2017年03月07日

【レオ】そこに価値があると信じる人こそ … 

真に学び、理解することが出来る。

どういうことかといったら、

人は「何かを学ぶ以前」には、その「何か」について、まだよくは知っていない。
しかし、知ってはいないけれども、その「何か」には、学ぶだけの重要な意味がある。

そう思ったことは、真剣になって学ぶだろう。
少なくとも、わたし自身は、そうだ。

何かを学ぼうとする時、その「何か」を知りたいと思う。知ることで、自分の認識力や判断力、教養が広がると感じる、想像する。
だからこそ真剣になって、その「何か」を学ぼうと努力する。

「学ぶ」以前に、その「何か」には重要な価値がある、そう「信じる」ところから、わたしの学びは始まる。学ぼうとする「意欲」は生まれるのだ、と思う。


歴史を学ぼうと思うとき、それが、自分には関係のない、どーでもいいこと、などと思っていたら、その「歴史」に興味すら覚えないだろう。
興味がわかないことを、学ぼうとなどするわけがない。
世界の国どころか、日本の歴史にも興味がわかなければ、歴史には全く興味の無い人間になってしまうかもしれない。

宗教もそうだ。
仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、あるいはその他の宗教でもいいけれども、
その「宗教の教え」を学ぶことに、価値がある。大切な「何か」がそこにはあるのではないか。
そう想定して考える人は、一生懸命になって、その宗教の教えを学び、理解しようとするだろうけれど、
宗教など、どーでもいい、興味なし、となれば、学ぶどころか、本の一冊さえ手に取ろうとはしないだろう。

学ぶ以前に、そこには「何か」大切なものが隠されているのではないか。自分はまだ知らないけれども、多くの人にとって大切な、何かがあるのではないだろうか。

価値の再発見、ですね。


その著者は、その価値を知っていて、その本を書いている。宗教にしても、歴史にしても、文学にしても。
そのものを著すことが大事なことだと思って、その書を書いたに違いない。

わたしは、その「何か」をまだ見たことがなく、読んでもいないけれども、何かがあるに違いない。


わたし自身は、聖書を初めて手に取った時、
その本には、神について知るための手がかりがあるはずだ。きっと「何か」があるはず、と期待して、読んだことを覚えている。

価値の再発見。素晴らしい何かがあるはずだという期待。


人は、自分が知らないことを、新たに知ろうと欲する時。
まずは、価値あるものの再発見、そのことへの期待を持たないと、前に進まないのではないか。

数学を学ぶにしたって、
数学や算数なんて、生きる上で別に必要ないや、といって価値否定に走れば、
その人は、数学的な考えを学ぶどころか、そもそも興味すら持たないようになるだろう。
ピタゴラスが三平方の定理を発見しようが、ライプニッツが微分積分法を発見しようが、その人にとっては、そんなことはどーでもいい、関心の外のことなのだ。

しかし、関心がなく、知ろうともしないということは、そこにある「価値」を、その人は決して「再発見することなく」生きてゆくことを意味するだろう。

わたしは、いろいろなことを知りたいと思うし、
価値のあることは、出来得るかぎり多く、知りたいと思う。

自分の身の回りで起こること、自分にとって喫緊の重要テーマだけでなく、
自分の外に広がる世界には何があるのか。
世の中はどのように動いているのか。どのような歴史を人は歩んできたのか、その歴史を知りたいし。
偉大なる宗教の教えや、科学の発見、素晴らしい文学、音楽・芸術、その他。

人類がいままで築いてきた、偉大なることの全てを、出来うれば、知りたいと思う。

知れば知るほどに、
自分が今まで学んできたことは、それらのうちのほんの一部に過ぎず、
世の中には、まだまだ自分が知らない「大切な価値あるもの」が、たくさんあるのだということがわかってくる。
知れば知るほどに、自分の足らざるを思い知る。無知の知、とは、そういうことだと思う。


そこに「価値あるもの」が眠っていると、信じることが出来るか。期待できるだろうか。

価値の再発見の前には、期待の心が必要だ。それがキッカケとなって、探究心が生まれてくる。興味が生まれてくる。
どーでもいいことだ、という無関心からは、探究心は生まれてこない。

真理の探究、菩提心は、
真理そのものに価値があることを、潜在的に知っているからこそ、人はその真理を切実に求めるのではないだろうか。

神の存在を知り、神の教えを知り、神の愛を求めて、
必死になって、その道を歩まんとする時、

いまはまだ到達できていない、その素晴らしい世界の存在を、
実は、自分の心の深い部分は、知っているのではないか。

過去世において、法縁深く、よく宗教の教えを学んだ者は、
神の教えを求めることが、当たり前のようにして、
若き日から、探究の気持ちを持つに違いない。
それは、心の奥で、実はすでに知っていることだから。

その他の学問や芸事にしても、
自分がかつての生涯で、よく経験したことは、その「価値」や「面白味」をその人は知っているのであろう。
だからこそ、そのことにすぐ興味関心が湧いて、手を伸ばし、当たり前のように学んだり、体験を深めたりしようと、意欲するのではないか。


大切なのは、そこに価値があるのだ、ということを、
まずは、信じること、から始めるのでなくてはならない。

価値を知らない人には、
その価値を知る人が、切々と語って、そこに大切な何かがあることを、
感じさせないといけない。
そうでなければ、知らない人は、興味すら覚えないからだ。

伝道の必要性とは、そういうことなのかもしれない。






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posted by ガンレオ at 12:59 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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