2017年02月16日

【レオ】ベガの戦士vs悪質レプタリアン 〜奴隷貿易で働いた悪人は誰だったのか?〜

某芸能プロダクションの社長霊言の「キーワード」に、<レプタリアン>の文字があったせいか、
今朝の起き抜けに、ふっと、こんなテーマが思い浮かんだ。

 

当会映画「UFO学園の秘密」で描かれていた、ベガの戦士と、悪質レプタリアンの戦いのシーンが、なぜか頭に浮かんで、この映画と重なるんですよね。気のせいかもしれないけど(笑)。

 

ベガの戦士は、愛する人たちを守るため、彼らの美しい心を守るために、邪悪な心を持った悪質宇宙人と<バトル>をしていましたよね。愛と正義の心でもって、戦っていた。

 

既刊の『地球を守る「宇宙連合」とは何か』にも、次のような文言があります。アンドロメダの総司令官の言葉です。

 

やはり、宇宙にも正義があるんですよ。「許していいこと」と「許してはいけないこと」があるのです。





私は、「守るべきものを守る」「宇宙の正義を守る」ということに対して、強い正義感を感じています。やはり、「宇宙において、悪は許すまじ」と思っておりますので、宇宙的正義の実現ということを、強い使命としてになっています。

我らは今、「宇宙における悪の軍団は絶対に許さない」という強い意志の下で結束し、戦おうとしています。

 
善なる心、美しい心でもって、調和して生きている人たちの幸福を、脅かす悪は、断じて許してはいけない。
人々を守るために、愛のために戦うというのは、宇宙的正義であって、普遍のテーマであるのだということ。

そういうことが、幸福の科学の<宇宙人リーディング>を数多く読むと、わかってきます。

 

 

歴史を振り返れば<奴隷貿易>という人類史の巨悪が思い浮かんできます。

この巨悪が、なぜか悪質レプタリアンのイメージと重なってくる。植民地主義や奴隷貿易。人間を捕獲して、奴隷として売り払い、巨額の利益を得るという … 。

まさに人を人として思わず、巨額のお金を儲けるための、物品か何かのように扱っていた、過去の悪行ですね。そういうものの一つに、奴隷貿易というのがある。

 

今回の悪質芸能プロダクションの実態というのは、こうしたかつての<奴隷貿易>を行なっていた悪質証人の姿と、重なりはしないでしょうか。

こういう悪事をやらかしていた魂たちが、人を売り物として扱って、みずからの私腹を肥やし、しかして、そうした売り物とされた人間たちは、まるで<奴隷>のごとく、こき使われて働かされている。彼らには人権など無いとでも言わんばかりの横暴と、権力による強制でしょう。

 

キリスト教を信じているはずのヨーロッパ諸国家が、なぜに、植民地主義などという行為に走ったのか。その背後には、悪質な意図を持った一部の魂たちの暗躍がなかったか。

未開の民族を啓蒙する、という美名のもとに、支配し、隷属化させ、彼らの人権を踏みにじった、悪質な魂たちの存在。

 

彼らの悪を許してはいけない。

過去において処罰を受けていないのなら、その過去の悪事をも暴きつつ、彼らに正義の鉄槌を振り下ろさないといけない。

愛の世界を守るために、正義の剣は振り下ろされる。邪悪を倒し、滅ぼすために。

 

悪のカルマの刈り取りは、現文明においては、違った形として現れているので、わかりにくいようにも思えるけれど、

深く物事の真実を穿ちみれば、確かに、過去の悪行のカルマの刈り取りは、現世においても行なわれているんですよね。

マヤ文明で生贄の心臓を抉っていた人が、外科医となって、人の命を救うことで、悪しきカルマの解消を果たさんと、努力することが許されているように。

 

悪質宇宙人や、侵略者、植民地主義の首謀者、それから、奴隷貿易商人たち、他の人を人とも思わず、愛の正反対の行為を行った魂たちは、いつの日にか必ずや、その悪しきカルマを刈り取るための<課題>に直面させられる。自分の悪事の本質を、みずから見つめざるを得ない状況に追い込まれ、いやでも改心せねばならぬ仕儀に立ち至る。

 

今回の某プロダクション社長の守護霊霊言。まだ拝聴していませんが、ことは宇宙的スケールの問題にまで関わっているようですから、

上のような、地球の歴史上のカルマの刈り取りも、このエル・カンターレ降臨の時代に、一挙に噴出して、その解決のときを得ているのかもしれません。

 

主の正義の光は、芸能界の闇をも照らし出し、そこに巣食う悪の存在を暴かんとしている。

本来の光の世界へ戻すべく、そこに生きる人たちが、愛と喜びの活動が出来るようにと、いままさに、照らし出しているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 



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posted by ガンレオ at 08:29 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月15日

【レオ】頭がいいなぁー、この人 〜わたしは軍師的な<頭の切れる人>が好きらしい〜

この記事はAmebaのLEOブログで書いただけで、ガンレオ共同ブログには転載してなかったので、遅まきながら転載しよう!!
清水富美加さんの過去世に、名軍師の過去世があると知ったので!

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LEOブログより転載、追記あり
http://ameblo.jp/space-people/entry-12204138002.html

頭の良さといっても、どんな点での頭の良さかによるので、一概には言えないと思いますが、

論理の切れやシャープさ、教養と思考力の深さ、鋭さ、そんなところで、頭いいなーこの人と感じた人はといえば、

ふたたび霊言に登場したキッシンジャー博士ね、この人の著作を読んだときに、頭いいなーこの人、と感じました。「外交」という分厚い本ですけどね。近現代のヨーロッパからアメリカまでを鳥瞰した外交史に脱帽です。

外交〈上〉 -
外交〈上〉 -
外交〈下〉 -
外交〈下〉 -

この翻訳を監修したのが岡崎久彦さんですが、岡崎さんの著書も読んでいて、頭いいなーこの人、と感じます。
二人とも、圧倒的な教養と、その教養をベースにして隙のない論理を立てて、結論をビシッと出してくるんですよね。しかもその結論も一つで決めつけたりはせずに、変数がある場合には、ケース・バイ・ケースで判断が違ってくることも踏まえて、論述してくる。

過去世を見ると、二人とも歴史に名を残す軍師なんだそうです。中国の歴史書に登場する方らしいですね。軍略家の頭の切れが、わたしは好きなのかもしれない。
そういう魂であって、今世は外交畑で働いたお二人ですが、外交の筋を読み取るためには、自分の国の情報と動きだけでなく、他国の動きやその奥にある動機も読み取れないと、その後の外交で取るべき道筋が見えませんから、相当の博識と洞察力、考察力が必要になるわけだから、頭が切れる人でなければ務まらないんですよね。

昭和の軍人で言うと、石原莞爾が頭いいなーこの人、と戦争論の講義を読んでいて思いました。論理の切れがある人って、わたしは好きなんだなーきっと。そういうタイプが頭がいいと感じます。

哲学書だと、プラトンの「国家」を読んだときに、問答に登場するソクラテスのセリフ、思考過程を追って読んでいるときに、なんてソクラテスって頭がいいんだろう。と思ったし、
それを整然と著述しているプラトンも同じく、あったまいいなーこの人、と感心しながら読んだものです。
知を極めるというのが、自分にとっては憧れなんでしょうねー。だから、アッタマいいなーこの人と思える人に出会えると、素直に衝撃を受けて驚き、感銘を受けるんでしょうね。

むろん、他にも数え上げればキリがないくらい、頭のいい人というのはいますけどね。
あげるとキリがないのであげませんが(笑)。

あーいたいた、盟友のガンちゃんね。

わたしが、ガンちゃん頭いいと思うよー、なにしろ何を言ってるかオレも理解できないくらいだから、と茶化すと、ぜってー思ってないだろ?!と返事してきますけどね。

真面目に褒めても信じてくれないんだけども、まぁー茶化すと、って書いちゃってるけど、半分は真面目に言ってんだけど、信じてくれない(笑)。

ま、冗談は置いとくとして、(・∀・) ← 冗談かよ!!

最初に、論理の切れ、と書きましたけど、論理的な思考力って大切だと思うんですよねー。

対談本でも総裁補佐先生が、数学などをやったことで論理的思考力を鍛えられたのかなーという話が、何度か出てましたけど、

縁起の理法といい、原因結果の連鎖といい、これを正確に読み解くためには、緻密に論理を辿れる思考力がないと、無理ではないかなーとやはり思うので。

まったくトンチンカンなものを原因だと勘違いしてしまったのでは、物事の正確な判断すら出来ないし、原因を究明して、それを改める作業もできない、要するに、反省も出来ないってことになりかねませんからね。

論理のつながりがない、論理が飛躍してつながっていない、なんとなくそんな感じがする、とかいうのでは、ちょっと思考力としては危うすぎるので、やはり緻密性が必要でしょう。

科学の勉強などをすると、本当の原因を突き止めるために、いろんな実験とか行いますからね。
Aという条件によって結果がどう違ってくるかを正確に判断するためには、他の条件(BとかCその他の条件)は同じにして、ただ一つの特定条件(A)の影響を観察したりする。それは実際に、器具を使っての実験もあるし、アインシュタインが行なったように、光速についての思考実験もありますが、

どのような条件づけのもとに、どういう結果が想定されるのか、とか。

その反対に、この結果を引き起こす原因は何か。
さまざまな原因が想定されるかもしれないけれど、直接原因はこれ、間接原因はこれこれ、それらが複合的に影響してどうこう、など、大きな問題になるほど、高度な思考力が要求される。

歴史の洞察にしたって、ローマがなぜ滅亡したのか、その原因を述べよと言われても、いろんな学説があるでしょう。
主原因はこれ、間接原因はこれ、等々。
その洞察の深さ、鋭さによって、説得力も違ってくるでしょうしね。
社会学においても、ものごとの原因を究明する思考力、知性は要求される。
それがないと、ある行為によって生じる後々の結果を正確に予想も出来ないわけだから、たとえば、思考力のない政治家が下手な政策を取ると、大変な失政を招いたりもする。

原子分子の理論を発見するまでの歴史だって、思考による考察が先行してますからね。
それぞれの元素の質量が決まっても、どうも測定値と数値が一致しない。これは何でだろう。単一で存在しているものと、ふたつの原子がくっついて一つの分子を作っているものがあると考えると辻褄が合う。酸素や水素は2原子で1つの分子を作っているに違いない。とかね。

こんな思考と測定による検証が行われて、目に見えない世界の探究は行われてきたわけで、ミクロはそうした細胞や原子の世界から、マクロは宇宙の起源と果ての話まで。

その最終回答はいまだに見つかっていないけれども、こうした科学の発展においても、高度な論理思考が要求される。直感だけではわからないし、説明になっているとは認めてもらえないのが、科学的思考というものですからね。やはり論理性が要求される。

幸福の科学の科学とは、物理学や化学といった具体的な科学という意味ではなくて、科学的な思考にも耐えうる、理証を持った宗教の教え、幸福論である、という意味だと思います。

この科学的な思考力は、自分個人の心の問題、その原因を精査し、正しい原因を突き止めるためにも必要だし、大きくは、社会の問題や世界の問題の、原因と結果の連鎖、それを読み解く力にもなるものでしょう。

そう、思うのです。

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以下、追記 <2017-2-15>


幸福の科学の霊言では、歴史上有名な天才軍師の名がたびたび登場していますが、そうした方々が現代に数多く生まれ変わっている。

過去の名が有名な人もあるし、現代への転生者が著名な知識人や政治家であって、その人の過去世を訊くと、「実は、あの有名な天才軍師が前世であった … 」なんて話が多いですね。

わたしは天才軍師に憧れるので、そうした過去世を持つ人が、現世においても頭のいい人だったりすると、その共通性に、とても感動するのです。

過去世を知らない時点で、わたしが愛読していた著作家の人たちがいるのですが、
この記事でも書いたように、キッシンジャー博士とか岡崎久彦さんね。このお二人は、先入観なしに文章を読んでも、圧倒的な教養力と、その教養を元にした切れのある論理的思考に、読んでいるだけで唸らされます。頭いいなー、この人、といって、感心しながら読んだものですが。

過去世の名前を知らずとも、今世のその人の識見を読むだけで、教養力と頭のシャープさはわかりますからね。匿名で書かれていてもわかりますよ。内容で判断する、というのはそういうことで、知名度で眩まされるのではなくて、中身そのもので良し悪しを判別するのが、真の読書力でしょう。

なので、自分が感心して読んだ人が、実は過去世の名軍師と聴くと、ああ納得!です。

明智光秀 … 。教養人で、智将ですね。信長や秀吉よりも、その教養は遥かに上で、知略の面でも別に劣っていたわけではない。
現在の評価では、主君への反逆者であって、旧い観念から抜け出せなかった古典的教養人で、それゆえ、時代の先を見ていた信長や秀吉のように、天下人になる器ではなかった、みたいに言われることもあるけれど、わたしは個人的には、明智光秀のような人物は好きだし、尊敬しますね。堅実な思考と、伝統を大切にする心は大切でしょう。信長暗殺は、やってよかったことだと、いまでも思っています。あの破壊者がそのまま天下を支配したら、恐怖政治の雰囲気が漂う国になっていたかも、と思いますから。

黒田官兵衛も出て来てましたね。息子の長政は、なぜか韓国の大統領に転生していたようで、同時代に父親の官兵衛は、日本の国で知識人として言論活動を行っていた。この方の思考もシャープで鋭いですよね。文章が簡潔で切れのいい調子で、国際社会の裏システムを読み解いて、とても勉強になる。

劉邦に仕えた天才軍師・張良も好きですし、霊言を読んだら、軍略の大要というか、やはりその智謀の元に何があるかの話は、読んでいてワクワクしました。

軍師の頭の良さというのは何でしょう。
自分の国がどう動くべきか、ということを決めるためには、主観的に「こうしたい」「ああしたい」なんていう欲求レベルで動いてるのではダメであって、国家同士の関係には、友好国や敵国の動向もからんでくるわけですからね。
自国の内情を知るだけではなく、敵国についても知悉していないといけない。そうした広い視野で物事を見る大きな目と、さらにそれらの細部にも目が行く緻密な観察力もなくてはいけないのです。
そうした識見の高さ、圧倒的な情報量・教養をふまえて、何がベストの対策なのかを考える、そして実行する。
彼を知り、己を知れば、百戦危うからず、という孫子の言の如く、
自分を知るだけでは足らず、相手をも知って、その上で戦う、戦略を練る。戦わずして勝つことが最良の戦略。
孫子の転生が、戦国時代最大の武将の武田信玄その人であることにも、納得です。

諸葛孔明の戦略を見破って、蜀軍を撤退させてしまった司馬懿仲達。司馬懿がそんなところにいたとは!!

それから、徐庶ね。あれは正史の方でも同じ話があるんでしょうか。演義の方の話なんでしょうか。確認していませんが。
最初、劉備のもとに、まだ孔明が現れる前、その直前の話ですが、徐庶という、これまた天才的な知略の持ち主が現れて、劉備軍の軍略を立てるんですよね。そしたら、敗けてばかりの劉備軍が大勝してしまった。
戦略というのはスゴイなー、という典型例ですが、このとき働いたのが徐庶ですね。そして初登場時には、ついに孔明という天才が登場したのか?という現れ方で、間違えられていたわけですが、しかし孔明に勝るとも劣らない天才だったわけです、徐庶自身も。

しかし、この徐庶が劉備側にいては厄介だからといって、魏は、徐庶の母親を捕虜にするわけです。母親思いの徐庶は、本当はそのまま劉備に仕えたかったのに、母を放置するわけにいかず、劉備の元を去って、魏に向かう。
その後は、やむなく魏に仕える生涯を生きた、悲しい軍師、それが徐庶という人ですが、この人が劉備の側にいたら、孔明や龐統と並んで「三大軍師」と呼ばれたことでしょうに。




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posted by ガンレオ at 08:24 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】幸福の科学信者ブログについて考える その2 <2016-09-10の記事>

といっても、すでにこういったテーマで記事を書いたこと何度もあるので、今さら改めて新規な視点が出せるわけでもないんですけど … 、

在家信者の行動の一端として、こうしたものがあってもいいんじゃないか、くらいのスタンスでやれば、別に大仰に考える必要はないと、わたしは思うんですけどね。

近刊の総裁先生のご著書で、スマホやネットの危険性に関してお話があるとのことなので、この危険性については重々注意して、ネット依存の度が過ぎてはいけないとは思いますが、
まぁ一部、在家信者の中には、こういったブログ発信によって、当会情報を発信してみるとか、そういうものがあってもいいとはやはり思います。
なにも全員がやるべき、などと言っているわけではないし、この方面で何か役に立てることがあると思えるなら、その人はその信念のままにやればいい、と私は考えます。適材適所はここでも有り得ると思いますので。

むろん、幸福の科学および幸福実現党の名を出して、信者ブログ、党員ブログを書くのなら、発言内容にもそれ相応の責任が生じるのは当然だし、本部のチェックを受けずに自由にアップできるからといって、好き勝手でデタラメな発言をして許されるわけがありません。

幸福の科学という団体はきわめて自由な教団であって、基本は所属している各人の自由選択によって、各行事の参加なりお布施なりをすることが許されている、寛容かつ自由な雰囲気をもった自由教団だと思います。
とはいっても、その自由には責任が伴うというのが、幸福の科学においては当初より基本的な精神として語られていたことですから、在家信者が自由にブログを作り、自由な発言をするといっても、信者を名乗る以上、幸福の科学の教えを捻じ曲げ、改悪して逆宣伝をしたり、滅茶苦茶な解説をしたりするようでは言語道断。マイナス行為を行なうブログがあったら、その霊的責任は当然甚大なものになるはずで、それはいずれ、その人個人が死後、みずから独りで担うことになるでしょう。

哲学者カントは霊言の中で、つぎのように述べていました。



いろいろな考え方を、万人が発信できるわけです。
私もよく分かりませんが、今、インターネットとかいう世界では、各人が「出版社の機能」を持っているような、あるいは「言論人の機能」を持っているような、そういう情報発信ができるようになってますよね。
私たちの時代から見れば、一般人の言論などというのは、ほとんど無価値に近い、隣近所での話にしかすぎないような内容です。そういうものが堂々とほかの言論と一緒になって混ざってくるなかで、真偽を見極めるというのは、とても難しいことではないかと思います。




個人が好き勝手に情報をアップできる、というインターネットの世界ではありますが、それゆえそこには当然、読む値打の全く無い、無価値の発信内容も多いし、あるいは個人の愚痴や不平不満でしかない、害悪の垂れ流し発言でしかないものも多いわけであって、玉石混交といっても、玉は滅多に含まれているはずがなく、圧倒的に多いのはただの石ころ。読む値打もない一般人の言論にすぎない。まさにカント先生の指摘している通りだと思います。

そうした中で、情報発信をするのなら、幸福の科学の信者としては、出来うる限り、玉に近づくべく頑張っている、そうした内容に向けて常に努力精進して、そうした良質の内容をこそ発信すべきだと思います。それは当然の責任だと思います。
それが出来ないのなら、むしろ黙っていた方がいいし、ネットの大海に余計な石ころを増やすだけの行為は無意味でしかないでしょう。

とはいってもネットの世界はすでに存在してしまっていて、これは世界中の人がアップし続けることをやめない限り、これからもずっと多くの石ころが毎日限りなくあがってくるはずで、そこで本当に知る価値のあるモノのみを選択する、良質のもののみに触れて、あとは無視する。こういう道を選ぶしかないようにも思えてきます。あとは完全に縁を切るかですけどね。関わるのなら、情報の取捨選択能力と、時間配分の出来る意志が必要でしょう。
ネットに散乱する無数のデータを眺めつつ、それらの真偽をきびしく見極める目をもって対応するしかない、そして無駄な時間は出来る限りカットする。必要最小限の時間以外はネットに取られないようにする。そうした努力と工夫なくして、振り回されず利用することなど出来ようはずもありませんから。

その判定の自信がなければ、ネットなどには一切かかわらず、著名な人物の書いた良書をのみ信頼して読むとか、そういった安全な道を選んだ方がいいのかもしれません。

とはいえ、わたし自身はすでに自分でブログをやっている以上は、
自分自身、できうる限り、善き内容のものを発信して、読んだ人にとって精神的なプラスになるようなものを書けたらな、と思って、これからも書き続けるつもりでいるんですけどね。
書き手としたら、読者が読んで、時間の無駄にしかならないような愚劣なものは書いてはいけない。読んでためになるもの、有益なものを厳選して書く努力をすればよい。それ以外にない。
だから、幸福の科学にとって、善き宣伝になるようなものが書けたらいいな、と思って、ブログを書く。
一在家信者のブログにすぎないけれども、幸福の科学で学んでいる人間としての発言として、内容的におかしくないもの、信者として恥じないような発言内容、学んで得たと信じていること。そういったものを、自分個人の責任において発信していくしかありません。

その内容が、幸福の科学にとってマイナスになるような内容であったら、多くの信者さんから忠告や警告が来るだろうし、あまりにそうした苦情が多い場合はブログを畳んでおとなしくしていた方が良いでしょうしね。
そうでない限りは、教団にマイナスのイメージを与えるのではなく、幸福の科学の一信者の意見として、そんな意見があってもおかしくはないな、確かにそうだ、と賛同してもらえる信者の読者が多ければ、それはそれで、別に存在意義があると解釈してもいいと思いますけどね。

内容の良し悪しは、多くの信者さんの判定によって自然となされるでしょう。善い内容なら人気が出るでしょうし、つまらなければ流行らず廃れる。悪質なものは通報されて問題視され、どのみち、まともな信者からは相手にされなくなる。そうしたものが害悪を流す場合は問題ですが、これは誰もが勝手に発信できてしまうネットシステムそのものに伴う問題ですから、それはそれで対処するしかない。
マイナスの事例が出るからといって、プラスの可能性を捨てるのは、包丁は危険だから、わたしは料理は素手でやる、と考えるようなもので、正しい判断だとは私は思いません。

などなど、いろいろと考えるべきことはありますが、一般論として … 、
信者を名乗る以上、自由な発言にともなう責任はありますが、だからといって、あまりに過大な要求を一ブログに求めるのは問題ありでしょうしね。
一般の人たちが自由にブログをやっているものと比べて、内容的に見劣りするブログでしょうか。ふつうの目で見て、なかなか良い内容が多いブログだ、ということであれば、それは努力のたまもので、善い評価を与えてもらってもおかしくはないはずですしね。ブログを封鎖する必要まではないと思います。
逆に、こうしたものは全く要らない、となったら、自由の気風に反するようにも思えますしね。

まぁー総裁先生のお話をまだ拝聴していないので、早急な判断は出来ませんが、いまのところの私はブログに関して、ネットに関わることに関しては、そんなスタンスで接していますけれども。

記事を書く際に参考にするのは、ネット情報ではなくて、実際に手に取って読んだ本の感想が多いはずなので、ネットに振り回されて、ネット依存になっているとまでは思わないですし。
そもそも、ネット情報だけに依存して何かを書いても、そのネタは月並みで、誰もがすぐに発見できるような元ネタにしか過ぎないですから、よほど鋭い洞察力なり見識でもって感想記事などが書けるだけの腕前がなければ、魅力的な記事など書けようはずもないと思うので。

それ以前の、何の加工処理もされてないネット情報のコピペばかりでは、単なる情報伝達に過ぎず、大した魅力はない。
というか、そこには個性の刻印がないので面白くない。付加価値が感じられないので、単なる複製情報を読むくらいなら、オリジナルサイトを見れば済む話ですから、わたしとしては自分で書いてこそのブログだと思ってますけどね。

自分がいま学んでいる本を題材にして取り上げ、テーマ設定も自分で行ない、その論点で記事を書くからこそ、その記事には個性の刻印がなされていると、わたしは思うんですよね。

その記事がアップされるまで、今日なぜ、その記事テーマがブログにアップされたのか、読んでいる人にはわからないだろうし、予想外のネタのことも多いでしょう。
なぜそうなるかといったら、たまたまその日、わたし個人が読んでいた本がその本だったからで、今日のこの日に、この題材でこの記事を書く、というところに、わたしレオという個人の個性的なるブログであることの意義があると、わたしは思うのです。

個性的なブログ発信をする人が増えることは、信者がどのように物事を考え、判断する人たちであるのか、そのサンプルデータを多数、世の中に提供するという点でも、意味があることと思います。

大勢の信者、むろんそれは、まともな信者という意味ですが、正しき心の探究を日々なしており、その学びや理解力のつたなさはあろうとも、公式サイトの発言には見劣りがしようとも、現在進行形で学んでいる在家信者のさまざまな姿が、色とりどりに発信される場があってもいいのではないでしょうかね。

ネットを見ているのは、信者か信者でないかは関係なく、いまではかなり多くの人が見ているわけですから、そこに、まともな信者側からの発信内容、それも善き内容のモノが複数存在する必要もあるのではないか。とも思います。

あらゆるところに幸福の科学への関心を誘うためのキッカケが、網の目のように張り巡らされていってよいのではないか。ブログはそうしたキッカケの、とある一つの手法という目で見て、これからいっそう魅力的な磁場を有志が作り上げていけばいいんじゃないかな、と考えているんですけどね。
賛同してもらえる方は、レオのブログを読んでくれているのでしょうし、そんなのどうでもいいという人は、まったく別の世界で生きていってるのでしょうから、それはそれで各信者の自由ということで、いいのではないかなと考えるものです。


 … おしまい。



関連過去記事
幸福の科学信者ブログについて考える
http://ameblo.jp/space-people/entry-11987945262.html




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2017年02月13日

【レオ】幸福の科学信者ブログについて考える <2015-02-10の記事>

LEOブログより転載、定期的に再掲している記事です。
http://ameblo.jp/space-people/entry-11987945262.html


たしか以前、ブログについて考える、とかいう記事を4つほど書いたように思うので、
ひさびさに5ということで書いてみようかなと。

ブログって何だろう。
ブログを書くことにどんな意義があるんだろう。

ブログを始めて数年が経つので、そういったテーマがしばしば頭をよぎっては、考えることが多いんですが。

やはり個人の名をもって、ブログ記事というものを書く以上は、その人なりのオリジナリティーというものがあって、なんぼのものかと思います。

誰かが代わりに出来てしまうようなものでは、付加価値が無いというしかないので、
その人なりの独自性、個性的な主張というのが、やはりいるんだろうなと。


幸福の科学信者のブログ、という点から、思うことを述べてみようと思うんですが、

日々あらたに教わったことや、学んだことの宣伝に、ブログというものが何か有効な宣伝ツールとして使えないかな。
当初のブログ方針では、そうした視点があって、拝聴した法話や霊言の感想レビュー、みたいなものをよく書いたりもしていました。

これは今でも、リバティの抜粋法話レビュー記事などに、多くの読者が集まるのを見ても、よくわかることだと思います。
予定表で知った、あらたなご法話や霊言の内容を、いくばくかでも知っておきたい。どんな話があったんだろう。
出来たら直で全内容を知りたいけれども、全部というわけにもいかないし、いずれ聞いてみたい興味あるご法話でも、今すぐには聞けないから、
とりあえず速報でもいいので、ちょっとだけ早く知りたい。そんな気持ちでしょうか。

やはり、幸福の科学の信者だったら、そうした気持ちになるものだし、
その意味で、公式サイトの更新内容には、やはり関心が強いだろうと思われますよね。

公式サイトに出てくる、新ご法話や霊言の題名と、その内容の紹介。
それからリバティwebで出る抜粋レポートなどの速報。
いま話題の時事問題に関しての、当会スタンスの意見なり主張の述べられた記事、などなど。

ここにはやはりニーズがあって、信者なら知りたいと思うものだし、わたし自身もそう。
なので足繁く訪問しては、昨今のことで、何か新しい話があるだろうか、などといってちょくちょく見に行ったりしています。

何か、いまの自分にとって学べるものはないか、重要なお話はなかったろうか。
知っておくべき情報、視点。そういったものを求めて、自分は公式サイトを訪れます。
ニーズのあるところに人は集まる。
幸福の科学の公式サイトの情報は、信者だったら知りたいと思うし、それゆえ人気が集まるでしょう。

では、個人のブログでは、いったい何をやったらいいのだろうか。
ということに、ふと思いが戻るわけです。

信者発信の、ご法話感想メモや、本を読んでの感想、紹介のための文章記事、などというものは、公式サイト発信の正式のものに比べたら、情報価値としてはやや二義的な位置づけになるのかもしれません。

とはいえ、単に日本中の信者みなが、公式サイトを訪問して、個々に情報摂取している、だけよりも、
そういったことをしている信者個々人が、では実際のところ、それらの情報摂取や学びの日々のなかで、何を思い、どんなことを考え、感じているのか。
そんなテーマの記事発信なり、ブログ作成をしていけば
、公式サイトの人気だけでなく、そこを取り巻く信者たちの個性的な意見発表の場として、面白いものが出来るんじゃないか
ひとつの広がりの方向性がそこに生まれるんじゃないか、そんな風にも想像するわけです。

自分もそうですが、そんなオールマイティーに、あらゆるテーマで語れるわけではありませんし、
とはいっても、人間誰しも、自分にとって興味関心の深い分野というか、得意分野といったものがあるはずだから、
いろんなブロガーがブログを立ち上げて、個性的で、のびのびと自由に意見や感想を述べる、そういったブログたちの自己展開、繁栄発展があってもいいんじゃないかなー、とも思ったりするわけです。

信者だからといって、必ず幸福の科学のことを書かねばならない、なんてことはむろんないわけだけれども、
幸福の科学のことを書かなければ、幸福の科学の魅力を伝えるブログにはならないよなー、とも思うし。

今までは幸福の科学のことなど知りもしなかったけれど、
あらたにその存在を知って、幸福の科学から出る話なり、情報なりに、興味をもってくれる人が増えていってほしいなー。
そういう思いがあるとしたら、ブログにても、それを一つの指針にして記事を書いたら、
さらに宣伝力のあるブログが、たくさん生まれるのかもしれないな。
そんな風にも思います。

本を読んだり、支部や精舎に行って話を聴いたり、研修を受けたりして、
そのなかで得た情報や理解が、とても大切なものであり、多くの人に知ってほしいことならば、
それをブログというツールを通して、ちょっとばかり語って発信してみるのも、面白い試みなんではないかと、私は思うのだけれど。

自分の悟りというか、理解力が奈辺にあるのかが露呈されてしまうので、書きにくい。とか。

信者個々人のレベルで勝手に意見発表するのは、おこがましいというか、公式見解から逸脱する恐れもあるから、下手な発言はしないに越したことはないとか、

良識ゆえに、みずからを律する立場もむろんあるのだろうし、
正しき心の探求を行うほどに、ストイシズムというか、おのれを律するようにもなるだろうけれども、

本当に自分が自信があって、お役に立てそうかな、
このテーマなら、自分でも何か面白い感想が書けそうだ、
というものに絞って、あまり無理したり、出すぎたりはしないようにすればいいのだし、

本当に自分の得手な部分に沿ったブログというものを、
各人が請け負って担当すればいいんじゃないかなー、などとも思います。

商店街の繁栄というのは、いろんな種類のお店が並んでいるところに生まれるものだし、
それぞれの店での得意分野があればそれでよく、

靴屋さんでは、よい靴を買うことが出来れば、それでありがたいものだし、
時計屋さんでは、時計の修理が出来たら助かりますし、
お惣菜屋さんでは、おいしいお惣菜が並んでくれてると嬉しい。

そういった役割分担をしつつ、いろんなお店がある方が、お客さんからしたら嬉しいものだし、
個々の店がみな、あらゆる商品をすべて扱っている、なんてラインアップを見せてくれる必要はないんですよね。

それと同じことで、自分にとって、得意な分野に特化したブログを、いろんな人がやるといいなぁ。
そういった個性的なブログがたくさん増えて、多く並ぶようになったら、
それはとても魅力的な商店街のようにも見え、その賑わいが繁栄となり、訪問者の勧誘につながるかもしれないな。

そんな風にも思ったりもするのです。

いみじくも、「智慧の法」では、知的生産の大切さを教わったばかりでもあるし、
良識ある範囲での信者ブログ発信は、どんどんやってもいいのでは、なーんて個人的には受け止めてしまった次第なんですが、ハハハ。

ブログがメインである必要はないと思うけれど、
日々の仕事なり、家庭での役割をこえて、さらに空いた余力の部分があったら、

そんなブログをやってみるのも、何がしかのお役に立てることもあるかもしれませんね。


おしまい。


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posted by ガンレオ at 19:21 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】清水富美加さんのこと

芸能界の事務所の「搾取体質」の酷さは、昔から言われていますね。(むろん、まともな事務所もあるのでしょうけれど … )
かつての人気アイドルなどが年配になってから暴露した話などでも、人気絶頂のときですら、ふつうの会社員の新人ほどの給料すら貰えなかった … などという話がよく出ていました。

新人アイドルを売り物にして人気が爆発しても、スズメの涙ほどの給料を払って、眠る時間も与えずに働かせる。

お笑い芸人などでも、売れっ子にならないと、食べることも出来ないほどの、月に一桁台の数万円という話。

芸能界の闇というか、所属事務所が酷いところだと、本当に食い物にされて利用されるだけ、というのは本当のようです。

「およげたいやきくん」を歌った子門真人も、400万枚売れたのに、もらったお金がたったの100万円だったとか、そんな話も聞きましたし、それだけ売れたら歌い手の印税は莫大になっておかしくないのに、番組内の歌ということで、契約上、売り上げに関係ないんでしょうね。売れようが売れまいが歌い手の収入には関係ない。爆発的に売れたら、その儲けはレコード会社と番組の関係者とか、そんな人にすべて渡ってしまう。おかしいなーと思います。世間的には、子門真人が歌ってこその「およげたいやきくん」でしょう?他の人が歌ったレコードじゃ、誰も買わないんだから。なのに、歌った当人には利益がまったくない。その他いろいろあって、子門さんはテレビ関係に出るのも辞めてしまったとか … そんな話ですね。

 

今回の清水富美加さんの件も、当人が言うが如くに、売り出す前は「歩合制」だったのに、売れたら「給与制」で固定給ですか?しかも月額5万円って。休み無しで働いて、寝る時間が3時間しかないなんていったら、ふつうだったら迷うことなく速攻、辞めるのが普通ですよね。どう考えてもブラック企業。超・ブラック企業で、アイドルを働かせて搾取する悪徳事務所というしかない。

これは私の個人的な意見なので、幸福の科学本部の見解とは無関係ですが、ひとりの信者として、許しがたいことだと思うし、そこまで追い詰められていた清水さんの苦しみを思うと、可哀想で仕方がありません。

 

この守護霊霊言も、大川隆法総裁が気になっている、人気アイドルの守護霊霊言の収録、という意味でだけ読んでいたら、実は今回の、この電撃引退と出家のニュースです。

 



これは、この守護霊霊言の収録と、発刊自体が、主による、清水富美加さんの救いの御手ではありませんか。


主はすべての信者を見守っていてくださっており、その苦しみを見過ごすことはないという、まさに証明のような事件だと、わたしは思います。


そして、引退を発表した清水さんの決意と勇気、それをバックアップする幸福の科学本体の愛を、ひしひしと感じます。里村さんが表に出て、清水さんを守る姿勢の素晴らしさを思うとき、幸福の科学が、芸能界に対しても一言もの申す、そうした第一手のように思えてきます。


 


映画や芸術、文学作品、小説、マンガ・アニメ、いろいろと映像メディアがありますが、大ヒットする作品、かならずしも天国的で素晴らしい作品とは限らない、というのは、幸福の科学の信者であってみれば、自明の理のところがありますが。


世間的には、強烈なインパクトや問題提起があれば、いずれも問題作、話題作といって、持ち上げられてしまうところが、たぶんにありますね。


マスメディアの宣伝自体が、そうした善悪の判断を欠いた、センセーショナリズムに拠るばかりのところがあるし、それにそのまま反応してしまう世間もまた、無明のそしりを免れない部分があると言わざるを得ませんしね。


こういうのは「NO!」であると、神さまの目から見たら、明らかな邪悪の思想であり、テーマであり、人間の煩悩を助長するだけの低俗なものであるという一喝が、やはり必要だと思います。


人気タレントになるのは素晴らしいようでいて、自分が出る作品を好きに選べるような人は、そうそういるわけがないのでしょうね。大御所でもなければ、オファーの来た作品に出ざるを得ない。かつてのアイドルにしたって、みな好きこのんで水着になったり、セクシーな姿を見せようとしたわけではないでしょう。けれども事務所から指令が出たら、嫌とは言えないというか、それが当たり前だというような半ば強制の悪しきシステムが存在しているのか。


 


守護霊霊言に出てきた清水富美加さんの過去世を知ると、ものすごく頭のいい天才軍師の過去世もあるようです。この過去世、母親を人質に取られて、自分の意を曲げざるを得なかった、悲しい人生でもあったわけですが … 。わたしは、この人物、とても好きな人物ですので、清水富美加さん、応援したいですね。


幸福の科学の職員として出家なされ、早々に「千眼美子(せんげんよしこ)」という法名を、大川総裁から与えられた点を見ても、清水さんに対する仏の期待と、慈悲の思いが感じられて、期待の星だと私は信じます。


幸福の科学で作られる実写映画への出演だけでなく、アニメ作品にも声優として出演したりと、清水さんの活躍の場は、幸福の科学においてこそ、もっとも相応しい場が与えられると思いますので、是非とも頑張っていただきたいですね。


 


 


 



リバティ記事、紹介
清水富美加さん、芸能活動 引退ではない - 幸福の科学に出家した理由

http://the-liberty.com/article.php?item_id=12576




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posted by ガンレオ at 17:34 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

【レオ】P.K.ディックのSF小説「高い城の男」<ドラマ版> 〜日本とドイツが勝利したIFの世界〜

P.K.ディックのSF小説「高い城の男」。ヒューゴー賞受賞作品。
ヒューゴー賞というのは、ファンが選ぶ人気作品が受賞する賞なので、実際にファン人気のある作品ということになります。

以前、ヘラトリでも題名が挙げられていましたが、これは、第二次大戦で、枢軸国側が勝利し、連合国側が敗北した、架空の未来世界を舞台にした小説です。

 

ディックがこれを書いたのは、1960年代前半なので、この手のテーマ作品の先駆的作品でああると思います。

が、わたしはこれ、最後まで通読したことが、まだ一度もない。

高校時代に一度読み始めたものの、真ん中まで行かずに挫折し、いま再び、電子版で再読しているんですが … 、

 

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ちょうどいま、アメリカの方で、このTVドラマ版が製作中で、すでに第2シーズンまでが放映終わっているんですよね。

ちなみにわたしは、Amazonプライム会員になっているので、このシーズン1とシーズン2が無料で観られます。それぞれ10話づつあるので、合わせて20話分。

 

シーズン3の製作発表がされたそうなので、いまのところ、好評なのかなーと推測。

 

さっそく見始めたんですが、やはりドラマ仕立てだけあって、サスペンス色が結構あって、先が気になる物語展開ですね。

小説の方はサスペンス調ではないので、むしろ読み続けるのが退屈なんですが、ドラマ版の方はストーリー展開も、かなり変えて工夫して作られているもよう。

 

これは舞台設定が面白いので、ドラマの中で冒頭に出てくる、アメリカの地図を見るだけでも興味を惹かれるのではないでしょうか?

 

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ドラマ中の、この地図映像のように、アメリカの東半分以上は、ナチスドイツの統治下にあり、ロッキー山脈の西側、太平洋側の西部分を大日本帝国が支配下に置いている。

そういう世界設定です。

 

ドイツと日本が世界を二分する勢力になっていて、しかも、そのドイツと日本も、表立っては同盟関係とはいえ、必ずしも一枚岩ではない。相手を互いに信用しきってはおらず、いろいろと駆け引きがあるわけで … 、

一方、この世界で、被支配者の側になっているアメリカ人たちは、これまた表面上はドイツ人や日本人の下で暮らしながら、秘かにレジスタンス運動に身を投じている人たちもいる。

 

ドラマのヒロインも、そうした女性の一人で、レジスタントであった妹が〇〇されたことで、いつの間にか、自分もその戦いの中に身を投じてゆくようになるという、そういう展開。

 

面白いのは、この世界の中で出回っている架空の映画(原作では小説)が存在して、その作品の中では、連合国が勝利して、枢軸国側が敗れた世界のことが、ありありと描写されているのだという … 。

 

その作品が、この物語のキーになってくるわけですが … 。

ドラマ版では、この映像の所有をめぐって、敵と味方に分かれての攻防が行なわれて、そこに緊迫したサスペンスが展開しています。

賞金稼ぎの殺し屋みたいのが登場して、まぁー、不気味で怖い。

 

ドラマの製作総指揮を、「ブレード・ランナー」の監督リドリー・スコットが担っているので、かなり本格仕掛けのドラマに仕上がっているのだろう、と思います。

まだシーズン1の5話くらいまでしか見ていないのだけれども(笑)。予想、ということで。

 

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ニューヨークは、こんなんなっちゃってますね。

 

世界地図は、こんな状態になっています。

 

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赤と橙の部分が、ナチス・ドイツの支配する地域。

緑と黄緑が、大東亜共栄圏。

下の世界地図は、たぶん原作小説の方の設定なので、アメリカの分割地域が違っていますが、ドイツと日本に一部を占領されているのは、ドラマと同じですね。

 

歴史のイフ世界は、現実の世界を逆照射して、その意味をいっそうよく理解するための、別視点をも与えてくれることがありますから、興味のある方は、一読、もしくは、一見の価値ありでは?なーんて、オススメしたりして。

 

 

 



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posted by ガンレオ at 09:53 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】「言葉」というものを使って話し合う、この不思議な世界 … 

起き抜けに、ふと思い浮かんできたテーマ。

横になったまま、しばし、そのことについて考える … 。


片言でしか話すことの出来ない人の苦労。他の人に自分の考えを伝えることの難しさ。
言葉とは、なんだろう … 。


あの世においては、霊は以心伝心で思いを、相手に伝えられるという。
テレパシーで会話できたら、いいなー、などとも思うけれど、
肉体に宿っているあいだは、人間同士、相手の心を読み取り合うことは、ふつうは出来ないでいる。

相手に自分の考えを伝え、わかってもらおうとしたら、
言葉にて表現し、意志と考えを伝えないといけない。
相手の側にも、その言葉を理解するだけの力がないといけない。
難しい概念の話をする時には、話す方も聞く方も、その難しい概念に関しての理解がなければ、いくら難しい話を一生懸命しても、伝わることはない。チンプンカンプンだろう。

日常会話であっても、片言や単語しか発することが出来なければ、相手に自分のしたいことを、的確に伝えることは難しい。

言葉によって伝えなくてはいけないけれども、言葉というものを使いこなすこと自体が、実はかなり難しいことなのだ。
言葉に習熟しなくては、使いこなすなど出来ないのだから。聞く側も同じこと。
よく他の人の話を理解できるようになるためには、聞く側の人間としても、言葉に習熟しておく必要がある。
言葉に熟達すれば、話すのも得手になるし、聞く側になっても、相手の理解をよく出来るようになる。

あの世においては以心伝心。テレパシーのようにして、思いを伝え合うのかもしれないが、
地上において、肉体に宿っている人間同士は、言葉にてコミュニケーションを取らざるを得ない。

なぜ、そのような「言葉」というものがあるのだろうか。

有名なバベルの塔の話では、たがいの言葉が通じなくなるように、神の罰が与えられた、というような話が出ている。

世界中で、さまざまな言葉が使われていて、外国人とコミュニケーションをしようとしたら、どちらかが相手国の言語を知らなくては、会話すること自体成り立たない。
世界はそうなっている。

相手を知るためには、相手の考えを知り、こちらの考えを伝えるためには、たがいの言語を学ぶ、という大変な課題をクリアしないといけない。

単に相手に関心を向けるだけでは足らず、相手が使っている言語の仕組みを学び、単語をたくさん覚え、相手が語っていることを、相手の言語によって理解しないといけない。

言葉で考えを伝えあうというのは、地上世界においては、そのように迂遠で、たいへんな努力を必要とするようになっている。
それは、なぜだろう?


これは、自分以外の人間を知るためには、それだけの努力と忍耐、勉強、相手の考えに耳を傾ける姿勢、その他、さまざまな配慮が必要なのだよ。

 … ということを、人間たちに教えるための、仏さまの智慧なのではないだろうか。

迂遠で大変だからこそ、その課題を克服するためには、たいへんな努力を傾けないといけない。
簡単にすぐ、ツーカーで意志を疎通することなどは出来ない。
たいへんで、面倒なようであっても、相手の言葉を学び、理解し、それを使って語る努力は、その人に、忍耐力や、相手の心の奥をじっくりと考えてあげる優しさだとか、いろんな学びを実は与えてくれているのではあるまいか。

地上世界というのは、不自由な世界である。

けれども、不自由だからこそ、学べる「大切な何か」があるのだと思う。

言葉を使うことの大切さ、その言葉に習熟するための努力、長い時間をかけての学習努力、そこにともなう忍耐力の育成、相手の心を慮るやさしさ。

さまざまなことが、言葉というアイテムを使って生きる世界であるがゆえに、学べるようになっているのかもしれない。

迂遠な世界は、迂遠で大変だからこそ、
ツーカーで通じ合える世界では学べない、大切な何かを学べる機会を与えてくれる。

言葉もまた、そういうものの一つなのかもなー。

などと考えていたら、目がパッチリしてきたので、起き上がることが出来ました。

さぁー、今日も新しい一日が始まるぞ!!(笑)




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posted by ガンレオ at 09:02 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

【レオ】ぽん吉が … 

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ぽん吉が、AmebaのLEOブログの、アメーバピグの部屋に訪問してきていた!!(笑) Goopyなんて名前にしちゃって。
皆さん、どう思いますぅ?
アンチと化した分際で、わたしLEOのアメーバピグ部屋に、何の用があるんでしょうか?
こちらとしては、何の用もないんだけど、邪悪な退転者などにはね。

しかも、先月の1月だけでなく、去年の11月も。

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お前、なにしに来とんねん?

気持ち悪いから、訪問禁止にしといてやったよ。

まったく、お前のようなやつが、ピグを作成している姿を想像しただけでも、気色が悪いわ。
二度と来るな。
 … って、もう部屋にも入れんようになってるけどね(笑)。

あのキチガイのことだから、訪問のためだけに、新たなIDで別ピグを作るくらいのキチガイ行為はしかねないけどね〜。

まじめに生きろや、哀れな異常者よ。

少なくとも、幸福の科学の信者を30年やってきたんだろ。反省のひとつくらい、やらんでどーする?
0点で落第するだけなら、いったい何のための30年だったんだい?

本当に、可哀想なやつだ。




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posted by ガンレオ at 17:27 | Comment(1) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】厳父慈母 〜やさしさ8割、厳しさ2割、の人となる〜

厳父慈母、という言葉がある。
むかしの家では、こういうタイプが多かったのではないだろうか。

厳格な父親とやさしい母親。厳しさとやさしさを、両親のそれぞれが担っている、という関係。

父は厳しいが、母はやさしく、子供を見守り、育ててゆく。

これは、主が教えてくれている、優しさ8割、厳しさ2割、という人生の奥義にも合致していて、このバランスのもとでこそ、人は健全に、魂を成長させることが出来るように思う。

 

近頃では、この反対に、慈父厳母、という家もけっこうあるように思う。

わたしの知り合いにも、こういう家はあって、そこでは、お父さんはひじょうに優しくて、子供を怒ったり叱ったりはまずしない。しかし、お母さんが厳しいのである。厳しく子供を叱って教導している。

これは役割分担が、厳父慈母とは正反対になっているだけで、同じことだろう。片方が厳しければ、片方はやさしい、というのは、子供を育てる両親の役割分担としては、ひじょうに大切だと思われる。

 

 

厳父厳母、なんて家もありますが、父も厳しい、母も厳しい、なんて家では、子供は窮屈に感じて、家を早々に飛び出してしまうかもしれませんね。

やさしさを知らない家庭で育ったら、その子はぐれてしまうかもしれない。優しさを知らずに育ってしまって、その子自身、他の人への優しさを持たない人間になってしまうかもしれない。

あるいは、両親を反面教師として学び、逆に、他の人に優しい人間になることもあり得るけれど。ぐれてしまう可能性が、わりと高いのではないだろうか。

 

あるいは、慈父慈母ですね。

両親とも優しいのは結構だけれども、優しいばかりで、子供が悪さをしても、まったく叱ることもないような家では、子供は放縦のままに育って、ワガママなボンボンになる可能性が出てきますね。実際、そういう家庭は、現代では多いように思う。

 

慈 … 慈しみ、という言葉が当てられているけれども、この「慈」というのは、決して叱らない、怒らない、優しさだけの思いとは、違うのではないかと、今では思います。

 

仏教でいう慈悲というのは、仏があまねく、すべての生命に対して抱かれている優しい、育みの心かと思うけれど、そこにはなおかつ、厳しい眼も含まれているのではないかと思うのです。

仏が、人間に対して思っているのは、すべての生命を平等にあまねく愛しながらも、彼らの自己責任をも問う「厳しさ」が、そこにはある。

仏は、その慈悲の中に、厳父慈母の両方の思いを体現していて、人をやさしく見守りながらも、厳しく叱る父親のような眼でもっても、見ているに違いありません。

 

人は、やさしくされたら嬉しいけれども、やさしくされるだけだと、甘えてしまってダメな人間になりかねません。厳しくされないと、脇が甘くなってしまう危険性がある。だから、道を踏み外したら、厳しく折檻する父親のような厳しさも、ときには受けないといけない。

 

優しさ8割、厳しさ2割という、仏の教えは、人が健全に成長していくための、慈悲の世界そのものでもあるのだと、わたしは思います。

 

塾で講師をしていた時に、

やたらと厳しい先生がいましたが、その先生が来ると、生徒たちは緊張してシーンと静かになるんですよね。授業を聞いているあいだも私語は禁止。しゃべったりしたら大声で怒鳴られる。

でも、そんな緊張しまくりの、ピリピリした授業では、生徒たちは息が詰まるだろうし、その先生の科目自体を、嫌いになるかもしれません。

厳しさ2割どころか、厳しさ10割なので、これは、仏法真理に適ってない、教育の在り方なのだろうと、今では思います。

 

一方では、優しいだけの授業でもダメなんですよね。先生が怒らないで、優しい人だとなると、子供はつけあがるものです。ワイワイガヤガヤ、授業になっても落ち着かなかったりする。

優しい先生はこうした時に、ビシッと怒ることが出来なかったりしますが、それもまた欠点だと、わたしは思うのですね。優しいことは大切だけれども、教え子たちが道理をわきまえない行動を取った場合には、厳しく叱るのでなくてはならない。

 

わたしはどのような講師だったかというと、

それは基本は、優しい先生です(笑)。自称ではなく、他の先生からも言われるし、生徒たちからも言われたので、実際そうだったんですが。

ただそれでも、厳しくなる時には叱りましたよ。

体罰禁止と言われていたけれども、言うこと聞かずに騒いでる生徒がいたら、教科書で頭をはたいたしねー(笑)。

生意気な生徒の場合は、ドアから出ていけ。二度とこの塾に来なくて構わん!とまでいって説教した生徒もいましたが。そこまで叱ると、さすがにシュンとして、それ以降その生徒は授業の邪魔はしなくなりました。

面白いのは、生意気な発言をする生徒を叱ると、逆に、他の生徒からは、先生がよく言ってくれたといって感心され、他の生意気な生徒も、わりと従順になることでした。そのへんは、まだ子供なので、わりと可愛いところがあります。本音はどうだったかは、わかりませんが(笑)。

少なくとも、授業を任されている以上は、授業そのものを理想形に持っていくのが先生の使命であって、暴言を吐いたり生意気な発言をする生徒、あるいはガヤガヤうるさい生徒を放置していて、叱ることも出来ない、はたくことも出来ないでは、まともな授業など出来ようはずもない。

怒られることがないとわかっていたら、そういう生徒を自重させる力はゼロ、ってことになりますからね。収拾がつきません。体罰はいけないと言われようが、頭をはたくくらいはやっていいと私は思いますけどね。それでクビにするなら、すればいい。クビが怖くて講師が出来るか!です。

自己保身を第一にしたら、なんにも出来なくなりますが、いざとなったらいつでも自分を捨てられると思えば、子供の教育第一に考え、なにをすべきかという理想の教育に邁進できるはずだと、わたしは思います。

 

要は、教育の現場であっても、家庭であっても、厳父慈母ならぬ、厳しさと優しさの両面を体現することが必要、ということでしょう。

そして、あくまでも優しさが基本であり、これが8割、優しい人間になることが、とても大切。とてもとても大切なんだと思う。

けれども、残りの2割には、厳しく叱るような、厳しさ2割の人格も必要なんだと、やはり思います。

 

ひとりの人格、自分の中に、優しさ8割、厳しさ2割の人格を兼ね備えること。それが理想ではあるまいか。

そう、思うのです。

 

 



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posted by ガンレオ at 06:27 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】自分では語るほどの独自意見を持っていない、だから偉い人に代わりに語ってもらう、ってどうなの?

自分には、語るべきほどの内容は無い。
だから、偉い先生方に語ってもらう。立派な記事を書いている、プロの人の文章を読んでもらおう。幸福の科学や幸福実現党で言ったら、職員や幹部の語っていることをコピペして読んでもらえばいい。自分のような未熟な一信者や一党員のつたない意見を語るよりも、そちらのがいい。

 

なんていう考えで、コピペばかりしているのだとしたら、それがすでに学びからの「逃げ」だと私は思いますけどね。

 

自分で語らなければ、それは楽ですよ。責任も生じないし、難しい勉強もそんなにしないでいいんだから。

大切なことは、総裁先生が語ってくれる内容をコピペすればいいのだし、あるいは幹部が語ったことをコピペ宣伝すればいいのだし … 。

といって、いつまで経っても自分では語ろうとしない。

 

自分で語る気がない以上は、勉強だってそんなに真剣にはやらないで済みますから、それではいつまで経っても、こういう人は、自分で優れた意見を言えるようにはならないでしょう。決して、なりえない、と思いますけどね。

なぜなら、そうなるための努力をまったくしていないんだから。語れるような自分になるための、いっそうシビアな勉強と、語るための努力・工夫をしようとの意欲を、最初から持っていない。放棄してしまっている。

 

すべては、偉い立派な先生方の語ることにお任せして、自分はその内容をコピペすればいいんだ。自分のつたない意見なんて、語っても仕方がないし、どうせ世間には通用しないんだ。

 

これは一見もっともなようであって、けれども、自己修行の観点からしたら、明らかな逃げ、言い訳だと、わたしは思いますけどね。

 

よく、自分は空海を尊敬している、と言いながら、

空海さんは偉いんだよ、といって仰ぎ見るばかりであって、空海がどんな考えを持っていたのか、その考えを知りたいといって、著作を読んでみようとか、そういう努力をしない人を見かけます。

あまりも偉い空海さんの考えの深さは、我らのような凡人には計り知れないので、そんな難しい本は読まない、とくるわけですね。

 

あるいは、イエスさまの教えに関しても、イエスさまは神の子だから、あのような人間離れの生き方が出来たのであって、私たち凡人には、そんな「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」なんて出来ようはずもない。イエスさまを尊敬もうしあげはするけれども、その生き方を真似るなんて無理だし、そもそも望むべくもない。

 

こういう考えをする人がいますが、

 

あまりにも、先生たちを、偉大なる高台の上に持ち上げてしまって、だから凡人には真似の出来ない存在だ。我らに出来るのは、そういう方々を崇めるのがせいぜいで、その方々の本心が奈辺にあったのかなど、知る由もないし、そもそも無駄な努力というものだ。

といって、偉人を、人間ではないから、凡人が学ぶ対象にあらず、ただ仰ぎ見るのみ、みたいに捉えて、著作も読まないし、教えにも興味も持たず、知らんぷり、となるわけです。

 

巷の人たちに聞いてみるといいですが、

それは、お釈迦様は偉い人だったんでしょう。孔子さまも偉い人だったんだろうし、ソクラテスも偉い人だったんでしょう。

くらいは言うことでしょう。

けれども、こういう人たちのどこが偉いのか。どんなことを語ったから偉いのか。その内容までは知らない人があまりにも多いでしょう?

偉いのは認めるけれど、その内容を知ることには無関心、興味なし、ということなんだと、わたしには見えるのですが、違いましょうか。

 

結局、偉さの高台に持ち上げてしまって、人間的努力の対象外に祭り上げてしまう。

すると、お釈迦様が、なぜ人間の身体に宿って生まれてくださったのか、その意義が失われてしまうんですけどね。

偉大なる方であっても、ひとりの人間として生まれ、人間的努力をしながら、悟りを開き、多くの人に愛を与え、知恵をさずけたその偉大さに、学びなさい、という意味があるのに。

 

イエス様にしても、トマス・アクィナスは言っていますが、すべての人が目指すべき目標となるべくして、イエスさまは一人の人間としてお生まれになったのだ。ということですね。

天にいます見えない神であっては、凡人には学びようもないですが、そうした存在がひとりの人間として肉体に宿って生まれ、生き、死んでいったのを見る時に、

わたしたちは、その師の生き方に学び、出来る限り、師の生き方をみずからも体現すべく、人間的な学びの対象として、一人の人間としての先輩として、学ぶべきはずなんですよね。

 

それを、こうした方はもはや人間ではない、あまりに偉大な神のごとき人だから、その教えは余人の理解を超え、神の領域の教えであり、我らに出来るのは崇めるばかり。

なんていって、実は、真似をして生きることの厳しさから、逃れる言い訳をしているんではあるまいか。

 

先に書いたように、

自分では、語るべき内容を持っていない、自分のようなつたない人間が何かを言うより、すでに立派な見識を持った、諸先生方に代わりに語ってもらえばいい、というのは、上にあげたのと同じ思考パターンの人であって、

 

要は、自分としての努力を放棄していて、自分が優れた意見を述べる人間になるためには、どうしたらいいのか、そのための努力をしよう、という観点が欠落しているんですよ。言い換えれば、逃げている。

 

自分で語るのは、責任も生じますからね。つたない内容では恥ずかしいから、相当な勉強をしないと、ひとかどの文章なんて書けやしませんから。

表面的な情報収集しかしていないレベルでは、深い洞察の入った鋭い論点なんて、出てきようもないですからね。

要するに、そういう低レベルの自分の意見などを見られるよりも、プロの記事や偉い人の文章をコピペしまくって、それを羅列した方が、いい内容の総合デパートになるではないかと。

 

これが、コピペばかりのブログの出来る、裏側の理由というか、わたしから見たら、そう見えるということですけどね。

自分でなぜ書かないのか。書けないのか。最初から書く気すらないのか。そういう問題ですね。

 

逃げ、でしょう。自己責任、自分の責任のもとに、考えをまとめ、その成否を世間に問うだけの覚悟もないんではないでしょうか。

そう、問わざるを得ないと思います。

 

やはり、幸福の科学の信者たる者、情報の受け売りレベルでは話にならんのですよ。

少なくとも、何十年も信者をやっておりながら、語るのは総裁先生、職員の方々、自分には語るべき見識など無い、なんて状態では、話になりません。

 

書く時間が無い、などというのも、言い訳でしかないでしょうね。

どんなに忙しくたって、一年365日もあって、そのあいだに、ひとつか二つの論文をも書く時間がまったくない、なんてことは、あり得ませんからね。

書かないのは、書けないからではないでしょうかね。書けるのに書かない、ではなくて、書けるような見識を持っていない、ということではないか。

 

しかし、書けるような見識というのは、実際に、無数に文章を書きまくってみて、書くことの難しさを知る中で、自分を鍛え上げる努力なくしては、決して身に付かないんですけどね。

ただ漫然と、情報収集を10年して、コピペで代弁ばかりしてもらったって、最初から自分で語る気がないんですから、いつまで経っても、この人は自分の言葉で、優れた意見を言えるようにはならないでしょう。そのための努力をしていないからです。当然の帰結ですね。

 

あえて、そう、苦言を述べておこうと思います。

 

コピペ依存体質は、他力依存の、他人の褌で相撲を取ろうとする、人任せの行為ですよと。

 

少しは、自分で考え、自分で表現する苦労と、それを克服して初めて得られるものがあるのだ、ということを、もっと考えるべきだと思います。

偉い先生に学んでいるのは、自分自身もそうした先生のような人間に、いつしかなりたいと思っての師事ではないのでしょうか。

それがいつまで経っても、先生におんぶにだっこで、自分では何も深く考えもせず、語る際の工夫や努力もしないで、先生にしゃべってもらいます、では話にならないんですよね。

 

要は、そういうことです。

 

 



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2017年02月05日

【レオ】教えるのが下手だなぁ … 

 … と感じさせられる人に、しばしば出会うのだが。
 

なんというか … 。

 

自分が知っていることを話すだけの行為は、「教える」にはなっていないと、わたしは思うんだが。

教えるというのは、相手の理解力に合わせて、その内容を噛み砕いて、相手にわかるように伝える技術のことであって、これが出来ないようでは、単なる独り言の押しつけに過ぎないと、わたしは思う。

 

仏教で言う「対機説法」というのは、まずは自分が学んで深い智慧を得て、その上でその内容を、他の人にもわかりやすく説明できる、相手に合わせて話すことが出来る。

そこまで深く理解した人のことを言うのであって、単に自分が学んで知ったことをしゃべれる、だけでは、対機説法が出来るレベルには達していないと、わたしは思うのです。

 

大学時代に思ったのは、授業の下手な教授があまりにも多すぎる、ということで、

あまりにもつまらなく、わけのわからない授業ばかりなので、これじゃ授業に出ない学生ばかりになるのも当然だよ、と思ったものでした。

 

ある数学の先生などは、教卓の向こうにちょこんと座って、しかもマイクをずっと握っているんだけども、ぼそぼそと独り言のように教科書を読んでしゃべっているだけで、

その教卓のまわりに7、8人の生徒が集まっているだけで、その後ろはガラガラでした。

で、一番後ろに、いつ抜け出してもいいように座っている学生が数名。そんな授業だったんですけどね。1コマ90分の授業を、休憩をはさんで2コマ。180分間もその教授の話を聞いてないといけないなんて、馬鹿馬鹿しいでしょ?

だから授業には出ないで、教科書を勝手に独学して、試験でパスすればいいや、なんて学生が殆どだったわけです。聞いてもわからん授業、面白くもない授業を聞いてたって、時間の無駄ですからね。

 

この手の教授が、しかも一人じゃなくて、何人もいるんですよね。

いったい、こんなんでよく大学教授が務まるなー、と疑問に思ったものですが、大学教授というのは、研究が仕事であって、授業は片手間なんですよね。比重として。

それに、高校、中学、小学校の先生と違って、教師になるための資格も要らないんですから、教える技術なんかゼロでも、教授になれば大学生に教える立場になるわけです。

まぁーひどいシステムですよねー。

 

教えることが下手くそ、魅力ある授業を行なう技量など皆無な人が授業を行って、それに出なきゃいけないなんて苦痛を考えたら、大学生が授業をさぼるのは当然の流れだと思いますけどね。学生が悪いんじゃなくて、これは教授に、教えるための技術が無い、もっと言えば、教師を名乗る資格がない人が授業をやっているのが、大学というところではないか。

これに当て嵌まる、ダメな大学教授の数は、相当な数に達すると思いますよ。むろん中には、魅力的な授業を行っている名物教授もいるでしょうが、そういう人は滅多にいないでしょう。

 

ということで、

 

教えるということは、単に自分が知っていることをべらべらとしゃべれるだけではダメだ、ということ。

それは、生徒にわかるように伝える技術を持っている、相手に合わせて話をすることが出来る、そうした対機説法能力を持っていることを「条件」とする。

ということだと、わたしは思います。

 

いくら博識でいろんなことを知っていても、説明が下手くそで、誰一人として、その人の話に魅力を感じていない、聞いていてもわからず、面白くない、なんて先生はいくらでもいます。

一般人の中にもいるでしょう。

 

それは要するに、自分独りのひとりよがりの勉強の仕方はクリアしてきてるけれども、いろんな人の視点から、ものごとを見てみる。多角的に、多面的にものごとを見る、という訓練は、ほとんどやってきていない人、ということでもありましょう。

 

だから、自分にはわかる、と言い張っていても、他の人にわかるように、視点をずらして噛み砕いて話してみる、だとか、そういう、話し方の工夫、説明の工夫をするだけの力量がない。

幅広い応用力というか、すなわち対機説法ですね。子供が聴いてもわかるように、お年寄りが聞いてもわかるように。素朴な人が聞いてもわかるように。教養人を相手にしたら、また違った話し方で説明する。だとか、そうやって、相手に合わせて、話の切り口を変える。説明の仕方を変えるとなると、ヴァリエーションは無限に増えていくのがわかるかと思います。

 

それだけの多角的な観方でもって話せるようになるには、学ぶ時点ですでに、自分だけの単眼視点ではなくて、この部分は他の人が読んだら、どう思うのだろう、感じるのだろう、などという風に、想像力をたくましくして、学びながらすでに、単眼視点を克服して、複眼思考で学ばないといけない。そのくらいの学び方が出来ていないと、教えるのが上手な人間にはなれないと、わたしは思います。

 

他の人に教える、というのは、ひじょうに高度な能力を必要とするのであって、

自分が学業を学んで、よい学校に入ることが出来た、というのとは、レベルがまた違う、より上位の能力なのだと思います。

 

野球選手でもそうですよね。

選手としては一流。しかし、コーチになったら、誰も育てることが出来ない。

こういうタイプは、自分一個の能力としては完成していても、他の人に同じような能力を身に付けさせてあげる、そういう指導能力、教える技術はまるで持っていない。そういう人ではないかと思います。

 

勉強もそうですね。

その人自身は勉強が出来て、よく物事を知っている。

しかし、他の人に教えるセンスはまるでない。説明が下手で、教えるレベルに達していない。

対機説法が出来ないので、知ってることを鸚鵡のように繰り返すしか出来ず、相手に合わせて縦横無尽に切り口を変えて話してみる、ということが出来ない。

 

学ぶというのは、単に自分がわかれば済む話ではなくて、他の人に伝える技量をも踏まえて、さらに高次の学びを求めるのでなくてはならない。

わたしは、そう考えるものです。

そして、そういう風に考えて学び始めると、学びは無限の深みを求められるようになり、うかうかと自惚れている暇などは無くなります。

 

自分一個の理解で自己満足している人は、けっこう簡単に己惚れてしまうかと思いますが、こういう人は、他の人に伝えるという視点を入れたら、自分がまだまだ未熟も未熟である、という視点が欠けているんでしょうね。独りよがりなんですよ。だから簡単に己惚れる。自分に甘いタイプといってもいいかもしれません。

 

学びはあくまでも謙虚に。無限の学びを目指して生きるところに、慢心や自惚れの入る余地は無し!

そう思って、淡々と、みずからの学びを深めてまいりましょう。

 

 



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2017年02月03日

【公式サイトからのコピペ新刊情報】 女優・清水富美加の可能性 守護霊インタビュー

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女優・清水富美加の可能性
守護霊インタビュー

・著者 大川隆法
・定価 1,512 円(税込)
・四六判 183頁
・発刊元 幸福の科学出版
・ISBN 978-4-86395-876-0
・発刊日 2017-02-03
※全国書店は、発刊日より順次発売です

映画やドラマ、バラエティで大活躍
愛されキャラに隠された、
幅広い教養と神秘的な魅力。

いま、「共演したい女優ナンバーワン」
若手個性派女優の知られざる素顔に迫る。

▽演技に対する心がけ
▽共演者から好かれる理由
▽大人の女性として成長していくこと
▽「独創性」や「創造性」について
▽明らかになる過去世の秘密
▽今後の抱負とファンへのメッセージ


■■ しゅ・ご・れい【守護霊】 ■■
人間の潜在意識のことで、あの世から地上にいる人を守る過去世の魂。タテマエではない本音を語る性質がある。
目次
まえがき
1 人気急上昇中の女優・清水富美加の守護霊にスピリチュアル・インタビュー
2 女優としての「今の気持ち」を訊く
3 演技の魅力はどこから生まれるのか
4 共演者たちから好かれる秘密とは
5 清水富美加は“女子力”が高い! ?
6 大人の女性として成長していくこと
7 「アブノーマル」と「創造性」について語る
8 マルチタレント・清水富美加の過去世に迫る
9 清水富美加が芸能界で存在感を示す理由
10 今後の抱負とファンに向けてのメッセージ
11 清水富美加の守護霊霊言を終えて
あとがき


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【レオ】感想「UFO超古代文明対談 南山宏×並木伸一郎」

UFO超古代文明対談 南山宏×並木伸一郎 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス) -
UFO超古代文明対談 南山宏×並木伸一郎 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス) -

南山宏という方は、UFO研究家&SFの翻訳で、名前を知っている方です。

この対談は、雑誌「ムー」を発刊している学研で企画、出版されたものですね。
わたしは、「ムー」が創刊された頃を知っています。というか、創刊当時から読んでいましたよ(笑)。まだ子供のころでしたが、UFOや霊界情報、超能力や超古代文明など、摩訶不思議な話が盛り沢山の「ムー」に衝撃を受け、しばらくのあいだ購読していたものです。

スウェーデンボルグの霊界探訪を知ったのも、この「ムー」によってだったし、エドガー・ケイシーのライフ・リーディングの存在を知ったのも、「ムー」のおかげ!
雑誌「ムー」が教えてくれたことは数多く、懐かしい思い出と学びを与えてくれた、ありがたい雑誌だったと思います。

南山宏という人は、当時、こうした不思議や謎を扱った海外の書籍を翻訳していて、何冊か読んだ覚えがあります。
対談にも出ていたけれど、チャールズ・バーリッツという人が書いた「謎の海域バミューダ・トライアングル」ですか。ベストセラーになったそうですが、これも不思議な有名事件で、この海域はアトランティスがあった場所ではないか、とか、そういった話を聞きますね。アトランティスにあった何かしらのパワーがそこの海底に沈んでいて、それゆえこの海域では、飛行機や船の消滅事件が起きてしまう、とか何とか。

