2017年04月17日

【レオ】ハイエクとソクラテス

近代に出た経済学者ハイエクと、古代ギリシアの哲人ソクラテス。


 


大川隆法先生による当人の霊言によれば、この両者は同じ魂の転生の姿であるという。


 


そう言われて、なるほど、言われてみれば、似ているな、と思える人、どれだけいるでしょうか?(笑)。


 


二人とも頭がいい、なんて理由ではダメですよ。頭がいい人なんて、歴史上いくらでもいるんだから。


 


わたしは先ほど、渡部昇一さんの著書を読み返していて、ある文章を読んでいたら、「あー、なるほど、ここか。」と、えらく合点がいってしまったので、せっかくなので記事に書いておきます。


 



法的枠組みにおいて強制力が行使されてはならないという、いわば否定の論理がまず先行することをハイエクは強調します。本書には書かれていないけれども、ハイエクが日本に来て講演したときに、「自由主義の法律はDon'tであるべきである。であってはいけない」といいました。  

ハイエクが是認する法律の特色は「否定」です。「これこれをせよ」という法律ではなく、「これこれすべからず」という法律を求め、否定されていること以外はやっていいというくらいでないと、自由主義ではないというわけです。


 


ハイエクは、統制経済・計画経済の社会主義を批判しました。


そして、その対極にあるものとしての、自由主義を強く勧め、アダム・スミス以来の自由主義経済こそが本道である、と述べたのだと思います。


 


自由、自由、自由。


 


自由であるためには、強制や決まりごとは極力少なくしておかないといけない。または、あれをやれ、これをやれ、といった強制的な行動指針を持った法律を、たくさん作ってはいけない。ということですね。


 


基本的には、大きな枠組みの中で、たとえば国家という大きなシステムの中では、


最低限、これはやってはいけないよ、という最低限の決まり事、ルールのみを課しておき、


それを逸脱しない限りにおいては、出来る限り、自由であるべきこと。


 


こういう考え方が、ハイエク流の自由主義でしょう。


 


むろん、それは、何でもかんでもやっていい、無制限の自由ではないのは、言うまでもないことです。


言ってみれば、崖から転落しないための柵は設けられていて、そこから外に出たら危ないから、柵は設けるよ。


けれども、その柵の内側では、どんなことをしてもいいですよ、自由ですよ。ただし、他の人には迷惑をかけないようにね。


 


そういった、最低限の防波堤は作った上での、自由、ということでしょう。


 


だから、引用文にあるように、ハイエクは、


 


 


「自由主義の法律はDon'tであるべきである


 


と言い、さらには、


 


「これこれすべからず」という法律


 


 


にのみ抑えるべきであって、その最低限の戒めのみを守れば、あとは出来るかぎり自由にしてよい。


それが、ハイエク流の自由ですね。


 


最小の「戒め」を持った、大いなる自由、とでも言うべき立場でしょうか。


 


 


ここまで解すると、これは、ソクラテスにまつわる、とあるエピソードと非常に似ていることに気づきます。


 


そう、あの、ソクラテスの守護霊であるダイモンですね。


ソクラテスの守護霊ダイモンは、ソクラテスに対して、


 


〇〇〇をしてはいけない。


 


という風に、それはしてはいけない場合には注意したけれども、


それに違反しない限りにおいては、ソクラテス本人の自由意志と決断に、すべてを任せていたように思います。


 


ソクラテスの守護霊ダイモンこそは、まさに、ハイエクの言うような、


これだけはやってはいけない、けれど、それ以外なら貴方の自由にするがいい、という考えをそのまま、指導方針としていた神霊ではないでしょうか。


 


幸福の科学の霊査によれば、この守護霊はアポロンだった、と以前、言われていたと思います。


魂の兄弟ではないのでしょうけれどね。如来同士の指導関係なので、別の神霊が、ソクラテスの指導に当たっていた、ということなのでしょうか。


 


いずれにしても、


最低限の「やってはいけないこと」のみは指摘するが、


それに違反しない限りにおいては、人間は自由である。


ソクラテスよ、貴方も自由である。あなたの判断で考え、決断し、行動しなさい、ということだったのでしょうか。


 


あれをせよ、これをせよ、という指示だし指導では、地上の人間は、守護霊の操り人形の如くになってしまい、自分で考えることを辞めてしまうでしょう。


なんでもかんでも、守護霊にお伺いを立てて、指導されるがままに動くのでは、自由な生き方とは言えないし、魂の学びもない。


 


これは、自由主義という政治思想、経済での考え方にも、そのまま適用されるのではないだろうか。そんな風にも思います。


 


人類は、自由の解放に向かって、歴史の歩みを進めてきたけれども、まず初歩の学びとしては、何をしてはいけないのか、ということを学ぶ必要があったのかと思います。


 


思い返せば、ユダヤ教の十戒にしても、イスラム教の戒律主義にしても、仏教の戒律にしても、これをしてはいけない、という「破ってはいけない」ルールを、人々はまず学ぶように指導されていたと思います。


 


その上で、どのように生きればいいのか。


 


自由に生きる。


 


しかして、その自由の意義を知らず、またもや、間違った生き方を人はする。そこに新たな学びがある。


 


真の自由を知るために、最低限の制約、ソクラテス的Don’tがある。ソクラテスの守護霊が言った「〇〇〇をしてはいけない」という考えと、


 


ハイエクの、これこれすべからず、に反しない限りは、自由な経済原理を確立すべきだ、という考え方。


 


哲学と経済という、違った世界の話のように見えて、その実、その背後にある理念は、まったく同一の考え方によって貫かれているのではないか。


そんな風に、ふと思ったのでありました。


 


 


 




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2017年04月16日

【レオ】信仰は、独りよがりであってはいけない。だから他の人の信仰からも学びましょう

LEO幸福人生のすすめ、より転載 (2017-03-20 の記事)
http://ameblo.jp/space-people/entry-12258060095.html



信仰とは、人が人生において出会う目覚めのうち、もっとも大切なものだと、いまの私は思います。

深い挫折や苦しみの中で、人はそれまで、関心も持たないで生きていた<神さま>へ。初めて目を向けることがある。
無神論や無宗教が当たり前のようになってしまっている、いまの日本では、信仰に目覚めるというのは、それほど難しいことになってしまっている。

自分の力では、自分を救うことが出来ず、
家族や、友人・知人・先輩に答えを求めても、わからない。

神さまに教えてもらうしかない。救ってもらうしかない。
そこまで行かないと、心が神さまの方を向かないのは悲しいことだけれど、
その恩知らずの愚かな人間であっても、神さまは待っていてくれるんですよね。
そして、たしかに、魂の救いを与えてくれる大いなる存在だと、わたしは思います。

神さまに向かって、答えを求めるとき、救いを求めるとき、祈るとき … 、

人は基本的に言って、独りだと思います。
自分ひとりで、神さまと向き合い、信仰とは何か、祈りとは何か。自分はこれからどうしたらいいのか、その答えを求めるもの。
自問自答のようでありながらも、そこにはさまざまな気づきがあったり、深い苦悩もあったり、悩みや葛藤、深い思索、さまざまな経験を経て、

人は、自分と神さまの関係を模索する。

一生、神さまのもとにあって、神さまを信じて生きていこう、と決意する者あり。

一時のみ、神の救いを求めたものの、悩みが解決したら、喉元過ぎれば熱さ忘れるが如く、
ふたたび、神さまとは無縁の人生を生きてしまう人もあり。

一度は信じた神さまを、みずから捨てて、神などやはり存在しないと、無神論に戻る人あり。

いろんな人がいるのでしょうが、わたしはそこで、ちょっと待てよ、とやはり言いたいと思うのです。

キリスト教にしても、仏教にしても、イスラム教にしても、世界の人たちがこれらの教えを信じてきた期間は1500年から2500年 … 。そういった長い歳月のあいだ、多くの人たちから、尊い教えだと信じて敬われ、いま現在も世界中に数億から数十億の信者をもつ世界宗教を見て … 

その教えの真実を判断するのに、わずか1冊や2冊の本を読んだり、自分の個人的な思惑や体験のみで、一蹴してしまっていいのだろうか?と思うんですよね。

テーマとしては、最大、最重要の事柄が、この神と自分の関係、信仰という世界の話だと思うのですが、
そのことの意義や価値を真に知るためには、

単に、自分一個の主観的な思いなしや、感情的なる判断で、結論を出していいのだろうか。
自分はそんなに賢い人間だったろうか。
自分の人生観は自分で決めるといっても、世の中には、賢者と称えられている数多くの偉人がいたはずではないか。そういう人たちの意見や声を、もっとよく聞いてから、よくよく判断して結論づけた方がいいのではないだろうか。

自分の小ささを知り、謙虚となって、傲慢さを去り、
過去の偉人や、現在の智慧ある人の意見を、もっと虚心坦懐になって聞いてみてもいいのではないだろうか。わたしは、そう思うのです。

キリスト教の素晴らしさを知るために、

聖書を手にとって、わずか数ページを読むだけで、投げ出してしまった人は、なんと勿体ないことをしているだろうか。

聖書を読むだけでなく、アウグスチヌスやトマス・アクィナスやベルナルドの思索に触れてみたら、そこには何と深い人生への洞察と、魂への探究があるだろうか、と思わずにはいられない。

2つ前の記事で書いた、三浦綾子さんのキリスト教エッセイは、幸福の科学の信者であっても、いまだ到達しえていない、深い宗教的な悟りの言葉が、無数に煌めいている。

教えを初めて読むということは、まだその教えを知ったことにはなっていない。
真理は体得しないと意味がない。
特に、心の教えは、自分の魂によくよく深く熏習させて、みずからの魂でもって体得しないと、わかったことにはならない。
最強最高最大の教えを、ただ目で読んだことがあったとしても、それを本当に知った人と、目では見たが魂では掴んでいない人の差は、驚くほどに違っているものだと思う。

やはり、真に知らねば、と思う。それは、魂でもって掴む、ということだ。

そのためには、自分一個の、ひとりよがりな信仰体験だけでは、やはりそう簡単に掴めるものではないので、他の多くの先人たちや、信仰をともにする法友たちの体験なども、謙虚になってよく聞き、よく学び、みずからの今後の人生の指針とする。そういった謙虚さが、やはり必要なのではないかと思うのです。

独りよがりの信仰問答に陥って、疑問を呈して、退転したりしないように。
退転の際には、その心、かならずや驕りの気持ちがあるはず。他の人の体験話に素直に耳を傾ける気持ちなく、自分の主観をあまりにも重視し、感情的に結論を決めつけていたりするものでしょう。要注意ですね。




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2017年04月15日

【レオ】誰しも、その人なりの<神>概念を持っている。問題はその<神>概念が正しいかどうか、深さはどうかだ

LEO幸福人生のすすめ、より転載(2017-03-23 の記事)
http://ameblo.jp/space-people/entry-12258825515.html

無神論者の述べる「神の不在」の証明というか、根拠にあげる例に、

神がいるなら、なぜこの世はこんな不幸で満ちているのか。
神がいるなら、世界の不幸など簡単になくせないとおかしい。
なくならないで現に不幸が満ちているのだから、神はいない。


こんな論法によって、自分は「神の実在」など信じない。神は存在しない、自分は無神論者だ、と言う人がいる。

他にも、神を否定する論拠には、その人なりに色々な主張があるのだろうけれど … 。
たとえば、
人間を創っておきながら、楽園追放する神など信じない、というのも似たような考え方で、旧約聖書の創世記の記述を自分なりに読んで、そのような結論を下して、この人は(旧約聖書的なる神は)信じない、といって拒絶しているわけでしょう。聖書を読んで作った、自分の神イメージでもって、真実の造物主がいるかいないかを即断している。

けれども、その神概念は、ほんとうに正しいのだろうか?
そう考える必要があるのではないだろうか。


要するに、こうした「神の否定論者」でさえ、その人なりの「神概念」を持っているわけですが。
最初の例で言えば、この人の持つ「神のイメージ」は、

全知全能の神ならば、世界の不幸を放置などせず、あっという間に解決できないとおかしい。そもそも、そんな不幸がはびこる世界を「創造」した神は、幸福を約束してくれる神ではない、ということになるから、わたしはそんな存在を信じない。もしいたとしても、そんな神は信じたくない。自分は自分で生きていく。

こんな考え方をしているのかもしれない。


その人なりに、神とは何かを定義していて、神が愛ならば世界に不幸は存在しないはず。世界の人々の苦しみを放ってはおかず、助けてこその愛の神ではないか。
しかし現実の世界には不幸や苦しみが存在している。神がいるならば、これはおかしい。
ならばやはり神は「存在しないのだ」。

などという思考によって、神の実在を否定、もしくは、自分の考える「神」に適合しないであろう、そうした存在を否定する。

しかし逆の立場から見たら、その人個人が、どんな神概念を持とうが、否定しようが、
世界の創造者があるのならば、その創造者の在り方を純粋に探究するのが、神に近づく道であるべきであって、
自分個人の勝手な神解釈や、自分の抱く神イメージを先行させてしまって、それに適合しない世界創造者としての「神」などはありえない。もしいたとしても、そんな神など自分は信じない。
などと主張して憚らない人は、あまりにも、あまりにも傲慢な人間ではないだろうか。

なぜなら、自分の未熟なる「神概念」すなわち、神さまに関して知っている知見を優先して、
それに適合しない造物主など、自分は認めない、と言って、神を裁こうとしているのだから。

自分の考える概念に合わない存在は、神として認めない、と言うのなら、これほど傲慢な態度はあるまいと、わたしは思う。

人間の立場というのは、そんなエライものではないのであって、立場が完全に逆ではないかと、わたしは思うのだ。


神とはいかなる方であるのか、存在であるのか。
愛であり、叡智であり、信仰の対象であり、世界の創造主であり、生命を育んでくれる大いなる宇宙意識であり … 、
などなどの、古代から伝わるさまざまな<神を表現する定義>でもって、もっと深く深く思索しないと、いけないのではないだろうか。

愛である神が、世界をこのような形で生かされているのは何故か、と考えるのが、神と世界の関係を知るための、正しいアプローチの仕方であって、

世界がこうだから、神はいない、と考える短絡思考は、あまりにも単純なモノの見方でもって、世界の創造主を否定している、傲慢の罪そのものではあるまいか。


宗教否定論もそうですね。

宗教どうしの戦いが延々と繰り返されている。だからわたしは宗教などは信じない、という人がいる。
宗教が愛であり、たがいを認め合うものであるのなら、なぜ宗教戦争があるのか。おかしい。
戦争をやるような宗教はおかしい。だから宗教などにはまるのは間違いだ。自分は宗教など信じない、という人がいる。

この人もまた、先の「神概念」と同じような思考パターンによって、宗教を否定している。

自分の勝手な「宗教イメージ」でもって、宗教が愛ならば戦争などしないはず、といった決めつけでもって、宗教を自分勝手に定義づけている。
それに合わない宗教がたくさんある以上、宗教というものそのものがおかしい、という結論をこの人はして、無宗教に陥っているわけだが、
果たして宗教というのは、そんな一面的な判断でもって否定してよいもの、なのだろうか?

あまりにもこれは、宗教に関しての知識の不足、無知ゆえの短絡思考ではあるまいか。

宗教は戦争をしない、などという決めつけでもって、宗教そのものを否定しさる権利が、たかだか人間一個人にあるのだろうか。
人生観は勝手だからといっても、宗教そのものを否定するだけの論を発表する資格が、果たしてこの人にあるだろうか。
仏陀やイエス・キリストに脱帽敬礼してから、その言を吐き給え、と言うしかないように、わたしには思えて仕方がない。

人類の歴史と、宗教の歴史、あらゆる宗教の教える教義を、どれだけこの人は知って、宗教そのものを否定しているのだろう。

あまりにも貧弱で、単純な論点のみによって、すべての根本とも言える大いなる理念存在を、否定する暴挙に走ってはいないだろうか。


神と言い、宗教と言い、根源的なるものほど、その中に含まれる理念・概念は精妙で複雑で、かつ、あらゆるものを内包しているものだ。
それゆえ、高次の概念ほど、それを真に深く知ることは極めて難しく、単純な思考では到底、その本質には肉薄できない。

白か黒か、AかBか、なんていう単純な二分法で結論を出せるような、低レベルの話ではないんですよね。

世の中に不幸が満ち溢れているように見えても、神が大いなる愛であることとは、まったく矛盾していない、という理解があり得るんですからね。
宗教の教義を奥深く理解し、信仰と愛、霊的世界の秘密、転生輪廻と永遠の生命の神秘を知れば、この世の不幸は、神さまが放置しているわけでもないし、愛の欠如でもないことがわかります。

さらには、宗教同士が戦争をすることは、宗教が平和や愛を謳っていることと別に矛盾しない
これまた、地球に生きる生命の多様さを真に知れば、その魂のルーツの違いから、さまざまなぶつかり合いや切磋琢磨が生まれていることが、理解できるようになる。
戦争という表面の争いのみをみて、その奥にある精神の煌めきを見ないでは、宗教そのものを否定するには、早計すぎる判断でしょう。
キリスト教とイスラム教の戦いにしても、双方の教義を本当に深く知ったうえでなお、なぜ争いが起きるのかを、あなたは解説することが出来るだろうか。そこまで深く宗教を知っているだろうか。それを知らずに、武器をもって戦っているという面だけを見て、単なる世俗の戦争と同じか、あるいはそれよりも下等な争いのように見るのは、これまたあまりにも短絡的な判断と言うしかないでしょう。

宗教という理念もまた、もっとも大いなる高次概念のひとつですからね。それを極めるほどに深く知悉して、判断をしているのかどうかを自らに問わないといけない。

世界の果ては、滝のようになって、海の水が流れ落ちていっているはずだ、という世界観を持っている人が、

いや世界の果ては、滝ではないよ、ずっと海が続いていて、その先をずっと進むと、ぐるっと回って元の場所に船は戻ってくるんだ。地球は丸いんだよ。
と主張する人の話を聞いて、

そんな世界観は信じられない。お前の主張するのは、妄想の世界観だ、といって否定したとする。
どちらが正しい世界を見ているのだろうか。今となっては明らかですね。


最初の人は、世界の果ては滝のようになっているはず、という概念を固執していて、

滝のようになっていない世界の果てなど有り得ない、信じられない、妄想だ、といって否定しているわけですが、
世界の不幸を放置している神など有り得ない、信じられない、といって否定する人間は、これと同じような思考パターンに陥っているのだと、わたしには思えます。

もっと謙虚になって、
神とは何か、宗教とは何か、真実そのものを探究しつつ、それを学ぶことが大切なのだと思います。

自分の考える神概念、宗教概念に固執して、それに合わない神など認めん、宗教など要らない、という人は、とてもとても傲慢な、そしてまた、短絡的な判断に陥っていないかどうかを、深く反省する必要があるのではないか。
霊的に言ったら、そういう魂はひじょうに危うい境涯にあると、わたしは考察する者ですね。




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2017年04月14日

【レオ】ブログ記事について

2010年からブログを始めたので、すでに足掛けで8年目に突入してるところ。
ということで、継続は力なり、で我ながらずいぶんと更新がんばってきたのではなかろうか。などと自負しつつ。

ブログ記事について、あらためて考えてみるのでした。

なんのために、こうしてブログをつづっているのだろうか?


無名人のブログですから、ランキングサイトにでも登録しないと、そうそう多くの人に読まれることはないであろう、ブログというもの。

けれども、自分としては「善き記事」を日々、書いているつもりでありまして、無神論の人のエッセイなんか読むより、よほど良いことをタダで読めまっせ〜、というものを綴っていると、これまた自負しております。ハッハッハ。


霊界の構造を考えてみたいのですが、

最初にあるのが、善と悪の分かれ目ですかね。善人界という天国と、地獄界という悪霊の住処に、死後の人間が住む処は分かれている。

当然、善人になるべく生きるのが正しいことだし、悪人になってしまっては、間違った人生を生きたと言うしかない。

ブログ記事で言ったら、善き記事を書くのは、天国的な行為だと思います。これは読者の人に、読んで、ためになる記事や、心にプラスになることを語っているブログですね。

一方では、不平不満を並べるばかりだったり、間違った考えを述べているブログもあるでしょう。
一私人の作るブログであっても、善なるものと悪なるものに分かれている。

まぁ、邪悪なブログは基本、見る必要はないですね。というか、下手に覗いて毒素を受けるより、最初からシャットアウトして、シカトした方がいいでしょう。
ネット情報はそれこそ情報の洪水の場だから、邪悪でくだらんものなど見てるのは、時間の無駄というものです。

なので、心根の善い人のブログ、善いニュースサイト、などを見るのが、最初の出発点かなぁと思いますが。

それでも、幸福の科学で学んでいる信者であってみれば、単に、内容が善であるだけでは物足りない。

そこに高度な思索なり、深い考えや洞察なりがないと、知の面において不十分に思える。
なので、善にして、知的にも洞察を含んだものが望ましい。

そういうブログでありたい。ということですね。

読者の数の多寡は、とりあえず、どーでもよろしい。
善い内容を書き、知的にもきちんとした洞察を含んだ記事を書こう。
それを読んでくれる愛読者の数が、たとえ数名、数十名であったとしても、
熱心に読みに来てくれる人は、わたしの書いていることを、心から理解して賛同してくれている方々でしょう。
言ってみたら、魂の同胞であり、仲間ですね。

そういう人に向かって、記事を日々発表しつつ、なおかつ、少しづつでも、まだ未知の人がこのブログを訪問して、幸福の科学で学ぶことのキッカケなりを得てくれたら、これほど嬉しいことはない。

これも、一つの種まきの姿だと、わたしは思っています。

ブログを訪問してくれる読者さんへの、わたしからの語りかけであるし、
さらには、自分自身の能力を鍛えるための鍛錬、という意味で、自分自身の魂にも、種を蒔いていることになっている。そう、わたしは考えています。

なぜなら、ブログで書いた記事は、自分で考えて書いた内容ですから、どこかで同じテーマでスピーチしてくれ、とか、さらに内容を濃くして語ってくれ、とか言われても、そらで行なうことが出来ますからね。
誰かと同テーマで話す場があったら、わたしはブログ記事で書いたようなことを、何も見ないでペラペラしゃべるだろうから、レオ当人だということがわかるくらいの会話は、おそらく出来るでしょう。

自分で考えて、自分の言葉で書く、ということは、自分の考えを整理してまとめる、ということですから、いくらでも別の場所で、自分の言葉で同内容を語ることが出来るようになるんですよ。
その考えを単なる思い付きで留まらせずに、確固とした考えとして確立し、それを自分のものと出来ている。ということです。
自分で考えた内容だからこそ、自分のものに出来ている。自分の言葉で語れる。今後、いつ、どの場所においても。ということです。
コピペだけやっているだけでは、こういう力は身につかないでしょう。読んで貼り付けるだけでは、書く練習には全くなっていないからです。

これは、自分で努力して記事を書く、考えて記事を書く鍛錬を続けていくことで、自分の頭の中をも整理している。ということだから、
もし、読者がまったくいなくなったとしても、自己鍛錬の意義は残る、ということです。
だから、読者がゼロでも、続ける … かどうかはわかりませんが、ブログを書き続ける意義は、やはりあるのです。

それは、他者への誘い、という種まきでありながら、
自分の能力を鍛えるための、種まきにもなるのですから。

ということで、頑張りましょう。
いつまで続けられるか、チャレンジし続けよう(笑)。




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2017年04月13日

【レオ】忙中閑あり

忙中閑あり。
忙しいさなかにも、閑(かん)、ひまはあるものだ。

毎日仕事で忙しくて、肉体的にも精神的にもいっぱいいっぱいで、閑などまるでない、というなかれ。
それであっても、ゆとりの時間、暇の時間をわずかでも作ればいい。
それが10分、15分でも、心からの解放を得られる「寂」の時間を得る。

安岡正篤さんは、戦争中、激しい空襲のさなかでも、20分の短時間に悠々と座禅をする時間を持ち、心を極める努力をしていたそうです。

忙しいさなかでも、寂なる時間を持つ、閑たる時間を持つ。
それは時間的な余裕を持つ、という意味だけでなしに、

その忙しい時間の真っ最中にも、心のどこかにゆとりを持つ。心がいっぱいいっぱいにならず、ゆとりの心の空間を持つ。
それが大事なのではないかと、最近は思うようになりました。

物理的に、ゆとりの時間が持てないのなら、仕事でアップアップしている、その業務時間の中においてこそ、心の解放を得られないだろうか。
100の仕事をしている時に、心が100でアップアップでは、ゆとりどころではありませんね。
ならば、120の心の大きさを持って働けばよい。さすれば、100の気持ちを仕事に割り当てても、あと残り20の余力がある。心の余力がある。
それが、心のゆとりの部分であって、同じ時間内の「閑」の時空間ではあるまいか。

安岡さんは、忙しい、という言葉の「忙」という字は、心が亡くなる、と解けると言っています。
忙しい中に忙殺されていると、まさに忙殺の「忙」ですね。心が亡くなる。心を見失ってしまう。

これではいけないのでしょうね。
心が亡くならないように、忙殺されてしまって、自分の心の全てが失われるのではなく、なお余力があって、ゆとりの部分があるほどに、大きな心を持って生きればよいのではないか。

これは仕事の技術の向上によっても得られるかと思いますが、
仕事の覚え始めというのは、どうしてもわからないことだらけで、アップアップ状態で仕事をしますよね。
けれども、仕事内容を覚えて熟達すれば、時間当たりにこなせる仕事量も増えるし、仕事スピードもアップする。
ルーティンワークを軽妙にこなすことが出来るようになると、時間の余裕も生まれるし、心にもゆとりが生まれます。一挙両得です。

こうした、心の自由を得て、その上で生きれば、仕事の合間にイレギュラーな事件が起きても、心は泰然自若として、余裕を持って対応できる。アップアップにならんのです。

だから、100の仕事をしながらも、120の心、150の心、200の心をもって、心のハンドルに自由な遊びを持って生きたいものです。

忙中閑あり。

そういう意味でも、わたしはこの言葉を解したいと思うのでありました。

ここ数日のあいだに、しばしば思ったことですけどね、ハハハ。
忙しく仕事をしているあいだでも、ブログ記事は書けるのです。



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2017年04月11日

【レオ】死んだ後に、相手から返ってくる善念と憎しみについて

つづきです。

スピリティズムによる福音 -
スピリティズムによる福音 -



善行は最も冷え切った心をも和らげます。この世においては忘れられてしまうかもしれませんが、肉体の被いから自由になった時、善行を受けたその霊はそのことを思いだし、その記憶がその人に対する罰となります。彼は自分が恩知らずであったことを嘆き悲しむことになります。
次の人生で自分の過ちを改め、恩義を返そうとし、善を施してくれた人に仕える人生を求めようとすることもまれではありません。




これは、アラン・カルデックがテーブルターニングで得た霊界通信です。高級霊からの通信ね。

その霊が言うには、
善行を行なって、その相手がなんの感謝もすることなく、忘れられてしまったとしても、
その相手が死んで霊になると、自分がいかに与えられていたかを思い出すのだ、とあります。

善行を受けたその霊はそのことを思いだし

ですね。
人は肉体に宿っているあいだは、本来の精神の自由度を失い、ひじょうに鈍感な精神状態になっている。
だから、人を傷つけても、相手の苦しみには鈍感でいられるし、あるいは、人から善を施されて感謝をしなくても、平然としていられる。
相手がどのような優しい気持ちで、そのことを成したのか。もし、それを生前から感じられるほどに、魂が敏感であったなら、きっと涙を流して喜び、感謝することも出来たのに。
肉体に宿っているあいだの人間というのは、他の人から向かってくる、善い思いにも、悪い思いにも、いずれも鈍感であるがゆえに、平然と自分勝手に生きているのかもしれません。

ところが、死んで肉体から離れると、魂は本来の鋭敏な姿を取り戻す。
肉体の覆いが取れて、魂そのものが世界に晒されるので、人の気持ちがストレートに自分に影響を与えるのを感じるようになる。敏感になるんですね。

精神エネルギーというのは、いっとき浮かんでは消えてしまうものではなくて、ある人が発した思いは、それが善い思いであれ、悪い思いであれ、エネルギーと存続して活動を続けているのかもしれません。
それゆえ、その残存エネルギーの存在を、霊になった魂は感じ取れるのかもしれませんね。
すると、どうなるか。

他の人に与えた苦痛が、苦しみのエネルギーとして感じられる。自分に対する恨みや憎しみの思いが、ストレートに自分を攻撃してくるのを感じる。
したがって、他人を多く苦しめた人は、多くの人からの憎しみの念を、死後になると、ストレートに全て受けざるを得なくなる。
過去のその時点の憎しみだけでなく、相手が不成仏の場合はずっと、その恨みの思いが自分に向かってくるわけでしょう。
動物を屠殺した人が、死後、それらの動物たちの怨みの念を受けて苦しむ姿が、霊界通信であったと思いますが、あれですね。
某首相も、人々から攻撃され続けた結果、その集合念によって病になって倒れたとか。人が発する精神エネルギーは、かように物理的な力を実は持っている。
肉体は滅びても、精神のエネルギーは残っている。それゆえにこそ、死後にも、精神のカルマは自分に返ってくるし、来世にも追いかけてきて、存続するのでしょうか。
(*注;不当な恨み・つらみは、発した本人のものなので、発した人に跳ね返っていくのが基本ですけどね)

これとは逆に、多くの人に愛を与え、感謝された人は、その死後において、相手から伝わる感謝の思い、善なる思いを受けて、いっそう光り輝く境涯に達するのでしょう。
他の人から返ってくる喜びのエネルギーは、その人自身の徳となり、魂の器の大きさとなり、霊格ともなる。
偉大なる神霊は、地上にて多くの人を愛し、助け、その死後においても神として信仰され続け、何億、何十億、あるいはそれ以上の人からの感謝と信仰の思いを受けますね。
信仰の力は、偉大なる神霊の霊格を高めることにもつながっている。そういった話もありました。

人は、自分以外の他の人に、愛を与えたか、それとも苦しみを与えたかによって、そのような死後の違いを持つ、ということでもありましょう。



このように、疑わずともあなたはその人の道徳的進歩に貢献することができたことになり、次の教訓の意味を正確に理解することができるようになります。
「善が無駄になることは決してありません」。そればかりではなく、落胆することによって善を行う気力を失うことなく、私心を棄てて善を行ったことの功績を得ることができるのですから、自分自身に対しても働いたことになります。  




地上においては、愛を与えても、相手はそのことに気づかず、感謝もしてくれないかもしれません。
しかし、それが本当に霊的なる意味での、正しい愛であったならば、死後において、その相手に、その真心が伝わることになる。
相手の人は、自分がいかに恩知らずであったかに気づき、愕然とする。
カルマの刈り取りですね。来世、この恩を返さなくてはいけない。自分は人生をやりなおさなくてはいけない。という反省が生まれることにもつながりましょう。
ま、地獄に堕ちた場合は、改心を終えたのちにようやく、そうした気持ちになるのでしょうから、生まれ変わりは、反省した後になるのだと思いますけどね。

ゆえに、善行は無駄にはならない。
それは、相手の霊的成長のキッカケにもなる、ということです。
そしてまた、自分自身の霊的進化の証しともなる、ということ。
神は、こうした世界を創られていて、そこでさまざまな人間同士の結びつきが生まれることを、長い年月のあいだ、見守り続けてくれているのでしょう。
わたしは、そう思います。



ああ友よ。あなたたちの前世と現世のすべてのつながりを知ることができたなら。お互いの進歩のための、人類の一人一人を結びつける関係の広さを、一目で見ることができたなら、創造主の善意と英知に大いに感心するでしょう。神はあなたたちがいつか神のもとにたどり着くことができるように、生まれ変わることを許すのです。




以上の洞察は、
お釈迦様のように悟りを開かれた方が、三世を見通す力を得られて、ある人と別の人の魂同士の関連をつぶさに見たりしたら、

その摩訶不思議な人間同士の結びつき、縁の不思議さを、しみじみと感じられるものなのかもしれません。
仏神が創られた慈悲と愛の世界、そこにある善意と叡智の限りない深さに、感嘆の思いを抱かざるを得ませんね。

人間はそうした世界の中で、転生輪廻をし続けて、愛を学んでいる存在なのではないでしょうか。




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2017年04月10日

【レオ】人から感謝されなくとも、善行を行なうことの意味とは? 〜アラン・カルデックが受けた霊言より〜

アラン・カルデックの本を読み返していたら、ひじょうに含蓄の深い文章に遭遇したので、紹介・解説してみたいと思います。


スピリティズムによる福音 -
スピリティズムによる福音 -

該当文章はそれなりに長い文脈の中で語られているので、文章の順を入れ替えたりしつつの、一部抜粋による、わたしなりの解説になりますが、



不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。あなたたちは他人のために働くのではなく、自分たちのために働いてばかりいます。




わたしたち人間は、現在の、自分と他人の関係しか、目に入っていない。という指摘があります。
自分が誰かに、何らかの善行を行なった時、その瞬間の、相手の反応しか見ておらず、あるいは自分自身、その前後の自分の気持ちばかり見ている。
どういうことかといったら、お互いの過去世からの関係や、未来世の関係までは、視野に入っていない。という意味であったり、
あるいは、その相手の死後の状態ですね。それから自分自身の死後の心の状態。そういうところまでは見えていない。
善行の結果、どのような未来が訪れるのか。善行の意味、霊的意味を十分にはわかっていない、ということですね。

それゆえにこそ、お人好しは損をする、みたいな言葉にもなってしまって、感謝もされない、赤の他人への善行は虚しい。だとか、恩知らずに親切にする必要はない。などという考えにもなりがちになるわけですが、それは、善行の本当の意味、霊的な意味を知らない、この世的なる考え方ゆえの間違いですよと。
そういうことですね。

説明が長くてすみませんが(笑)、大事なところなので、念入りに言葉を重ねておきたくて、こんな風に述べているわけですが。



善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。
あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、恩恵を受けた者があなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。




たとえ、相手が感謝してくれなかったとしても、その善行に意味がないわけではない。感謝のあるなしは、問題ではない。
なぜなら、その善行を見ている神は、それを「よし」と見ておられるのだから。相手が感謝してくれなくても、いいではないか、というのが、まず一点。

これは、相手が理解してくれなくても、その善の霊的な意味は、神さまが知ってくださっている。神さまがよしと見てくださっているのであり、あなたの霊的な覚醒を、神さまは喜んでくださっているのだ。
ということでもありましょうけれど。
とはいえ、このことは、信仰心が深くなければ、当人の自覚もまた得られないものだから、真の意味で体得するのは難しいですね。

ボランティアの善行にも通じると思いますが、対価なくして、ボランティアの善行をどこまで行なえますか?

自分の貴重な時間を使って、たとえば、具体的に誰かから感謝されるのでもないような、そんなボランティア活動を行なう時。
神さまが観てくださっているから、喜んで、その善を行なうのです、という境地に、あなたは到達しているでしょうか?
それとも、そんなことに時間を使うのなら、わたしは自分の趣味に時間を使うわ、といって、ボランティアなどしませんよ、という道を選ぶのか。
そういうテーマにもなりますね。

感謝もされない善行を、あなたは行なえますか?
無報酬のボランティアを、あなたは行なうことが出来ますか?
続けられますか?

けれども、カルデックが受けた霊言には、次のような言葉もあります。



あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。  
一時的に忘れられた善行が、後になって善い実を結ばないと誰に言い切ることができるでしょうか。反対にそれは、時間をかけて発芽する種であるのだということを信じてください。




誰かに善行を行なったとしても、感謝されないなどということは、いくらでもありますね。
むしろ、感謝してくれる人の方が少なく、感謝してくれるような人は、人間が出来ている、稀有な人、立派な人、ということかもしれない。
大部分の人は、人から受けた恩はそれほど感じずに、当たり前と思って暮らしていたりして、
本当の意味で、たがいに感謝し合えるような暖かな人間関係というのは、この地上世界においては、まだまだ不十分にしか実現できていないかもしれない。

それでもなお、人は、他の人に善行を行なうべきである。

という、神の与えた命ですね。それは、何ゆえか?

あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。

忍耐力を試すため、とあります。
これは、忍耐力を鍛えるためである、という意味に取ることも可能でしょう。

感謝されなかったとしても、その善行には意味がある。霊的に価値あるものとして、神から嘉される行為である。
相手からは感謝されないかもしれない。それでも、その善行そのものに意義を見出しなさい。大切な価値あることだと信じなさい。神が観ていることを信じなさい。

そうした思いと理解でもって、淡々と、ただひたすらに、他の人に愛を与え、善を行ないなさい。
結果や報酬が得られかったとしても、行ないなさい。

善行は、得られる報酬や、結果主義者が求めるような、即効性のある結果や評価のために行なうべきものではない。
それは、その善行そのものに意味があるのだ、それ自体に喜びが伴い、愛そのものに価値があることを悟るため、であるのだ。

そんなような意味にも、解することが出来るのではないか。

忍耐力を試すため。

この世的なる結果や報酬のためではなくて、ただ、善そのもののために、愛そのもののために、善を成すこと。
それは言い換えると、相手のために尽くす行為と思いそのもののために、生きなさい、という悟りですね。これを掴みなさい、ということでしょう。

何らかの報酬や、相手からの感謝や、すぐさま神さまが頭をなでなでしてくれるような、そうしたものがすぐ得られるような世界だったら、
人は、そうした目的のために、善を成そうとするでしょう。
報酬のために、感謝されんがために、神さまからすぐ褒めてもらうために。

けれどもそれは、善そのもののための善とは違う心であるし、愛そのもののために行なう「与える愛」とも違う心になってしまいますね。

だから、すぐには結果は得られない。この世的なる結果は得られない。
それでもあなたは、その善を行なうことが出来ますか?行ない続けることが出来ますか?

