2017年04月10日

【レオ】人から感謝されなくとも、善行を行なうことの意味とは? 〜アラン・カルデックが受けた霊言より〜

アラン・カルデックの本を読み返していたら、ひじょうに含蓄の深い文章に遭遇したので、紹介・解説してみたいと思います。


スピリティズムによる福音 -
スピリティズムによる福音 -

該当文章はそれなりに長い文脈の中で語られているので、文章の順を入れ替えたりしつつの、一部抜粋による、わたしなりの解説になりますが、



不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。あなたたちは他人のために働くのではなく、自分たちのために働いてばかりいます。




わたしたち人間は、現在の、自分と他人の関係しか、目に入っていない。という指摘があります。
自分が誰かに、何らかの善行を行なった時、その瞬間の、相手の反応しか見ておらず、あるいは自分自身、その前後の自分の気持ちばかり見ている。
どういうことかといったら、お互いの過去世からの関係や、未来世の関係までは、視野に入っていない。という意味であったり、
あるいは、その相手の死後の状態ですね。それから自分自身の死後の心の状態。そういうところまでは見えていない。
善行の結果、どのような未来が訪れるのか。善行の意味、霊的意味を十分にはわかっていない、ということですね。

それゆえにこそ、お人好しは損をする、みたいな言葉にもなってしまって、感謝もされない、赤の他人への善行は虚しい。だとか、恩知らずに親切にする必要はない。などという考えにもなりがちになるわけですが、それは、善行の本当の意味、霊的な意味を知らない、この世的なる考え方ゆえの間違いですよと。
そういうことですね。

説明が長くてすみませんが(笑)、大事なところなので、念入りに言葉を重ねておきたくて、こんな風に述べているわけですが。



善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。
あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、恩恵を受けた者があなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。




たとえ、相手が感謝してくれなかったとしても、その善行に意味がないわけではない。感謝のあるなしは、問題ではない。
なぜなら、その善行を見ている神は、それを「よし」と見ておられるのだから。相手が感謝してくれなくても、いいではないか、というのが、まず一点。

これは、相手が理解してくれなくても、その善の霊的な意味は、神さまが知ってくださっている。神さまがよしと見てくださっているのであり、あなたの霊的な覚醒を、神さまは喜んでくださっているのだ。
ということでもありましょうけれど。
とはいえ、このことは、信仰心が深くなければ、当人の自覚もまた得られないものだから、真の意味で体得するのは難しいですね。

ボランティアの善行にも通じると思いますが、対価なくして、ボランティアの善行をどこまで行なえますか?

自分の貴重な時間を使って、たとえば、具体的に誰かから感謝されるのでもないような、そんなボランティア活動を行なう時。
神さまが観てくださっているから、喜んで、その善を行なうのです、という境地に、あなたは到達しているでしょうか?
それとも、そんなことに時間を使うのなら、わたしは自分の趣味に時間を使うわ、といって、ボランティアなどしませんよ、という道を選ぶのか。
そういうテーマにもなりますね。

感謝もされない善行を、あなたは行なえますか?
無報酬のボランティアを、あなたは行なうことが出来ますか?
続けられますか?

けれども、カルデックが受けた霊言には、次のような言葉もあります。



あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。  
一時的に忘れられた善行が、後になって善い実を結ばないと誰に言い切ることができるでしょうか。反対にそれは、時間をかけて発芽する種であるのだということを信じてください。




誰かに善行を行なったとしても、感謝されないなどということは、いくらでもありますね。
むしろ、感謝してくれる人の方が少なく、感謝してくれるような人は、人間が出来ている、稀有な人、立派な人、ということかもしれない。
大部分の人は、人から受けた恩はそれほど感じずに、当たり前と思って暮らしていたりして、
本当の意味で、たがいに感謝し合えるような暖かな人間関係というのは、この地上世界においては、まだまだ不十分にしか実現できていないかもしれない。

それでもなお、人は、他の人に善行を行なうべきである。

という、神の与えた命ですね。それは、何ゆえか?

あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。

忍耐力を試すため、とあります。
これは、忍耐力を鍛えるためである、という意味に取ることも可能でしょう。

感謝されなかったとしても、その善行には意味がある。霊的に価値あるものとして、神から嘉される行為である。
相手からは感謝されないかもしれない。それでも、その善行そのものに意義を見出しなさい。大切な価値あることだと信じなさい。神が観ていることを信じなさい。

そうした思いと理解でもって、淡々と、ただひたすらに、他の人に愛を与え、善を行ないなさい。
結果や報酬が得られかったとしても、行ないなさい。

善行は、得られる報酬や、結果主義者が求めるような、即効性のある結果や評価のために行なうべきものではない。
それは、その善行そのものに意味があるのだ、それ自体に喜びが伴い、愛そのものに価値があることを悟るため、であるのだ。

そんなような意味にも、解することが出来るのではないか。

忍耐力を試すため。

この世的なる結果や報酬のためではなくて、ただ、善そのもののために、愛そのもののために、善を成すこと。
それは言い換えると、相手のために尽くす行為と思いそのもののために、生きなさい、という悟りですね。これを掴みなさい、ということでしょう。

何らかの報酬や、相手からの感謝や、すぐさま神さまが頭をなでなでしてくれるような、そうしたものがすぐ得られるような世界だったら、
人は、そうした目的のために、善を成そうとするでしょう。
報酬のために、感謝されんがために、神さまからすぐ褒めてもらうために。

けれどもそれは、善そのもののための善とは違う心であるし、愛そのもののために行なう「与える愛」とも違う心になってしまいますね。

だから、すぐには結果は得られない。この世的なる結果は得られない。
それでもあなたは、その善を行なうことが出来ますか?行ない続けることが出来ますか?

何ゆえに?善そのものに、霊的意義を掴めますか?

それを続ける中で、あなたはどこまで真実を悟れますか?この世的な即席の結果や、報酬がなくても、善そのものの中に意味を掴み、善を生きる貴方となれるでしょうか?

そのためには、時を耐えるということ。忍耐の中を生きるということ。
あなたの忍耐力を鍛える、という課題をも同時に、あなたに与えることになるでしょう。

この世で、霊的なる修行をする、ということは、すぐに結果は出ない。その霊的なる意味も、にわかには理解できない。そうした世界での修業ですから、だからこそ、忍耐力を鍛えるという意味をも、魂修行の中に織り込むことが出来る。

善を行ない、愛を与えて生きることが出来るようになるまでに、同時に人は、忍耐の意味を学んでゆくことが出来る。



あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。




神さまが、人が善を行なっても、感謝されないことが多いような世界を創られたのは、そうした未熟な世界を放置せんがためにそうしているのではなくて、
善を行なう私たち人間の忍耐力を試すため、あるいは鍛えるため、そういった、深い深い意味があってのこと、なのでしょう。
だから神さまは、この地上世界を不幸のままに放置しているわけではないんですよね。
人が魂修行をするために、霊的なる魂修行を、より一層すすめるためにこそ、そうした世界の存在を、許しているのだということ。
感謝もしない未熟な人間たちを赦しているのは、それが魂修行の場であるからなのでしょう。

 … 





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posted by ガンレオ at 23:45 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】ほんとうに真理をわかっている人は … たとえ話が上手い、平易な言葉で価値ある内容を語れる、言葉・表現が詩的で美しい

@ たとえ話が上手い。
A 平易な言葉で説明することが出来る
B むろん、内容のあることを語っている
C 言葉・表現が詩的で美しい


などといった特徴があると、わたしは考えます。
他にもいろいろあると思いますが、パッといま浮かんだのが、このあたりですかね。

哲学などは、内容は難しいけれど、シュタイナーは例え話が上手いです。カントは例えが抽象的でわかりにくいので、シュタイナーの方が分があるでしょう。これは盟友のガンちゃんとも一致した意見ですけどね。
たとえ話が上手いということは、その概念を本当に深く理解しているということ。
だからこそ、身近で、誰にもわかるような具体例をあげて、たとえることが出来る。
偉大なる人は、たとえ話が上手な人が多いと思います。カントも座談の名手だから、きっと座談会などでは、わかりやすい話をしていたと思いますね。


それから、平易な言葉で語ることが出来る、ということ。これ、大事ですね。
専門用語や四字熟語などを多用すると、どうしても文章は抽象的で難しくなりますけど、それを子供でもわかるような、わかりやすい話にして、語ることが出来るかどうか。
総裁先生は、不成仏のヘビを成仏させるには、ヘビの怨みつらみを理解してあげる力が必要。そのためには、ヘビにもわかるような、平易な言葉で説得するだけの悟りの力が要るのだと、以前、教えてくれたことがありました。
誰にでもわかるような、平易な言葉を使って、奥深い内容を語ることが出来る。平易な言葉で語ること。


では、たとえ話が上手で、平易な言葉で語れれば、それでいいのかといったら、
下世話な話を、卑俗なたとえ話でしゃべりまくる人間が、真理を悟った人間と呼べるはずもありませんからね。
やはり、その語る内容そのものに、深い精神性がなければ、価値のある普遍の真理とは言えない。


そしてまた、真理はそれが奥深いものであるほど、言葉に語られるときに、うつくしい表現をおのずと求めるものでしょう。
救世主の言葉はみな美しい、詩的な表現に満ちていて、それでいてなお、精神的にきわめて深い内容を持つ、永遠の真理ですからね。
美しい言葉、うつくしい表現、詩的なる言葉。これらもまた、必須の条件のひとつではあるまいか。

真理にかなった内容は、言葉にした時にも、うつくしい言葉と表現を求め、それゆえ、たとえ話にして語っても、その内容は心に深く響く内容を持っている。そしてそれはまた、平易な言葉によっても表現できるもの。

こんなことを思いながら、仕事帰りの道をさきほど歩いておりました。ハハハ。




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posted by ガンレオ at 16:38 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする