2016年09月11日

【レオ/追記あり】仏教の王道は、倦まずたゆまず地道に努力精進を続け、耐え忍びの中で徳の完成への道を歩むこと

初投稿日時 2016-08-28 16:10:20

 … 再掲です … 大量に投稿しすぎてるためか、労作があっという間に消えてしまうので、再掲〜。


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堕天使が地獄に堕ちた原因は、嫉妬心でした。で、嫉妬の心は当然、地獄の心なんですが、
自分が偉大になりたいという野心と、それが満たされないがゆえに、現に偉大である存在に対して嫉妬や憎しみの炎を燃え上がらせるわけですが、

基本こうした嫉妬の心の大本には、やはり自己中心、自己愛、エゴイズムの心があるのでしょうね。
本来はもっと評価されたい自分であるのに、十分な評価が得られない。得られないとどうなるかというと、一般的には、自分より評価を得ている人に嫉妬したり、恨んだり、そういったマイナスの思いを持ったりするし。

あるいはまた、評価の得方に関しても、手っ取り早く高い評価を得られないかといって、なんとか手軽な方法で一足飛びに悟れないか、とか、奇を衒った行動を取って注目を浴びようとか、こういった、正統でない方法に頼ろうとしたりする人もいますね。

本当は、王道というのは常に、地道で淡々とした道のりを、生まずたゆまず歩み続けることでしか、歩き通すことは出来ないはずだし、これが学問に王道なし、という言葉にもなるわけだし、
総裁先生も自分自身、非常に地味に、地道な勉強をただひたすら淡々とやってきた、と学生時代のことを振り返って話されてましたが、


本物というのは、一歩一歩着実に、静かに淡々と、努力精進を積み重ねていった結果、いぶし銀のような光を発するようになってゆく人のことであって、

手っ取り早い道で、早く脚光を浴びたい、とか、こういった結果主義的な考え方は取らないんですよね。
天狗や仙人系統は得てしてこういった結果主義に走りやすく、いかにして手早く結果を出すかを考えて、自身が脚光を浴びようと変わった発言や行動をしたがりますが、
こういう生き方は、魂の底力が鍛えられていないので、いざとなると簡単に転んだりするのだろうと思うんですよね。

氷山は水面下の部分が大きいから安定するといい、この水面下の蓄積の部分が大事であって、これが陰徳というか、他の人には見えない努力精進の部分なのに、これを嫌って地道な学問を怠けて、手っ取り早く悟りたいとか、そういう邪道に走る人がときどきいるわけですが、これはまさに邪道ですね。

地道な淡々とした努力の蓄積を嫌がる、やらない。やらないから、精神的な足腰が弱いのであって、そうした状態で苦難に遭えば、あっという間に転がるわけでしょう。

そしてまた、考え方が非常に結果主義的で、動機よりも結果がすぐに出たかどうかばかり考えて、結果主義な方向へ考えが引っ張られる傾向がある。
良い結果が出ればいいが、ダメなら、あーこりゃダメだといって簡単にあきらめる。忍耐力がなく、うまずたゆまず努力し続けるという、時間を待つという視点が基本的に欠けているんですよね。


先ごろ、舎利弗の霊言を再読していたんですが、
さすが智慧第一の舎利弗です。
仏道から離れ批判する人間の過ちが奈辺にあるのかを指摘し、仏教の本道はどのようなものであるのか、明白に語ってくれています。



だから、「持続して、努力・精進していく」という、仏陀がずっと説き続けておられる教えをまったく学んでいないですね。
仏教の基礎は、実は、精進であり、耐え忍びなんですよ。徳の完成は、最後は耐え忍びにあります。コツコツ努力して耐え忍ぶなかに、真実のものが光っていき、徳が完成してくるのです。仏陀が説いておられたことは、そういうことなのです。
仏陀は、もちろん、超能力的なことや神秘的なことも説かれましたが、基本的には、人間としての完成を説いておられました。「人間として努力し、人格を磨き、指導者になる」という、そのような王道をきちんと説いておられたのです。




うまずたゆまず努力し続ける中で、時間を耐える、忍耐の心を持ちつつ永遠の大道を歩んでいかんとの心構え。これが真の仏道修行者の立場であるのだと、仏陀は教えてくださっていたのだと。
超能力を獲得して一躍スーパーマンになって解脱すべし、と教えたわけではないのだということ。
あくまでも、人間完成の道を教えたのであり、その途上で霊的な体験や神秘体験をすることがあろうとも、基本的な教えはやはり、自助努力の精神と、忍辱の心、精進の心なんですよね。
ここを忘れて、手っ取り早い頓悟的な悟りを求めたり、超能力を求めるような態度は、仏教にあらず、ということでしょう。

そしてまた、信仰は100パーセントを要求する、ということの意味も、舎利弗は教えてくれています。



すでに、『仏陀再誕』という本が出ているはずです。そのなかに、「信仰は百パーセントを要求する」ということが述べられているはずですよ。
信仰には百パーセントが要求されるのに、「自分に都合のよい教えだけをつまみ食いし、都合の悪い教えは外す」というようなことをしていると、そのうち、自分のほうが上に立っているような気になってくるのです。
そして、自分のほうが上になっているような気持ちでいると、その心の隙に悪魔が入ってきて、乗っ取られていくのです。
そういうシステムがあるので、「百パーセントを要求する」と言っているわけですね。


私は、やはり、信仰は百パーセントを要求すると思います。新聞やテレビ、週刊誌等が、その時代の価値観でいろんなことを言ったとしても、あるいは、法律から見て間違っているように見えたとしても、宗教は、それらよりも、もっと先んじていることが多いし、 … 




宗教が世の中を変えんとするときに、既成のこの世的な価値観や、さまざまな勢力とのぶつかり合いが生じることがあるのだけれども、
価値観の革命を行なおうとする力と、既存の体制を現状維持したいという力とが出会う以上、そこに軋轢と対立が生じるのは当然のこと。

ルターが、バチカンの考えに対立して立った時にも、このような旧勢力と新勢力の考えのぶつかり合いがあったわけでしょう。

その時に、この世的な常識や、今までの既成概念を優先し、改革精神を見失ったのなら、それは凡庸なる生き方を選んだということであって、革命精神を持つ者にあらず、ということになるでしょう。
信仰は100%を要求するというのは、どのような障壁に出会ったとしても、信仰を揺らすことなく、付いていくことだと私は思います。

仏教的精神の王道を、淡々と歩んでいきたいものですね。そこに自分の生き筋を見出すのが本道ではないかと、いまの私は思います。

舎利弗の真実に迫る 「釈迦の右腕」と呼ばれた仏弟子の信仰心 公開霊言シリーズ -
舎利弗の真実に迫る 「釈迦の右腕」と呼ばれた仏弟子の信仰心 公開霊言シリーズ -


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2016-09-11 追記


三宝帰依は、仏・法・僧の三宝に帰依しますということで、三帰信者の基本です。

修行者の身でありながら平然として、僧(サンガ)批判をするようでは、帰依の一端が崩れており問題外ですからね。提案があるのなら、まずは自分が実践しお手本を見せてから、改革案を提示しサンガをいっそう素晴らしいものにするべく、自ら身を投じて努力するのが筋であって、それをせずに不平不満ばかり言ってサンガ批判をするところに正義はないし、三宝帰依の精神にそもそも反しているでしょう。サンガより自分を上に置くくらいに思いあがっているのでしょう。

それからサンガ批判を平気でするようになると、次は、法の自分勝手な解釈に走るようになる危険性が高まりますからね。
自分にとって都合がいいところだけつまみ食いをし、都合が悪いところは興味を持たない、無関心、無視の態度に出たり、あるいは、この教えは方便だから裏を読むと本当の意味はこうだ、などといって勝手な解釈論を吹聴したりする。
オーソドックスな理解を最初から放棄して、自分に都合よく、勝手なひとりよがり解釈をするようであっては、法帰依の精神に反します。
自己中心の度が過ぎて、法の解釈を自分勝手に行っていることは、法帰依ではないということに気づいていない。法よりも、自分の判断を上に置いている。それくらい既に思いあがっているのではないでしょうか。

この時点で、三宝帰依の、法帰依、僧帰依の二つがすでに怪しいですが、当人はまだ、仏をわたしは信じていますといって、仏帰依は出来ている<つもり>でいるのでしょうが、
法を自分勝手な解釈をして平気な顔をしている時点で、法を敬う気持ちが軽いと言えるし、そうなってくると、仏ヘの帰依の方も、何かのキッカケでコロッと変わって、尊敬の念を失ったらもうアウトでしょう。

法の勝手な解釈、僧団批判を平気でするようでは、すでに仏陀の直弟子の言うことですら軽んじている段階でしょう。それでもまだ仏陀の言にだけは従うと言うでしょうけれど、実はこの時点ですでに自分自身を仏陀に次ぐナンバー2か何かのように思いあがっているのではないでしょうかね。だから平然と、法の勝手な解釈をし、サンガを批判して憚らないでいられる。傲慢さの表れです。
そこまで己惚れているから、勝手な法解釈をして平気でいるわけで、こういう手合いが、ちょっとしたきっかけで、その仏すら疑ったら、完全にアウト。三宝帰依の三宝すべてを否定し、軽んじて、退転するしかなくなる。
三宝帰依を否定する者は、仏・法・僧の、僧からまずは拒否し始め、次に法を軽んじ、最後には仏への帰依を捨てる。この逆側からの順番で否定してゆくのが常かと思います。

こうなるのも基本は自己責任ですからね。自分自身に驕り高ぶり、三宝への帰依自体が、そもそも傲慢な態度で行われていたのではないでしょうか。
自分を仏陀に次ぐナンバー2であるかのように思い上がり、最後にはついに仏陀そのものをも自分の下に置き、自分がナンバー1の座に座ろうとした人間は誰であったか。現代の提婆達多にならないように、傲慢の心は捨てないといけません。

かような歴史の教訓からしても、三宝帰依の精神を、どれだけ敬虔な気持ちでもって受け止め、自分自身をつねに謙虚にして、ひそやかなる立場に置いて、仏に正しく帰依し、法を心から尊重し、そしてまた僧団・サンガの活動に敬意を表して、決して自己中心の立場から偉そうな批判などはしないこと。
サンガを変えたいのなら、自分個人をまず光輝かせ、その光でもってサンガをさらに素晴らしいものへと率いる人間に、自らがなればよいのであって、自分を棚にあげてサンガ批判をするのでは問題外ですね。

幸福の科学の三帰信者であるということは、それだけの自覚があって<当然>だと私は思う者です。





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posted by ガンレオ at 17:02 | Comment(2) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
確か、以前の書籍であったはず。

「仏」「法」「僧」は、一体であると。

ならば、「僧」帰依できないものに、

そのほかの帰依はできないことになる。

事実、アンチになっていくパターンの大方が、

「僧」帰依が出来ていなかった。
Posted by 英 at 2016年09月11日 18:35
自分を上に置いたら、学ぶ態勢にすらなってないわけで、だから帰依じゃないんだよね。その時点で。

自分はまだまだ未熟で学ぶべきことが山ほどある。
そうした自己認識から初めて謙虚なる帰依の気持ちが生まれるんだと思う。
面白そうな話があったら聞いてみよう、とか、参考になることがあったらそこだけ聞いてやろう、なんて傲慢な態度では話にならない、帰依じゃないってこと。


Posted by ガンレオ at 2016年09月11日 18:57
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