2017年04月16日

【レオ】信仰は、独りよがりであってはいけない。だから他の人の信仰からも学びましょう

LEO幸福人生のすすめ、より転載 (2017-03-20 の記事)
http://ameblo.jp/space-people/entry-12258060095.html



信仰とは、人が人生において出会う目覚めのうち、もっとも大切なものだと、いまの私は思います。

深い挫折や苦しみの中で、人はそれまで、関心も持たないで生きていた<神さま>へ。初めて目を向けることがある。
無神論や無宗教が当たり前のようになってしまっている、いまの日本では、信仰に目覚めるというのは、それほど難しいことになってしまっている。

自分の力では、自分を救うことが出来ず、
家族や、友人・知人・先輩に答えを求めても、わからない。

神さまに教えてもらうしかない。救ってもらうしかない。
そこまで行かないと、心が神さまの方を向かないのは悲しいことだけれど、
その恩知らずの愚かな人間であっても、神さまは待っていてくれるんですよね。
そして、たしかに、魂の救いを与えてくれる大いなる存在だと、わたしは思います。

神さまに向かって、答えを求めるとき、救いを求めるとき、祈るとき … 、

人は基本的に言って、独りだと思います。
自分ひとりで、神さまと向き合い、信仰とは何か、祈りとは何か。自分はこれからどうしたらいいのか、その答えを求めるもの。
自問自答のようでありながらも、そこにはさまざまな気づきがあったり、深い苦悩もあったり、悩みや葛藤、深い思索、さまざまな経験を経て、

人は、自分と神さまの関係を模索する。

一生、神さまのもとにあって、神さまを信じて生きていこう、と決意する者あり。

一時のみ、神の救いを求めたものの、悩みが解決したら、喉元過ぎれば熱さ忘れるが如く、
ふたたび、神さまとは無縁の人生を生きてしまう人もあり。

一度は信じた神さまを、みずから捨てて、神などやはり存在しないと、無神論に戻る人あり。

いろんな人がいるのでしょうが、わたしはそこで、ちょっと待てよ、とやはり言いたいと思うのです。

キリスト教にしても、仏教にしても、イスラム教にしても、世界の人たちがこれらの教えを信じてきた期間は1500年から2500年 … 。そういった長い歳月のあいだ、多くの人たちから、尊い教えだと信じて敬われ、いま現在も世界中に数億から数十億の信者をもつ世界宗教を見て … 

その教えの真実を判断するのに、わずか1冊や2冊の本を読んだり、自分の個人的な思惑や体験のみで、一蹴してしまっていいのだろうか?と思うんですよね。

テーマとしては、最大、最重要の事柄が、この神と自分の関係、信仰という世界の話だと思うのですが、
そのことの意義や価値を真に知るためには、

単に、自分一個の主観的な思いなしや、感情的なる判断で、結論を出していいのだろうか。
自分はそんなに賢い人間だったろうか。
自分の人生観は自分で決めるといっても、世の中には、賢者と称えられている数多くの偉人がいたはずではないか。そういう人たちの意見や声を、もっとよく聞いてから、よくよく判断して結論づけた方がいいのではないだろうか。

自分の小ささを知り、謙虚となって、傲慢さを去り、
過去の偉人や、現在の智慧ある人の意見を、もっと虚心坦懐になって聞いてみてもいいのではないだろうか。わたしは、そう思うのです。

キリスト教の素晴らしさを知るために、

聖書を手にとって、わずか数ページを読むだけで、投げ出してしまった人は、なんと勿体ないことをしているだろうか。

聖書を読むだけでなく、アウグスチヌスやトマス・アクィナスやベルナルドの思索に触れてみたら、そこには何と深い人生への洞察と、魂への探究があるだろうか、と思わずにはいられない。

2つ前の記事で書いた、三浦綾子さんのキリスト教エッセイは、幸福の科学の信者であっても、いまだ到達しえていない、深い宗教的な悟りの言葉が、無数に煌めいている。

教えを初めて読むということは、まだその教えを知ったことにはなっていない。
真理は体得しないと意味がない。
特に、心の教えは、自分の魂によくよく深く熏習させて、みずからの魂でもって体得しないと、わかったことにはならない。
最強最高最大の教えを、ただ目で読んだことがあったとしても、それを本当に知った人と、目では見たが魂では掴んでいない人の差は、驚くほどに違っているものだと思う。

やはり、真に知らねば、と思う。それは、魂でもって掴む、ということだ。

そのためには、自分一個の、ひとりよがりな信仰体験だけでは、やはりそう簡単に掴めるものではないので、他の多くの先人たちや、信仰をともにする法友たちの体験なども、謙虚になってよく聞き、よく学び、みずからの今後の人生の指針とする。そういった謙虚さが、やはり必要なのではないかと思うのです。

独りよがりの信仰問答に陥って、疑問を呈して、退転したりしないように。
退転の際には、その心、かならずや驕りの気持ちがあるはず。他の人の体験話に素直に耳を傾ける気持ちなく、自分の主観をあまりにも重視し、感情的に結論を決めつけていたりするものでしょう。要注意ですね。




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posted by ガンレオ at 12:21 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする