2017年02月08日

【レオ】自分では語るほどの独自意見を持っていない、だから偉い人に代わりに語ってもらう、ってどうなの?

自分には、語るべきほどの内容は無い。
だから、偉い先生方に語ってもらう。立派な記事を書いている、プロの人の文章を読んでもらおう。幸福の科学や幸福実現党で言ったら、職員や幹部の語っていることをコピペして読んでもらえばいい。自分のような未熟な一信者や一党員のつたない意見を語るよりも、そちらのがいい。

 

なんていう考えで、コピペばかりしているのだとしたら、それがすでに学びからの「逃げ」だと私は思いますけどね。

 

自分で語らなければ、それは楽ですよ。責任も生じないし、難しい勉強もそんなにしないでいいんだから。

大切なことは、総裁先生が語ってくれる内容をコピペすればいいのだし、あるいは幹部が語ったことをコピペ宣伝すればいいのだし … 。

といって、いつまで経っても自分では語ろうとしない。

 

自分で語る気がない以上は、勉強だってそんなに真剣にはやらないで済みますから、それではいつまで経っても、こういう人は、自分で優れた意見を言えるようにはならないでしょう。決して、なりえない、と思いますけどね。

なぜなら、そうなるための努力をまったくしていないんだから。語れるような自分になるための、いっそうシビアな勉強と、語るための努力・工夫をしようとの意欲を、最初から持っていない。放棄してしまっている。

 

すべては、偉い立派な先生方の語ることにお任せして、自分はその内容をコピペすればいいんだ。自分のつたない意見なんて、語っても仕方がないし、どうせ世間には通用しないんだ。

 

これは一見もっともなようであって、けれども、自己修行の観点からしたら、明らかな逃げ、言い訳だと、わたしは思いますけどね。

 

よく、自分は空海を尊敬している、と言いながら、

空海さんは偉いんだよ、といって仰ぎ見るばかりであって、空海がどんな考えを持っていたのか、その考えを知りたいといって、著作を読んでみようとか、そういう努力をしない人を見かけます。

あまりも偉い空海さんの考えの深さは、我らのような凡人には計り知れないので、そんな難しい本は読まない、とくるわけですね。

 

あるいは、イエスさまの教えに関しても、イエスさまは神の子だから、あのような人間離れの生き方が出来たのであって、私たち凡人には、そんな「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」なんて出来ようはずもない。イエスさまを尊敬もうしあげはするけれども、その生き方を真似るなんて無理だし、そもそも望むべくもない。

 

こういう考えをする人がいますが、

 

あまりにも、先生たちを、偉大なる高台の上に持ち上げてしまって、だから凡人には真似の出来ない存在だ。我らに出来るのは、そういう方々を崇めるのがせいぜいで、その方々の本心が奈辺にあったのかなど、知る由もないし、そもそも無駄な努力というものだ。

といって、偉人を、人間ではないから、凡人が学ぶ対象にあらず、ただ仰ぎ見るのみ、みたいに捉えて、著作も読まないし、教えにも興味も持たず、知らんぷり、となるわけです。

 

巷の人たちに聞いてみるといいですが、

それは、お釈迦様は偉い人だったんでしょう。孔子さまも偉い人だったんだろうし、ソクラテスも偉い人だったんでしょう。

くらいは言うことでしょう。

けれども、こういう人たちのどこが偉いのか。どんなことを語ったから偉いのか。その内容までは知らない人があまりにも多いでしょう?

偉いのは認めるけれど、その内容を知ることには無関心、興味なし、ということなんだと、わたしには見えるのですが、違いましょうか。

 

結局、偉さの高台に持ち上げてしまって、人間的努力の対象外に祭り上げてしまう。

すると、お釈迦様が、なぜ人間の身体に宿って生まれてくださったのか、その意義が失われてしまうんですけどね。

偉大なる方であっても、ひとりの人間として生まれ、人間的努力をしながら、悟りを開き、多くの人に愛を与え、知恵をさずけたその偉大さに、学びなさい、という意味があるのに。

 

イエス様にしても、トマス・アクィナスは言っていますが、すべての人が目指すべき目標となるべくして、イエスさまは一人の人間としてお生まれになったのだ。ということですね。

天にいます見えない神であっては、凡人には学びようもないですが、そうした存在がひとりの人間として肉体に宿って生まれ、生き、死んでいったのを見る時に、

わたしたちは、その師の生き方に学び、出来る限り、師の生き方をみずからも体現すべく、人間的な学びの対象として、一人の人間としての先輩として、学ぶべきはずなんですよね。

 

それを、こうした方はもはや人間ではない、あまりに偉大な神のごとき人だから、その教えは余人の理解を超え、神の領域の教えであり、我らに出来るのは崇めるばかり。

なんていって、実は、真似をして生きることの厳しさから、逃れる言い訳をしているんではあるまいか。

 

先に書いたように、

自分では、語るべき内容を持っていない、自分のようなつたない人間が何かを言うより、すでに立派な見識を持った、諸先生方に代わりに語ってもらえばいい、というのは、上にあげたのと同じ思考パターンの人であって、

 

要は、自分としての努力を放棄していて、自分が優れた意見を述べる人間になるためには、どうしたらいいのか、そのための努力をしよう、という観点が欠落しているんですよ。言い換えれば、逃げている。

 

自分で語るのは、責任も生じますからね。つたない内容では恥ずかしいから、相当な勉強をしないと、ひとかどの文章なんて書けやしませんから。

表面的な情報収集しかしていないレベルでは、深い洞察の入った鋭い論点なんて、出てきようもないですからね。

要するに、そういう低レベルの自分の意見などを見られるよりも、プロの記事や偉い人の文章をコピペしまくって、それを羅列した方が、いい内容の総合デパートになるではないかと。

 

これが、コピペばかりのブログの出来る、裏側の理由というか、わたしから見たら、そう見えるということですけどね。

自分でなぜ書かないのか。書けないのか。最初から書く気すらないのか。そういう問題ですね。

 

逃げ、でしょう。自己責任、自分の責任のもとに、考えをまとめ、その成否を世間に問うだけの覚悟もないんではないでしょうか。

そう、問わざるを得ないと思います。

 

やはり、幸福の科学の信者たる者、情報の受け売りレベルでは話にならんのですよ。

少なくとも、何十年も信者をやっておりながら、語るのは総裁先生、職員の方々、自分には語るべき見識など無い、なんて状態では、話になりません。

 

書く時間が無い、などというのも、言い訳でしかないでしょうね。

どんなに忙しくたって、一年365日もあって、そのあいだに、ひとつか二つの論文をも書く時間がまったくない、なんてことは、あり得ませんからね。

書かないのは、書けないからではないでしょうかね。書けるのに書かない、ではなくて、書けるような見識を持っていない、ということではないか。

 

しかし、書けるような見識というのは、実際に、無数に文章を書きまくってみて、書くことの難しさを知る中で、自分を鍛え上げる努力なくしては、決して身に付かないんですけどね。

ただ漫然と、情報収集を10年して、コピペで代弁ばかりしてもらったって、最初から自分で語る気がないんですから、いつまで経っても、この人は自分の言葉で、優れた意見を言えるようにはならないでしょう。そのための努力をしていないからです。当然の帰結ですね。

 

あえて、そう、苦言を述べておこうと思います。

 

コピペ依存体質は、他力依存の、他人の褌で相撲を取ろうとする、人任せの行為ですよと。

 

少しは、自分で考え、自分で表現する苦労と、それを克服して初めて得られるものがあるのだ、ということを、もっと考えるべきだと思います。

偉い先生に学んでいるのは、自分自身もそうした先生のような人間に、いつしかなりたいと思っての師事ではないのでしょうか。

それがいつまで経っても、先生におんぶにだっこで、自分では何も深く考えもせず、語る際の工夫や努力もしないで、先生にしゃべってもらいます、では話にならないんですよね。

 

要は、そういうことです。

 

 



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posted by ガンレオ at 00:00 | Comment(4) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
よくぞはっきりと言ってくれた。

厳しい意見だが、正論だ。

Posted by ガンちゃん at 2017年02月08日 04:35
むろん全ての信者に、本を読んだら、記事のひとつくらい自分で書いてみよう、などと言っているわけではない。

仮にも、ブログを運営しているなら、大量コピペによって他の人の意見ばかりに「おんぶに抱っこ」ではなくて、少しは自分で書いてみたらどうか、と問うているだけのことだ。

あるいは、コピペしか出来ないというなら、少しは遠慮したまえ。苦労して書くことも知らないで、大量にコピペしたら、総合情報サイトが作れるというのなら、完全他力の甘えた考えだと、オレは思う。

出版社が、原稿料を払って、多くの著作家の記事を掲載している総合雑誌とは違うのだ。
原稿料など払わずに、よそのサイトから、魅力的な記事を無料でコピペして、勝手に集めているわけだろう。資本もかかっておらず、他者の努力の成果のみを勝手に収集して、並べているわけだ。
そして、そうしてコピペされた記事は、本来、そのオリジナルサイトで読むべき記事だからね。
紹介するなら、そのサイトへ誘導するような紹介をするのが、本来の筋なのに、自分のところで全文読めてしまう無断転載の山。これはどうか、と問うている。他人の努力の成果を搾取して、自分の手柄のように摩り替えてるところが有りはしませんか?

夕刊フジに連載している釈党首のコラムであっても、全文が掲載されるのは、夕刊フジのサイトのみであって、幸福実現党ホームページであっても、全文掲載はしていないんだよ。
そこにあるのは、夕刊フジのサイトへ誘導するための、一部抜粋の短文紹介なのだ。全文を読むには、夕刊フジのサイトに飛んで、そこで読んでください、という紹介のスタンスでしか掲載していない。そのことを考えてみるべきではないか。
夕刊フジから依頼されて、そこに投稿している記事である以上、メインはあちらにあって、幸福実現党党首であっても、自分の記事を、実現党ホームページに全文掲載はしない。
それが世の中のルールというものだ。

そこまで考えてやっているのか、ということだ。
信者へのメルマガにある霊言内容を、勝手に記事としてアップしてるしね、問題のサイトは。
公式サイトでも秘しているような内容が掲載されている信者メールを、勝手にネットにあげて情報をばらして、それが情報公開として許されているのか、ルールに反していないかどうか、この運営者は考えているのだろうか。それを問う。
Posted by レオ at 2017年02月08日 06:46
ちょっと、二人がうらやましい。(笑)
Posted by 英 at 2017年02月24日 17:46
うちらは、ちょっと、もの申しすぎかね?笑

英さんも、リバティWebやら、記事にコメントで独自意見を言ってるから、いいのです。

それを基本にしながらコピペなら、自助努力ありで許せると。
けれど、コピペばっかりガンガン貼るのは、許せんのです。コピペしか出来んで自分の意見無いなら、遠慮せい!
というところかな、ハハハ。
Posted by レオ at 2017年02月24日 21:18
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