何ゆえに?善そのものに、霊的意義を掴めますか?

それを続ける中で、あなたはどこまで真実を悟れますか?この世的な即席の結果や、報酬がなくても、善そのものの中に意味を掴み、善を生きる貴方となれるでしょうか?

そのためには、時を耐えるということ。忍耐の中を生きるということ。
あなたの忍耐力を鍛える、という課題をも同時に、あなたに与えることになるでしょう。

この世で、霊的なる修行をする、ということは、すぐに結果は出ない。その霊的なる意味も、にわかには理解できない。そうした世界での修業ですから、だからこそ、忍耐力を鍛えるという意味をも、魂修行の中に織り込むことが出来る。

善を行ない、愛を与えて生きることが出来るようになるまでに、同時に人は、忍耐の意味を学んでゆくことが出来る。



あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。




神さまが、人が善を行なっても、感謝されないことが多いような世界を創られたのは、そうした未熟な世界を放置せんがためにそうしているのではなくて、
善を行なう私たち人間の忍耐力を試すため、あるいは鍛えるため、そういった、深い深い意味があってのこと、なのでしょう。
だから神さまは、この地上世界を不幸のままに放置しているわけではないんですよね。
人が魂修行をするために、霊的なる魂修行を、より一層すすめるためにこそ、そうした世界の存在を、許しているのだということ。
感謝もしない未熟な人間たちを赦しているのは、それが魂修行の場であるからなのでしょう。

 … 





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【レオ】ほんとうに真理をわかっている人は … たとえ話が上手い、平易な言葉で価値ある内容を語れる、言葉・表現が詩的で美しい

@ たとえ話が上手い。
A 平易な言葉で説明することが出来る
B むろん、内容のあることを語っている
C 言葉・表現が詩的で美しい


などといった特徴があると、わたしは考えます。
他にもいろいろあると思いますが、パッといま浮かんだのが、このあたりですかね。

哲学などは、内容は難しいけれど、シュタイナーは例え話が上手いです。カントは例えが抽象的でわかりにくいので、シュタイナーの方が分があるでしょう。これは盟友のガンちゃんとも一致した意見ですけどね。
たとえ話が上手いということは、その概念を本当に深く理解しているということ。
だからこそ、身近で、誰にもわかるような具体例をあげて、たとえることが出来る。
偉大なる人は、たとえ話が上手な人が多いと思います。カントも座談の名手だから、きっと座談会などでは、わかりやすい話をしていたと思いますね。


それから、平易な言葉で語ることが出来る、ということ。これ、大事ですね。
専門用語や四字熟語などを多用すると、どうしても文章は抽象的で難しくなりますけど、それを子供でもわかるような、わかりやすい話にして、語ることが出来るかどうか。
総裁先生は、不成仏のヘビを成仏させるには、ヘビの怨みつらみを理解してあげる力が必要。そのためには、ヘビにもわかるような、平易な言葉で説得するだけの悟りの力が要るのだと、以前、教えてくれたことがありました。
誰にでもわかるような、平易な言葉を使って、奥深い内容を語ることが出来る。平易な言葉で語ること。


では、たとえ話が上手で、平易な言葉で語れれば、それでいいのかといったら、
下世話な話を、卑俗なたとえ話でしゃべりまくる人間が、真理を悟った人間と呼べるはずもありませんからね。
やはり、その語る内容そのものに、深い精神性がなければ、価値のある普遍の真理とは言えない。


そしてまた、真理はそれが奥深いものであるほど、言葉に語られるときに、うつくしい表現をおのずと求めるものでしょう。
救世主の言葉はみな美しい、詩的な表現に満ちていて、それでいてなお、精神的にきわめて深い内容を持つ、永遠の真理ですからね。
美しい言葉、うつくしい表現、詩的なる言葉。これらもまた、必須の条件のひとつではあるまいか。

真理にかなった内容は、言葉にした時にも、うつくしい言葉と表現を求め、それゆえ、たとえ話にして語っても、その内容は心に深く響く内容を持っている。そしてそれはまた、平易な言葉によっても表現できるもの。

こんなことを思いながら、仕事帰りの道をさきほど歩いておりました。ハハハ。




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2017年04月08日

【レオ】真実を語る者は近づき、虚偽を語る者は遠ざかる  … 真理から … 

つづきです。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -

霊的修行、霊性の開発における注意点として、シュタイナーはつぎのように述べています。



このような修行を通して、この蓮華はますます完全に生長していく。見霊能力の開発は、この修行如何にかかっている。
たとえば、考えたり、語ったりする事柄が、外界の諸事象と一致すればする程、この能力は一層速やかに開発される。
虚偽の事柄を考えたり、語ったりする者は、十六弁の蓮華を、その芽生えにおいて摘みとる。
誠実で、正直で、公正な態度は、促進的に作用し、
噓をついたり、不誠実であったり、欺瞞的であったりすることは、破壊的に作用する。




その人が考えること、語る内容が、外界の事象と一致すること。
すなわち、真実を考察し、語るという訓練ですね。
性格的にはこれは、誠実な性格、正直な性格、公正なる態度によって、促進されることでしょう。
誠実なればこそ、真実を語る。正直であるからこそ、真理を語りたいと思う。

これに対して、ウソをついたり、虚偽を平気で語ったり、不誠実な性格であること、欺瞞を平気で行なうこと。
こういう特徴を持っている人間は、外界の事象と一致しない、デタラメや歪んだ映像を語っているわけですね。
それは、真実ではない、というだけではなくて、そうした真実に反することを述べて平然としている性格になってしまうと、
その人の霊的能力の開発が遅れる。というよりも、霊的器官そのものが病となって、破壊される、ということでしょう。

肉体器官であっても、健全に管理すれば、正しく機能してくれますが、間違った使い方をしたら、故障して、具合が悪くなりますね。

あるいは、メガネを使って、外界をきちんと見ようとしても、そのメガネそのものが歪んで狂った性質になると、外界はきちんと見えなくなる。
外界をきちんと見ないで、虚偽を語る、ウソを言う、ということは、みずから、自分のメガネを破壊して、モノが歪んで見えるような自分を、みすみす作り上げている、ということにもなりましょう。

嘘は、真理から遠ざかる。虚偽も、真実から遠ざかる。
これらは、世界をいっそう深く正しく観るための、霊的能力の開発を阻害する。むしろ、その能力を歪めたものにし、破壊する作用をもたらす。

頭のいかれた自己中の人間が、霊的現象にのめり込むと、妄想や幻覚を真実と勘違いして、いっそう狂ってゆくのを見ると、よくわかるかと思います。霊障、悪霊現象のたぐいは、世界の真実を見るのではなく、虚偽や妄想にふりまわされる人間が陥る、霊的混迷の世界といって、いいのかもしれません。

真実を語ろう。ウソを語るのではなく。
真理を語ろう。虚偽に陥るのではなく。
誠実な人間になろう。不誠実な人間になるのではなく。
公正な人間になろう。欺瞞を平気で行なったりするのではなく。

前者は正しい道を歩んでおり、後者は間違った道に迷い込んでいる者です。



現実と一致しない事柄を考えたり、語ったりするとき、たとえ主観的には自分が良き意図を持っていると信じていたとしても、修行者の霊的感覚器官の中で何かが破壊される。





現実と一致しないことを考えたり、語ったりする、ということは、

外にある世界や人間、生命を、正しく見ていないということであり、

その人の内面にある「ウソ」や「妄想」「誤謬」が激しいほど、その人の魂の内面は、外なる世界と、離反している、ということ。
世界を正しく見ることから遠い、そのような迷える我の状態は、悟りのまさに正反対の世界であり、盲目の人間の状態そのものですね。

世界と自分が分離している。合致していない。世界を正しく見ていない。他の人を正しく見られていない。自分の内面の虚妄にのみ閉じこもり、歪んで割れたメガネで外なる世界を見ているから、何を見ても、散り散りバラバラの歪んだ映像に見えている、ということでしょうか。

これは、単なる思考の過ち、というに留まらず、その人の、魂そのものの認識能力、霊的器官そのものを、破壊する行為を、その人は日々おこなっている。ということです。
自分を破壊し、霊的成長をみずから阻害している、ということを、自覚しないといけませんね。


ここまでの3つの記事を総括するだけでも、
重要なポイントがいくつかあるので、まとめておきますと。


正しい道を歩んでいる者は、

@ 忍耐の大切さを知っている
A 論理的思考力、理性の鍛錬をしつつ、霊性の開発に取り組む
B 世界をあるがままに見、誠実で、正直な心を持っている



一方、その反対にある、間違った道を歩む者は、

@ 忍耐を知らず、せっかち、結果主義である
A 論理的思考や理性が欠如し、霊現象に興味本位で飛びつく
B 嘘つき、不誠実、虚偽・欺瞞を平気で行なう者



という違いがあることがわかります。





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posted by ガンレオ at 10:54 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】太古の霊能力と、現代的な霊的認識力の違い

幸福の科学の教えは、信者は基本的にみな学んでいると思うので、敢えて別の神秘主義者である、シュタイナーの思想を例にとって、記事を書いているところです。
他の思想家の感想文を書くのも、基本的にはこういったスタンスゆえで、過去の歴史上の思想家たちの教えを、いま現在の視点から振り返る。
幸福の科学の一信者である私が、そうした過去の名著を読むと、こんな風な理解になります、という解説本というか、感想ブログですね。
そんな趣旨なんですが。

前記事で取り上げた、シュタイナーの著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の、感想のつづきを書きます。この著作には、興味深い記述が沢山ありますのでね。勉強になるのです。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -



この十六弁の蓮華を別の仕方で開発しようとする行法も存在する。しかしそのような行法はすべて、真の神秘学を否定している。なぜなら、それによって身体の健康が損われ、道徳の頽廃が生じるからである。そのような行法はここに述べたものよりも実行しやすい。
本書の行法は時間がかかり、努力を要する。しかしそれは確実に目標へ導き、道徳的な力を強めてくれる。  
蓮華を不健全な仕方で開発すると、或る種の見霊能力が現れても、その能力は主観的な幻想や空想と客観的な霊的体験との相違を区別できないばかりではなく、日常生活を迷いに陥れ、節操を失わせる。そのような場合、修行者は臆病で嫉妬心や虚栄心の強い人、あるいは高慢で我儘な人などになりやすい。




16弁の蓮華、とありますが、これはシュタイナーが霊視して観た「霊的器官」の形を、象徴的にそのように表現しているものです。
蓮華様のかたちをした霊的器官が、霊能者においては、活発に活動している、という指摘ですね。
一方、ふつうの五官でしか世界を見られない通常人の場合は、この霊的器官がまだ開発されておらず、開花していないと。
霊視すると、そのような違いが観察される、とのこと。

それはともかくとして、興味深いのは、その続きのくだりですね。

霊的器官の開発には、王道の開発方法と、それとは別の邪道というか、正式ではない開発法がある、との指摘です。

霊的体験も、悟りに伴う正しい体験もあれば、ドラッグによって強制的に体験しようとするような、そうした体験もある。
精神が異常な状態に置かれることで、神秘的な体験をすることがあるようですが、その場合に見たり聞いたりする、霊の姿や言葉は、果たして、まともに聞いてよいものなのだろうか。
千日回峰の行者などが、意識が朦朧とした状態で、見たり聞いたりする霊の姿や声には、迷える霊のものが多いのではないだろうか。
ドラッグによる神秘体験は、ハクスリーやディックなどの体験も、このような類のものではないかと、思うことがありますが。

こういう方法での体験は、幻想や空想に陥りかねず、客観的な霊的体験とは違うものを含む危険性が高い。というか、ほとんどの場合は、よくない体験になりかねないのではないでしょうか。
当人に悟りの力がなく、単に、第六感的な感覚が一時的に開いたとしても、その人には、そのビジョンを理性的に、客観的に洞察・分析する判断力は無いでしょうから。
思考力が未熟なままでの、霊的妄想は、それが妄想であるがゆえに、かえって人を、誤謬と迷いの世界へ放り込むだけのことかもしれない。

その点を考えると、シュタイナーがこの文章のあとに述べている、次の文章の意味も、よくわかるのではないでしょうか。



十六枚の蓮弁のうちの八枚は、すでに太古の時代に開発されており、修行に際してそれらが自然にふたたび活性化されるということはすでに述べた。修行者の努力は、したがって他の八枚の蓮弁の開発に向けられねばならない。
行法が間違った形式をとる場合、太古の時代に開発された部分だけが活性化されて現れ、新しく形成されるべき八枚は凋んだままの状態におかれる。論理的思考や理性的態度に対してあまりにも無関心な行法の場合に、このようなことが生じる。
神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。




人類は、太古の時代には、素朴な意味での「霊能力」を実は持っていた、という話は、よく聞きますね。
ふつうの魂であっても、霊的世界を感じ取り、霊の姿を見たり聞いたりすることが出来た。

これは要するに、太古の時代に開けていた霊能力であって、これがシュタイナーの指摘している、16枚の蓮華器官のうちの、8枚分の器官のことらしい。
この部分が活発になると、霊的感覚が開かれ、たしかに霊的世界を見たり聞いたり出来るそうですが、しかし現代においては、ほとんどの人はこの器官は閉じている、とも言います。潜在化してしまって、いまは活動していない、眠れる器官と化している、ということですね。

それが閉じているからこそ、人類は、思考の力を鍛えたり、理性の鍛錬に励んで、みずからの認識力を鍛える歴史を歩んできたのだ。
というのが、シュタイナーの霊的進化論の要旨ですが、

これは、宗教の時代が中世末期から、徐々に失われる半面で、理性の時代が到来して、政治哲学や人権思想その他の、啓蒙主義哲学の文明が勃興してきたのと、似ているように思います。

そうした理性の時期、思考力を鍛える時代を経て、その後になって、ふたたび、宗教の時代が帰ってくる。
理性を含んだ、宗教理解の時代が、そこには現れてくることでしょう。

素朴な霊能力の時代が過ぎ、その後、霊感を失った人類は、論理的思考力や理性を鍛える時代を生きてきましたが、
それではやはり、世界の真実は掴み切れずに来ましたね。
それゆえ、今という時代に、霊性の時代が復活しつつある。
それは、単なる、素朴な霊性の復活ではなくて、理性的な目を持つに至った、進化した人類がふたたび学ぶ、さらなる高みの霊の時代、ということです。

ゆえに、素朴な霊能力の開発は、単なる先祖返り的な過去戻りでしかないわけであって、そこに理性や思考力を含んだ、より高次の霊的認識を得るのでなければ、現代的な意味はない。
とわたしは思うし、シュタイナーが何度も指摘しているのも、その点ですね。
高度な思考力や理性を欠いた人間が、単に、霊能力は面白い、霊能バンザイなんて形でのめり込んでも、その人には、真理を理性的に考察する力がない。霊的に見た姿や声を、正しく分析して判断するだけの見識が備わっていない。
見たものをそのままに盲信して、自分の力に己惚れる。
それは、単なる太古帰りの素朴な霊感体質というに過ぎず、優れた魂の証明でも何でもないのですけどね。むしろ、悪霊に翻弄されかねない、未熟な人間としての危険性の方が高い、と指摘してあげてもいい。

シュタイナーが指摘しているが如くに、

神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。

このことをよくよく注意して、神秘と理性のバランスを取った修行こそが、現代的な、霊性の時代の修行方法ではないのか。
と、わたしは思う者であります。




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2017年04月07日

【レオ】第一に忍耐することを特別に学ばねばならない。

いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -



第一に忍耐することを特別に学ばねばならない。




「忍耐の大切さ」というのは、深い精神修行を語る人は、みな等しく述べているポイントだと思う。

総裁先生も、いちばん難しかったのは「忍耐」であった、と確か述べていことがあったかと思います。

忍耐、忍耐、忍耐。

その対極にあるのが、せっかち、であるとか、焦り、であるとか、あるいは、早急に結果を求める結果主義ですね。
こういう、手っ取り早い手段によって、成果を得んとする心。
これは、忍耐とは正反対の、時間を耐えることを知らない心ではないか、と思います。

本当に、長い時間を待つことが出来るだろうか。
10年と言わず、30年、50年、70年。
あるいは、今世の全生涯を通しても、望んだ成果が得られないとしても、その目的を目指して努力し続ける意志がありますか?
真理を求めるというのは、そのくらい、耐えて耐えて、求めて求めて、それでもなお得られぬかもしれない、永遠のテーマではないでしょうか。

結果主義者というのは、霊的に言うと、天狗・仙人のような世界に通じるものであって、王道ではない道につながっているようですしね。

王道というのはやはり、忍耐の先にある真理を、着実に、地道に求めてゆく姿勢なくして、辿れない道ではあるまいか。
物質主義ではなく、精神性を大切にする心。
あるいは、結果主義ではなくて、心がけや動機を大切にする考え方。
長い時をかけて、魂の成熟を目指す、着実なる進歩の道を歩む者は、決して焦ったり、結果を早く得ようともがいたり、性急な態度は採らないものですね。
忍耐づよく待つ心がある。淡々と、日々を努力して生きることを知っている。その大いなる心が、その人の魂に落ち着きを与え、外見にもその落ち着きが現れるのではあるまいか。

ルドルフ・シュタイナーは著書「いかにして超感覚的世界の認識を可能にするか」で、続けて、つぎのように述べています。



魂と霊の育成のために、私はどんな努力も惜しまない。
しかし高次の存在たちが私のことを悟りを得るにふさわしいと見做してくれるまでは、まったく静かに待ち続けるつもりだ」。
この思考内容が自分の性格の一部分になるまでに深くそれを心に作用させうる人は、正しい道の上に立っている。
その時はすでに外見の上にもこの性格的な特徴が現れてくる。眼差しは落ち着き、身のこなしに確かさが加わり、決断力が増してくる。神経質な要素も次第になくなる。





悟りとは、安直に手に入るようなモノではありませんからね。
それに相応しい魂にみずからがなるまでは、決してわからない世界のはずでしょう。
その悟りが得られるのは、いつの日か。それは定かではないけれども、その日を夢見て、淡々と、努力精進を当たり前のように、日々実践できる人ほど、王道を歩んでいる仏道修行者と言えるのではないでしょうか。
そういう人の特徴は、落ち着いた眼差しや、穏やかな性格などとして、現れてくる。
繊細な魂は、得てして神経質だったりしがちだけれども、やがてそうした神経質さも消えてゆき、本来の、繊細なる精妙なる心へと、成長してゆけるのではないか。
それが、王道を歩んでいるかどうかの、一つの物差しなのかもしれません。

次の言葉も、興味深い指摘ですね。



次のような言い方は何の役にも立ってくれない。「私は前世の生活を知りたい。その目的のためにこそ神秘学を学びたいのだ」。むしろこのような願望をすべて捨て去り、しばらくは何も意図せずに学ぶことができなければならない。このような意図をもたずとも、学習に対する喜び、その学習内容に対する畏敬と帰依の念が強められねばならない。そうすることによってのみ、成就させるにふさわしい真の願望を持つことをも、同時に学べるのである。





まるで超能力願望か何かのように、スーパーマンのような超能力や、霊能力を得たい、あるいは自分個人の隠された秘密だとか、前世のことを知りたい、だとかいう目的ですね。
そういう能力獲得願望のために神秘学を学ぼうというのは、ある意味、興味本位の態度で、摩訶不思議な世界に興味を持っているだけの話で、修行態度としては不純でしょう。
宇宙の叡智だとか、大いなる神秘そのものを知りたい、だとか、途方もない秘密ばかりに興味を持って、あるいは摩訶不思議な秘密ばかりに興味を持って、それ目的で真理を学んでも、その真理の本当の意味は理解できないだろうなぁ、と私は思います。
永遠の真理は、仏神への信仰の世界であり、仏神から流れる慈悲の世界でしょう。そうした叡智を知るのに、信仰なき態度、愛なき心でもって、その秘密を知らんとしても、本当の意味での理解は決して出来ないでしょうからね。
単なる知識欲だけで、神秘を理解できると思ったら大間違い。それは邪まなる態度、興味本位の気分でもって、神の叡智を覗き見しようという邪心ではあるまいか。そういう反省もあり得るはずですからね。
シュタイナーが言うように、畏敬の念と帰依の心なくして、神秘学の奥義を知ることは出来ない。字面だけ暗記しても意味はない、それは理解ではない、ということですね。



真の忍耐の中での温和と寡黙とは魂のために魂界を、霊のために霊界を開示してくれる。

直ちに魂と霊の世界を見聞きできるなどと期待するな。

ふさわしい成熟に達したなら、いつかはそうあるべき自分になるであろう』という想念をその間にも深く心中に刻み込んでおけ。恣意的に高次の力を引き寄せようなどとは決して思うな」。これははじめて道を歩むに際して、すべての神秘学徒が師から受ける教えである。この教えに従う者だけが進歩する。この教えを守らねば、どんな努力もむなしい。




これは、霊能力信仰に陥りがちな、邪な態度で真理を学ぼうとする者に対する警告であり、鉄槌であろうと、わたしは思います。 知ったつもりになるな。理解できたと思うなよ。ということですね。 外面的に、知識的なことを理解したつもりでも、魂の認識として本当にわかっているのか、どうか。 心の変革を行なわないでいて、神秘を知ることが出来るなどとは、思うなかれ。ですね。



あなたの知っている秘密の知識を伝授して下さい、しかし私の今までの感情と表象はそのままにさせておいて下さい。
もし師に対してそのように要求するとすれば、その人はまったく不可能な要求をしていることになる。その人は単なる好奇心、単なる知識衝動だけを満足させたがっている。このような態度では神秘知識を獲得することは決してできない。




自分のいま現在の、不完全な理解力、わがままな性格、問題の多い性格や考え方はそのままにして、まるで変えるつもりもなく、要するに、正しき心の探究は<無し>で、変革の意志などサラサラ無い。 
そうした現状維持の自分であるにも関わらず、神の叡智、永遠の真理を知りたい、というのは、本来、知る資格が無い分際で、それを知りたいと主張している<わがまま勝手>以外のなにものでもない、ということ。 
神の叡智を知りたくば、己の心を、神の使徒たるに相応しい、神近き心を持つための自己変革を行なう以外に無いはずなのに。 心は未熟なままで、神の叡智を教えてくれ、という自分勝手、わがままですね。そんな甘っちょろい態度で知ることの出来る叡智など、この宇宙には有りませんからね。 
幼稚な精神が知ることの出来るのは、その幼稚なレベルに相応しい範囲での、ささやかな理解でしかないでしょう。 亀が、亀の歩ける範囲の世界をすべての世界だと思い込んで、慢心していたように。







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2017年04月06日

【レオ】蒔いた種を刈り取ることが出来る「ありがたさ」

ふつう、カルマの法則というと、前世で犯した悪さの報いを受けるとか、そういった重苦しいイメージを持っている人のが多いのではないだろうか。

なぜそうなるかと言えば、
人は、人生で悩み苦しんだりする時に、神秘やスピリチュアルの知識を求める。
そして、そういう経緯でカルマの法則を知ることが多いがために、

苦しみの原因は前世にある。
前世かくかくしかじかの行いをしたがために、あなたは今世このような苦しみを担うはめになったのである。

という理解が、カルマ理解の中心になりがちだから、ではないだろうか。

アドラーの霊言を読んでいて、ふと、そう思ったので記事に書いてるんですけどね。

蒔いた種は刈り取らねばならない。

前世、よくないことをした結果、今世、苦しみが結果として、現れてきている。

マイナスの原因が、マイナスの結果になっている、という原因分析ですね。
これによって、自分の悩みの原因を知りたい、解決したい、ということでしょうか。


けれども、公平に言って、カルマの法則というのは、
悪因悪果だけではなくて、善因善果も同じくらいあって、不思議はないはずなんですよね。
善人の魂の方が、悪人の魂の数より多いなら尚のこと。

悪因悪果よりも、善因善果を、もっと思う必要もあるのではないだろうか。

これは、今世、自分に優れた才能があったり、善き性格が備わっていたりしたら、
自分の魂の兄弟姉妹が、前世がんばってくれたということでもあろうし、

あるいは、積極的人生のすすめとしては、
今世、善い思いと行ないを続けていけば、その結果として、善き結果が現れてくる。
それは今世の収穫であることもあれば、来世の収穫にもつながる、カルマの善き働きの面ですね。そこに注目したい、ということ。


ふつう、そちらにはあまり目が向いていないのではないだろうか。

けれども、自分が持って生まれた性格や特技、得意なこと。こういったものは、大抵の場合、前世どこかで自分が体験して、磨いてきた能力の結果であったりするわけでしょう。

たとえば、今世、子供の頃から絵が上手だったとしたら、それは偶然ではなくて、おそらくは前世のどこかで、趣味レベルかプロの画家かは知りませんが、絵を描くということをそれなりの期間、この魂は経験を積み重ねているはずなんですよね。


今世の才能は、前世までの努力の蓄積である。

これは真実だと、わたしは思います。

対人能力にしても、人との付き合い方が非常に上手な人というのは、前世においても、対人能力を磨いた人生を生きたのではないでしょうか。
商売で多くの人の相手をした、だとか、多くの人と交流するような人生を生きた過去世を持っている、だとかね。

学問的な知性にしても、過去世よく勉強した魂は、生まれ変わった来世でも、やはり勉強がよく出来るようになる可能性が高いんですよね。
運動の才能にしても、そう。

才能とは、過去、自分が成してきた努力の質と量の蓄積のことである。

こういってもいいのではないでしょうか。


だから、

蒔いた種は、刈り取らねばならない。
という、マイナスイメージのカルマ理解だけではなくて、

蒔いた種を、刈り取ることが出来る「喜び」
という視点も持つ必要があるでしょう。

それは、前世の自分に対する感謝にもなるし、
来世の自分のために、いまの人生を「生き切る」ことの大切さを知る。
そういう責任感にもつながるでしょう。

発展的に、肯定的に、自分の人生を捉えよう。

今世、努力したことの多くは、必ずしも直接的な実りにはなっていないかもしれない。

絵を描く勉強をしたけれど、画家やイラストレーターにはなれなかったかもしれない。
けれども、少しだけでも絵の腕を磨いたことは、来世にも、絵を描くことの上手な才能として、持ってゆくことが出来るんですよ。
ということ。

野球部に入って、厳しい練習をしてきたけれども、プロ野球選手にはなれなかったかもしれない。
けれども、そこで鍛えた根性だとか、運動神経だとか、持続する精神、その他。あらゆる精神的特質や、肉体を操るセンス、とかですね。
こういった鍛錬の蓄積は、来世にも、なにがしかの才能の一端として、持ってゆくことが出来る、ということ。


蒔いた種を、刈り取らねばならない、ではなく、刈り取ることが出来るのだ、ということ。

善き種を蒔いて、善き収穫を得ようではありませんか。

それは来世の収穫になるかもしれないし、来来世の収穫になるかもしれないけれど、確かにその種は、何かの実りを生んでいるのであって、決して消えることはないのである。
それを信じようではありませんか。





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2017年04月05日

【レオ】褒めて伸ばすか、欠点を注意して教えるか?

基本的には、人は「褒めて伸ばしてあげる」方が良いのだと思う。

当人的にも、褒められながら成長していった方が、喜びながら成長できるのだから。
それに対して、良くやっても褒められず、失敗した時ばかり注意するといった「減点主義」スタイルの教え方をする人は、他人を伸び伸びと生長させることは出来ないに違いない。

仕事に関しても、
リスクを減らすために、チェックを増やしたり、書類を増やしたり、あとは経費削減とか、こういったマイナスチェックに主眼を置く人は、
ミスは少なくなるかもしれないが、ちんまい人間になる危険性が高いでしょう。
官僚的なお役所仕事には向くかもしれないが、スケールの大きい人物にはなりにくくなる。
リスクや失敗を恐れるあまりに、過度に神経質になりすぎると、人は伸び伸びと生きる大らかさを失う。

得てして、仕事一点張りでクソが付くほど真面目すぎる仕事人間には、減点主義のタイプが多いように思う。
しかし、このやり方では、部下は伸び伸びと成長するのは難しいだろう。
最初のうちは、小さな失敗は大きな経験やで〜!、くらいの大らかさでもって教え、積極的に褒めて、伸ばしてあげるのが、先輩や上役の度量であり、愛情ではあるまいか。と、わたしなどは思う。

減点主義であって、欠点にばかり目が行って、ミスをすると注意するが、成長した部分は別に当たり前、褒めてもあげない、なんていうのでは、教え方としては下の下だと、わたしは思うんですね。
本来はその逆で、褒めて褒めて伸ばしてやり、ときどき危ない点は注意すると、そのバランスが大事だと思うのだけれど。

減点主義者というのは、欠点や失敗には厳しいが、長所や成長の伸びしろは見てあげない。出来て当たり前、出来ないと注意したり叱る、というやり方では、親が子供を教える場合にも、上手くいかないだろうと、わたしは思う。子供の立場になってみればいいのだ。

頑張っても、それは当たり前で、ダメなときは叱るというのは、
最初から、成長先のハードルが高すぎるんですよ。
親の目で見たハードルの最低ラインが高すぎて、そこに到れば、当たり前。行けない場合は、減点で足りていない、叱る、ということでしょう。

これは、姑と嫁の争いなんかも似たところがあって、姑は自分のやり方を良しとしていて、それに近いところまで行けて当たり前、足らざる場合は、ダメな嫁だと言って叱るわけで、そうなると、嫁の方はふてくされるのが当然なんですが。

結局、
減点主義者というのは、エゴイスティックで自己中心な人、くそまじめすぎるタイプに、多いように思うんですね。
エゴイスティックというのは、自分のやり方を良しとしていて、というか、それを最上級のように思っていて、そこに近いか近くないかで、他の人の在り方に、優劣をつけるわけでしょう。自分の立場でしか実はj見ていない。
まったく違うタイプは理解できず、褒めてもあげずに、自分のやり方こそを良しとして、それに固執して、そこを合格点として、至らざる場合はその足らざるを叱る、注意すると。

失点ばかりを注意されて、喜んで頑張る人はいませんから、これはやはり、教え方の未熟、みずからの度量の狭さといって、反省すべきところがあるのではないかと思う。

足らざるを注意するのなら、足りているところは、その倍くらい褒めてあげて、ちょうどいいのではあるまいか。

要は度量の問題。寛容さだとか、大らかさだとか、懐の深さ、キャパの広さ。自分と違った在り方を良しとする、魂の器の大きさですね。
これは、指導者、リーダーの必須条件の一つではあるまいか。

クソまじめに過ぎて、あとは自己視点に偏りすぎて、偏狭な減点主義者になっていないかどうか。
子供や部下に対して、褒めること少なく、注意することばかり多い、そうした態度で生きていないかどうか。

生かす愛のレベルというのは、これを克服して、自己の視点からは徐々に離れていき、その相手の成長そのものを見守る。そういった境地でこそ芽生えてくる、他人を生かせる視点の獲得、ではないかと思うのでありました。




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2017年03月10日

【レオ】品性のある人は、下品な言葉は嫌い

 … なのだから、下品な言葉は見ただけで、弾かれるもの。

ということが、下品な人たちには、わかっていないらしい。


下品な人たちは、その邪悪な不平不満を、思うがままにブチまけることに夢中で、
その怒りを言葉の表現そのものの中に投入してゆく。
怒りの激しさは、言葉の激しさとなり、激しい憎しみは、暴言、悪口雑言の嵐となって、
心が邪悪な怒りに満ちているほど、その言葉もいっそう醜く汚いものになってゆく。


地獄の悪霊、悪魔たちの、言葉の汚さ、下品さを見るがよい。

そこに表れているのは、心の醜さであり、その心が荒れているからこそ、言葉も荒く汚いのだ。


ベーという悪魔の言葉の下品さは、霊言を読めばわかる。
これを見れば、
似たような、下品な言葉づかいをして憚らないP吉のような人間は、この手の悪霊に好き放題操られる理由が、よくわかる。
言葉と思いの邪悪さが、ものの見事にシンクロして同通しているからですね。
心が同じ邪悪さで共通しているから、類は友を呼ぶで、悪魔・悪霊の手先になるわけだ。
傍から見ると、その同類ぶりがよくわかるのに、肝心の当人はまるで自覚が無い、魔の操り人形となっている。

いかに邪悪な意志を持った悪魔・悪霊であっても、
心が善性で満ちた人に、完全に取りついて操ることは出来ない。
心が違っていて、同通できないからだ。
接続できない以上、操ることも出来ないのは、理の当然。

波長同通の法則があるお蔭で、
人は、自分の心を正しくコントロールして、善に生きれば、悪に翻弄されることなど決してないのだ。
悪魔・悪霊は、その人のそばにいる、操れる人間を使って、間接的に惑わしてくることはあるかもしれないが、
その人本人を、直接的に惑わして、操ることなどは出来はしない。
家族全員が善人であれば、その家庭に入ることすら、悪霊には出来ない。
光の出城とは、そういうことだ。


品性の低劣な人たちは、自分の不平不満を、世に喧伝して聞いてもらいたいのだろうか、
あいにくなことに、

多くの人は健全な心の持ち主であって、善なる心を持って生きているのだ。
だから、彼らに共鳴してもらうためには、
自分自身が、善い思いを持ち、善き言葉を発する、品性のある人間にならないといけない。
邪悪な思いを、激しい言葉で訴えても、まともな人には知らんぷりされるのだから。

そのことを、下品な人たちは知らないのかもしれない(笑)。

といっても、下品な心のままで、言葉づかいだけ丁寧を装っても、その心根の卑しさは、その言葉の中身に出るからね。
善人をあざむくことは出来ないよ、ということも、付け加えておきましょう。


おしまい。




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【レオ】品性が大事 魂の善悪の分かれ目

儒教で言われる「君子」という言葉には、「品性」の出来た人間、という意味合いが含まれるそうだ。安岡正篤さんの言葉。

司馬遼太郎さんは、武士たちによって保持されてきた日本人の「品性」ということを語っている。

「自助論」を書いたスマイルズは、幸福の科学の霊言に登場して、品性や人格について書いている著作について語っている。
自助論のもう一つの側面には、「人格を高める」という意味があって、これが大切だと述べています。

品性とは何だろう。

上品、下品、という言葉がありますが、
八正道の観点でたとえば考えてみたら、

上品な人は、言葉づかいも丁寧でしょう。しかし、下品な人は、言葉づかいが下劣ですね。

あるいは、

上品な人は、その心根が善性で満たされていて、優しい心の持ち主だろうけれど、
下品な人は、自分勝手で、わがままであったり、要するに、エゴイストの自己中、すなわち、霊的に言うと、悪霊的な心であることが多いのではないか。

正語、正思、さまざまな観点で見ても、その心の状態の善悪が、歴然と見分けられる。

品性の出来た人間と、出来ていない人間。
上品な性質の人と、下品な人間の違い。
それは、心の状態の良し悪しに、その多くを負っている。

言葉を見ればわかるし、その元にあるのは、心ですね。心の良し悪しがあって、それが言葉の美しさと汚さになって、現れている。

世の中には、さまざまな人間がいて、そこには当然、品性の高い人間と、下品な人間が、玉石混交の状態で混ざって生きています。

ネットにも、その縮図の世界が展開しているから、
当然ネット世界にも、品性の高い人もいれば、下品な人間もいる。

姿形は見えないことが多いですが(写真でも掲載していない限り)、
言葉が展開する世界ですから、
その人の語る言葉を見れば、品性の良し悪しは、おのずと明確に分かれることでしょう。

品性の高い人は、善を志向し、言葉も丁寧だし、その思いも生産的で発展的、愛と喜び、優しさ、同情心、そういう思いが多いのではあるまいか。

一方の、
品性の悪い人は、自分勝手な文句だとか、不平不満、他人の悪口、そういう自分を棚に上げての、他への文句ばかりを言っている。生産的で、あたたかな思いだとか、人間としての優しさに欠けている。

こういう違いを見たら、魂としての善悪。天国的な魂であるか、地獄的な魂であるかが、まさに、その言葉づかいに表れる「品性」の違いとして、あからまに表現されている。

清水富美加さんの自著のレビューを見ると、さまざまなレビューが寄せられています。
その他の本や映画の感想などでも、ネットでは、意見をもの申したい人のレビューが多く出回りますが、
どんなに面白い本や映画であっても、偏屈で否定意見を述べている人が必ずいますね。で、その人の意見は、単なる自己中な不満に過ぎず、じゃあ、あなたは何か素晴らしいモノを持っているのですか?と問うたら、そんなものは有りはしない。
不平不満ばかりを言っている人間には、注意しましょう。それは単なる、毒でしかないのだから。ネットに出ているといっても、重要な発言というわけでもない、単なる一人の毒舌が、活字になっているだけのこと。

ネットにおける発言の玉石混交というのは、無名の個人の発言に過ぎないのに、それがまるで大きな発言であるかのように、過大に評価して反応してしまうことにも、あるのかもしれません。無視がいちばんです(笑)。

善き言葉を語りましょう。
善き思いを抱きましょう。
正しく一生懸命に生きている他の人に対しては、優しさと、同情心と、出来うれば、応援して励ます人間愛が欲しいものです。
その心は、必ずやその人の語る言葉にも、善き言葉づかいとなって表れる。

下品な言葉づかいをする人は、その心根自体が下品です。
品性の高い人間が、下品な言葉づかいや、暴言悪口を言い続けて、善き言葉をまるで言わない、なんてことはあり得ないことですから。

言葉を見れば、その人の「品性」がいかなるものかが、わかる。
品性の大切さ。忘れずに生きてゆきたいですね。







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2017年03月07日

【レオ】そこに価値があると信じる人こそ … 

真に学び、理解することが出来る。

どういうことかといったら、

人は「何かを学ぶ以前」には、その「何か」について、まだよくは知っていない。
しかし、知ってはいないけれども、その「何か」には、学ぶだけの重要な意味がある。

そう思ったことは、真剣になって学ぶだろう。
少なくとも、わたし自身は、そうだ。

何かを学ぼうとする時、その「何か」を知りたいと思う。知ることで、自分の認識力や判断力、教養が広がると感じる、想像する。
だからこそ真剣になって、その「何か」を学ぼうと努力する。

「学ぶ」以前に、その「何か」には重要な価値がある、そう「信じる」ところから、わたしの学びは始まる。学ぼうとする「意欲」は生まれるのだ、と思う。


歴史を学ぼうと思うとき、それが、自分には関係のない、どーでもいいこと、などと思っていたら、その「歴史」に興味すら覚えないだろう。
興味がわかないことを、学ぼうとなどするわけがない。
世界の国どころか、日本の歴史にも興味がわかなければ、歴史には全く興味の無い人間になってしまうかもしれない。

宗教もそうだ。
仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、あるいはその他の宗教でもいいけれども、
その「宗教の教え」を学ぶことに、価値がある。大切な「何か」がそこにはあるのではないか。
そう想定して考える人は、一生懸命になって、その宗教の教えを学び、理解しようとするだろうけれど、
宗教など、どーでもいい、興味なし、となれば、学ぶどころか、本の一冊さえ手に取ろうとはしないだろう。

学ぶ以前に、そこには「何か」大切なものが隠されているのではないか。自分はまだ知らないけれども、多くの人にとって大切な、何かがあるのではないだろうか。

価値の再発見、ですね。


その著者は、その価値を知っていて、その本を書いている。宗教にしても、歴史にしても、文学にしても。
そのものを著すことが大事なことだと思って、その書を書いたに違いない。

わたしは、その「何か」をまだ見たことがなく、読んでもいないけれども、何かがあるに違いない。


わたし自身は、聖書を初めて手に取った時、
その本には、神について知るための手がかりがあるはずだ。きっと「何か」があるはず、と期待して、読んだことを覚えている。

価値の再発見。素晴らしい何かがあるはずだという期待。


人は、自分が知らないことを、新たに知ろうと欲する時。
まずは、価値あるものの再発見、そのことへの期待を持たないと、前に進まないのではないか。

数学を学ぶにしたって、
数学や算数なんて、生きる上で別に必要ないや、といって価値否定に走れば、
その人は、数学的な考えを学ぶどころか、そもそも興味すら持たないようになるだろう。
ピタゴラスが三平方の定理を発見しようが、ライプニッツが微分積分法を発見しようが、その人にとっては、そんなことはどーでもいい、関心の外のことなのだ。

しかし、関心がなく、知ろうともしないということは、そこにある「価値」を、その人は決して「再発見することなく」生きてゆくことを意味するだろう。

わたしは、いろいろなことを知りたいと思うし、
価値のあることは、出来得るかぎり多く、知りたいと思う。

自分の身の回りで起こること、自分にとって喫緊の重要テーマだけでなく、
自分の外に広がる世界には何があるのか。
世の中はどのように動いているのか。どのような歴史を人は歩んできたのか、その歴史を知りたいし。
偉大なる宗教の教えや、科学の発見、素晴らしい文学、音楽・芸術、その他。

人類がいままで築いてきた、偉大なることの全てを、出来うれば、知りたいと思う。

知れば知るほどに、
自分が今まで学んできたことは、それらのうちのほんの一部に過ぎず、
世の中には、まだまだ自分が知らない「大切な価値あるもの」が、たくさんあるのだということがわかってくる。
知れば知るほどに、自分の足らざるを思い知る。無知の知、とは、そういうことだと思う。


そこに「価値あるもの」が眠っていると、信じることが出来るか。期待できるだろうか。

価値の再発見の前には、期待の心が必要だ。それがキッカケとなって、探究心が生まれてくる。興味が生まれてくる。
どーでもいいことだ、という無関心からは、探究心は生まれてこない。

真理の探究、菩提心は、
真理そのものに価値があることを、潜在的に知っているからこそ、人はその真理を切実に求めるのではないだろうか。

神の存在を知り、神の教えを知り、神の愛を求めて、
必死になって、その道を歩まんとする時、

いまはまだ到達できていない、その素晴らしい世界の存在を、
実は、自分の心の深い部分は、知っているのではないか。

過去世において、法縁深く、よく宗教の教えを学んだ者は、
神の教えを求めることが、当たり前のようにして、
若き日から、探究の気持ちを持つに違いない。
それは、心の奥で、実はすでに知っていることだから。

その他の学問や芸事にしても、
自分がかつての生涯で、よく経験したことは、その「価値」や「面白味」をその人は知っているのであろう。
だからこそ、そのことにすぐ興味関心が湧いて、手を伸ばし、当たり前のように学んだり、体験を深めたりしようと、意欲するのではないか。


大切なのは、そこに価値があるのだ、ということを、
まずは、信じること、から始めるのでなくてはならない。

価値を知らない人には、
その価値を知る人が、切々と語って、そこに大切な何かがあることを、
感じさせないといけない。
そうでなければ、知らない人は、興味すら覚えないからだ。

伝道の必要性とは、そういうことなのかもしれない。






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2017年03月05日

【レオ】「考える」ということ

総裁先生は「八正道の再発見」で、

反省が出来ない、出来ない、というけれど、
反省が出来ないのではなくて、それ以前の「考える」ということが出来ない人が、ほとんどなのである。
ということを、おっしゃっていました。冗談まじりですけどね(笑)。

要するに、自分の心を見つめて深く反省するためには、じっと静かにして、自分の心を見つめる時間を持たないといけない。
そのためには、集中力も必要だし、孤独な時間も必要だし、その孤独に耐える忍耐力も必要だし、それから、

ひとつの物事をずっと考える、考え抜くこと。すなわち「考える」という習慣を、まずは身に着けていないと、そもそも、反省行への入り口にすら立てない、といったお話です。

すぐにテレビをつけないといられない、誰かと話していないといられない、独りで黙っているのは耐えられない。などなど … 。
なにか、すぐに手を出して、刺激になる情報を求めて、新聞を手にしたり雑誌を手にしないといられない、じっとしていられない。
という性格では、自分の心をじっと見つめて観察する、どころか、ものごとを集中して「考える」力すら、まだ身についていないのだ、ということですね。

「反省」が出来ないのではなく、実はそれ以前の「考える」ということが、実はまだ出来ていないのである、ということ。

何かを見て反応して、いろんなことを思うのは、考えているのではなく、「反応」しているに過ぎないのだ、ということ。

「考える」というのは、そういうものではなく、
外的な情報に条件反射で、あれを思い、これを思いと、思いがポコポコ勝手に浮かぶ状態を言うのではなくて、

自分で意志して、これから5分後に、こういうことを考えよう、このテーマで考えてみよう、といった風に、自分の意志によって思考をコントロール出来ること。

外的な情報に振り回されている状態は、自分が主体性を持って「考える」レベルには、まだ達していない「反応」人生、ということなのでしょうね。

一方の、「考える」習慣を持った生き方というのは、自分で主体的に意志して、考えるテーマを決められる。自分でこれを考える、と決めた方向性で、ものごとを集中して考え抜けること。
そうした集中思考、主体的なる思考を、みずからコントロールできる状態だということ。


独り座して、黙考する、とか。
瞑想状態で、自分の心の奥深くにあるものに、思いを馳せるとか、そういったことは、

ひとり静かに、心を落ち着けて、自分の心にあるものに集中して、そこに何があるのかを、徹底的に観察することなくしては、出来ないことかと思います。


人は、外的な事物を見てばかりであったり、誰か他の人と話しているばかりであったり、あるいは、本を読んだり新聞を読んだり、テレビを見たりもそうですが、
そうした「反応」ばかりに時間を使っていると、自分自身の心と向き合う時間が無いし、そもそも、自分の心を知らずに生きている人が、相当数いるのだろうなぁと。
そんな風にも思いますしね。


なにも無いところで、たとえば目を瞑る、電気を消して、刺激物を消し去る。
その状態で、自分の心と、一時間二時間と向き合えるだろうか。
それだけの精神集中と、自分の中にある思考や思いにのみ目を向け、それを観察できるだろうか。
第三者の目でもって、自分自身の心と、対峙できるだろうか。

これが出来ないと、自分の心を振り返り見て「反省」する、ということは、なかなか出来るものではないのでしょう。奥は実は思っている以上に「深い」ということでしょう。


レオナルド・ダ・ヴィンチは、

立派な画家は、孤独でなくてはならない、と言っていたそうです。

そのこころは、

作品を創るときに、自分と語り合う環境を作るため、なんだそうです。
孤独でないと、自分自身が、自分のものにならない、と言っています。
人間は独りでいるとき、はじめて、自分を、完全に自分のものに出来る、と。
自分の心に何があるのか。
それを知るためには、孤独の時間がどうしても要る、ということなのでしょう。

優れた作品を残したいと思うなら、画家は自分と深く語り合いながら、作品の制作を進めるべきだ、と。

多くの人と付き合うことも大切だけれども、他の人たちの意見に振り回されてばかりいると、自分の心が何を願っているか、何を求めているかが、わからなくなったりしますね。
それでは、自分の心の奥から湧き上がるテーマ、心そのものが描きたいと思う絵が何であるかが、わからなくなる、ということでもあるでしょうか。

心を見つめる時間を持つ … 大切なことですね。





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【レオ】パクリについて <2016-12-20の記事、追記あり>

わたしは、あからさまなパクリ行為は大嫌い。

しかし、ある時、会社の後輩が、
いやぁ、ぼくらの世代は、パクリなんか当たり前ですよ、とか言ってきました。

それは違うだろ!とわたし。

誰かの作品に啓発されて、似たようなアイデアを使ったり、そういったインスパイアですね。
刺激を受けて、似たようなものを書く。模倣する、というのはいいでしょう。
まったく完全なモノマネではなく、しかも、インスパイアの場合は、オリジナルに対しての敬意があるでしょうからね。

最初は誰しも模倣、ものまねから入るものだし、そこから努力を積み重ね、自分独自のものを生み出すように成長するのが、習いの常でしょうから。

オリジナルの傑作に対して、大いなる尊敬の気持ちをもって、モノマネをする。
オマージュ作品とかも、こういうものですね。
オリジナルに似てはいても、やはりそれは、オリジナルを称えるがための模倣であって、あえて似たようなアイデアやストーリーを描いて、大本の作品を称えている。

しかし、パクリ行為というのは、これとは違って、ひそかに盗むことではないかと思います。
盗作というのも同じことですね。
実際には、完全な盗み行為であるのに、さもそれが自分のオリジナルアイデアのようにして書く。
そこには、他者の努力のたまものを盗んで、その作品やアイデアにともなう世間の喝采を、自分のものにしてしまおうという貪欲がある。

優れたアイデアを見た場合に、それを著者に黙って、こっそり盗んで、バレないように隠れて、さも自分が考え出した、オリジナリティーある作品やアイデアのように見せかけようと企んでいる。明らかにこれは企みですね。
そして、オリジナルが優れていれば、当然その作品に対しての賛辞が得られるでしょう。
これまた、本来は、オリジナルの作者が得るべき賛辞をも、その盗作者は盗んでいるわけですよね。

作品を盗むだけでなく、その作品への絶賛評価をも盗んでいる。
他人の努力と功績を盗んで、それを自分の手柄にしようとしている点で、こうした盗作やパクリは<悪>だと、わたしは思います。

中国や韓国が、日本人の作品を、許可も取らずに勝手にアイデアを盗んで、ソックリの作品を作ったりしていたら、これは盗みであり、悪であると私は思います。

仏教で言っても、これは<貪>でしょう。
自分の努力や成果でもないものを、得ようと欲する。他の人が生み出した果実のみを欲しがる。それへの賛美を欲しがる。自分が得るには値しない評価を求める思いは、貪欲というしかありません。

それから、<盗むなかれ>の不偸盗にも完全に引っかかっていると、わたしは思う。

それが盗みでない、パクリでない、悪意でない、と言うためには、
オリジナルの著者に敬意を表して、なおかつ出来れば、著者の許可を取ってアイデアの借用を許してもらうとか、これは誰それの作品へのオマージュです、とか、そういった敬意を表しての作品づくりをするはずだと思うんですよね。

それをやらずに、ひそかにパクるのは、盗みであり、貪であり、悪である。
わたしは、そう思います。

インスパイアして、似たような作品を作るといっても、やはり単なる亜流で二番煎じであっては、オリジナルを超えられないのが普通ですしね。
なぜ、そうなのかと言ったら、
オリジナルには、その作品の背後に遥かに深い思索と思いがバックボーンとしてあって、それが結実しての、その作品であるのに対して、

盗んだ人のパクリ作品には、それだけのバックボーンなり、背景がないからでしょうね。
出来上がった結果のみパクったとしても、それを生み出すための根源部分を、その盗作者自身は持っていないから、いくら結果だけ真似しても、それは単なるイミテーションの二流であり、深みがないんですよね。

オリジナルの作者は、類似のレベルの作品を、今後もドンドン生み出してゆくことでしょう。
しかし、それをパクっただけの人は、自分自身でアイデアを生み出す能力は持っていない。
オリジナルの優れた作品を生み出すためには、その人自身に、どれほどのバックボーンとしての、蓄積なりイマジネーション能力なりがあるかに係っている。
結果だけ盗んでも、その大本の才能自体を盗むことは出来ない。
それが、オリジナルのアイデア者と、パクリ者との決定的な差かと思います。

中国や韓国が、アメリカ製品や日本製品を解体して、その技術を盗んで安売りしようとも、それを超える新技術を、彼らはいつまで経っても創造できないのではないか。
結果だけ盗むという行為は、そこまでに到る技術開発や創造の力を身につけることをサボって、出来上がったものだけを盗む行為でしかない。
どうせ学ぶのなら、作る過程で必要となる、オリジナル者の考え方、その才能にこそ学ばないと意味がない。
そうでなければ、自分自身の才能が育つことは、金輪際ないのだから。


だから、パクリはダメです。

たまたま、同時期に同じアイデアのものが出る。そういう偶然はあるかもしれませんが、その場合は、双方ともに、傑作の名をほしいままにすることでしょうしね。
優れたアイデアは、その背後に、深い思いと発想、思索、熟考、作者の実体験から来る重みとか、いろんなものがあるんですよね。
そうでなければ、スゴイオリジナル作品、オリジナルアイデア、というものは出ないはず、ということです。

やはり、バックボーンとしての、みずから考える力、創造する力をこそ、みずからの内に育てていきたいものですね。
模倣に終始したら、終生、たんなるパクリの模倣しか出来ないままに、過ごすことになりかねませんからね。






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2017年03月02日

【レオ】ラファエロ 〜「ルネサンスの歴史(下巻)」より〜




レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、と来たら、ラファエロを書かないわけにはいかないですよね〜。




ということで、「ルネサンスの歴史」から、ラファエロのエピソードをひっぱり出そうとしたんだけれども、



ダ・ヴィンチやミケランジェロと違って、ラファエロは若死にで、わずか37歳で亡くなってしまっています。



なのに膨大な作品を遺している。音楽家でいったら、モーツァルトのような天才肌の人だったんでしょうね。とはいっても、ダ・ヴィンチやミケランジェロも、若いうちから天才的な才能を発揮していたから、3人ともが天才肌なんだろうけども。




ラファエロの名は高まり、教会、修道院、公私の団体から注文が殺到した。若い画家は昼夜兼行で制作にあたった。

かれを仕事から引き離すことが出来たのは、女性の魅力だけだった。かれは、褐色の髪の愛らしい感じの女を特に好んだ。美青年で、粋で、気前がよかったから、女はいくらでも集まってきた。

((中略))溢れるばかりの才能がある上に、物腰が柔らかだったから、同僚の好感を買った。



ダ・ヴィンチも美青年だったそうですが、ラファエロも美青年。ミケランジェロだけが、そうではなかったらしいね〜。



けれども、同じ美青年でも、ダ・ヴィンチは女性に関心なし、だったみたいだし、ミケランジェロも感心なさそうなので、恋に生きたのはラファエロだけ、みたいな感じでしょうか。



ラファエロは、先輩であるダ・ヴィンチとミケランジェロ、双方の画風から影響を受けているそうですが、その生き方は二人とは違って、まさに自由奔放のルネサンス人。



それゆえ、



その時代には、ミケランジェロやレオナルドよりも、ラファエロの方が受けた。かれの方が、生き方においても、芸術においても、その時代の理想をよりよく代弁していたからである。


と、モンタネッリは、ラファエロのことを評しています。



女遊びが過ぎて早死にした、とも書かれちゃっていますけどね(笑)。



ラファエロには、女性を描いた絵が多いですが、その表情は柔和で、優しさが滲み出してくるような、そんな画風ですね。




わたしがいちばん好きなラファエロ作品は、↓「アテネの学堂」ですが、



WS000303.JPG



この絵には、歴史上の有名人が沢山描かれているんですよね。




WS000302.JPG



ギリシアの三大哲学者を中心にして、それ以前のピタゴラスやヘラクレイトスもいるし、智慧の女神ミネルヴァ(アテネ)とアポロンがいますね。科学者のアルキメデスもいる。



如来がめじろおしです(笑)




他にも、ゾロアスターとか、プトレマイオス、パルメニデス、ヒュパティア、なども描かれていて、ラファエロ本人もちゃんと中に入っています。




プラトンとアリストテレスが、中央で並んで歩いてきていますが、これには次のような意味があるそうです。




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天上界の理念を重視したプラトン哲学と、地上の事物の研究に比重が多いアリストテレス哲学の違いが、二人の指先の指し示す方向によって表されているのだとか。



 



一流の絵画は、奥が深いんですね。パッと見た印象だけではなく、その絵に秘められた多くの秘密を知ってこそ、いっそう深い観賞が出来るのかもしれません。



 



 










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posted by ガンレオ at 07:55 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月28日

【レオ】ミケランジェロ 〜「ルネサンスの歴史(下巻)」より〜

 




 



ミケランジェロの章も面白いんですよ。



「芸術家列伝」を遺したヴァザーリは、ダ・ヴィンチではなく、このミケランジェロの方と交流が深かったようで、それゆえミケランジェロのエピソードがふんだんに語られているんですよね。



そして、モンタネッリが書いた「ルネサンスの歴史」の画家の章は、このヴァザーリが伝えるエピソードを主な資料としているので、生き生きとしたミケランジェロ像が伝わってくるのです。



15歳ころのミケランジェロは、こんな人だったそうです。



みずからに娯楽を許さず、友人を求めず、若い娘に目もくれず、陰鬱寡黙で喧嘩早かった。

ある時、ピエトロ・トリジアーノという男と諍い、こっぴどく殴られて、鼻が曲がってしまった。それ以来、ますます人間嫌いになり、性格がひねくれた。


 … とあります。



後世のわたしたちは、ミケランジェロの名を知っていても、この人が喧嘩早くて、若い頃に喧嘩をして殴られ、鼻がそれ以降ずっと曲がっていた、などということまでは、なかなか知りませんね。



それが原因で、人間嫌いになって、性格がひねくれたのかはわかりませんが、他人との関係は結構、面白おかしいエピソードが多いので、偏屈なところがあった人なのは間違いないのでしょうね。




恩人ロレンツォにとことん敵対するサヴォナローラを、熱烈に崇拝するようになったのは、主としてこの性格の類似のためであろう。


 … とも、あります。



ロレンツォというのは、コシモ・ド・メディチの孫で、フィレンツェの第一人者ですね。事実上の支配者であり、当時のイタリアの群雄割拠状態を、この人が中心になってまとめていた、というほどの大政治家です。



そのロレンツォが、ミケランジェロを可愛がったわけですが、宗教改革者のサヴォナローラは、ロレンツォに敵対していた人物だったわけです。



俗世に生きる政治家ロレンツォと、清廉潔白な宗教人生をよしとするサヴォナローラでは、根本の生き方からして違うので、フィレンツェの目指すべき道が、まったく正反対の方を向いていた。



ミケランジェロは、ロレンツォがパトロンになってくれていて、その保護を受けているのに、敵対者のサヴォナローラを崇拝するという、めんどくさい立場に自ら立っていたわけです。




それはともかくとして、



面白いのは、やはり有名な作品を描いていた時のエピソードなので、それを紹介しておきましょうか。



ミケランジェロは、ローマ教皇ユリウスとも仲が良くて、この教皇からの依頼を何度も受けて、仕事をしていたんですが … 



ある時、システィーナ礼拝堂の天井画を描いてくれ、とミケランジェロに依頼するんですよね。



しかしミケランジェロは、




自分の本業は彫刻であって、壁画の技法には通じていないと弁明し、その仕事にはラファエロの方がずっと適任であると提案もしたが、ユリウスは頑固に言い張って、遂に彼を陥落させた。

ミケランジェロは不本意のままに仕事にとりかかり、この作品が自分の最高傑作として美術史の中に永遠に残るようになろうなどとは、夢にも思わなかった。

仕事の膨大な量を考えて、5人の弟子をフィレンツェから呼び寄せたが、すぐに怠惰だと言ってクビにしてしまい、結局は独力で、この巨大な仕事に当たることになった。



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↑ この超大作を、たった独りで描いたのだといいます。毎日切れ目なく描きどおしで、それでも4年かかったそうです。



面白いのは、これを描いていた時の、ミケランジェロと教皇ユリウスのやりとりです。



この全期間を通じて、恐るべき教皇の虜囚となり、高い足場の上にへばりついていたのである。

仕事場に入って来るのは、教皇ユリウスだけだった。毎日教皇は礼拝堂へやって来て、足場の上にあがり、ミケランジェロの傍らに腰をおろして叱咤激励し、かれが少しでも愚痴をこぼすと、常に肌身離さず例の木杖を振り回し、ぶっ叩くぞと脅しつけた。

この言語に絶する苦闘の4年間は、ミケランジェロを20年分も老け込ませ、その身体を変形させ、視力を弱め、性格をさらに捻じ曲げた。


そりゃあ、そーでしょうよ(笑)。



4年間も、寝っ転がった姿勢で、天上を見上げながら絵を描き続けていたら、身体がどうかしたって不思議はありません。目も悪くなるでしょう。 



そんな思いまでして、こんな超大作を描き切ってしまったミケランジェロは、やはりスゴイ。 




だから、



この大仕事が完成すると、ローマ内外から大勢の見物人が詰めかけた。


 … そうです。



こんなミケランジェロですが、ミケランジェロ自身は、もともと彫刻家から出発していて、生涯、絵を描くことよりも、彫刻の方を好んでいたそうですよ。




そう言えば、あの有名なダヴィデ像も、ミケランジェロの作品ですしね。



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これは、身の丈が5メートル以上もあるので、それを見物人が観るには、下から見上げる形になるでしょう?



だから、下から見上げた時に、ちょうど均整の取れた肉体美に見えるように、上半身は意図的に大きめに作られているんだとか。



真下から見上げると、上半身は遠いから小さくなるでしょ?だから大きめに作った方が、見上げた場合には、ちょうど良い見え方になるんだって。



スゴイですね。考えていることのレベルが違う。



 



 



 




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posted by ガンレオ at 18:14 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする