首にして吊るしてしまったわけです。

しかし、先にも書いたように、クーパーは、正規に持ち主に金を払って買ったと言う、その証書もあると、きちんと9人に言っている。
それは30代の男だったとも付け加えている。

だけども、9人の男たちからすると、本当の持ち主は殺されているんですね。奥さんと一緒に。しかも年齢は60代だし、クーパーが見せた証書は、当人のサインではない。
この食い違いゆえに、9人組は、お前はウソをついている、犯人だ!!と決めつけるわけですが。

裏を取れば、どういう話かと言ったら、
本当の持ち主夫婦のところに押し入った強盗が、そこで盗んだ牛を引き連れて出ていき、それをクーパーに売ったわけです。
だから、クーパーはその盗人の年齢を30代だと言っていたわけで、ウソをついているのでもなんでもない。その男にさらにお金を払って買った牛なので、証書もあるし、正規の取引をしたと思っている。

そういう事情なわけですが、9人組はそこまで事実を検証しようとはせずに、
クーパーの証言を聞いて、こいつはウソをついている、犯人だからだ、といって、証言の食い違いを「犯人であることの証拠」にまでしてしまっているわけです。

子供の頃は、冒頭のシーンを見るだけで、そこまで理解はしていなかったと思いますが、
ひどい9人組だ、クリント・イーストウッドが、あとで復讐劇に走るのは当然だ、みんな倒しちまえ!!と思って見ていたんですが … 、

いまあらためて見てみると、

9人組の、事実の探究能力の無さや、短絡な決めつけ方、などに問題があるな、と感じますね。
結局、この誤審にもとづくリンチ、縛り首が、のちのち自分らに対する復讐として跳ね返ってくる。
しかもクーパーは、実は元・保安官で、この事件のあと正規の保安官にふたたび返り咲き、私刑の犯人たちを逮捕する、という名目のもとに、これらの9人を追うことになるのですが、

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たちの悪いやつは、自分が危ういとなると、いきなり銃を抜いてクーパーを撃とうとして、逆に倒されてしまったり、
あるいは、先手を打って、集団でふたたびクーパーを白昼襲うとか、そういう手段に走るわけです。

そもそもが冤罪によるリンチが罪であり、その罪のゆえに追われている9人なので、自首すればいいんですけどね。実際、自首する一味のひとりも出てきますし。
クーパーは死んでるわけではないので、自首してしまえば、まさか逆に、縛り首になるわけでもないし、禁固刑を喰らうくらいの話なのに。
自己保身のあまりか、今度こそ本当にクーパーの息の根を止めて、逆襲してしまえばいい、などと考えるようでは、それこそ本当の悪人ということになります。これではクーパーに撃ち殺されても文句を言う資格もないでしょう。

 … というわけで、
そもそも、この9人はふつうの村人で、とりたてて悪人だったわけでもないんですよね。
けれども、牛を盗まれた牧場で老夫婦の遺体を見て、犯人探しに躍起となり、その犯人と思い込んでクーパーを吊し上げただけ、といえば、それだけの話です。
だから彼らは、当初は、正義のつもりで、この縛り首をやっているわけです。
ただし、その相手が実は犯人ではなく、誤認であった。事実の追及が不十分だった。というか、あまりに短絡的すぎて、整合性の取れない不審点があっても、見てみぬふりをして、即決で縛り首をしたのが、墓穴を掘ることになる原因ですね。
人の命を奪おうとした罰が、やがて、自分を裁く銃弾となって返ってくるという、カルマの刈り取り。
いくら正義のつもりでやったといっても、誤審を犯してしまった責任は負わねばならない。その罪が重ければ、当然、罰は受けないといけないでしょう。その罰から逃れるために、さらなる罪を犯そうともなると、もはや完全な悪人というしかない。そこには自己保身しかないからです。

この設定を見ると、欧米の裁判制度のことも考えたくなりますね。
冤罪を防ぐための三審制。慎重に、十分に議論しつくして、事実はどうであったのかを突き止める。
当事者の言い分だけでなく、他の証人の意見や、さまざまな物証なども揃えて、それらが間違いないと言える事実を現すまで、十二分な検証を行わないといけない。

