2016年04月06日

【レオ】カントの霊言とインターネット

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カントの霊言は今までに何度も収録されているけれども、

この大哲学者カントは、インターネットについて、たびたび言及しています。

あれだけ徹底的に思考を駆使したカントからしたら、ちょっとネットにつないだら、簡単に最新情報にアクセスできて、はい情報摂取おわり、みたいなあり方は、頭脳の訓練にもならないと見えているのではないだろうか。

霊言の発言をみても、しばしばそう感じると同時に、わたしはカントのこうしたインターネットへの警告・警鐘は、真摯に受け止めてしかるべき、重要な問題だと感じるものです。


たとえば、



インターネット、マンガ、アニメ、携帯電話など、現代で流行っているものは、みな、確かに面白いし、使いでもあるだろうと思うけれども、ある意味で、非常に時間を奪うものであることは間違いない。間違いなく、時間を奪っていくものであるわけだ。  
インターネットで、「ネットサーフィン」とか言って、情報を取るのは面白いかもしれないけれども、ある意味では、ものすごく膨大な時間を無駄にしている。

<「霊性と教育 公開霊言 ルソー・カント・シュタイナー」より>



という発言があります。

これなども、ほとんどの利用者が、ネットにアクセスして散策することを、情報の摂取であるとか、探究をしているかのように錯覚しているけれども、実はそれは、本来の情報アクセスにすらなっていない、単なる時間の無駄遣いでしかないのかもしれません。

ただ、あちこちを漫然とクリックして、いろんなニュースなり、誰かの発言なりに目を通したとしても、そしてそれが面白い内容であったとしても、

果たしてそれは、自分が主体的に動いての、テーマ探しであったのだろうか。

それとも単に、目につくキーワードや、興味深い題名に魅かれて、あっちこっちへ飛んで見ているだけであって、いわば情報の方に振り回されてしまった時間ではなかろうか。

そんな危惧があるわけなんですよね。

よく、テレビが出来てから、人間はバカになったと言われるけれども、

ボーっと何となくテレビを見ながら、チャンネルを回して延々と時間をつぶしていると、夜の時間を何時間もあっという間に、テレビだけで過ごしてしまっていたりする。
そんなことがあるわけですよね。
けれども、そうして過ごされた時間は、自分で計画だてて、よしこれに関して勉強するぞ、とか、このことに今晩は時間を費やそう、と考えて、主体的に生きた時間にはなっていない。

いわば、番組制作者が企画した、面白そうな番組を、次々と追いかけていって、気が付いたら時間が何時間も過ぎていた。
番組制作者の面白企画に、乗せられて動いていただけで、自分としての、主体的な時間の組み立てによって生きた時間ではなかった。
そんなことでしかないことが多い、ということでしょう。

こうした時間をたまに過ごすだけならともかくとして、日常的にそうした習慣スタイルが身についてしまったら、テレビに振り回されて夜を過ごしているだけの人間になってしまって、結局それで何年もの膨大な時間を、無駄にしているだけ、なんてことにもなりかねないわけです。

自分の側の主体的なる意志、目的性、時間の使い方、というのが見失われてしまう。

流されるメディアを追っかけているだけの行き方は、こうした危うさがある、ということではないでしょうか。

カント霊が続けて言っています。



そのように、インターネットでネットサーフィンをして、情報を集めるようなことをしていたら、カント哲学など、絶対、読めないんだよ。読めるわけがない。そういうことをしている人が、この退屈なカント哲学を読めるわけがないよ。  
カント哲学の場合、「気がつけば、一時間たっていて、二ページしか読んでいない」ということがあるわけだね。

<「霊性と教育 公開霊言 ルソー・カント・シュタイナー」より>



難解なカント哲学は、今となっては「不要」だから、絶版にしたまえ、と別の個所では述べていたカントですが、

カントが考察した、人間の思考プロセスの課程というのは、一度は本格的に取り組んでもよい、重要なテーマだとわたしは思います。

認識とは何か、なにゆえに人間は、認識というのを行なうことが出来るのか。どういう仕組みになっているのか。思考と、この世界の関係とは?

といったことを、真剣に考える契機になる、そういう古典名著でもあるわけです。

実際、わたしも「純粋理性批判」を初めて読んだ時は、たしかに、1時間かかっても、2ページくらいしか読めませんでした。
というか、最初のうちは、カントが使用している用語の意味を、よく理解しておかないと先に進めないから、ノートに図解して自分の理解を確認してから、その先のページを読む、なんていう風に読んでいたからですね。

でも、こうした読書によって鍛えられる部分として、忍耐力、根気、集中力、一貫して一つのテーマに取り組んでその意味を読解する、探究心。そういった様々な精神修養に、実はつながっているところがあると、いま振り返ると思うのです。

これは、ネットのウィキペディアで、カント、純粋理性批判、の項を読んだって、身につくものではないし、そんな読むのに数分で済むような情報摂取では、鍛錬というレベルの訓練にもならないのではないかと思います。

やはり、膨大な量のページを、苦心して読む、読み続ける、そうした努力をする時代は、どうしても経ておく必要があるのではないか。
したがって、若いころから、ネットの短い文章ばかり読んで、パッパパッパと次々と短文を追いかけるだけでは、ハイパーリンク頭脳は出来上がっても、思考を駆使して徹底的に考える頭脳はできあがらないと思います。

最新の霊言でも、カント霊はつぎのようなことを述べていました。



いろいろな考え方を、万人が発信できるわけです。私もよく分かりませんが、今、インターネットとかいう世界では、各人が「出版社の機能」を持っているような、あるいは「言論人の機能」を持っているような、そういう情報発信ができるようになってますよね。
私たちの時代から見れば、一般人の言論などというのは、ほとんど無価値に近い、隣近所での話にしかすぎないような内容です。
そういうものが堂々とほかの言論と一緒になって混ざってくるなかで、真偽を見極めるというのは、とても難しいことではないかと思います。

<「公開霊言 カントなら現代の難問にどんな答えをだすのか?」より>



マスコミや言論機関は、インターネットの出現と普及が脅威となっていると、危機感を抱いているし、ネットでニュースを見られるからといって、新聞や雑誌などの紙媒体の売り上げは落ち、こうしたメディア各社が経営危機に見舞われるようになっているところもあるでしょうが。

一方では、情報発信のレベルでいったら、一個人が意見を発信できるのが、いまのインターネットの面白いところであるけれども、果たして、その一個人の意見というのに、いったいどれほどの意見としての値打ちがあるのか。
と、カントは問うているわけです。

発信するのはいいけれども、それに中身はあるわけ? ほかの人が読むだけの値打ちがあるわけ?と言っているわけですよね。
それは、しごくもっともの正論であって、まさにその通りでございます。

ブログをやってる個人のわたしとしても、果たして、お前がブログで書いているその内容は、他の人が読むだけの値打ちのある内容なのか?
他の人の時間を、無駄に使わせているだけだとしたら、単なる駄文の垂れ流しであって、無意味な井戸端会議のようなことでしかない。そんなことでしかないのかもしれません。

そうした問題が、このインターネットという世界に散らばっている、膨大な量の情報、いな、情報というより、単なるデータの散乱するさま全てに、言える状態なのではないかと思うのです。

現代は、大きな本屋さんに行ったとしても、読む値打ちのある重要な本と、読む必要性もない大量の本が、玉石混交の状態にあって、
人々はいったい、どれを手に取ったらいいのかが、わからないでいる。
宝のような名著を手にすることが出来たら成功だけれども、どうでもいい本ばかりを手にしていたのでは、時間を無駄にしているだけ。

多くの本を読んでいたとしても、良き本をたくさん読んでいる人と、愚書を大量に読んだだけの人では、まったくその結果は違ってしまっていることでしょう。

ところが、インターネットにおいては、それがさらにスケールアップして、拡大化した状態なんだろうと思うんですよね。
貴重な情報にあたる確率と、有象無象のどうでもいいデータに当たる確率との比率は、書店や図書館の比ではないくらいに、圧倒的に、有用な情報にあたる比率は低い。

良い情報に出会う確率がいっそう低いゆえに、そこで重要となるのは、情報の良し悪しを見極める、アクセス者の選択能力次第、ということになるでしょうね。おそらくは。というか、現実に、そうなのでしょう。

カントが言っているように、一般人の言論までもが混在した、膨大な量の情報の中から、真偽を見極める、本当に価値のある内容のモノを見出す、というのは、
そのアクセス者の側にも、相当高度な判断力や、見極め能力が無いと、選択することすら出来ないでしょうから。

だから、逆説的になりますが、本屋さんや図書館通いをして、そのなかで良い本を探り出すようなアンテナ能力が無い人が、
ネットの世界にいきなり飛び込んで、素晴らしい情報収集屋になれるかといったら、そんなに甘くはない、ということかと思います。それだけの、情報精査能力があるかどうか。という問題ですね。
果たしてそうした能力を、その人はどこかで鍛えてきているだろうか。その人とは言わず、自分はどうだろうか、貴方はどうだろうか。

そういう問題にぶち当たるのではないかと思います。

むろん一方では、インターネットの普及は時代の趨勢だから、完全否定は出来ないだろうし、すでに存在する以上は、それをいかに有効利用しうるか、というのが今後の課題なのかなーとも、わたしは考えます。

大川隆法総裁先生は、



百科事典が変化したものとして、もちろん、電子版の百科事典もあれば、グーグル等のインターネット検索もあって、あのへんもみな同じ系統でしょうけれども、こうした資料物から引いてきたもののみで書いたものは、実は面白くないんですよ。個性がないので面白くないんですね。

<「職業としての宗教家」より>



と、おっしゃっています。

電子系の百科事典や、Wikipediaとかで調べて、それを元に何かを書いている人がいたとしても、それらは誰でもがすぐにアクセスできる、出典元があまりに一般的でありふれたものだから、それを元に書かれていても、その文章には深みがない。だから面白くない、ということですよね。
個性がないので面白くない、とも指摘されておられます。

やはり人間は、個性ある魂ですから、何かを語るにも、その人ならではの個性、オリジナリティーの発現がないと、読んでいる側も面白くないですよね。
わたしだって、読む側の立場としたら、この人はいったい、どんな意見を持っているのだろうか、どんな元ネタを勉強して、その意見を述べているのだろうか、ということには関心がありますが。
月並みな情報を元に、月並みなありきたりの発言でしかないものは、いちいち読んでも時間の無駄、面白くない、としかやはり感じませんから。
総裁先生が、こうしたハイテクを中心には置かずに、昔ながらのローテクといったら何ですが、しっかりとした著者が書き上げた、一冊の本を次々と読むことを、教養の基礎に据えているという点を、わたしたち弟子は今こそもう一度、よく考え直してみないといけないのかもしれません。


ま、わたし個人としては、ネットにおいても、有益な情報の発信、意見の発信はありえる。たとえ無名の個人であっても、中身のある言論を語ることは可能ではないか。と信じて、

今後もブログを続ける所存ではありますけどね(笑)。

総裁先生および、高級諸神霊の方々の、インターネットに対しての注意点、問題提起の部分は、真剣に拝聴して、その意を汲んで、生きていくべきだと思っています。


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posted by ガンレオ at 02:50 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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