バーリッツが書いたのか忘れましたが、「フィラデルフィア実験」の本も、たしか同じ出版社から出てたような覚えがありますが、アインシュタインも参加してたんでしたっけ、あとはニコラ・テスラの理論を使って、軍艦がレーダーに引っかからないための実験が行なわれた。強力な電磁場を創り出して、レーダーに引っかからないための軍事技術の開発実験を行なってみたら、なんと軍艦そのものが消え失せてしまったという例の事件。
映画にもなってますね。「フィラデルフィア・エクスペリメント」。
その後もこの実験はひそかに続けられていて、その実験の副産物として、時空を超える技術が発見されたという、そんな話も、矢追純一の番組でやってましたっけ。真実はどうであるのか定かではないけれど、番組は確かに面白く、ガン見してしまうような面白内容でしたよ。youtubeでも上がってたなあー以前まで。

対談中で面白い話題がいくつも出ているんですが、

わたしが初耳だったのは、「日本空飛ぶ円盤研究会」についての話題でした。
この研究会には、星新一その他、数多くのSF作家が加入していたんだそうです。しかも後に有名SF作家になる人たちが、まだデビュー前の無名時代に参加していた団体らしい。
要するに、SF作家がUFOや宇宙人に興味を持って集まったのではなく、その逆で、UFOや宇宙人に興味を持った人たちが、のちにSF作家になったのだというね。
アダムスキーが出したUFO&宇宙人の本を、この会の会員はみな読んでいたそうです。
SF作家的空想がもとで、UFOや宇宙人の話が盛り上がったのではなくて、あくまでも、ノンフィクション扱いのUFOや宇宙人ネタがありきで、そういうものを素材として、彼らは想像力をたくましくして、いろんなSF小説を編み出したのだろうという、逆説ですね。これは、なるほど、と思いました。

ちなみに、この「日本空飛ぶ円盤研究会」には、三島由紀夫や石原慎太郎も加入していたそうですよ。天体望遠鏡のそばに集まって、UFO観測をしていたらしい写真に、三島由紀夫が確かに写っています。三島由紀夫は「美しい星」という、宇宙人テーマの小説を書いていますしね。


UFO&宇宙人ネタといえば、よくテレビで、信じる側と信じない側に分かれて、大激論をする番組があったでしょう。
信じる側の代表は、たま出版の社長、韮澤潤一郎。
対する、否定論者の代表は、大槻教授。
ふたりの議論は、茶化し目的でしかないような、番組での取り上げ方でしたが、大槻教授の突込みに、まともな返答が出来ない韮澤さんがどう見ても不利で(笑)、あれではUFOを信じる人間がまるで馬鹿みたいに思われてしまうであろうような「印象操作」であり、そのための代表二人のバトル設定でしたよねー。
このあたりを指して、南山宏さんは、この対談でつぎのように述べている。



否定論者たちはよく、人格攻撃的な手段を使って相手をやりこめるような否定の仕方をしますよね。
ああいうやり方を見ていると、「お前は他人の人格を貶めていいほど立派な人間なのか」と突っこみたくなります。 いまでは、否定論者とは議論もしたくありません。昔はカチンときて、テレビに向かって突っこむこともよくありましたがね(笑)。韮澤潤一郎さんとか、テレビで見ていてかわいそうになってしまうんです。お相手の学者さんは先生と呼ばれるのに、韮澤さんは道化役させられて……(笑)




韮澤さんって、悪い人ではないと思うんですけどね。けれども不思議なものを信じるあまりに、なんでもかんでも事実のように、証拠不十分であっても、のめり込んで主張してしまうから、否定論者から見たら、説得力の無い、あやしい人に見えてしまう。
ので、この南山さんも、韮澤さんに同情しながらも、かといって、韮澤スタンスを認めているわけではないのが、微妙といえば微妙ですが。

一方の大槻教授に関しては、南山さんは次のように述べている。



UFOや超能力の否定論者としてテレビで売っていた例の早大のO教授は、「UFOや超能力を本格的に研究している科学者などはいない。自分だけだ」と言い張っていますが、テレビでそう言った時点でウソをついていることになります。
自分だけといっても結局は否定論者ですがね。一般人ならともかく、ああいういい加減な発言は科学者の風上にも置けませんね。




と、辛辣です。
この発言が出る前には、欧米でUFO研究を真面目にしている多くの科学者の名前と発言が取り上げられているんですよね。で、その流れでもって、大槻教授はそういう事実すら知らないで、UFOに本格的に(否定的に)取り組んでいる科学者は自分くらいのものだろう、なんて自惚れていると指摘されているわけです。

この南山宏さんの発言は、他にも興味深い発言がたくさんあるので、一部紹介しましょうか。



科学者が<偶然>という言葉を使ったら、わたしは信じないことにしています。
偶然などという言葉で説明できるわけがない。そこには何らかの必然性が働いているはずです。




これも、わたしは大いに賛同しますね。<偶然>という言葉は、きちんとした説明を出来ない場合に、説明を抜きにして誤魔化すための<言い逃れ>のような言葉にすぎないな、としばしば思います。
霊的な真相や裏側を知らないで、単にこの世の現象だけを見てみたら、それは<単なる偶然>に見えてしまう。
けれども霊的な真実を知れば、そこにはきちんとした原因や理由があって、偶然でも何でもない。必然ですね。真実の背景を読み取れない場合に、偶然という言葉を使って、軽く片付けようとしてしまいがちですが、身内が亡くなった時に感じる虫の知らせであるとか、夢のお告げですね、その他いろいろ、不思議な<偶然の一致>みたいなものも、その多くは、霊的真理を知ってみれば、きちんと説明のつく<必然>なんですから。

以前、ガンちゃんと話した時に、わたしが言ったんですが、
「<偶然という言葉に気をつけよ>って言葉もあるしね」と言うと、
ガンちゃんが「名言だな!誰のことばだ?」と聞いてきたので、

「俺の言葉だよ」と返事しておきました(笑)。
偶然、偶然、言うやつの言葉は信用できないと。要するに、その奥にある神秘を考えていない人間の、言い逃れのための言葉だよねー、偶然っていうのは、科学理論で使った場合、大抵は<逃げ>の言葉。それ以上、説明がつけられないときに、<偶然>が重なってそうなった、とかいって、説明にもなっていないウヤムヤ誤魔化しで逃げている。そういう使い方が非常に多いな、というのが、二人の一致する意見です。

南山さんの言葉、他にはこんなのもあります。



現在の科学界では異端視されているようですが、あれは結局のところ、経験や行動から蓄積される情報が宇宙のどこかに、たとえばエドガー・ケイシーのいうアカシック・レコードのようにひそかに集積されているという仮説です。
これについては量子物理学者たちも本質的には同じことを語りはじめています。
神智学者のマダム・ブラヴァツキーにしても同じですが、彼らは決してインチキで言いだしたわけではなく、そんなアカシック・レコード的な何かから、何らかのインスピレーションを受けて、つまり特別な情報が入って来て、そういうことを言わされたり、書かされたりしたのだ、というのです。




地球から見た、太陽の見かけ上の大きさと、月の見かけ上の大きさが<同じ>だというのも、<偶然>で片づけるのは安直でしょう。そういう言葉も出てきます。
太陽と月の大きさは、まったく桁違いに違っているはずなのに、なぜか地球から見たら、ほとんど同じ大きさに見えるわけです。遥か遠くにある巨大な太陽と、近くにある小さな月なので、地球から見ると、たまたま同じ大きさに見える。というか、ほとんど同じ大きさになっているという不思議ですね。
これが同じサイズだからこそ、太陽の前に月がピッタリとはまってさえぎって、皆既日食なんて現象が起きるわけで、月が圧倒的に大きく見えるのだったら、太陽はもっと完全に隠れてしまって、皆既日食も金環食も出来ようがありませんからね。
これを<偶然>で片づけるのか。それともそこに、地球や月、太陽をつかさどる神霊の、意図をもった表現を何か読み取るかどうか。そういう風に作っている存在がいるのだと、考える知恵を持てるかどうか。隠された宇宙の秘密や神秘を見抜く、悟りの視点といってもいいかと思いますけどね。そういうものを、大宇宙の神霊は、さりげなく<不思議な一致>という神秘でもって、人類にヒントを与えているのではないでしょうか。


小保方さんのバッシング事件に関しても、南山さんは同情的です。



南山 例の小保方騒動はちょっとかわいそうでした。
ひょっとしたら彼女にはある種の超能力があって、自分の意識でああいう細胞をつくりだしたのかもしれない、なんて思ったりします。まあ、そんなふうに思うのは私だけかもしれませんが。
でも、あの人が最初からインチキを仕組んでやっていたとは、とても思えません。

並木 想念が作用したのかもしれませんね。




UFOや宇宙人といった摩訶不思議なものを信じる人は、単純な否定論者より、よほど緻密に思考して、その成否を検討しているのがわかります。
むしろ、単純否定論者こそ、否定の理屈がありきたりで月並み、遥か昔の唯物主義者と同じような視点でしか否定できていないですね。目に見えないから信じない、存在しない、とかそんなの。
紀元前から唯物主義者がよく使う、幼稚な否定のための論拠ともいえない論拠が多い。

目に見えない神秘を信じ、認め、それをさらに理論や思考によって論証していくのは、ひじょうに難しいことですよ。次元が上の世界を、下次元の三次元的な視点ですべて説明しつくすのは無理ですからね。
<信じる>という部分がやはり残らざるを得ないし、その飛躍の視点が持てない人は、三次元から抜け出せない哀しさの中にある、としか言いようがない。

それでもなお、信じる人は、さまざまな間接証明や、人間としての信用力、説得力などをもって、こうした神秘の世界を、世人に伝えようとして頑張っている。
宗教の活動もそうだし、形而上学などの高次の思索内容もそう。イデアの世界の真実を伝えること。

そういう道へのいざないとして、雑誌「ムー」や、これらの人たちの働きは、確かに大きな役割を日本で果たしてきたな。というのが、わたしの感想と評価ですね。

自分に多くの知識と視点を与えてくれた、雑誌「ムー」と執筆者たちに、感謝!!(笑)



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2017年02月02日

【レオ】自分の頭と心でよく考え、自分の言葉で語ること(2016-09-22の記事)〜LEO幸福人生のすすめ、より転載〜

http://ameblo.jp/space-people/entry-12202356817.html

総裁先生の御法話テープをダビングしながら拝聴していたんですが、

他の人に真理の話をする際に、これを読めばわかります、では勉強が足りていない。やはりもっとよく学習して、自分の言葉で語って、オススメできるようにしましょう、というお話がありました。

とっさの場合に、手元にいつも適当な献本用書籍があるわけではないでしょうから、相手に合わせて、その場ですぐに適切な真理の話が出来るよう、そのために日々の学習をよくやって、自分自身の言葉で語れるようにしておかないといけない
それが学習であって、そういう学習が出来ているからこそ、他の人に伝えられるのだということですね。
入会したての初心者は別として、何十年も真理を学んできたのなら、そのくらいの負荷を自分にかけて学ぶのは、当然の学習態度であると私は考えます。

真理の話を聞いていると、声聞の位にあるといいますが、聴いてるだけの段階は、学習ではなく、探究の段階なんですよ、というお話もありました。
皆さん、話を聞いていたら学習だと思っているでしょう、違うんです、これはまだ探究なんです。
話を聞いて、それを持ち帰って、自分でよく考えて理解するところまで行って、学習なんですと。そういうお話も出てきました。

やはり、単に一度聴いてそのまま忘れてしまったら、聴いたことはあるものの、何だかうろ覚えなので、自分の言葉ではしゃべれませんからね。

学校の勉強だって、授業で一回聴いたくらいで、自分でスラスラ語れやしないでしょうし、どの教科にしたってね。
授業で教わったら、家に持ち帰って、もう一度そこを振り返って復習する。何度も理解が行くまで、よく復習をして、ようやく身に付いてくる。
暗記ものにしても、式を覚えて応用力をつけるにしても、何度も反復練習と復習するのが不可欠だったはずで、真理の勉強ならなおさらですね。
一度聴いて、なんとなく話を聞いたので、情報が入った。だいたいこんな話だった。

では、ただの情報の受け取りに過ぎなくて、これをきちんと学習して、知識レベルにまでもっていかないと、自分で語れるような知識にはならないんですよね。
情報のままだと、時間が経つとどんどん忘れていってしまって、そんな話もあったっけなー。なんて言って、何か似たような話が出た時に、あ、聴いたことある、それ。くらいの認識で止まっていたりする。

智慧の法 (法シリーズ) -
智慧の法 (法シリーズ) -

「智慧の法」でもお話があったかと思いますが、さまざまな情報収集をしても、それを自分の頭でよく考え、心の中に落とし込むくらいによく理解しておかないと、自分の言葉で自由自在に語れるようにはならないですよ。
それは単に、情報の収集をしているだけだからで、自分の理解になるまで読み込んでないからであって、右から左に流してるだけでは、そこまでの力は出てこない。言論力は出てこない。
これは話す力もそうだし、ディベート力ですね、あとは、作文能力、書く能力だって、成長しませんから。

やはり聞きっぱなしの、情報をかき集めてるだけでは、不十分、ということでしょう。

何度も書いていますが、渡部昇一さんの師匠筋にあたる清水幾太郎さん、霊言でも出て来てましたが、この方は、読書は書くことによって完結する、自分で書いてみて、初めて読んだことの理解が出来るようになる、とよく述べています。
インプットだけでは独りよがりで、わかった気になっているだけで、実はあまりわかっていなかったりする。
それをアウトプットしてみると、初めて自分の理解の未熟に気が付いて、いっそう真剣に学ぶようにもなるし、アウトプットすることによって、自分の頭の中の整理も出来、復習にもなっているから理解が進むとか、そういう効果があるということでしょう。

学生たちに、読書感想文を書かせるのは、そのためだ、とのことです。
自分の言葉で書かねばならないとなると、人は真剣に読もうとするからで、効果がまったく違ってくるんですよね。

総裁先生は、最新刊の中でおっしゃってましたが、
「スマホではいろいろと調べられるので、非常にありがたいことだなとは思います。」といって、機械文明の発達をかならずしも否定はなされず、そのメリットも述べながらも、

ただ、こういうものだけでは情報源としては足りない、プロとしてモノを書くには、それ以外の周辺のきちんとした本も読まないと、勉強としては足りていない、とおっしゃっていました。
このレベルの情報だけに頼っていると、大学生の答案レベルのものしか書けないでしょう、とも。

誰もかれもがスマホやネットから情報を得るようになると、それは単なる未加工のデータ・情報でしかありませんから、それをどう見るか、どう判断するか、といったところまで踏み込んだ思考が出来なければ、どの人もみな同じようなことを言っているだけのコピー人間になりかねません。
そのあたりの危険性は考えていた方がいいといったお話を、総裁先生はなさってくれたのだと思います。

やはりこれは、情報レベル、データ収集レベルに過ぎなくて、自分で考えるところまでは行っていない、単なる情報収集の世界に過ぎない。
そこに留まってはいけなくて、自分で理解し考えて、自分の言葉で語れるようになってこその、学習なのだと思います。

個別性、特別性、という言葉もあったし、付加価値を生んでいるかどうか、という言葉でもって、やはり個性をもった各人の魂がある以上は、さまざまな勉強をしながらも、その人ならではのオリジナリティーのある考えの発信や、意見を持つための勉強が必要なのだなぁと、考えさせられました。

ネット情報は、単なる情報レベルのデータの散乱にすぎないものなので、それに振り回されすぎず、本当に役に立つ必要なデータをのみ掴んだら、あとは自分でよく考え、よく学び、自分の言葉で自由自在に語れるくらいの人間になろうと、努力することが肝要なのだと思います。


凡事徹底と静寂の時間 ~現代における“禅的生活"のすすめ~ (OR books) -
凡事徹底と静寂の時間 ~現代における“禅的生活"のすすめ~ (OR books) -





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【レオ】考える力 〜何も資料が無いところで、どれだけのことを自分は語ることが出来るだろうか〜2016-04-22の記事・追記あり

むかしから、よくイメージに浮かぶのは、

真っ白な部屋 … 何もモノが置かれていない、ただ真っ白な部屋にポツンと独り置かれたときに、

さぁそこで、どれだけのことを自分は考えることが出来るだろうか。

なんの刺激物もない状態で、自分の心の中から素材を引き出してきて、その素材をもとに何か考えを構築して、積み上げていく。
そうした作業がどれだけ出来るだろうか。

そういうイメージというか、課題ですね。


結局、学生時代の試験でもそうだし、人生でさまざまな問題にぶつかった時もそうだけれども、
目の前にすぐ手に取れる参考資料や答えが必ずあるわけではない、ということ。

頼れるのは、自分自身の中にある「考える力」なのだから、
何もないところであっても、自分の心や頭の中から、アイデアや答えを導き出せるように、自分を訓練しておかないといけない。

いつでも教科書やノートを見ていいわけではないし、本を手に取りながら考えられるわけでもない。
今でいったら、電池が切れたらネットもスマホも使えませんから、そういう場合に頼れるのは、自分の頭と心ですね。
結局、いざという時に頼れるのはココであって、これを鍛える以外にない。

その鍛錬の場のイメージとして、

果たして、何も置かれていない真っ白な部屋に、自分ひとり、ぽつねんと置き去りにされた時に、
そこで1時間、2時間と、考えを集中して、何かを生み出すことが出来るだろうか。

そんなことをときどき思うんですよね。

前にも書きましたが、映画「アポロ13」で、宇宙船が故障して電力を最低限以外は使えない状況で、乗組員たちが使ったのは、自分たちの暗算能力でした。
電子計算機を使えないとなったら、紙に鉛筆で数字を書き込んで、自分で計算しなくてはいけない。
ふだんはコンピュータ依存で、なんでもかんでもやってもらっていても、いざとなったら、自分でも解ける力を持っていなければ、電卓がなければ三ケタの計算も出来ない、というのでは情けないし、危険です。

瞬時に判断し答えを出す必要がある場合は、ネットにアクセスして情報収集する人よりも、ふだんからよく物事を考えて、自分なりの意見を持っている人の方が、優れた判断をさっと出来るに違いありません。

やはり機械は幾ら発達しても、人間の思考力を超えることは出来ず、補助としての役割でしかないと、わたしは思います。

人間は、人間みずからの思考力を高めるにしくはない。

というか、そこを忘れてしまっては、勉強しているつもりが、ぜんぜん勉強になってないよ、ってことにもなりかねませんから。


試験の際には、徒手空拳で、いや、鉛筆と消しゴムくらいは持っているでしょうが、それ以外の参考資料はなしにして、

それで問題に答えないといけない。自分の頭や心の中から、答えを引き出してこないといけません。

なので、白い部屋に何も持たずにいるイメージですね。
そこで自分はどこまで、自分独自の自分なりの思考を展開できるか、論理的思考もそうだし、イマジネーションの飛翔もそうですけれど。

いやなに、別に刑務所の独房に入れられたときに、退屈しないで済むための訓練ではありませんからね、お間違いなく(笑)。

でもこれって、結構、本質的な意味で、とても重要なことではないかと、わたしは思ったりしていますね。

手元にメモを持たないでもスピーチが出来るためには、こういう訓練を日頃からやっておかないとねー。



以下、追記


手元にメモも持たないでスピーチ、といったら、
よく研修での話し合いとか法談とかありますよね。そのあとで発表、なんていうのもあったりする。

完璧なメモでもあれば別ですが、そういう即興の話し合いの場というのは、簡単なメモくらいしか取れませんね。大勢からさまざまな意見が出た場合などは、なおさら、そう。ポイントをちょっとメモ書きしておくくらいしか出来ない。

で、発表係にさせられて、さぁどれだけの話を自分は出来るだろうか。代表の発表係として、うまく話し合った内容を語れますか。どうでしょうか。という問題です。


ちなみにわたしは、こうやって記事をたくさん書いているのを見ても推定できるかと思いますが、
発表係というのをさせられると、滔々と話します(笑)。10分くらいしゃべってくれ、と言われても、平気でそのくらいは話してしまいますよ。時間を与えられたら、勝手に肉付けして話を膨らませてしゃべるし、あとは、聞いている人がわかりやすいように、かみくだいた表現で語ろうとするので、なおさら話す時間は長くなる。別にメモなんて取らなくても、だいたいの内容は覚えていて、しゃべることが出来ますから。

いちばんのポイントはどこか。柱や要点はどこか、というところを幾つか押さえながら、あとはその周辺のことを肉付けして、幹と枝を分けてまとめながら、話をしてゆく。そうやって話したら、あっという間に10分くらい過ぎちゃいますし。
だいたい、支部で法談内容を発表してください、なんて言われると、時間オーバーして話しちゃって、司会からストップが入るくらいなので、わたしはしゃべりすぎ、記事の文章も長すぎ(笑)ということで。

要するに、しゃべれと言われたら幾らでもしゃべれるし、書けと言われても延々と書くことがありますよ。
それは日頃、そのテーマについてよく考え、自分で思うことがあったら、そのことを付け加えて話すからで、要するに、自分独自の考えを日頃から練っていたら、いくらでも話すことはあるし、書くことだってある。

これは、情報の受け売りしかしていないレベルでは、出来ないことだと思いますが。
聞慧、思慧、修慧、という教えもあるように、ただ聞いているだけではそこまでは行けず、聞いたことを、あとでよく自分なりに思索して考え、できれば瞑想体験を通して、さらに深く心の中にきざみ、深い深い智慧を得ないといけない。そういう智の発展段階があるんでしょう。認識の発展段階ですね。

そのチェックポイントとしては、
何も持たずに、そらでどれだけの話をすることが出来るか。テーマを与えられて話してください、と言われて、そのテーマについてどこまで持論を展開できるか。自分の言葉で、自分が考えたことを、どれだけの深みでもって話すことが出来るか。書くことが出来るか。

それが、その人の現時点の実力だろうな、と私は思いますけどね。
なにもなくても、語れなくてはならない。書けなくてはいけない。そうでなければ、その人の実力とは言えんでしょう。当人の力であるならば、なにも資料などなくても、スラスラと話せなくてはウソというものです。

わたしも、子供時代はちょー緊張しいで、人前に出るなんて、それだけでも嫌で嫌で、顔は真っ赤になるわ、心臓はドキドキするわで、そんな場に出ることすらイヤだったんですが、
社会人になって、なぜか知らないけど、やたらと発表係をやらされているうちに、

レオ君は、発表が上手だねぇ、滔々としゃべっていたじゃないか。足なんか組んじゃって、自信満々の発表だったね、なんて上司から言われたりしてね。新入社員1年目のときですが。実際はもう、前日から嫌でねー。大きなホールに100人以上集まってディスカッションして、その話し合いの結果をチームごとに発表するんですが、わたしは前日から、明日の発表はレオ君ね、と指名されていて、もうそれが嫌で嫌で(笑)。

しかし、いざ発表になると、滔々としゃべっているという … 周りから見ると、まったく動じないで自信満々に見えたというね。いまから思い返すと笑っちゃいますが。

これは支部での法談発表でも同じような体験があって、まぁ発表係をやらされる。イヤなんだけれども、いざしゃべり始めると、滔々としゃべって時間オーバーしても、まだしゃべっていて、司会から、もう時間ですので、といって静止されて、ようやく話すのをしぶしぶやめるというね(笑)。
なんというか、厚かましいというか、図々しいというか。いや、そうではない(笑)。
長年生きてきたので、子供時代からは想像できないくらいに、すでにいろんなことを思い、考えてきたんですよ、たぶんね。だから、そうしたことどもを思い返して、発表の場におりながら、さまざまな思いを滔々としゃべっているうちに、時間が過ぎていく。なにも手元に資料がなくても関係ないです。言葉は、自分の心の中から出てくるんだから、それを話しているだけなので。
自分の中にすでにある考え、思い、知識を、心素直にして話してゆけば、手元に資料なんて今さら要らないです。

ということで、何もないところで、どこまでしゃべれるか。書けるか、というのが、その人の真の実力ではないだろうか。そんな風にわたしは考えます。
この記事だって、なにも見ずに、真っ白な空欄に向かって、勝手に文章をどんどん書き込んでいるだけですからね。で、その言葉はどこから出てくるかといったら、わたしの心の中にある思い、思念、考えでしょう。

これがわたしの考えであり、主張であり、思いであり、メッセージである。
いまの自分から出てくる、わたし自身の言葉を使った、わたしの意見発表であると。

信者ブログとは、かようにして、それぞれの信者が何を考え、何を思っているのか。各人各人の悟りの発表の場でもあって、そうした個々の人の意見がさまざまに繰り広げられて、賑わってこそ、幸福の科学の信者のメッセージの場が華やかに、にぎやかに、色とりどりの花が咲き乱れる場になるのではないだろうか。そんな風にも思います。

コピペしか出来ないブログが100集まったって、そんなのは大した意味がないでしょう。そんな複製行為なんてのは誰だって出来るのだから、コピペブログが100増えたってしょうがない。
けれども、
自分独自の意見を持ったブログが100集まったら、それは大きな力となるし、いろんな信者たちの独創的な意見があちこちで花開いて、にぎわいを見せること必定でしょう。

自分の言葉で語れるブログが増えてこその、幸福の科学信者ブログの素晴らしさが、世間に訴えられるのではないでしょうか。
それがわたしが、ブログ村を見ていて、思うことですね。


おしまい。







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2017年02月01日

【レオ】<【本格】試練の時期をどう過ごすか> を読んでの感想

今日の【本日の格言】も素晴らしい!!




【本格】試練の時期をどう過ごすか 2017.02.01

厳しい試練のときには、単に他力を願うのではなく、自分自身の責任であるとして、自己を律し、そこから脱出しようと努力していく−これが基本です。そうした姿勢をこそ、仏神は祝福するのです。

『愛、無限』 P.35





これは本当に、実体験からして、よくわかります。


「愛、無限」を初めて読んだ時には、その深い意味を理解していなかったと思いますが、その後の十数年の経験を経て、痛感する体験をいたしましたのでね(笑)。


 


厳しい試練のとき … 


 


人は、自分ひとりの力では耐えられず、他力の救いを願い、神の救いを求めるものでしょう。


けれども、そうした時に、すぐさま救いの手が差し伸べられることは少ない。


 … というか、あからさまな救済の手がすぐに降りてきたりはしないものです。


本当に深い信仰心を持っている人には、すかさず奇跡が起きるのかもしれませんが、なかなかそうは参らないでしょう。


 


なので、こんな苦しい時にこそ助けてほしいのに … なぜ神は助けてくれないのか。守護霊は助けてくれないのか。などといって、苦しみの中で不平をかこったりするわけですが。


 


実はその時に、霊的にはどういう状態にあるのか。肉体に宿った「愚かな自分」は気づいていなかったりするんですよね。


 


総裁先生は以前、人生というのは、地上の当人と守護霊が二人三脚をしているようなものだ、という話をしていたと思いますが、


だから過去の人生行路を見てみると、足跡が二人分ついている。自分の足跡と守護霊の足跡ですね。


ところが、自分にとって本当に苦しかった時期の足跡だけは、なぜか一つしかない。それを見て、ああ、あの苦しかったとき、やはり自分は独りで歩かされていたのだ。守護霊からも見放され、神からも見放されていたのだ。


と悲しむわけですが、実はそうではない。


 


いや、違うのだよ。あのとき、お前は一人ではもはや歩けないほど苦しんでいた。だからあの時は、わたし(守護霊)が、お前を背負って歩いていたのだよ。だから足跡は一つしか付いていないのだよ。


 


こんなような話ですね。これは守護霊のところを神さまに置き換えても同じことですが、


要するに、本当に苦しい時、人は実は自分ではもはや歩ける状態にはなく、実はその時点で、守護霊に背負ってもらっている状態にある、もしくは、神さまに支えてもらいながら息絶え絶えになりながらも、その苦しみの中で悶えている。生き抜こうとしている。


本当に苦しい時には、まさにそういう状態にあって、支えてもらっているんですよね。


 


真面目に純粋に生きている人であってみれば、神や守護霊が見放すはずもありません。


だから実は支えてくれている。


支えてくれているのだけれども、それをあからさまには言わない。自分で乗り越えることが大切なのだということを学ばせるためには、安易に、困った時の神頼みを知らせては、当人のためにもならないから、だと私は思いますが。


 


しかし実際は、すでに支えられているんですよ。本人が気づいていないだけでね。


まぁ不真面目な人が苦しんでいる時は別かもしれませんが、真面目に誠実に生きている人が出会う人生の苦しみのときは、必ずや守護霊は背負ってくれているし、神さまはその掌で支えてくれているはずです。


 


これは遠藤周作の「沈黙」のテーマにも関わると思うけれども、


神はなぜ沈黙しているのか、答えたまわないのか、と嘆いている時に、実はすでに答えは臨んでいるのかもしれないのですよ。その答えを見いだせるかどうかは、当人の悟り次第のところはあるとはいえ … 。


 


わたしは苦しい時に、なぜ守護霊よ、この時にこそ救ってくれないのか、答えを教えてくれないのか、といって他力の救いを求めたんですが。


自力では無理だ、この苦しい状態から抜け出す知恵が、自分には無い。助けてください、主よ、神よ、守護・指導霊よ、と祈っても、


 


返ってきたのは、


 


安易に他力を願うなかれ。すでに他力の救いは与えられている。


いまのお前に必要なのは、自力である。


道は無数にある。どの道を進むかを選ぶのは、あなた自身である。守護霊や神が決めるのではない。


いまの置かれた状況で、どの道を進み、人生を歩み直すのか。どの道を選ぶのも自由である。どの道を選んだとしても、人生を切り拓くことは出来る。しかし、どの道を選んでも、その道特有の苦しみがやはりあるものだ。


しかし、選ぶのはあなたなのである。それが人生の意味であり、修行であるのだから、自分で考え、決意し、勇気を持って、もう一度、道を歩き始めなさい。


 


そういったインスピレーションでした。


 


救いはすでに与えられている。その救いとは、いまの悩みに対するストレートな答えではありませんでした。真理はすでに与えられている。守護霊の導きも与えられている。だから救いはすでに降りているのだ。


しかし、それを知ったうえで、答えはわたし自身が出さねばならない。そうでなければ私の学びにならないからですね。


 


人生の試練の時に、今までに学んだ真理を使って、自分はどのような答えを出すのか。


その答え方次第によって、わたしの魂の鍛錬になるわけだし、悟りの階梯を一段上がれるかの瀬戸際にあるわけなんですよね。


守護霊に試合をしてもらっては、自分の試合になりません。課題に勝利しても、自分が課題を克服したことにはなりません。


 


だから安易に答えを求めるなかれ。答えを出すのは自分である。真理に基づいて、自分で考え、自分で決意し、自分で意志せよ。今こそ、自力が必要なのである。そのために真理を学んできたのではないか。


いままで学んできた真理の学びを参考にして、どうするのか、どの道を歩むのか。決めなさい。自分で決意し、選び、勇気を持って生きなさい。


それでこそ初めて、あなたが地上にて、新たな学びを得た、ということになるのだから。


 


そういって、ストレートな答えは決して教えてもらうことなく、さまざまなヒントはありながらも、どうすべきかを選び、決断するのは、自分の意志に任されたんですよね。


しかし、その背景には、すでに他力の恩恵はあったわけです。救いもすでに与えられていた。


その救いの手のひらの上で、自分はどう歩むのか、決意するのか。それは自力でやらなくてはなりません。


 


背負ってもらいながら、なおかつ、さらに詳細な答えまで教わったのでは、勉強にならないということなんでしょうね。


肝心の、人生のいちばん大切な問題に出会ったその時に、真理を学んで得た知恵でもって、道を切り拓いていかないといけない。自分が歩むべき道を選ばなければならない。


守護霊が、そっちの道がいいよ、と教えてくれるのを願うのではなく、選ぶのは自分。


Aを選ぶのもよし、Bを選ぶのもよし、Cを選んでもかまわない。どれを歩めとは言えない。それを教えては、人生修行の意味が失われるからだ。


そのようなインスピレーションを受けつつ、最後の決意と決断は、自分でするしかありませんでした。


いちばん邪魔をしていたのは、自分のプライド、偽我でしたけどね、今から考えると。つまらないプライドが邪魔して、その道は歩みたくない、だの、こっちは心配だの、勝手な注文づけをして、選択できずに迷って苦しんでいたようなものです。


けれども、そのプライドを捨てて、ゼロから歩み直せばいい、何も要らない、といって覚悟して歩きだした時、やはりその道の先に、自分の人生の未来はあったようです。


 


いまは、その道を歩いている自分がいる。


 


他力の恩恵、神の救いは素晴らしい。常に支えられている、というのが真実なのだと、いまでは思います。


そして、支えてもらいながらも、人は生きているものなのだと。他力のもとにありながら、自力で人生を生きているのが、人の真実の姿ではないだろうか。


しかし、他力は目に見えないからといって、神は自分を見放した、守護霊は助けてくれない、なんて思ってしまっては、これはとんでもない勘違いと恩知らずですね。そういう時には実は、背負って歩いてくれているのかもしれないのに。


悩み苦しみの中にある時に、自分のちっぽけな自我のワガママで、苦しんでいないかどうかを、よく振り返った方がいいですね。そして、苦しみの中にある時に、神への感謝と守護霊への感謝の気持ちがあるかどうか。他力の救いがすでに与えられているのに、神は自分を救ってくれない、守護霊は助けてくれない、などといって不平不満を並べていないか、どうか。


ささやかな一歩としての自力すら放棄して、他力の救いを求めていないか、どうか。


 


【本日の格言】を読みながら、そんなことを考えた次第です。


 


おしまい。


 


 



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2017年01月31日

【レオ】「職業としての宗教家」で学べる、総裁先生の読書論・学習法 <2015-11-08の記事>

職業としての宗教家 (OR books)/幸福の科学出版

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来年公開の幸福の科学・実写映画「天使にアイム・ファイン」の主演女優である雲母(きらら)さんと、大川隆法総裁先生との対談本です。

総裁先生がお子さんや、幹部の方と対談する話は、突っ込んだ話なども多数出てとても面白いですが、この対談相手の雲母さんはまだ17歳の若さだというから驚きです。対談者で最年少者記録保持者ではないでしょうかね。


まだ本は発売されたばかりなので(去年末)、ネタバレする気はありませんが、対談を読んでいたら意外なことに、総裁先生の読書論、学習方法が述べられている個所がかなり沢山あって、興味津々で読みふけってしまいました。
以前読ませていただいた「大川総裁の読書力」と合わせて、この読書方法の技術のところは、是が非でも学ばないとあかん、と思いながら読んでました。

特に雲母さんが総裁先生に、先生はインターネットを使うんですか?といった問いをかけた時に、総裁先生は御法話でもたびたび述べられているが如く、ご自身はローテクで学ぶそうで、紙の書籍を読んでらっしゃって、携帯だとかネットだとかには関わらないのだそうですし、今回もそうしたお返事をされていました。

わたしが気になるのは、いま現在、インターネットで情報収集をしたり、携帯やスマホで電子情報に触れたりする生活が、若者を中心としてかなり広がっていますし、紙の本屋さんも年々減って来ていて、どうなるのだろうか。
ネット情報へのアクセス習慣と、紙の本をきちんと読む、昔ながらの読書生活・知的生活の違いといったものは、これからどう現れてくるのか。そういった問題点ですね。
対談の中で、総裁先生はこのあたりについて、かなり詳しく解説してくれていました。

総裁先生は、ネットの情報収集と、紙の本をじっくり読み込む読書との違いを、どう捉えてらっしゃるのか。
それは書籍で読んでいただくとして、以下はわたし個人が、いままでブログ記事で書いた内容や、今回の対談を読みながら自分でもそうだなぁと感じたことを中心に、述べて行きたいと思います。
オリジナルの対談内容は、やはり手に取って読んでいただくにしくはありませんからね。


さて、ネット情報というのは、パソコンでも携帯やスマホでも簡単にちゃちゃっとアクセスできるし、それで情報を瞬時に得ることは、確かに容易に行えるようになって、とても便利です。
重たい百科事典や広辞苑をひっぱり出して、ページをめくって調べなくても、キーを打って電子辞書で調べたり、ネットのウィキペディアを見れば、基本的な情報は簡単に、誰でも手に入ります。
だから今では、家に事典や辞書も持たないで、何かわからないことがあったらネットで調べればいいや、なんて思っている人も、けっこう多いかもしれません。

必要なことはネットでいつでも調べられるから、何も日頃から勉強をたくさんして、知識のストックを身につけておく必要もないだろう、なんて考えちゃってる人もいるかもしれませんが。
こうして、楽な方楽な方、便利な方へと安易に流れていくと、結果的にはその人の知力は落ちていくだろうことは、容易に推定がつくだろうと思います。

やはり幾ら機械が発達して便利になったとはいえ、刻苦勉励、精進・努力の時間がなくなっていくと、精神の鍛練自体がなされなくなるし、安易に情報にアクセスするのが常態化すると、難しい内容をじっくり時間と労力をかけて読み解こう、読解しようという忍耐力も、やがて失われていくかもしれません。
つまらなければ、すぐ横にポイしてしまって、他のページをクリックして、面白い記事を探した方がいいや、なんてことになりかねません。

結果的に、ネット情報、ネットサーフィンというのは、情報の山を調べ回っている「つもり」でいるけれども、実際はそれは当人の「知識」や「知恵」につながっていない、その場しのぎの暇つぶし、ガラクタの寄せ集めに過ぎないものかもしれません。その危惧は大いにあると言っていいでしょう。

新聞を読まなくても、ネットニュースを見ればいい。古典名著のオリジナルを苦労して読むなんて手間ははぶいて、ネット上でその著書の概要をちゃらっと読んで、だいたいわかればいいじゃないか。
なんてことになると、その理解はきわめて表面的で、底の浅いというか、ほとんど厚みのない情報でしかなくなってしまうんですよね。
それはその人の知識ではなくて、単なるネット上から拾った断片情報でしかないから、ところでその件について質問があるんだけども、と誰かに問われたとしても、その情報以上のことは何も知らないものだから、答えることが出来ない。
こうしたところに、ネット空間の情報の浅さ、それを知識と錯覚していることの危険性があるのではないか。そう思ったりします。

以前、↓ こういった記事をわたしは書いたのですが、

読書とネットと考える力
http://ameblo.jp/space-people/entry-11963617054.html

本を読む習慣のある学生と、本をまったく読まない学生に、同じテーマの問題を出題して、論文を書かせたところ、両者の力量には相当の差が出てしまった、という番組をやっていたんですね。

本を読む学生は、ネットを利用したとしても、その使い方は補助的な利用にとどまっており、ネットで参考文献の題名を調べたら、図書館へ実際に行って、その本を借り出して読んでいた。そしてその本の中で、テーマにからんでくる箇所を抜き出して、それを論拠にして、自分の考えをきちんと述べた、自作の論文をきちんと書き上げてきたそうです。

ところが、ふだん本を読まない人が書いた論文というのは、ネットから拾ってきた情報を、それらしく何となく並べて、論文らしい体裁を取っているだけで、自分で考えをまとめたり、意見を述べている個所がほとんど無かったんだそうです。
ほとんどがネットから拾った情報のコピペであり、それらをつなぎあわせて論文らしい形にしているものの、最後に自分の感想らしきものを、ちょぼちょぼと2,3行程度書き加えているだけで、しかもその文自体、意見というほどの内容を持っていなかった。
そういう比較実験をクローズアップ現代でやっていたわけです。

これには考えさせられることが、非常に多いとわたしは感じました。

本を読むということ、自分で努力して何百ページもの本を、実際に読んでみるということ。
その上で、全体を通して感じた感想を、しっかりと自分の言葉でまとめて語るというのは、それはとても難しいことだし、技術もいることです。訓練もいりますね。
けれどもそもそも、読書というのはそうやって、読んだ人が自分自身で考え、自分で語れる力を身に付けるためにこそ、やっている努力のはずであって、単にこの本にはこんなことが書いてあったよといって、そのまま横流しするだけでは、自分の考えを持つところまでの勉強は、出来ていない、ということなのだと思うのです。

だからやはり、努力なくして身につく能力はなし、ですね。

ネットサーフィンもいいけれども、やはりそれはいくら電子機器が発達した時代とはいえ、あくまでもサブ的な役割に留めるべきであって、智とは何なのか、自分自身の見識を持つということはどういうことなのか、自分の認識力、識見、こうしたものを磨き上げるための、読書の効用というものを、もっと深く考えて、実践していかないといけないのではないか、そんなことをあらためて考えさせられました。

やはり、自分の頭で考え、自分の言葉で語れるようになる、ということが大事なのではないかと、わたしは考えます。
こうしてブログで記事を書いたりもしていますが、この記事ネタの基本はやはり、実際に本を読んで格闘し、自分なりに感じた感想、考えた内容をこそ語りたいものだと思います。
それ以外のものも、オマケのような形で載せることもあるけれども、あくまでも基本は、自分という個性から発されるところの、考えや思いであるべきだよなーと、あらためて思いました。

実際、自分でテーマを考えて、自分なりの文章で記事を書くというのは、とてもたいへんなことです。
今まで学んできたことが、どれだけ自分のものになっているのかが問われるからです。
学んだことを単にそのまま横流しするのではなく、自分で考え、自分の言葉でもって表現してみる。
そこに説得力ある文章があらわれたなら、その時こそ初めて、自分が学んだことが身についていると言えるのだろうと思うのです。

対談の中でも、真輝さんのエピソードや、総裁先生が学生時代の頃のエピソードとからめて、語られていたのですが、
お二方とも同級生からみると、ひと世代前の古いスタイルの勉強方法をしているように見られて、からかわれたのだといいます。
総裁先生であったら、もう教養主義の時代は過ぎ去っていったような時代に学ばれたにも関わらず、古き良き明治・大正の頃のような、古典名著を努力して大量に読破していくという、そういう読書による知識の積み重ねをおくっていたのだと思います。

ドイツの哲学者ヘーゲルにも似たようなエピソードがあって、学生時代から夜遅くまで難しい本を大量に読破する学生時代をおくっていたといいますね。
それで同学年の仲間からつけられたあだ名が「老人」とか、そんなようなあだ名だったような。あまりに老成して勉学に夢中になるあまり、若者に見えず、壮年の知者みたいな風貌で生きていたのでしょうか。
けれども真なる智を目指す方というのは、いつの時代もこのように、地道なる智の探究を徹底的にやり続ける方々なのだと思います。

わたしはいま電子書籍を利用しているのでアレなんですけれども、機器は電子といっても、読んでいるのは昔ながらの古典名著も大好きで、岩波の古典名著や思想書なども、よく買って読んでますので、堕落までは行っていないと信じたいです、ハハハ。

自分で言うのも何ですが、やはり思想書系がいちばん好きな読書対象ですし、哲学書などもそれなりに結構読んだと思うし、カントの「純粋理性批判」を初めて読んだ時なんかは、出だしから何を言わんとしているのかよくわからないので、とりあえずカントが言ってることを、ノートに図解して書き込みながら読んでいきましたよ。
アプリオリ、アポステリオリって何じゃらほい?直観、概念、知覚、何たらかんたら、どういった意味合いでカントはこれらの言葉を使っているのか。五感を使って外界を認識することを感性的直観といっているのだろうか?悟性概念とか、いろんな難しい言葉が出てくる。
そんな格闘をしながら、カント用語を読解しつつ読んでたら、10分かかって2ページも読み進めていませんでした。
このペースでいったらどうなることやら、と思いながらも、努力して読んでいったら、だんだんカントが言ってることがイメージでわかってきて、あとは比較的スイスイ読むことが出来て、岩波文庫で全3巻、ちゃんと読み終えましたよ。
そのあとで、実践理性批判とか、判断力批判とかも読んだし、その上でカントの感想記事なんかを書いているので、ウィキペディア情報ではないのです(笑)。

でもそうした知的格闘を経て読んだ本のことというのは、心にも頭にも強く残っていて、読んでから何年、あるいは十数年が過ぎても、覚えているものです。
しかも苦労して一度読んでおくと、二度目の再読のときはずっと早く読めて、しかもさらに理解が進みます。「純粋理性批判」の再読は、わたし通勤電車の中で立ち読みして済ませましたからね。自慢じゃありますが(笑)。
アウグスチヌスの「告白」や、トマス・アキナスの「神学大全」、ヘーゲルの著作、その他いろいろ読んだし、今回の対談本でも出てきた、ジョン・ロックの「統治二論」もちゃんと持ってるし、あ、読んでおいてよかったーと思ったものでした。

知的な努力は、やはりきちんとした名を持った人の、重要な書をしっかりと読み込み、自身の血肉とするところまで読み込むべく、知的格闘の時代を経ないといけないのだなー。
そして単に読んで終わりではなくて、そこでつかんだエッセンスを、自分の言葉で、自分の理解度でもって、自分らしい表現方法を用いて、語れるようになること
ブログ記事でもそうですし、友人たちとの会話でもそうですが、そこまで行かなければ、本物の智になっているとは言えないと、対談を読んでいてあらためて考えさせられ、気が引き締まる思いがいたしました。

ネットサーフィンはやはりサブ的なものであって、本をきちんとじっくり読み込んで学ぶスタイルこそが王道なんですね。
学問に王道なし、知の道に王道なし、真の努力精進なくして、知的なる目覚めと発展も、また無し。
そう思うのでした。



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2017年01月30日

【レオ】読書と読書感想文(2013/6/4の記事) 〜LEO幸福人生のすすめ、より転載〜

http://ameblo.jp/space-people/entry-11544558724.html

何度かブログでも書いてますけど、私は小学生・中学生のころは、ほとんど本を読まなかった … というか、マンガばっかり読んでたので、

活字だけの本なんて、どこが面白いんだろう?マンガの方がぜんぜん面白いじゃーん。

と思っていたものでした。

けれど父の書棚をみると、難しそうな政治経済の本だとか、子どもから見たら、まったく興味も湧かないような題名の本がズラッと並んでいます。

まぁ大人はいいです。大人になると、活字だけの難しい本を読まないといけないんだな。
そう思っておりましたので…。大人になってから読めばいいや。
そんな風に、子どものころの自分は、活字の本というものを認識していました。


けれど、小学校・中学校時代でも、国語の時間に、読書感想文というのを書かねばならないことがありますよねー。
私はこれが苦手で苦手で…。

1204585.jpg

授業時間内に、あれは最低何枚くらい原稿用紙を書かないといけないんでしたっけ?1枚、2枚?
ともかく、400字詰めの原稿用紙一枚を文字で埋めることすら至難の技で、何を書いたらいいんだろー、って、ボーっと大半の時間を過ごしたあとで、
授業時間が終わる寸前に、あわてて、読んだ本の「あらすじ」をだらだらーっと、出来るだけ余計な修飾語などを付け足して文字数を稼ぎ、なんとか原稿用紙を埋めて、提出する。

そうした苦痛の時間でありました。


けれど、クラスの中には、小学生といえども読書家というのが何名かはいるものでして…。

私の印象では、たいていそれは女の子ですね。

本を読むのが好き、という賢い女の子がいるものです。

で、そういう子が自分の書いた読書感想文というのを、ほかの生徒たちの前で読むのを聴いたりしていると、

これが同じ年齢の子供が書く文章だろうか?プロの物書きじゃないのー?
Σ(゚д゚;)

というくらい、格調の高い文章を書く子が、ときどきいるんですよねー。ドびっくりです。

とはいっても、自分にはそんな読書感想文は書けるわけもなく、ただただボケーっとして、
そうした読書感想文の達人の朗読を聴いている。
嫉妬心とかそんなものは芽生えません。差がありすぎて、はなから嫉妬の対象ではありえないんですよね。
自分にはあんな文章書けないもーん。だからしょうがないじゃーん。

ってなものです。


読書感想文を書くのが苦にならなくなったのは、高校生になってからです。

高校生になってから何が変わったのかというと、意識的に、活字だけの本をたくさん読むようにしたこと。月に10冊くらいの読書でしたが。
これが明らかに、書く上での気楽さというか、抵抗感を薄める効果があったのだと、今では思います。

読む量に比例して、書くことも容易になっていく。インプットが増えれば、アウトプットも容易になる。そういった因果関係は明らかにあるように思いますね。これはひとつの黄金律だと思います。

マンガを大量に読んでいても、セリフやモノローグ部分で、活字をそれなりの量、読んでることは読んでるんだけれども、
それでも、活字だけの本を一冊読むよりは、あきらかに文字の摂取量が少ないですよね。
一冊の小説と同じ量の活字を読むためには、マンガを何冊読まないといけないのでしょう。10冊でしょうか。あるいはそれ以上?
そもそも文字数が一緒になったとしても、情景描写はすべて絵で済まされちゃっているから、情景を文章で表現するための言葉には、ほとんどお目にかかることが出来ません。マンガばかりを読んでいると。
それから内面描写も、モノローグ形式で表現することはあっても、結局それは心の中のセリフみたいなものだから、活字文章による心理描写というのとはやはり違いますよね。
だから、心のなかを文章で表現する方法にも、あまり出会うことが出来ません。
結局は、マンガで使われる活字というのは、ほとんどがセリフ、セリフ的なモノローグに終始していて、それ以上の活字の使用法には、あまり接する機会が得られないんですよね。
だから、自分自身が表現するための言語能力を鍛えるには、マンガだけでは不十分なんだと思います。

活字の量の違いというだけでなく、よく言われるのが、マンガというのは、最初からストレートに視覚に訴えてくるから理解はしやすいものの、逆に、想像力を鍛えることには向いていない、とも言われていますね。これはテレビドラマや映画も一緒ですね。
読み手に対して、最初から映像イメージを豊富に与えて便宜を与えてくれているから、読み手からしたら読みやすい。ありがたい。わかりやすい。
けれどそのわかりやすさは、逆を言うと、読解能力を鍛える訓練を、不必要にさせてしまっている。そういう長所ゆえの、欠点もあるんですよね。

一般論からいっても、多少の苦労があった方が、人間はさまざまな能力を身につけることが出来るように、
読みやすいマンガを読みふけったり、映画を見るよりも、活字だけから読解していかないといけない、活字本の読書の方が、逆に、イメージ能力や想像力を育む、あるいは、表現力をも鍛える、という、大切な役割が実はあるのだと思います。
本を大量に読むようになってから、自分はそのように感じるようになりました。

いや別に、マンガ批判をしたいわけではありません。

読書の効用ですね。

活字だけの本を読むことで、逆に、活字だけを使っての表現方法、言葉をうまく使っての表現方法が、いつのまにやら身についていく。
読書の効用には、そうした因果関係が明らかにあるように思います。
読めば読むほどに、表現能力の方もそれに比例して、明らかに向上するものだと思います。

読書感想文の話でいえば、
あれだけ小学校・中学校時代には、読書感想文の時間が苦手だった自分が、高校生になって、活字本の読書にシフトしていって、多くの本を読むようになってから、いつの間にやら、読書感想文の時間が苦でなくなっていました。

そのキッカケは、夏休みの宿題で、読書感想文を提出したときでした。

いつものごとく、なるべく薄っぺらい本を選んで、さーっと読んで、書けるものにしよう。ということで、シェイクスピアの『ハムレット』を選んだんですが、

その感想文を、夏休みの終わる間際に、あわてて書こうとしたんだけれど、

ふと思ったことが、

この感想文は、先生が読むだけなんだから、なにも「あらすじ」を書く必要はないんだよね。
先生はとうぜんすでに「ハムレット」を読んでいるものとみなして、書くことにしよう。
私は「ハムレット」を読んでこう感じました、という感想文を書いてやろう。
そう思って、書き始めたんですよね、なぜかその時。

今までは、なんとか「あらすじ」を引き延ばして、文字数を稼いで原稿用紙を埋めようとしていた自分が、なんという変わりようでしょうか。
あらすじ抜きに、はじめて本当の「感想文」を書いたのが、この時だったのだと思います。

まぁそんな大層なものを書こうと思ったわけじゃなくて、思うがままに感じたことを書いてやろう、そう思って、勢いのままに書きなぐっただけで、そのまま提出しちゃったんですが…。

その感想文、なんとその年の読書感想文・入選作品に選ばれてしまいまして、印刷された小冊子が全校生徒に配られてしまいました。
いや、その学校内だけの入選作品だから、大したことはないんですけどねー。
でも自分としては、まさか自分の読書感想文がこんなところに、選ばれて載ることがあるとは!
Σ(゚д゚;) と驚きまくっていたのを覚えています。

というか、その小冊子配られるのを見るまで、載ってること聞いてなかったので、中を開いてさらにビックリ。
まわりで同時に読み始めたクラスメートたちが、レオの読書感想文が載ってるよ、というので、
えーっ! やばい、勢いのままに書いて出しちゃったから、変な言い回しがあったらどうしよう!とまず思い、
おそるおそる自分の手元にある小冊子を開いてみると、

がーん!!いきなり誤字があるやんけー!!それも何か所も!!(/TДT)/

って、先生、知らないあいだに大量印刷するのもアレだけど、誤字をそのまま印刷しなくってもいいじゃーん、ちゃんと直してから印刷してよー!国語の先生なんだからぁー!Y(>_<、)Y

