2017年01月30日

【レオ】「仏教の思想3 空の論理<中観>」を読んでみる

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 幸福の科学カテゴリからも、発展繁栄を!!




空の論理「中観」―仏教の思想〈3〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア) -
空の論理「中観」―仏教の思想〈3〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア) -

こちらは、梶山雄一氏と上山春平氏の共著&対談本。シリーズの第3巻。中観についてなので、中心に置かれるのは、龍樹の思想。


 


梶山雄一氏は、中央公論から出ている龍樹の「大智度論」や「龍樹論集」を訳されている方なので、このあたりが専門の仏教学者。


対する上山春平氏は専門は哲学で、このシリーズの監修者ということで、梶山氏に上山氏が尋ねる形式の対談が収録されています。


 


やりとりはこんな感じ。


 


上山 そのナーガールジュナの神秘主義とかいうのはどういうところからわかるのですか。



梶山 それは伝統ですね。『般若経』のなかには神秘主義はかなり明瞭に見られますが、ナーガールジュナはそれを継承し、哲学的に発展させているわけですから。

また、先ほどおっしゃった空というものも、何もかも空ならば、空というのは知識でもない、ということになるのか。実はこの問題は中観の歴史でかなり大きな問題になっていて、空というのはほんとうに単純な欠除をあらわすような無なのか。あるいはそうじゃない一種の裏に肯定を含んだような空という知識であるのか。中観の思想家はみんな考えているわけです。

その場合に、空というものが単純な欠除、何もないことじゃないんだ、積極的なものを持っているんだというのは、やっぱり神秘主義です。とくに神秘主義的な体験を通すと、空というものはやはり積極的で純粋な何かであるということがはっきりわかる。それは『般若経』の伝統からくるわけです。


 
ナーガールジュナ(龍樹)の思想には、神秘主義の伝統が流れ込んでいる。龍樹の思想自体が、神秘主義の観点なくしては理解が出来ない。そう、梶山氏は述べています。

 


般若経典のなかの神秘主義の思想を、龍樹は継承しつつ、それを<哲学的に>発展させたものだと説明しつつ、


その中心となっている<空の思想>とは何なのか。解説が続いています。


 


空とは、何も無い、空っぽだ、という意味ではなくて、それは単なる欠如や不在ではなくて、その奥に何か、肯定されるものを含んだ<空>でなければならない。そうでなければ、神秘思想における知識では有り得ない。


そもそも仏陀がそんな、結局なにもないんだよ、なんて教えを説くはずがありませんからね。そんな教えが世界宗教になる理由がありませんから。もっと深淵な意味が含まれていると考えるのが、仏弟子の採るべき当然のスタンスと言うべきだと思いますが。


 


空とは、否定の奥にある肯定さるべき何かである。般若経の教えから見ても、当然そういう理解がなされる、と梶山氏は<空の思想>を解くわけです。


この見解は正しい見解であることが、幸福の科学で学んでいる信者には、よくわかると思います。


 


続く解説を読んでも、梶山氏が、ひじょうに深く、般若経および龍樹の空の思想を考えていることがわかります。


 


それは、瞑想を経ることによって、初めてわかるもの、と述べています。


 
『般若経』の神秘家たちもさかんに瞑想をしますが、瞑想をしていると、「区別の哲学」と、ぼくが呼んでいるような、分別の立場でいろいろと区別をし、一つ一つ定義をしていったような形というものが、だんだん消えていってしまう。瞑想をして対象に心を集中している間に形も消えるし、ことばも消える。観念も消えてしまう。そしていちばん最後に残るものは無相とか空とかいわれるようなものである。しかしそういう無相とか空とかしか言いようのないものというのは、非常に明瞭にありありと瞑想者には自覚されているわけです。それを空と言ったのだけれども、空と言う、ということは、それが何とも言い表わしようのないものだ。つまりことば、あるいはわれわれの思惟というものは、ものを分ける立場から始めるけれども、われわれのことばで分けて表現しているようなもののどれにも当てはまらないようなものしか残っていない。


 


これはこのあいだ、わたしも記事で書いた内容に当て嵌まる部分があると思いますが、ふつうの頭脳で考える<分別知>ですね。


頭で考え、判断し、善悪の区別や、白黒の別をつけたりといった、そういう分別的な判断の<知>ではない。


そうではなくて、瞑想体験の中で<感じ取れるような>霊的な直覚というか、悟りの体験といってもいいかと思いますが、


頭脳的なる「区別の哲学」「分別の立場」の奥にある、言葉を超えた世界、観念を超えた世界、そこにあるのが<空>の本質であると。そういうような、なんとも言えない表現を、梶山さんはしていますね。


言葉を超えた世界なので、明晰な分析的な言葉による解説はしがたいけれども、それは確かに<あるもの>である。空とは、何も無い、空っぽ、という意味ではなく、瞑想体験によって掴める、感じ取れる<実相>としての実在である。そういうニュアンスでしょうか。


これは、肉体や物質の奥にある、霊的な実相、霊的実在、仏性や神の光としての実在、などと考えれば、なんとなくイメージが掴めるでしょうか。
 

そういう神秘主義的な体験は、ものを区別する立場、分別の立場というものと裏腹な、まったく片方を否定しなければならないようなものということになるんです。


 
わたし自身、ものごとを分析的に考える傾向が強いのですが、分別知ではない、分別にこだわりすぎるなかれ、というインスピレーションというか指導を何度もされているので、頭脳的なる理解の限界を知れ、ということだと思います。


霊的真相はそうではない。もっと奥にあるものだ。魂で掴み感じ取れと、そう言われているように思ったものですが。


 
ナーガールジュナの場合、いつでも片方に神秘主義があって、それと対立する区別の哲学があって、この後の方の区別の立場を論理的に、合理的に否定することによって神秘主義を指示する、そういう区別の哲学、あるいは分別の立場というものを否定していくことによって、神秘的な立場が浮き上がってくるような形なんです。


 
とはいっても、仏教的なる中道というのはスゴイもので、完全否定するわけではない。

 


分別知ではない、とは言っても、分別知が不要、というわけではないのが、中道のスゴイところです。


片方では、そうした分別を超えた<神秘主義>を解しつつ、その反面では、やはり<区別の哲学><分別知>をも踏まえて、論理的思考や合理性も捨ててはならない。


神秘と合理主義の融合、統合ですね。ここに、龍樹の<空の思想>の真骨頂があると、梶山氏は述べているわけです。


これは、霊的なる視点と、この世的なる視点を、双方踏まえて、真実を見いだせという、仏教的なる観点そのものであることが、よくわかりますね。


 


この龍樹の思想は、般若経典の伝統を受け継ぎ、とあるので、文殊菩薩の教えの流れを汲んでいる。


しかして、神秘と合理主義の融合たる<空>の考え方は、のちに中国で、天台大師智が唱えた<三諦円融>へと続いていく思想であることも、わかるでしょう。


空、仮、中、の三諦が円融するところに、仏教の教える<真理>は在る!


 


霊言を読んでも、釈尊の教えは、インドに出た文殊菩薩から、龍樹へとバトンタッチされ、ふたたび中国に出た天台智に受け継がれたと、そういう説明があったかと思いますが、


あの世とこの世を貫く真理ですね。双方を踏まえた世界の真実。これを述べているのが<仏教の真髄>なのだということ。


 


天台智へシフトする以前には、中観に対する、一部アンチテーゼのような形で、唯識思想というのが現れますが、これもまた、中観の思想を完全否定するものではなくて、中観の不十分なところを再検証しつつ、唯識という立ち場で仏教を説いた、一つの流れですね。


 


仏教思想の発展というのは、かようにして、中道であり、それ以前の教えを内包しつつ、さらにそれを弁証法的に発展させていった、という流れがあるように思います。


 


 … つづく。


 


 




* アメブロの新エディタで書いた記事をseesaaに転写すると、タグの関係でか、文章のあいだが上のように、だいぶ間が開いてしまったりします。読みにくいかと思いますが、ご容赦あれ。
<(_ _)>


('-^*)/ブログ村ランキング参加中です!応援クリックお願いしまぁす。
もし読んで面白かった 記事があったら、ポチッと応援よろしね!

マウスの中スクロールボタンでポチれば、ページ切り替わらずポチることが出来ます 。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村


ブログパーツ
【関連する記事】
posted by ガンレオ at 17:50 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。