映画「十二人の怒れる男」もそうですが、思い込みや決めつけ、短絡的な判断は、きわめて危うい、ということですね。
日本でも、痴漢の冤罪事件などがよく起こってますが、被害女性に同情するあまり、その人の証言のみを重視して、捕まった男が本当にその痴漢であるのかの検証を、十分に行っていないという事例が多すぎるでしょう。証拠不十分で捕まえている。
被害者が訴える以上、犯人は必ずいるはずで、容疑者が限られている以上は、その限られた容疑者の中で誰かを犯人に仕立てあげないと、今度は警察の面目に関わるからといって、戦後、数多くの冤罪事件が起こってしまったわけでしょう?
疑わしきは罰せず、というのは、100%の納得が行く理屈ではないけれども、無罪の人間を冤罪で何十年も刑務所に入れるよりは、疑わしきは罰せず、の方がやはり、より正しい選択の道でしょう。

要するに、限られた些末な情報の蓄積から、矛盾点を見出して、その矛盾はどう解くべきなのか。ウソが入っているのか。それとも解釈の違いなのか。誤解があるのか。細部の矛盾も見逃さない、鋭い観察能力と知性が必要ですね。
丹念に証拠や証言を集めて、間違った情報はカットし、正確な事実情報を、あるべき場所に、ピシッピシッと、パズルを完成させるが如くに、検証することの出来る知性の持ち主でなければ、刑事や名探偵などにはなれないことが、よくわかります。
細部の矛盾をも見逃さず、その小さなピースをも、きちんとあるべきところに、当てはめられる。納得性の高い説明をしながら、事実として論じることの出来る知性。それがなければ、裁判官にも検事にも、弁護士にもなれない、というか、なるべきではないでしょうね。それだけの知性が足りてない人は、資質に欠けているというべきなので、なってはいけない。そう、思いました。

事実の追及能力というのは、実はかなりの高度な知性を必要とするのだ、ということですね。
遺されたデータが限られていて、すべてのデータが残っているわけではない場合、なおさらそうですね。すでに起きたことの証拠は、何から何までが残っているわけではない。現実に起きたことの証拠は、そのごく一部しか残されてはいない。その残されたデータを並べて、失われた真相を、辻褄の合う、正しい事実関係を突き止めて論じるだけの知性が要る。
矛盾だらけのに、それを放置して説明も出来ないのは、投げやりというものであって、あとは頭が悪いだけの話でしょう。それではダメですね。
真実に肉薄すればするほど、矛盾と思しきモノは解消されてゆき、納得性の出来る説明がなされるものなんですよね。
真実は、縁起に矛盾しないからこそ、因果関係を明晰に述べることが出来て、整合性が取れるものだからです。

こういった検証が出来る能力は、知性と言うより、理性が必要と言った方が正しいでしょうかね。高次の総合判断能力ということですから、知性ではおぼつかない、それより一段上の能力が要るのかもしれない。

西部劇の話ですが(笑)、映画を観終わったあとに、そんな感想を抱きました。



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【レオ】「マハトマ・ガンジーの霊言 戦争・平和・宗教・そして人類の未来」を読んで、思うこと

マハトマ・ガンジーの霊言 戦争・平和・宗教・そして人類の未来 (OR books) -
マハトマ・ガンジーの霊言 戦争・平和・宗教・そして人類の未来 (OR books) -

霊言からの引用はしません。

ただ、霊言を読んで、いろいろと思ったこと、感じたことなどを、ちょっと書くだけに致します。
なぜなら、やはり霊言は、オリジナルのものを直接読んでこそのものだと思うし、出たばかりの本なので、下手に引用して誤解を招いても困りますしね。

ガンジーの唱えた「非暴力主義」というのは、何も知らずにそれだけを聞いたら、不思議な気がして、理解が難しい思想だろうと思います。
下手をすると、日本人の唱える左翼的平和主義みたいなもんか、みたいな誤解をされたら、それこそとんでもない話で、左翼のいいかげんな平和願望とは、まったく違うものですね。精神性の深さが何しろ違う。

ガンジーは言うまでもなく、深く深く神さまを信じており、魂の存在をも信じていますよ。肉体生命を人間の本質だなどとは思っていない。魂こそが人間の本質だと思っている。
そういう方が、非暴力主義によって戦う、ということは、この肉体生命を失おうとも、真理のために命懸けで戦うという意味なはずで、死んだら終わりと思って肉体に執着している、唯物論者の平和願望とはまったく違うことがわかります。

非暴力とは、不服従によって戦う、ということでもあるし、それは、非協力ということでもある、ということが、生前のガンジーの言葉を読めばわかります。

大英帝国に支配されていたインド人たちが、武力でもって戦うことは、そもそも不可能でした。制圧されたら終わりですからね。
けれども、彼らの命令に従わず、逆らって刑務所に入れられても、不服従をつらぬく、というやり方ならどうか。刑務所に入れられても懲りないガンジーの不服従、非協力は、イギリス人たちからしたら、これほど厄介な抵抗の仕方はないんですよね。
ガンジー独りだけではなく、その考えに共鳴した多くのインド人が、それこそ山のような数のインド人たちが、命令をきかず、ボイコットして仕事を放棄したら、ストライキしたら、これを強制的に従わせて働かせることは不可能。
見せしめのためにリーダーを血祭りにすればいいか、といったら、それこそそんな暴挙をやらかしたら、インド人の反抗心に一斉に火がついて、燎原の火のごとくインド全土に反イギリスの狼煙があがってしまいかねません。

ガンジーは、大英帝国がインドを支配しているといっても、支配されているインド人の方も悪いのだ、と述べていたと思います。支配されていることを仕方がない、と思って諦めている、受け入れてしまっているのが、奴隷のようなその地位を、いつまでも続けさせていることにつながっているのだと。

ガンジーは、魂までもが奴隷になってはいけない、精神は自由である、不屈の精神でもって戦うべし、魂の尊厳でもって戦え、と言ったのではないかと思います。
非暴力主義というのは、肉体的な暴力を行使しない、武器をもって西洋人のように殺戮のための戦いはしない、ということであって、それは<精神による抵抗>そのものを否定しているわけではないんですよね。

魂の自由は高らかに謳う。
人間の平等を強く強く訴える。
ただし暴力や武器を使って戦うのではない。

この点、マルクス・レーニン主義の採る暴力革命的な考えとは、まったく正反対。相容れませんね。真逆ですから。
一部イスラム教徒のような、戦闘的な在り方も選ばない。武力をもって制圧する、という考えは、ガンジーとは真逆の考えでしょう。

こうすると、ガンジーの非暴力主義は、真のキリスト者の唱える平和主義と、やはり親近性が高いように、わたしは思います。
トルストイと相互に影響を与え合ったガンジーですが、これは、幸福の科学的に言ったら、イエス様とマヌ様ということですから、愛の思想、許しの思想、そういった部分で似ているし、トルストイは日露戦争に反対していましたし。

生前のガンジー自身、クリスチャンが本当にイエス・キリストの教えを守っているのなら、わたしはキリスト教徒になってもいい、と確か言っていたと思います。本来のイエスさまの教えに、ガンジーは共鳴・理解する部分が多かったのでしょう。
バカヴァッド・ギーターの主人公であるクリシュナを、ガンジーはとても深く信仰していますしね。

霊言の中では、ガンジーの魂は、宗教的なる愛と慈悲の力によって、互いを許し合うことの大切さを、縷々、述べていたように思います。

一方では、武力や軍事力を使う必要性については、あまり深入りすることは避け、それはわたしの分を超えている難しい問題ですね、といったスタンス表現が多かったように思います。

国際社会は、トランプ大統領の登場を受けて、プーチン大統領、習近平、その他の大国のトップたちが、政治経済面だけでなく、軍事力・外交に関しても激しい駆け引きがこれから起こってくるでしょう。
その背景には、民族同士の不和、その大本にある宗教信条の違い、愛の心の不足、などがあるわけで、ガンジーが霊言で語ってくれているのは、技術としての政治・外交・軍事以前に、すべての人間にひとしく通じる普遍の部分ですね。そこを語って、人類にメッセージを投げかけているのだと思います。

その精神に学びながら、幸福実現党の掲げる政策をも一方でしっかりと応援する。これが信者としてのあるべき姿ではないかと、わたしは思いました。

それにしても、対話者の大川裕太さんはスゴイです。日本の総理大臣を今でも十分やってもらえる人ですよ。
なんども過去世において日本を支えた方ですから、当然といえば当然ですけど、やはりスゴイです。



* 参考文献としては、わたしがガンジー関係で読んだ本といえば … 

ガンジー自伝(中公文庫)
私にとっての宗教(新評論)
真の独立への道(岩波文庫)
獄中からの手紙(岩波文庫)
ガンディー魂の言葉(太田出版)
ガンジー・自立の思想(地涌社)

その他、世界史の通史でインド近代史を勉強したり、あとはネルーの書いた世界史とか、その他もろもろ読んでいるうちに、イメージが出来てきているガンジー像で、上の記事は書いています。
トルストイの伝記や書簡を読んで、そこでガンジーとのやりとりがあったことを実際に確認しながら、そういった面も踏まえて書いている。最低限でも、当たり前のようにこのくらいは勉強していないと、咄嗟に独自の感想文などは書けないと思うので、やはり常日頃の勉強が大事ですね。




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2017年01月19日

【レオ】紙媒体か、人間の記憶力か? 「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」感想3

もうすぐ絶滅するという紙の書物について -
もうすぐ絶滅するという紙の書物について -



C:‥ですが、フィルタリングなしで、ありとあらゆる情報が入手可能になり、端末を使えばなんでもいくらでも知ることができるようになった現在、記憶とはいったい何でしょうか。記憶という言葉は何を意味するのでしょう。電子召使いみたいなのがそばにいて、言葉で発した質問や、言葉にならない疑問に答えてくれるようになったら、私たちが知るべきことは何でしょうか。義肢的な存在が何でも知っているとしたら、それでも我々が習得しなければならないこととは何でしょうか。

E:‥考えをまとめて結論を導く技術ですよ。

C:‥そうです。そして習得するという行為そのものです。というのも、覚えたり学んだりということ自体、学ばないと身につかないものなんです。




遥か昔には、紙の書物に記録を遺す、ということすら出来ない時代が長く続いていた。
そういう時代には、口承・口伝によって伝えてゆくしかなかった … 。

そのため、仏陀の説法は、直説金口の記録としては残っていない。口伝えによって伝えられた、本来の教えのほんの一部が、上座部などの文献に後代になってようやく、紙媒体に記録されて、今に伝わっているものの、
当時の仏陀の説法そのものがいかなるものであったか、それを言葉そのままを再現した形では、知ることは出来ない。
仏陀の再誕であられる大川隆法先生が語る、仏陀の記憶そのものからひっぱり出した再現法話を聴けば、知ることが出来るんですけどね(笑)。

いずれにしても、ホメ―ロスの「イーリアス」や「オデュッセイア―」、遥か昔の神話・伝説の類は、その殆どが口伝の伝承を、後代になって紙媒体に書き写したもの … 。
紙媒体に転写できるようになったお蔭で、一文字一句、再現して、のちのちの時代の人であっても、その内容を知ることが出来るようになった。
紙媒体というのは、それゆえ、いくら有難いと感謝しても、し足りないほどの、画期的な発明であり、文明の基そのものでもあったのだと、わたしは思います。
紙に限らず、粘土板などの記録文もそうですけどね。要するに、文字として記録に遺せる媒体、ということです。

しかし、こうした記録メディアの発達は、その有難さの反面として、人間の記憶力を低下させる、記憶力の鍛錬というものをなおざりにさせる、という弊害もあるようです。

記録に安心したので、もう安心だ。記憶してなくても、記録書をひっぱり出せば、いつでも確認できるとなると、人は真剣になって記憶しようなどとは思わなくなる。
紙に記録し、電子媒体に覚えておいてもらえば、自分の脳味噌は覚えていなくてもいい、なんて考えてしまうようになる。

はるか古代にはこの反対で、記録が出来ないからこそ、人は真剣に覚えざるを得ないし、それがまた記憶力の鍛錬ともなって、たとえばインドの人たちはものすごく記憶力がよかったといいますね。記憶力が良かったからこそ、数百年のあいだの口伝伝承であっても、そんなに内容が変質してしまうこともなく、結構そのまま伝わったりも出来たのでしょう。
いまは、伝言ゲームをやった人はわかるでしょうが、10人にも伝わらないうちに、元の内容はどこへ行ってしまったのか、というくらい内容が変質してしまうなんてことは普通のことですから、口伝えというものは現代ほど不向きな時代はないでしょう。

記録メディアが発達した半面で、人の記憶力が低下してしまうのだとしたら … ?

あるいは、そうしたメディアが記録してくれるから、人間が記憶する必要はないのだ、と本当にそう考えていいのだろうか?と反省して考えてみると、

そうではない、というわけですね。この書籍の対談者たちが考えるには。

記録メディアがデータを保存して、さまざまな記録を保持してくれているからいいのだ、ではない、ということ。
あくまでも、人間が主体となって、記憶する努力を避けてはいけないのだと。



 … それでも我々が習得しなければならないこととは何でしょうか。

E:‥考えをまとめて結論を導く技術ですよ。

C:‥そうです。そして習得するという行為そのものです。というのも、覚えたり学んだりということ自体、学ばないと身につかないものなんです。




コンピュータや端末、あるいは、書籍や百科事典、その他の記録媒体から様々な情報を採り出せたとしても、
それらを見比べて、さまざまな考察を加え、総合して結論を見つけ出すこと。
そうした<人間の思索力>、<結論を導く力>は、人間が自己鍛錬する以外に鍛えようがない。自分で努力して、学問をして、さまざまなことを覚え、学習して、考える力を見につけないと、機械が考えてくれるわけではありませんし、図書館が人生の問題の答えを出してくれるわけでもないのですから。
コンピュータや電子端末は、データを引き出すことは出来ても、人間的思考が出来る存在ではないし、人生の謎に答えを出してくれることはない。これから先の未来でも<不可能>でしょう。
サンプル一覧を提示することは出来ても、世界で唯一の存在である、その人自身の求める答えは、その人自身の魂がみずから求めて探し求めるしかない。それが宇宙の真理、永遠の真理ではないかと、わたしは思います。

また人間が自らの力で記憶することの大切さは、その過程の中にこそ、自らの魂の力を高めるという役割があるからでしょう。
記憶することをサボって、すべて機械任せ、記録任せにしてしまって、自分では何ひとつ新たに覚えようとしない人は、その怠けた行き方そのものが、その人の記憶力を低下させて、思考力をも低下させるに違いない。

楽だからといって、まったく歩くこともしないで、エレベーターやエスカレーターに乗り、車に乗り、電車に乗り、足を使わなくなれば、筋力が衰えてゆくのと同じこと。
鍛錬をしなくなれば、筋力が弱ってゆくように、頭脳も使わなければ衰えてゆく。鍛えることで能力は上がってゆく。さぼれば衰える。それは普遍の法則でしょう。

というわけで、いくら記録媒体が発達しようとも、コンピュータがどれほど優れものになろうとも、そこに依存しすぎてはいけない。
自分の頭を鍛えるということは、それらを利用する行為とは、質的に意味の違った行為なのだということ。それを忘れてはいけないのだと、わたしは思います。


 … つづく。




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2017年01月18日

【レオ】本が無くなってしまった世界 〜 「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」感想2



二〇〇六年七月のニューヨークの大停電のことを思い出してみましょう。あれが、広範囲に拡大して、長引いたらどうなります? 電気がなくなれば、すべてが失われ、手の施しようがありません。それに対して、たとえ視聴覚的遺産のすべてが失われたとしても、本だけは、昼間なら太陽光で、夜だって蠟燭を灯せば、読むことができます。




それは、そうだ。
いくら電子書籍が便利だといっても、電気が無くなってしまったら、そのうち何も映らなくなって、タダの動かぬ端末になってしまうだけ。
極端な話、大氷河期時代にでも突入して、原始時代みたいな生活を余儀なくされたとしても、紙の書物なら生き残るし、読み続けることが出来るし、新たに生まれる子供たちに、教えることが出来る。

ひょっとしたら、アトランティスが沈んだ時にも、同じようなことが実は起きたのかもしれないなぁー、なんて。
当時にもひょっとしたら、電子書籍に似たようなものがあったかもしれない。アトランティス文明の科学技術からいったら、あっても不思議はないですね。
その場合、エジプトにこれを持って逃げても、使いようがない。植物の生命エネルギーを取り出すシステムを持ち運べないんだから、そうしたエネルギー源で動く端末は、無意味な代物と化していたかも、なんてね。

そうすると、いざとなると、やはり頼りになるのは、紙の本!!ですかね。



とにかく、二十世紀の音と映像の記憶が、とんでもない規模の大停電、あるいはそれ以外の何か別の経緯で消え去ってしまったとしても、私たちにはまだ本があります。本があればまだ子供に文字の読み方を教えることができます。




話が脱線しますが、

紙の本が無くなってしまう時代、もしくは、紙の本を持つことが禁じられている時代、を描いたSF小説、もしくは映画が、いくつかありますね。

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レイ・ブラッドベリの「華氏451度」は、紙の本を持つことが禁じられている世界の物語です。
そうした思想や文化のたぐいのものを所蔵する人間は、危険思想の持ち主とされて、逮捕され、書物は焼き尽くされてしまう。
この世界では、本を焼く仕事をしている役人のことを、ファイヤーマンといって、消防士の反対のような仕事をしています。通報された人間の家に、巨大な車で乗り付けて、片端から本をひっぱり出して積み上げ、燃やしてしまうのです。
映画にもなっていますね。
このタイトルをもじって、「華氏911」って映画もありました。


クリスチャン・ベール主演の映画「リベリオン」も、背景設定はこの「華氏451度」みたいな世界で、詩集を所蔵していたり、絵画を持っていたりすると、逮捕されてしまう。それらの品は全て没収。
要するに、文化的なるものを持つということは、個人としての思想を持つことであって<危険>という価値観の世界なんですよね。全体主義世界の不文律として、画一的なる人間こそが良しとされ、独創的な考えを持つ個人の存在は危険視されている。自分で考える人間は要らない、ということです。
この「リベリオン」の舞台設定は、初見では「1984年」かな、と思ったんですが、よく考えたら「華氏451度」の方が近い、というか、これだったようです。
オーウェルの「1984年」は、総裁先生も御法話や講演の中で、しばしば全体主義国家の危険を説明するために引用成されていますし、必読かと思います。
新刊の「繁栄への決断」所収のお話の中でも、この「1984年」の話が出ていましたからね。


それから、なんだっけ。
あー、ついこのあいだ初めて見た、デンゼル・ワシントン主演の「ザ・ウォーカー」というSF映画。これも、本が失われた世界というか、世界そのものが崩壊して、北斗の拳orマッドマックス、のようになってしまった世界ですね。
その世界で、デンゼルは一冊の書物を抱えて旅をしている。その本は何やら非常に貴重な書物らしい。それを奪おうと狙っているのが、ゲイリー・オールドマン演じる悪役。

というか、デンゼル・ワシントンがケンシロウばりにめっちゃ強すぎて、これ、主眼はバトルアクションを描くことなんじゃね?って感じですが(笑)。

それを言うなら、クリスチャン・ベールの「リベリオン」も、ガンカタという、銃とアクションの合体した、戦いのシーンを描くことが主眼で、詩集や絵画を持っていると許されないとか、そんなのは後半どーでもいいような感じになっちゃってるので(笑)。

全体主義への批判を主眼に置いているのは、「1984年」と「華氏451度」ですね。
やはりこうしたテーマ性の置き方が、一流の文学であるか、B級アクションかを分けるものなのでしょう。
ま、わたしはB級も観ますけれどもね。


本が無くなってしまったら、人はどうして、知識を後世に伝えることが出来るのでしょうか。
そのあたりを、次の記事で書こうかなと。

 … つづく。




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【レオ】古代の書物を伝え遺してくれた人たち 〜 「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」感想1

電子書籍という新しいメディアが誕生して、一方では多くの人の活字離れ、読書離れがあって、書店がつぎつぎと潰れていってしまっている昨今。
紙の本は果たして生き残れるのか … ?

もうすぐ絶滅するという紙の書物について -
もうすぐ絶滅するという紙の書物について -

この御二方は、それでも紙の本は生き残る!派であり、むしろ紙の本こそ最強!という立場のような感じです。まだ全部読んでないのでアレですが。

なので、読み続けながら、面白い論点だなと思った箇所を引用しつつ、わたしなりの感想をちょこちょこと述べる記事をいくつか書いてみたく思います。



しかし、書物が焼けてしまうような原因がいろいろあったからこそ、人間は書物を安全な場所にかくまおう、結果として収集しようと考えるようにもなったわけです。これが修道院の基礎となってゆくものです。




古代のアレクサンドリア図書館には、膨大な数の書籍がありましたが、これはカエサルがエジプトに乗り込んだ時にも火災が発生して一部燃えているし、のちにイスラム教徒の攻撃を受けた時にも燃やされたりして、むろん今ではもう地上に現存していません。

他にもこのような、所蔵された紙の本が燃えてしまう、という事件は数多くあったと推定されます。
ローマにあった書籍の所蔵場所も、同じように燃えてしまって、そこにあった本は消えて無くなってしまったそうだし。

けれども、そういう苦い経験があったからこそ、本を大切に思っている愛書家・蔵書家は、その大切な本が失われないようにと、安全な保管場所を確保しようと努力したのかも。という指摘。
それは、そうだと思います。

ここでは、修道院の名が挙げられていますが、修道院は、古代の書籍を現代に伝える大切な仕事を果たしてくれたんですよね。
中世ヨーロッパの真っ最中には、古代ギリシアの哲人の本ですら異端の臭いあり、ということで、表向きは評価されない時代が続いたといいます。
古代ギリシアが滅び、古代ローマが滅び、ゲルマン民族がヨーロッパを覆って、各部族国家を形成してゆき、やがてフランス・ドイツ・イタリアといった各民族特有の国が出来ていきますが、そういう経緯の中で、ローマ教会を中心にした、中世カトリックの伝道が行なわれる。
キリスト教世界としてのヨーロッパの誕生と形成ですが、この過程において、キリスト教の絶対性が認められてゆくのに反比例して、古代の書物は闇に葬られていったわけです。
ギリシアやローマの石像や神殿が破壊されたことも多かったし、ギリシア・ローマの哲学者や知識人の書籍もそうですね。読まれなくなって、やがて存在すらも知られなくなっていった。

西暦1000年前後のヨーロッパというのは、かようにして、キリスト教一色に染められていった、まさに一神教の世界であり、それ以外の考えは異端とされるに到るわけです。
それゆえ、新たなる科学的発見も異端とされ、グノーシス他の神秘主義系の新興宗教が起きても潰される。バチカンの立場から離れたキリスト教理解は許されなかった。

まぁそんな状態だったわけですから、ヨーロッパの精神文明は単色化してしまっていて、だからこの当時は、イスラム世界の方が、思想や科学において著しい発展をしていた、といいますね。
なぜならイスラムは、ギリシアやローマの哲学・思想・科学的思考を学んで、それを実践面に応用して、文化・文明を発展させるという道を歩んでいたからです。
プラトンやアリストテレスの研究もしたがって、イスラムにおいて、より進んでいたわけで、これが12世紀頃のヨーロッパに逆輸入されて、当時のキリスト教を揺さぶるんですよね。
古代のギリシアの哲学と、キリスト教の真理とは、どのように整合性が取れるものなのだろうか?という大問題です。
これを思想として大成してまとめあげたのが、トマス・アクィナスの「神学大全」であり、スコラ哲学と呼ばれるものですが、それゆえこのスコラ哲学は、弁証法的に、哲学的思弁と宗教的信仰が統合されている。
のちの大学では、このスコラ哲学を学生たちは学ぶはめになり、ずいぶん多くの学生が辟易していたようです。たしかルターも辟易していたと記憶していますが。

一方では、中世のヨーロッパでも、修道院の中で古代の文物が、書写という形で転写され、ひそかに書き残されていたんですよね。写本ですが。
修道院に入った修道僧たちは、古代の書物を筆写して、それを写本という形で所蔵し、文化の消失を避けたわけです。
イタリア・ルネサンスの中心は14,15世紀のことだと思いますが、この頃には、ギリシア・ローマの文芸復興で、ペトラルカなど多くの文人が、これらの著作家の写本を求めて勉学に励みました。

中世からルネサンスを経て、こうして、キリスト教とギリシア・ローマ文明が融合する。そうした知識と智慧の融合のためには、<書物>という形で遺された写本の存在が不可欠で、これを伝えてくれたのは、ヨーロッパ世界においては、主として修道院の修道僧たちだし、あとはイスラム世界の学者たちのお蔭。

わたしたちは、こうした方々の努力のお蔭で、この21世紀という時代に、古代の書物を読むことが出来るんですよ。だから、感謝しなくてはいけませんね。




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