2017年01月31日

【レオ】「職業としての宗教家」で学べる、総裁先生の読書論・学習法 <2015-11-08の記事>

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来年公開の幸福の科学・実写映画「天使にアイム・ファイン」の主演女優である雲母(きらら)さんと、大川隆法総裁先生との対談本です。

総裁先生がお子さんや、幹部の方と対談する話は、突っ込んだ話なども多数出てとても面白いですが、この対談相手の雲母さんはまだ17歳の若さだというから驚きです。対談者で最年少者記録保持者ではないでしょうかね。


まだ本は発売されたばかりなので(去年末)、ネタバレする気はありませんが、対談を読んでいたら意外なことに、総裁先生の読書論、学習方法が述べられている個所がかなり沢山あって、興味津々で読みふけってしまいました。
以前読ませていただいた「大川総裁の読書力」と合わせて、この読書方法の技術のところは、是が非でも学ばないとあかん、と思いながら読んでました。

特に雲母さんが総裁先生に、先生はインターネットを使うんですか?といった問いをかけた時に、総裁先生は御法話でもたびたび述べられているが如く、ご自身はローテクで学ぶそうで、紙の書籍を読んでらっしゃって、携帯だとかネットだとかには関わらないのだそうですし、今回もそうしたお返事をされていました。

わたしが気になるのは、いま現在、インターネットで情報収集をしたり、携帯やスマホで電子情報に触れたりする生活が、若者を中心としてかなり広がっていますし、紙の本屋さんも年々減って来ていて、どうなるのだろうか。
ネット情報へのアクセス習慣と、紙の本をきちんと読む、昔ながらの読書生活・知的生活の違いといったものは、これからどう現れてくるのか。そういった問題点ですね。
対談の中で、総裁先生はこのあたりについて、かなり詳しく解説してくれていました。

総裁先生は、ネットの情報収集と、紙の本をじっくり読み込む読書との違いを、どう捉えてらっしゃるのか。
それは書籍で読んでいただくとして、以下はわたし個人が、いままでブログ記事で書いた内容や、今回の対談を読みながら自分でもそうだなぁと感じたことを中心に、述べて行きたいと思います。
オリジナルの対談内容は、やはり手に取って読んでいただくにしくはありませんからね。


さて、ネット情報というのは、パソコンでも携帯やスマホでも簡単にちゃちゃっとアクセスできるし、それで情報を瞬時に得ることは、確かに容易に行えるようになって、とても便利です。
重たい百科事典や広辞苑をひっぱり出して、ページをめくって調べなくても、キーを打って電子辞書で調べたり、ネットのウィキペディアを見れば、基本的な情報は簡単に、誰でも手に入ります。
だから今では、家に事典や辞書も持たないで、何かわからないことがあったらネットで調べればいいや、なんて思っている人も、けっこう多いかもしれません。

必要なことはネットでいつでも調べられるから、何も日頃から勉強をたくさんして、知識のストックを身につけておく必要もないだろう、なんて考えちゃってる人もいるかもしれませんが。
こうして、楽な方楽な方、便利な方へと安易に流れていくと、結果的にはその人の知力は落ちていくだろうことは、容易に推定がつくだろうと思います。

やはり幾ら機械が発達して便利になったとはいえ、刻苦勉励、精進・努力の時間がなくなっていくと、精神の鍛練自体がなされなくなるし、安易に情報にアクセスするのが常態化すると、難しい内容をじっくり時間と労力をかけて読み解こう、読解しようという忍耐力も、やがて失われていくかもしれません。
つまらなければ、すぐ横にポイしてしまって、他のページをクリックして、面白い記事を探した方がいいや、なんてことになりかねません。

結果的に、ネット情報、ネットサーフィンというのは、情報の山を調べ回っている「つもり」でいるけれども、実際はそれは当人の「知識」や「知恵」につながっていない、その場しのぎの暇つぶし、ガラクタの寄せ集めに過ぎないものかもしれません。その危惧は大いにあると言っていいでしょう。

