2017年04月08日

【レオ】真実を語る者は近づき、虚偽を語る者は遠ざかる  … 真理から … 

つづきです。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -

霊的修行、霊性の開発における注意点として、シュタイナーはつぎのように述べています。



このような修行を通して、この蓮華はますます完全に生長していく。見霊能力の開発は、この修行如何にかかっている。
たとえば、考えたり、語ったりする事柄が、外界の諸事象と一致すればする程、この能力は一層速やかに開発される。
虚偽の事柄を考えたり、語ったりする者は、十六弁の蓮華を、その芽生えにおいて摘みとる。
誠実で、正直で、公正な態度は、促進的に作用し、
噓をついたり、不誠実であったり、欺瞞的であったりすることは、破壊的に作用する。




その人が考えること、語る内容が、外界の事象と一致すること。
すなわち、真実を考察し、語るという訓練ですね。
性格的にはこれは、誠実な性格、正直な性格、公正なる態度によって、促進されることでしょう。
誠実なればこそ、真実を語る。正直であるからこそ、真理を語りたいと思う。

これに対して、ウソをついたり、虚偽を平気で語ったり、不誠実な性格であること、欺瞞を平気で行なうこと。
こういう特徴を持っている人間は、外界の事象と一致しない、デタラメや歪んだ映像を語っているわけですね。
それは、真実ではない、というだけではなくて、そうした真実に反することを述べて平然としている性格になってしまうと、
その人の霊的能力の開発が遅れる。というよりも、霊的器官そのものが病となって、破壊される、ということでしょう。

肉体器官であっても、健全に管理すれば、正しく機能してくれますが、間違った使い方をしたら、故障して、具合が悪くなりますね。

あるいは、メガネを使って、外界をきちんと見ようとしても、そのメガネそのものが歪んで狂った性質になると、外界はきちんと見えなくなる。
外界をきちんと見ないで、虚偽を語る、ウソを言う、ということは、みずから、自分のメガネを破壊して、モノが歪んで見えるような自分を、みすみす作り上げている、ということにもなりましょう。

嘘は、真理から遠ざかる。虚偽も、真実から遠ざかる。
これらは、世界をいっそう深く正しく観るための、霊的能力の開発を阻害する。むしろ、その能力を歪めたものにし、破壊する作用をもたらす。

頭のいかれた自己中の人間が、霊的現象にのめり込むと、妄想や幻覚を真実と勘違いして、いっそう狂ってゆくのを見ると、よくわかるかと思います。霊障、悪霊現象のたぐいは、世界の真実を見るのではなく、虚偽や妄想にふりまわされる人間が陥る、霊的混迷の世界といって、いいのかもしれません。

真実を語ろう。ウソを語るのではなく。
真理を語ろう。虚偽に陥るのではなく。
誠実な人間になろう。不誠実な人間になるのではなく。
公正な人間になろう。欺瞞を平気で行なったりするのではなく。

前者は正しい道を歩んでおり、後者は間違った道に迷い込んでいる者です。



現実と一致しない事柄を考えたり、語ったりするとき、たとえ主観的には自分が良き意図を持っていると信じていたとしても、修行者の霊的感覚器官の中で何かが破壊される。





現実と一致しないことを考えたり、語ったりする、ということは、

外にある世界や人間、生命を、正しく見ていないということであり、

その人の内面にある「ウソ」や「妄想」「誤謬」が激しいほど、その人の魂の内面は、外なる世界と、離反している、ということ。
世界を正しく見ることから遠い、そのような迷える我の状態は、悟りのまさに正反対の世界であり、盲目の人間の状態そのものですね。

世界と自分が分離している。合致していない。世界を正しく見ていない。他の人を正しく見られていない。自分の内面の虚妄にのみ閉じこもり、歪んで割れたメガネで外なる世界を見ているから、何を見ても、散り散りバラバラの歪んだ映像に見えている、ということでしょうか。

これは、単なる思考の過ち、というに留まらず、その人の、魂そのものの認識能力、霊的器官そのものを、破壊する行為を、その人は日々おこなっている。ということです。
自分を破壊し、霊的成長をみずから阻害している、ということを、自覚しないといけませんね。


ここまでの3つの記事を総括するだけでも、
重要なポイントがいくつかあるので、まとめておきますと。


正しい道を歩んでいる者は、

@ 忍耐の大切さを知っている
A 論理的思考力、理性の鍛錬をしつつ、霊性の開発に取り組む
B 世界をあるがままに見、誠実で、正直な心を持っている



一方、その反対にある、間違った道を歩む者は、

@ 忍耐を知らず、せっかち、結果主義である
A 論理的思考や理性が欠如し、霊現象に興味本位で飛びつく
B 嘘つき、不誠実、虚偽・欺瞞を平気で行なう者



という違いがあることがわかります。





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posted by ガンレオ at 10:54 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】太古の霊能力と、現代的な霊的認識力の違い

幸福の科学の教えは、信者は基本的にみな学んでいると思うので、敢えて別の神秘主義者である、シュタイナーの思想を例にとって、記事を書いているところです。
他の思想家の感想文を書くのも、基本的にはこういったスタンスゆえで、過去の歴史上の思想家たちの教えを、いま現在の視点から振り返る。
幸福の科学の一信者である私が、そうした過去の名著を読むと、こんな風な理解になります、という解説本というか、感想ブログですね。
そんな趣旨なんですが。

前記事で取り上げた、シュタイナーの著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の、感想のつづきを書きます。この著作には、興味深い記述が沢山ありますのでね。勉強になるのです。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -



この十六弁の蓮華を別の仕方で開発しようとする行法も存在する。しかしそのような行法はすべて、真の神秘学を否定している。なぜなら、それによって身体の健康が損われ、道徳の頽廃が生じるからである。そのような行法はここに述べたものよりも実行しやすい。
本書の行法は時間がかかり、努力を要する。しかしそれは確実に目標へ導き、道徳的な力を強めてくれる。  
蓮華を不健全な仕方で開発すると、或る種の見霊能力が現れても、その能力は主観的な幻想や空想と客観的な霊的体験との相違を区別できないばかりではなく、日常生活を迷いに陥れ、節操を失わせる。そのような場合、修行者は臆病で嫉妬心や虚栄心の強い人、あるいは高慢で我儘な人などになりやすい。




16弁の蓮華、とありますが、これはシュタイナーが霊視して観た「霊的器官」の形を、象徴的にそのように表現しているものです。
蓮華様のかたちをした霊的器官が、霊能者においては、活発に活動している、という指摘ですね。
一方、ふつうの五官でしか世界を見られない通常人の場合は、この霊的器官がまだ開発されておらず、開花していないと。
霊視すると、そのような違いが観察される、とのこと。

それはともかくとして、興味深いのは、その続きのくだりですね。

霊的器官の開発には、王道の開発方法と、それとは別の邪道というか、正式ではない開発法がある、との指摘です。

霊的体験も、悟りに伴う正しい体験もあれば、ドラッグによって強制的に体験しようとするような、そうした体験もある。
精神が異常な状態に置かれることで、神秘的な体験をすることがあるようですが、その場合に見たり聞いたりする、霊の姿や言葉は、果たして、まともに聞いてよいものなのだろうか。
千日回峰の行者などが、意識が朦朧とした状態で、見たり聞いたりする霊の姿や声には、迷える霊のものが多いのではないだろうか。
ドラッグによる神秘体験は、ハクスリーやディックなどの体験も、このような類のものではないかと、思うことがありますが。

こういう方法での体験は、幻想や空想に陥りかねず、客観的な霊的体験とは違うものを含む危険性が高い。というか、ほとんどの場合は、よくない体験になりかねないのではないでしょうか。
当人に悟りの力がなく、単に、第六感的な感覚が一時的に開いたとしても、その人には、そのビジョンを理性的に、客観的に洞察・分析する判断力は無いでしょうから。
思考力が未熟なままでの、霊的妄想は、それが妄想であるがゆえに、かえって人を、誤謬と迷いの世界へ放り込むだけのことかもしれない。

その点を考えると、シュタイナーがこの文章のあとに述べている、次の文章の意味も、よくわかるのではないでしょうか。



十六枚の蓮弁のうちの八枚は、すでに太古の時代に開発されており、修行に際してそれらが自然にふたたび活性化されるということはすでに述べた。修行者の努力は、したがって他の八枚の蓮弁の開発に向けられねばならない。
行法が間違った形式をとる場合、太古の時代に開発された部分だけが活性化されて現れ、新しく形成されるべき八枚は凋んだままの状態におかれる。論理的思考や理性的態度に対してあまりにも無関心な行法の場合に、このようなことが生じる。
神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。




人類は、太古の時代には、素朴な意味での「霊能力」を実は持っていた、という話は、よく聞きますね。
ふつうの魂であっても、霊的世界を感じ取り、霊の姿を見たり聞いたりすることが出来た。

これは要するに、太古の時代に開けていた霊能力であって、これがシュタイナーの指摘している、16枚の蓮華器官のうちの、8枚分の器官のことらしい。
この部分が活発になると、霊的感覚が開かれ、たしかに霊的世界を見たり聞いたり出来るそうですが、しかし現代においては、ほとんどの人はこの器官は閉じている、とも言います。潜在化してしまって、いまは活動していない、眠れる器官と化している、ということですね。

それが閉じているからこそ、人類は、思考の力を鍛えたり、理性の鍛錬に励んで、みずからの認識力を鍛える歴史を歩んできたのだ。
というのが、シュタイナーの霊的進化論の要旨ですが、

これは、宗教の時代が中世末期から、徐々に失われる半面で、理性の時代が到来して、政治哲学や人権思想その他の、啓蒙主義哲学の文明が勃興してきたのと、似ているように思います。

そうした理性の時期、思考力を鍛える時代を経て、その後になって、ふたたび、宗教の時代が帰ってくる。
理性を含んだ、宗教理解の時代が、そこには現れてくることでしょう。

素朴な霊能力の時代が過ぎ、その後、霊感を失った人類は、論理的思考力や理性を鍛える時代を生きてきましたが、
それではやはり、世界の真実は掴み切れずに来ましたね。
それゆえ、今という時代に、霊性の時代が復活しつつある。
それは、単なる、素朴な霊性の復活ではなくて、理性的な目を持つに至った、進化した人類がふたたび学ぶ、さらなる高みの霊の時代、ということです。

ゆえに、素朴な霊能力の開発は、単なる先祖返り的な過去戻りでしかないわけであって、そこに理性や思考力を含んだ、より高次の霊的認識を得るのでなければ、現代的な意味はない。
とわたしは思うし、シュタイナーが何度も指摘しているのも、その点ですね。
高度な思考力や理性を欠いた人間が、単に、霊能力は面白い、霊能バンザイなんて形でのめり込んでも、その人には、真理を理性的に考察する力がない。霊的に見た姿や声を、正しく分析して判断するだけの見識が備わっていない。
見たものをそのままに盲信して、自分の力に己惚れる。
それは、単なる太古帰りの素朴な霊感体質というに過ぎず、優れた魂の証明でも何でもないのですけどね。むしろ、悪霊に翻弄されかねない、未熟な人間としての危険性の方が高い、と指摘してあげてもいい。

シュタイナーが指摘しているが如くに、

神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。

このことをよくよく注意して、神秘と理性のバランスを取った修行こそが、現代的な、霊性の時代の修行方法ではないのか。
と、わたしは思う者であります。




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