2016年04月22日

【レオ】インターネットの利用者はどれくらい?

LEO幸福人生のすすめ、過去記事より転載
http://ameblo.jp/space-people/entry-11965909690.html

最近は、ご法話でも霊言でも、知と情報に関しての項で、インターネットという単語が見受けられることが多くなりました。

時代の趨勢としては、電子情報が増えてきているのは間違いないと思えるし、
とはいっても、利便性を賛美するばかりでは危険であって、弊害の方もよくよく理解しておかないといけない

ブログを書いているものですから、わたし個人はインターネット肯定派ではあるのですが、
自分が利用しているからといって、日本人のみんながみんな、インターネットを使っているわけではないのは、むろん承知しております。

実際、実家に帰ると、パソコンすらありませんし、
両親の前で、スマホで調べ物をして、知りたいことを瞬時に検索してみせたり、商品の購入を即座に行なって、翌日、品が届いたりすると、

へぇー、インターネットってのはスゴイんだねー、何でも出来るんだなぁ。と親は感心してくれるものの、
では、自分たちでパソコンを買って、インターネットをやるか、スマホを使うか、といったら、そういう気はさらさら無いわけです。

冗談半分に、今からパソコンなんてやって覚えられるかね?とよく訊かれるんだけれども、
わたしは決まって、

いや、使い方を覚えるだけでも面倒だし、要らないと思うよ。
便利は便利だけど、コンピュータ使ってどうこうなんて、やり始めるのは労多くて益少なしだし。

そういってよく、パソコンやインターネット依存の危険性を、

日日利用している私と、持ってもいない父とで、会うたびに話し合ったりしています(笑)。


同世代の知り合いの信者さんでも、パソコンは使ってない、という方がいらっしゃるし、

自分たちがパソコンやインターネットを利用していると、
ほとんど皆が利用しているかのような錯覚に陥るけれども、実際はそんなことはない
ようですしね。

だとしたら、ネット情報といっても、それを見たり聞いたりしている人は、
常時パソコンを利用している人だけのこと
で、それもパーセンテージでいったら、果たしてどの程度のものなのか。

ふつうに考えたら、年配の方は、やはり利用している方は少ないだろうと推定されますし、

仕事や趣味でパソコンに触れずに済んでいる人、忙しくてそんなのいじってる暇がない、という人は、インターネットには依存していない情報世界の中で、学んでらっしゃるようにも思います。

そういう意味でも、むろんインターネット万能ではないし、完全にインターネット社会になったわけでもなく、
このインターネットというツールは、果たして文明の利器として、有用なものになりえるのか、それともむしろ、有害な面のが多い、という顛末になってしまうのか。
まだ先が読めないというか、判定がどちらに転ぶかわからないもの、なのかもしれません。

額田女王さまがおっしゃるように、言葉の大切さ、という点から考えるならば、
たしかに、手書きの文字をつづりながら、その言葉に思いを乗せて詠っていた時代の、言葉の重みというものに比べたら、
手軽にメールでパッパパッパと大量に文章が送れてしまう現代は、言葉そのものの尊さを、忘れてしまいかねない、という問題があるようにも思います。

手書きで文章を書く、ということ。
明治維新の志士たちは、多くの手書きの文章を遺しておられますが、
現代の活動家は、手書きの文章を後世に残せるでしょうか。筆跡すら伝わらず、印刷された文面のみが遺るのだろうか。
手書きの文章には、印字された文字とは違って、書き手の魂が明確な刻印を残していて、心が込められている文のように確かに感じます。
コピーではない、オリジナルの肉筆の文章。

以前、仏教系の国宝展で、高僧たちの肉筆を見たことがあるのですが、
空海さんの達筆、日蓮さんの綺麗な楷書、親鸞さんの独特の書体、を見比べて、あまりに違う書体に、それぞれの方の個性の違いが顕現しているようにも思われて、感銘を受けつつ鑑賞した覚えがあります。

一方、今では、身内とのやりとりや、友人や会社仕事での連絡も、メールを使うことが当たり前のようになっていますし、
年賀状なども、すべて印字で済ませて、手書きの言葉がまったく無い、というものも多くなりましたよねー。
こういう在り方は、たしかに、作業の手間が省け便利になったようでありながら、実は大切なものを何か失っている姿なのかもしれない。
そんな風にも感じます。

とはいえ、一方では、情報通信というものは、高次元世界における通信の天使との関連なども実はあって … ということも聴いたりすると、

はてさて、このインターネット社会というのは、来るべくして到来した、未来社会での必須ツールなのか。
それとも、ツールとしての利用価値はありながらも、どこまでを利用してよく、どの部分は依存してはいけないものなのか。
そういったものを、よくよく考えて、携わっていかないといけないのかな、とも考えられます。

電子機器に使われるのではなく、電子機器に振り回され、大切なものを見失ってしまうのではなく、

もっとも無駄のない、最小限度の利用だけに特化して、人間の方が主体性を持って、これを道具として使いこなす。

そのためのベストの在り方、ネットとの理想的な付き合い方、離れ方、などを模索しつつ、

新たなスタンスが発見できたらなー、などと思います。

完全否定でもなく、完全肯定でもなく。


テレビやラジオの普及と、同じようなところがあるのかもしれませんね。

一日中テレビづけでは、アホになってしまう、とはよく言われることです。

インターネットもそうでしょうね。
雑情報に振り回されるばかりで、結局、大切な情報は殆ど得るところがなかった、では本末顛倒になってしまう。

基本の学びは、昔ながらの、コツコツした地道な勉強と、他の人との交流、情報交換のなかでこそ培われ、

そうした基本生活の一部分に、こうしたネット利用が少し共存している。
そのような抑え気味の使い方をしていくのが、賢い在り方なのかもわかりません。




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posted by ガンレオ at 11:59 | Comment(2) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
まあ、TVが、普及した時でも、
一億総白地化なんて言われたけどね。
あ、やば、年がばれる(笑)
PCを初め今はスマホだからね。
問題は、如何に使うかだろうなあ。
しかも、目的意識をもって。
そうしないと、使ってるつもりで、
使われてることもあるから。

なんでもかんでも、スマホやPCがないと何もできないなんか思っていると、まさしく、
奴隷状態だろうなあ。

Posted by 英 at 2016年04月22日 18:31
父が、おんなじこと言ってた(笑)。

なんか評論家が言った言葉だそうで、まさにその通りだよ、言ってましたぜ。

ひでさんは、父親世代???なわけないかー(笑)。

アイテムはそう、使い方次第でしょう。
完全否定したら、原発反対者と同じようなもんでしょう。
正しく使えば有効なわけだし、

要は、
酒は飲んでも飲まれるな。

じゃなかった。

機械に振り回されるのではなくて、
人間側が主体的にしっかりと意志をもって、
機械を使いこなして自分を見失わなければいいだけのことでしょう。

その使い分けが出来ないと困るから、問題点も指摘しつつ、よりよい使い方を提言していくことが、これからは大事なんではないか。

完全否定論は私は採らないし、
もっともベストの使い方を模索しちゃろう、ってのが、レオスタンスね、いまのところ。
でなきゃ、ブログなんてやるわけないもん(笑)。
Posted by レオ at 2016年04月22日 19:51
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