新聞を読まなくても、ネットニュースを見ればいい。古典名著のオリジナルを苦労して読むなんて手間ははぶいて、ネット上でその著書の概要をちゃらっと読んで、だいたいわかればいいじゃないか。
なんてことになると、その理解はきわめて表面的で、底の浅いというか、ほとんど厚みのない情報でしかなくなってしまうんですよね。
それはその人の知識ではなくて、単なるネット上から拾った断片情報でしかないから、ところでその件について質問があるんだけども、と誰かに問われたとしても、その情報以上のことは何も知らないものだから、答えることが出来ない。
こうしたところに、ネット空間の情報の浅さ、それを知識と錯覚していることの危険性があるのではないか。そう思ったりします。

以前、↓ こういった記事をわたしは書いたのですが、

読書とネットと考える力
http://ameblo.jp/space-people/entry-11963617054.html

本を読む習慣のある学生と、本をまったく読まない学生に、同じテーマの問題を出題して、論文を書かせたところ、両者の力量には相当の差が出てしまった、という番組をやっていたんですね。

本を読む学生は、ネットを利用したとしても、その使い方は補助的な利用にとどまっており、ネットで参考文献の題名を調べたら、図書館へ実際に行って、その本を借り出して読んでいた。そしてその本の中で、テーマにからんでくる箇所を抜き出して、それを論拠にして、自分の考えをきちんと述べた、自作の論文をきちんと書き上げてきたそうです。

ところが、ふだん本を読まない人が書いた論文というのは、ネットから拾ってきた情報を、それらしく何となく並べて、論文らしい体裁を取っているだけで、自分で考えをまとめたり、意見を述べている個所がほとんど無かったんだそうです。
ほとんどがネットから拾った情報のコピペであり、それらをつなぎあわせて論文らしい形にしているものの、最後に自分の感想らしきものを、ちょぼちょぼと2,3行程度書き加えているだけで、しかもその文自体、意見というほどの内容を持っていなかった。
そういう比較実験をクローズアップ現代でやっていたわけです。

これには考えさせられることが、非常に多いとわたしは感じました。

本を読むということ、自分で努力して何百ページもの本を、実際に読んでみるということ。
その上で、全体を通して感じた感想を、しっかりと自分の言葉でまとめて語るというのは、それはとても難しいことだし、技術もいることです。訓練もいりますね。
けれどもそもそも、読書というのはそうやって、読んだ人が自分自身で考え、自分で語れる力を身に付けるためにこそ、やっている努力のはずであって、単にこの本にはこんなことが書いてあったよといって、そのまま横流しするだけでは、自分の考えを持つところまでの勉強は、出来ていない、ということなのだと思うのです。

だからやはり、努力なくして身につく能力はなし、ですね。

ネットサーフィンもいいけれども、やはりそれはいくら電子機器が発達した時代とはいえ、あくまでもサブ的な役割に留めるべきであって、智とは何なのか、自分自身の見識を持つということはどういうことなのか、自分の認識力、識見、こうしたものを磨き上げるための、読書の効用というものを、もっと深く考えて、実践していかないといけないのではないか、そんなことをあらためて考えさせられました。

やはり、自分の頭で考え、自分の言葉で語れるようになる、ということが大事なのではないかと、わたしは考えます。
こうしてブログで記事を書いたりもしていますが、この記事ネタの基本はやはり、実際に本を読んで格闘し、自分なりに感じた感想、考えた内容をこそ語りたいものだと思います。
それ以外のものも、オマケのような形で載せることもあるけれども、あくまでも基本は、自分という個性から発されるところの、考えや思いであるべきだよなーと、あらためて思いました。

実際、自分でテーマを考えて、自分なりの文章で記事を書くというのは、とてもたいへんなことです。
今まで学んできたことが、どれだけ自分のものになっているのかが問われるからです。
学んだことを単にそのまま横流しするのではなく、自分で考え、自分の言葉でもって表現してみる。
そこに説得力ある文章があらわれたなら、その時こそ初めて、自分が学んだことが身についていると言えるのだろうと思うのです。

対談の中でも、真輝さんのエピソードや、総裁先生が学生時代の頃のエピソードとからめて、語られていたのですが、
お二方とも同級生からみると、ひと世代前の古いスタイルの勉強方法をしているように見られて、からかわれたのだといいます。
総裁先生であったら、もう教養主義の時代は過ぎ去っていったような時代に学ばれたにも関わらず、古き良き明治・大正の頃のような、古典名著を努力して大量に読破していくという、そういう読書による知識の積み重ねをおくっていたのだと思います。

ドイツの哲学者ヘーゲルにも似たようなエピソードがあって、学生時代から夜遅くまで難しい本を大量に読破する学生時代をおくっていたといいますね。
それで同学年の仲間からつけられたあだ名が「老人」とか、そんなようなあだ名だったような。あまりに老成して勉学に夢中になるあまり、若者に見えず、壮年の知者みたいな風貌で生きていたのでしょうか。
けれども真なる智を目指す方というのは、いつの時代もこのように、地道なる智の探究を徹底的にやり続ける方々なのだと思います。

わたしはいま電子書籍を利用しているのでアレなんですけれども、機器は電子といっても、読んでいるのは昔ながらの古典名著も大好きで、岩波の古典名著や思想書なども、よく買って読んでますので、堕落までは行っていないと信じたいです、ハハハ。

自分で言うのも何ですが、やはり思想書系がいちばん好きな読書対象ですし、哲学書などもそれなりに結構読んだと思うし、カントの「純粋理性批判」を初めて読んだ時なんかは、出だしから何を言わんとしているのかよくわからないので、とりあえずカントが言ってることを、ノートに図解して書き込みながら読んでいきましたよ。
アプリオリ、アポステリオリって何じゃらほい?直観、概念、知覚、何たらかんたら、どういった意味合いでカントはこれらの言葉を使っているのか。五感を使って外界を認識することを感性的直観といっているのだろうか?悟性概念とか、いろんな難しい言葉が出てくる。
そんな格闘をしながら、カント用語を読解しつつ読んでたら、10分かかって2ページも読み進めていませんでした。
このペースでいったらどうなることやら、と思いながらも、努力して読んでいったら、だんだんカントが言ってることがイメージでわかってきて、あとは比較的スイスイ読むことが出来て、岩波文庫で全3巻、ちゃんと読み終えましたよ。
そのあとで、実践理性批判とか、判断力批判とかも読んだし、その上でカントの感想記事なんかを書いているので、ウィキペディア情報ではないのです(笑)。

でもそうした知的格闘を経て読んだ本のことというのは、心にも頭にも強く残っていて、読んでから何年、あるいは十数年が過ぎても、覚えているものです。
しかも苦労して一度読んでおくと、二度目の再読のときはずっと早く読めて、しかもさらに理解が進みます。「純粋理性批判」の再読は、わたし通勤電車の中で立ち読みして済ませましたからね。自慢じゃありますが(笑)。
アウグスチヌスの「告白」や、トマス・アキナスの「神学大全」、ヘーゲルの著作、その他いろいろ読んだし、今回の対談本でも出てきた、ジョン・ロックの「統治二論」もちゃんと持ってるし、あ、読んでおいてよかったーと思ったものでした。

知的な努力は、やはりきちんとした名を持った人の、重要な書をしっかりと読み込み、自身の血肉とするところまで読み込むべく、知的格闘の時代を経ないといけないのだなー。
そして単に読んで終わりではなくて、そこでつかんだエッセンスを、自分の言葉で、自分の理解度でもって、自分らしい表現方法を用いて、語れるようになること
ブログ記事でもそうですし、友人たちとの会話でもそうですが、そこまで行かなければ、本物の智になっているとは言えないと、対談を読んでいてあらためて考えさせられ、気が引き締まる思いがいたしました。

ネットサーフィンはやはりサブ的なものであって、本をきちんとじっくり読み込んで学ぶスタイルこそが王道なんですね。
学問に王道なし、知の道に王道なし、真の努力精進なくして、知的なる目覚めと発展も、また無し。
そう思うのでした。

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posted by ガンレオ at 23:56 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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