と思ったけど、あとのまつり。

その読書感想文「ハムレットを読んで」が載ってる小冊子は、いまだに大事に手元に取ってあります。
ささやかな変化でしたけど、自分にとっては大きな前進。

こうしたことが積み重なって、本を読んだり、文章を書いたりすることの面白さ、大切さを学んできて、
いまはこうして、ブログで記事を書くことにつながってるんだなー、と自分では勝手に思っています。

もっともブログの記事は、主として、
面白かった本や映画を、記事を読んでくれている方に面白おかしく伝えたい、という理由で書いているものですから、

あらすじ … が結構多いかもしれません(笑)。

おしまい。




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【レオ】「仏教の思想3 空の論理<中観>」を読んでみる

空の論理「中観」―仏教の思想〈3〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア) -
空の論理「中観」―仏教の思想〈3〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア) -

こちらは、梶山雄一氏と上山春平氏の共著&対談本。シリーズの第3巻。中観についてなので、中心に置かれるのは、龍樹の思想。


 


梶山雄一氏は、中央公論から出ている龍樹の「大智度論」や「龍樹論集」を訳されている方なので、このあたりが専門の仏教学者。


対する上山春平氏は専門は哲学で、このシリーズの監修者ということで、梶山氏に上山氏が尋ねる形式の対談が収録されています。


 


やりとりはこんな感じ。


 


上山 そのナーガールジュナの神秘主義とかいうのはどういうところからわかるのですか。



梶山 それは伝統ですね。『般若経』のなかには神秘主義はかなり明瞭に見られますが、ナーガールジュナはそれを継承し、哲学的に発展させているわけですから。

また、先ほどおっしゃった空というものも、何もかも空ならば、空というのは知識でもない、ということになるのか。実はこの問題は中観の歴史でかなり大きな問題になっていて、空というのはほんとうに単純な欠除をあらわすような無なのか。あるいはそうじゃない一種の裏に肯定を含んだような空という知識であるのか。中観の思想家はみんな考えているわけです。

その場合に、空というものが単純な欠除、何もないことじゃないんだ、積極的なものを持っているんだというのは、やっぱり神秘主義です。とくに神秘主義的な体験を通すと、空というものはやはり積極的で純粋な何かであるということがはっきりわかる。それは『般若経』の伝統からくるわけです。


 
ナーガールジュナ(龍樹)の思想には、神秘主義の伝統が流れ込んでいる。龍樹の思想自体が、神秘主義の観点なくしては理解が出来ない。そう、梶山氏は述べています。

 


般若経典のなかの神秘主義の思想を、龍樹は継承しつつ、それを<哲学的に>発展させたものだと説明しつつ、


その中心となっている<空の思想>とは何なのか。解説が続いています。


 


空とは、何も無い、空っぽだ、という意味ではなくて、それは単なる欠如や不在ではなくて、その奥に何か、肯定されるものを含んだ<空>でなければならない。そうでなければ、神秘思想における知識では有り得ない。


そもそも仏陀がそんな、結局なにもないんだよ、なんて教えを説くはずがありませんからね。そんな教えが世界宗教になる理由がありませんから。もっと深淵な意味が含まれていると考えるのが、仏弟子の採るべき当然のスタンスと言うべきだと思いますが。


 


空とは、否定の奥にある肯定さるべき何かである。般若経の教えから見ても、当然そういう理解がなされる、と梶山氏は<空の思想>を解くわけです。


この見解は正しい見解であることが、幸福の科学で学んでいる信者には、よくわかると思います。


 


続く解説を読んでも、梶山氏が、ひじょうに深く、般若経および龍樹の空の思想を考えていることがわかります。


 


それは、瞑想を経ることによって、初めてわかるもの、と述べています。


 
『般若経』の神秘家たちもさかんに瞑想をしますが、瞑想をしていると、「区別の哲学」と、ぼくが呼んでいるような、分別の立場でいろいろと区別をし、一つ一つ定義をしていったような形というものが、だんだん消えていってしまう。瞑想をして対象に心を集中している間に形も消えるし、ことばも消える。観念も消えてしまう。そしていちばん最後に残るものは無相とか空とかいわれるようなものである。しかしそういう無相とか空とかしか言いようのないものというのは、非常に明瞭にありありと瞑想者には自覚されているわけです。それを空と言ったのだけれども、空と言う、ということは、それが何とも言い表わしようのないものだ。つまりことば、あるいはわれわれの思惟というものは、ものを分ける立場から始めるけれども、われわれのことばで分けて表現しているようなもののどれにも当てはまらないようなものしか残っていない。


 


これはこのあいだ、わたしも記事で書いた内容に当て嵌まる部分があると思いますが、ふつうの頭脳で考える<分別知>ですね。


頭で考え、判断し、善悪の区別や、白黒の別をつけたりといった、そういう分別的な判断の<知>ではない。


そうではなくて、瞑想体験の中で<感じ取れるような>霊的な直覚というか、悟りの体験といってもいいかと思いますが、


頭脳的なる「区別の哲学」「分別の立場」の奥にある、言葉を超えた世界、観念を超えた世界、そこにあるのが<空>の本質であると。そういうような、なんとも言えない表現を、梶山さんはしていますね。


言葉を超えた世界なので、明晰な分析的な言葉による解説はしがたいけれども、それは確かに<あるもの>である。空とは、何も無い、空っぽ、という意味ではなく、瞑想体験によって掴める、感じ取れる<実相>としての実在である。そういうニュアンスでしょうか。


これは、肉体や物質の奥にある、霊的な実相、霊的実在、仏性や神の光としての実在、などと考えれば、なんとなくイメージが掴めるでしょうか。
 

そういう神秘主義的な体験は、ものを区別する立場、分別の立場というものと裏腹な、まったく片方を否定しなければならないようなものということになるんです。


 
わたし自身、ものごとを分析的に考える傾向が強いのですが、分別知ではない、分別にこだわりすぎるなかれ、というインスピレーションというか指導を何度もされているので、頭脳的なる理解の限界を知れ、ということだと思います。


霊的真相はそうではない。もっと奥にあるものだ。魂で掴み感じ取れと、そう言われているように思ったものですが。


 
ナーガールジュナの場合、いつでも片方に神秘主義があって、それと対立する区別の哲学があって、この後の方の区別の立場を論理的に、合理的に否定することによって神秘主義を指示する、そういう区別の哲学、あるいは分別の立場というものを否定していくことによって、神秘的な立場が浮き上がってくるような形なんです。


 
とはいっても、仏教的なる中道というのはスゴイもので、完全否定するわけではない。

 


分別知ではない、とは言っても、分別知が不要、というわけではないのが、中道のスゴイところです。


片方では、そうした分別を超えた<神秘主義>を解しつつ、その反面では、やはり<区別の哲学><分別知>をも踏まえて、論理的思考や合理性も捨ててはならない。


神秘と合理主義の融合、統合ですね。ここに、龍樹の<空の思想>の真骨頂があると、梶山氏は述べているわけです。


これは、霊的なる視点と、この世的なる視点を、双方踏まえて、真実を見いだせという、仏教的なる観点そのものであることが、よくわかりますね。


 


この龍樹の思想は、般若経典の伝統を受け継ぎ、とあるので、文殊菩薩の教えの流れを汲んでいる。


しかして、神秘と合理主義の融合たる<空>の考え方は、のちに中国で、天台大師智が唱えた<三諦円融>へと続いていく思想であることも、わかるでしょう。


空、仮、中、の三諦が円融するところに、仏教の教える<真理>は在る!


 


霊言を読んでも、釈尊の教えは、インドに出た文殊菩薩から、龍樹へとバトンタッチされ、ふたたび中国に出た天台智に受け継がれたと、そういう説明があったかと思いますが、


あの世とこの世を貫く真理ですね。双方を踏まえた世界の真実。これを述べているのが<仏教の真髄>なのだということ。


 


天台智へシフトする以前には、中観に対する、一部アンチテーゼのような形で、唯識思想というのが現れますが、これもまた、中観の思想を完全否定するものではなくて、中観の不十分なところを再検証しつつ、唯識という立ち場で仏教を説いた、一つの流れですね。


 


仏教思想の発展というのは、かようにして、中道であり、それ以前の教えを内包しつつ、さらにそれを弁証法的に発展させていった、という流れがあるように思います。


 


 … つづく。


 


 




* アメブロの新エディタで書いた記事をseesaaに転写すると、タグの関係でか、文章のあいだが上のように、だいぶ間が開いてしまったりします。読みにくいかと思いますが、ご容赦あれ。
<(_ _)>




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posted by ガンレオ at 17:50 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】「仏教の思想1 知恵と慈悲<ブッダ>」を読んでみる その2

ブッダの説いたことは、どちらかというと、個人の確立のほうに重点があります。それが、個人の問題に片寄っているということははっきり言わなければならんと思うのです。そうすると、もう一つの人間関係、つまり、大衆との問題の側には比重がおかれていないのです。そこに大きな問題があるということに気づいたのが、大乗の生まれ出でのいちばん大きなファクターだったとわたし思うのです。



つまるところ、大乗というのはブッダの思想に対するアンティテーゼだと思うのです。大乗には、ブッダで強調された逆の面が出てきているのであって、ある意味において対立している。しかし対立をするということは、けっきょく、この思想を完全にするために補われるべきものを主張しているのです。

 
これも、ブッダのオリジナルの教えは、小乗仏典の方である、という先入観が最初からあって、それへのアンチテーゼとしての大乗運動が後に起こったのだ、という決めつけがありますが、
ブッダが在世時から、在家の人たちにも教えを説いていたのは、既存の仏伝でも知られていることのはずですよ。在家信者には、在家向けの教えを説き、三帰五戒の誓いを立てるシステムもすでにあったはずですね。

プロとしての出家集団があり、そちらの人たちの方が一層本格的な修行をしていたとは言っても、在家に対してブッダが比重を少なくしか置いていなかった、と決めつけるのは早計でしょう。

渡辺照宏さんなどは、既存の仏教知識だけから推理して、ブッダ在世時からすでに、大乗の萌芽となる教えを仏陀が説いていたのは明らかだ、と述べていますしね。

弟子を各地に派遣したのも、その現れであり、出家者を作るだけが目的ではなかった。多くの人を救済しようという、のちの大乗につながる思いを仏陀はすでに持っていて、実際に多くの人たちを救っていた。

ブッダのそもそもの教えに、大衆救済という目的がすでにあったのであって、のちの大乗運動は、その萌芽をさらに発展させたものであって、ゆえに大乗運動と仏陀は別物ではない。そう論じていたと思います。わかる人にはわかる、わからない人にはわからない、ということなのでしょう。

 

しかるにこの対談の学者さんたちは、渡辺照宏さんとは違い、ブッダの教えは個人の確立の教えであって、大乗運動はこれに対するアンチテーゼ、対極にある思想だった、と決めつけている。

そういう解釈に立って、のちの大乗運動を意義のある運動だと評価するのならば、それを説かなかったとされる仏陀への評価は相対的に下げられてしまって、ブッダへの尊崇の念さえ薄れかねませんが、実際この人たちのスタンスは、まさにこれに近いでしょう。

 


梅原 仏教というものは、釈迦に始まる一つの大きな思想の流れという形で見ていったほうがよい。釈迦の仕事もひじょうにすぐれている。しかしその後に出てきた大乗仏教、浄土教なら浄土教も、それぞれ実にみごとな生と死の問題の解決のしかたを示している。



増谷 そのとおりです。

 

仏教を始めた釈迦はたしかに偉いが、歴史の流れの中で、そこに後から出てきた大乗の教え、浄土教の教えやその他のさまざまな流派が付け加わったお蔭で、いっそう仏教は素晴らしいものになったと、梅原氏は言っている。増谷氏もそれに同調していますが。

これでは、釈迦は単に、最初に仏教という教えを始めた、点火した人間に過ぎず、マッチで火を付けただけの人にさえなってしまいかねません。

釈迦がつけた小さな火が、やがてたくさんの薪がくべられて、大きな火となって燃え上がっていった、それが仏教である、と言わんばかりの解釈ですが。

これでは、仏教とは釈迦である、仏教を知るためには釈迦に帰れ、などという視点が出てくるわけもありません。

釈迦の教えには、浄土教もまだ無く、大乗の教えもまだなく、ただ個人の確立を説いただけの教えという理解しか、この人たちはしていないんですから。

 

釈迦だけを追求しても仏教はわからないと言っているわけです。

さきほどは、仏教を知るためには、六師外道をさらに調べるべきだと言ってみたり、今度は、釈迦だけを調べても仏教はわからないなんて言っている。これで、よく仏教を語れたものだと呆れてしまいます。
 
増谷 ええ、そうなのです。仏教学者の中にも、たとえば原始仏教を研究し、それをプロトタイプにして、のちの諸流を考えようとするものもある。するとたとえば、浄土教はその原型にはまらないので、それはほんとうの仏教ではないとする。そのような考え方もある。  ところが、仏教というのは、滔々たる流れだと思うんです。水源すなわち、ブッダから流れ出た流れは、やがて、いろんな水流を合わせて滔々たる流れとなった。それによって、仏教は混濁したのじゃなくて、一歩一歩完成に近づいているのだと思うんです。

 
渡辺照宏さんは、仏教を知るためには、仏陀に帰らないといけない。仏陀を知ることが、仏教を知ることなのだ、と明確に生前から述べていました。

ここで増谷氏が批判している仏教学者というのは、ゆえにこの渡辺照宏さんのことだと思われます。どちらの見解が正しいのでしょうかね?(笑)

 

渡辺照宏さんの著書を読めばわかりますが、仏陀在世時の教えがどのようなものであったのかを追求し、その観点から、のちの中国仏教や、日本の平安・鎌倉仏教の各宗派を論じていますからね。

浄土宗や日蓮の教えは、本来の釈尊の教えからしたら、きわめて異端の教えといっていい距離のある考え方だ、と明確に指摘しています。

しかしこの増谷氏は、仏陀+中観+唯識+密教+禅+浄土系+日本の仏教+ … といった形で、仏陀のオリジナルに、その後いろんな別の考えがたくさん付け加わったのが仏教なのだ。釈迦にいろんなものがさらに流れ込んで大きな大河にあったのが仏教なのだ、などと言っているわけです。

 
梅原 そうですね。仏教は異端の勝った歴史ですね。(笑)



増谷 少なくとも、異端がひじょうに大きな役割をしています。そのことを明らかにしておかないと、ブッダでもって仏教の思想のすべてを律しても律しきれないのです。わたしはそういう考え方をもっています。



梅原 そのことはわたくしも賛成です。仏教というものを、釈迦から始まる思想の流れとしてそこにいろいろの思想が流れ込んで堂々たる流れになった思想の大系というふうに考える。

 

仏教は、キリスト教とは違って、寛容な教えであったがゆえに、そこに本来の釈迦の教えとは違った異色の考えが、後世どんどん付け加わっていきましたね。

寛容さはよいことでしょう。けれども、そうして付け加わったことを、単なるプラスと見て、その反対に、仏陀その人を小さく小さく見ていったならば、仏陀に帰れという視点は決して出てこないでしょう。仏陀の偉さが矮小化されてしまうし、こういう人たちにとって、仏陀とはどういう存在になるのだろうか。

仏陀が再誕されたといっても、いや別に仏陀が仏教のすべてを説いたわけではないし … などと言いかねないのではないでしょうか。

そういう、仏陀への尊崇の念の薄さが、この人たちの信仰心の薄さをも表しているのではないでしょうか。

中村元という人は、自分こそが仏陀の再誕であるみたいなことを言って、地獄の暗闇の中から霊言を送っていたようですけれどね。さもありなん、というところでしょう。
 
増谷 ドイツのオルデンベルグという仏教学者は、仏教をよく理解し、とくにブッダをひじょうによく理解していたと思うんですが、彼は、ブッダが死後の生命を語るでもなく、天国に生まれることを語るでもなく、片田舎で静かに死んでいったということにいちばんの感銘を示しています。



梅原 ソクラテスですら、最後は不死を語った。彼は一生ロゴスの人で通しながら、最後にミトス、神話を語ったわけです。最後にイデアの世界を証明して、これから行く世界は、どんな世界かということを想像しているわけです。ヨーロッパの合理主義の中には、ひじょうに非合理なものがはいってるんだなぁ。

 
この人たちが、死後の世界のことなど信じていないのが、上の発言を読めばよくわかるでしょう。
 

ソクラテスは、死の直前の弟子との対談で(「パイドン」)、肉体が滅びて、魂となってから帰る世界のことが、わたしは楽しみで仕方がない、と述べているんですが、

この対話を指して、梅原氏は「神話」と述べています。ソクラテスは死後の世界を「想像」しているんだなぁ、なんて書いていますが、「パイドン」や「国家」を読めば、ソクラテスは想像していたんじゃなくて、霊界の実相を明確に知っていたんですよ。想像じゃなくて、実際に霊眼で見て知悉しており、その仕組みを明確に理解・認識して語っていたんですよね。

神話や想像などという言葉を使って、絵空事をソクラテスが妄想していたかのように言うのは、ソクラテスやプラトンに失礼というものです。

 

この梅原猛という人は、怨霊史観を立てて知られていますが、この人を尊敬して怨霊史観を中心に据えている人が、井沢元彦ですね。この人もダメだな、とわたしは推定していますが、この人の歴史観は偏屈でかたよっている、と「逆説の日本史」を読むと感じます。

 

思想の系譜というか、誰の教えの流れを汲んでいるのか、どういう解釈をこの人は採っているのか。そういう点をよくよく見て、読む本は選ばないといけませんね。

 

 … つづく。

 

仏教の思想2、か、仏教の思想3、の感想も書きます。

 

 



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posted by ガンレオ at 10:49 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする