2017年04月17日

【レオ】ハイエクとソクラテス

近代に出た経済学者ハイエクと、古代ギリシアの哲人ソクラテス。


 


大川隆法先生による当人の霊言によれば、この両者は同じ魂の転生の姿であるという。


 


そう言われて、なるほど、言われてみれば、似ているな、と思える人、どれだけいるでしょうか?(笑)。


 


二人とも頭がいい、なんて理由ではダメですよ。頭がいい人なんて、歴史上いくらでもいるんだから。


 


わたしは先ほど、渡部昇一さんの著書を読み返していて、ある文章を読んでいたら、「あー、なるほど、ここか。」と、えらく合点がいってしまったので、せっかくなので記事に書いておきます。


 



法的枠組みにおいて強制力が行使されてはならないという、いわば否定の論理がまず先行することをハイエクは強調します。本書には書かれていないけれども、ハイエクが日本に来て講演したときに、「自由主義の法律はDon'tであるべきである。であってはいけない」といいました。  

ハイエクが是認する法律の特色は「否定」です。「これこれをせよ」という法律ではなく、「これこれすべからず」という法律を求め、否定されていること以外はやっていいというくらいでないと、自由主義ではないというわけです。


 


ハイエクは、統制経済・計画経済の社会主義を批判しました。


そして、その対極にあるものとしての、自由主義を強く勧め、アダム・スミス以来の自由主義経済こそが本道である、と述べたのだと思います。


 


自由、自由、自由。


 


自由であるためには、強制や決まりごとは極力少なくしておかないといけない。または、あれをやれ、これをやれ、といった強制的な行動指針を持った法律を、たくさん作ってはいけない。ということですね。


 


基本的には、大きな枠組みの中で、たとえば国家という大きなシステムの中では、


最低限、これはやってはいけないよ、という最低限の決まり事、ルールのみを課しておき、


それを逸脱しない限りにおいては、出来る限り、自由であるべきこと。


 


こういう考え方が、ハイエク流の自由主義でしょう。


 


むろん、それは、何でもかんでもやっていい、無制限の自由ではないのは、言うまでもないことです。


言ってみれば、崖から転落しないための柵は設けられていて、そこから外に出たら危ないから、柵は設けるよ。


けれども、その柵の内側では、どんなことをしてもいいですよ、自由ですよ。ただし、他の人には迷惑をかけないようにね。


 


そういった、最低限の防波堤は作った上での、自由、ということでしょう。


 


だから、引用文にあるように、ハイエクは、


 


 


「自由主義の法律はDon'tであるべきである


 


と言い、さらには、


 


「これこれすべからず」という法律


 


 


にのみ抑えるべきであって、その最低限の戒めのみを守れば、あとは出来るかぎり自由にしてよい。


それが、ハイエク流の自由ですね。


 


最小の「戒め」を持った、大いなる自由、とでも言うべき立場でしょうか。


 


 


ここまで解すると、これは、ソクラテスにまつわる、とあるエピソードと非常に似ていることに気づきます。


 


そう、あの、ソクラテスの守護霊であるダイモンですね。


ソクラテスの守護霊ダイモンは、ソクラテスに対して、


 


〇〇〇をしてはいけない。


 


という風に、それはしてはいけない場合には注意したけれども、


それに違反しない限りにおいては、ソクラテス本人の自由意志と決断に、すべてを任せていたように思います。


 


ソクラテスの守護霊ダイモンこそは、まさに、ハイエクの言うような、


これだけはやってはいけない、けれど、それ以外なら貴方の自由にするがいい、という考えをそのまま、指導方針としていた神霊ではないでしょうか。


 


幸福の科学の霊査によれば、この守護霊はアポロンだった、と以前、言われていたと思います。


魂の兄弟ではないのでしょうけれどね。如来同士の指導関係なので、別の神霊が、ソクラテスの指導に当たっていた、ということなのでしょうか。


 


いずれにしても、


最低限の「やってはいけないこと」のみは指摘するが、


それに違反しない限りにおいては、人間は自由である。


ソクラテスよ、貴方も自由である。あなたの判断で考え、決断し、行動しなさい、ということだったのでしょうか。


 


あれをせよ、これをせよ、という指示だし指導では、地上の人間は、守護霊の操り人形の如くになってしまい、自分で考えることを辞めてしまうでしょう。


なんでもかんでも、守護霊にお伺いを立てて、指導されるがままに動くのでは、自由な生き方とは言えないし、魂の学びもない。


 


これは、自由主義という政治思想、経済での考え方にも、そのまま適用されるのではないだろうか。そんな風にも思います。


 


人類は、自由の解放に向かって、歴史の歩みを進めてきたけれども、まず初歩の学びとしては、何をしてはいけないのか、ということを学ぶ必要があったのかと思います。


 


思い返せば、ユダヤ教の十戒にしても、イスラム教の戒律主義にしても、仏教の戒律にしても、これをしてはいけない、という「破ってはいけない」ルールを、人々はまず学ぶように指導されていたと思います。


 


その上で、どのように生きればいいのか。


 


自由に生きる。


 


しかして、その自由の意義を知らず、またもや、間違った生き方を人はする。そこに新たな学びがある。


 


真の自由を知るために、最低限の制約、ソクラテス的Don’tがある。ソクラテスの守護霊が言った「〇〇〇をしてはいけない」という考えと、


 


ハイエクの、これこれすべからず、に反しない限りは、自由な経済原理を確立すべきだ、という考え方。


 


哲学と経済という、違った世界の話のように見えて、その実、その背後にある理念は、まったく同一の考え方によって貫かれているのではないか。


そんな風に、ふと思ったのでありました。


 


 


 




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2017年04月16日

【レオ】信仰は、独りよがりであってはいけない。だから他の人の信仰からも学びましょう

LEO幸福人生のすすめ、より転載 (2017-03-20 の記事)
http://ameblo.jp/space-people/entry-12258060095.html



信仰とは、人が人生において出会う目覚めのうち、もっとも大切なものだと、いまの私は思います。

深い挫折や苦しみの中で、人はそれまで、関心も持たないで生きていた<神さま>へ。初めて目を向けることがある。
無神論や無宗教が当たり前のようになってしまっている、いまの日本では、信仰に目覚めるというのは、それほど難しいことになってしまっている。

自分の力では、自分を救うことが出来ず、
家族や、友人・知人・先輩に答えを求めても、わからない。

神さまに教えてもらうしかない。救ってもらうしかない。
そこまで行かないと、心が神さまの方を向かないのは悲しいことだけれど、
その恩知らずの愚かな人間であっても、神さまは待っていてくれるんですよね。
そして、たしかに、魂の救いを与えてくれる大いなる存在だと、わたしは思います。

神さまに向かって、答えを求めるとき、救いを求めるとき、祈るとき … 、

人は基本的に言って、独りだと思います。
自分ひとりで、神さまと向き合い、信仰とは何か、祈りとは何か。自分はこれからどうしたらいいのか、その答えを求めるもの。
自問自答のようでありながらも、そこにはさまざまな気づきがあったり、深い苦悩もあったり、悩みや葛藤、深い思索、さまざまな経験を経て、

人は、自分と神さまの関係を模索する。

一生、神さまのもとにあって、神さまを信じて生きていこう、と決意する者あり。

一時のみ、神の救いを求めたものの、悩みが解決したら、喉元過ぎれば熱さ忘れるが如く、
ふたたび、神さまとは無縁の人生を生きてしまう人もあり。

一度は信じた神さまを、みずから捨てて、神などやはり存在しないと、無神論に戻る人あり。

いろんな人がいるのでしょうが、わたしはそこで、ちょっと待てよ、とやはり言いたいと思うのです。

キリスト教にしても、仏教にしても、イスラム教にしても、世界の人たちがこれらの教えを信じてきた期間は1500年から2500年 … 。そういった長い歳月のあいだ、多くの人たちから、尊い教えだと信じて敬われ、いま現在も世界中に数億から数十億の信者をもつ世界宗教を見て … 

その教えの真実を判断するのに、わずか1冊や2冊の本を読んだり、自分の個人的な思惑や体験のみで、一蹴してしまっていいのだろうか?と思うんですよね。

テーマとしては、最大、最重要の事柄が、この神と自分の関係、信仰という世界の話だと思うのですが、
そのことの意義や価値を真に知るためには、

単に、自分一個の主観的な思いなしや、感情的なる判断で、結論を出していいのだろうか。
自分はそんなに賢い人間だったろうか。
自分の人生観は自分で決めるといっても、世の中には、賢者と称えられている数多くの偉人がいたはずではないか。そういう人たちの意見や声を、もっとよく聞いてから、よくよく判断して結論づけた方がいいのではないだろうか。

自分の小ささを知り、謙虚となって、傲慢さを去り、
過去の偉人や、現在の智慧ある人の意見を、もっと虚心坦懐になって聞いてみてもいいのではないだろうか。わたしは、そう思うのです。

キリスト教の素晴らしさを知るために、

聖書を手にとって、わずか数ページを読むだけで、投げ出してしまった人は、なんと勿体ないことをしているだろうか。

聖書を読むだけでなく、アウグスチヌスやトマス・アクィナスやベルナルドの思索に触れてみたら、そこには何と深い人生への洞察と、魂への探究があるだろうか、と思わずにはいられない。

2つ前の記事で書いた、三浦綾子さんのキリスト教エッセイは、幸福の科学の信者であっても、いまだ到達しえていない、深い宗教的な悟りの言葉が、無数に煌めいている。

教えを初めて読むということは、まだその教えを知ったことにはなっていない。
真理は体得しないと意味がない。
特に、心の教えは、自分の魂によくよく深く熏習させて、みずからの魂でもって体得しないと、わかったことにはならない。
最強最高最大の教えを、ただ目で読んだことがあったとしても、それを本当に知った人と、目では見たが魂では掴んでいない人の差は、驚くほどに違っているものだと思う。

やはり、真に知らねば、と思う。それは、魂でもって掴む、ということだ。

そのためには、自分一個の、ひとりよがりな信仰体験だけでは、やはりそう簡単に掴めるものではないので、他の多くの先人たちや、信仰をともにする法友たちの体験なども、謙虚になってよく聞き、よく学び、みずからの今後の人生の指針とする。そういった謙虚さが、やはり必要なのではないかと思うのです。

独りよがりの信仰問答に陥って、疑問を呈して、退転したりしないように。
退転の際には、その心、かならずや驕りの気持ちがあるはず。他の人の体験話に素直に耳を傾ける気持ちなく、自分の主観をあまりにも重視し、感情的に結論を決めつけていたりするものでしょう。要注意ですね。




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2017年04月15日

【レオ】誰しも、その人なりの<神>概念を持っている。問題はその<神>概念が正しいかどうか、深さはどうかだ

LEO幸福人生のすすめ、より転載(2017-03-23 の記事)
http://ameblo.jp/space-people/entry-12258825515.html

無神論者の述べる「神の不在」の証明というか、根拠にあげる例に、

神がいるなら、なぜこの世はこんな不幸で満ちているのか。
神がいるなら、世界の不幸など簡単になくせないとおかしい。
なくならないで現に不幸が満ちているのだから、神はいない。


こんな論法によって、自分は「神の実在」など信じない。神は存在しない、自分は無神論者だ、と言う人がいる。

他にも、神を否定する論拠には、その人なりに色々な主張があるのだろうけれど … 。
たとえば、
人間を創っておきながら、楽園追放する神など信じない、というのも似たような考え方で、旧約聖書の創世記の記述を自分なりに読んで、そのような結論を下して、この人は(旧約聖書的なる神は)信じない、といって拒絶しているわけでしょう。聖書を読んで作った、自分の神イメージでもって、真実の造物主がいるかいないかを即断している。

けれども、その神概念は、ほんとうに正しいのだろうか?
そう考える必要があるのではないだろうか。


要するに、こうした「神の否定論者」でさえ、その人なりの「神概念」を持っているわけですが。
最初の例で言えば、この人の持つ「神のイメージ」は、

全知全能の神ならば、世界の不幸を放置などせず、あっという間に解決できないとおかしい。そもそも、そんな不幸がはびこる世界を「創造」した神は、幸福を約束してくれる神ではない、ということになるから、わたしはそんな存在を信じない。もしいたとしても、そんな神は信じたくない。自分は自分で生きていく。

こんな考え方をしているのかもしれない。


その人なりに、神とは何かを定義していて、神が愛ならば世界に不幸は存在しないはず。世界の人々の苦しみを放ってはおかず、助けてこその愛の神ではないか。
しかし現実の世界には不幸や苦しみが存在している。神がいるならば、これはおかしい。
ならばやはり神は「存在しないのだ」。

などという思考によって、神の実在を否定、もしくは、自分の考える「神」に適合しないであろう、そうした存在を否定する。

しかし逆の立場から見たら、その人個人が、どんな神概念を持とうが、否定しようが、
世界の創造者があるのならば、その創造者の在り方を純粋に探究するのが、神に近づく道であるべきであって、
自分個人の勝手な神解釈や、自分の抱く神イメージを先行させてしまって、それに適合しない世界創造者としての「神」などはありえない。もしいたとしても、そんな神など自分は信じない。
などと主張して憚らない人は、あまりにも、あまりにも傲慢な人間ではないだろうか。

なぜなら、自分の未熟なる「神概念」すなわち、神さまに関して知っている知見を優先して、
それに適合しない造物主など、自分は認めない、と言って、神を裁こうとしているのだから。

自分の考える概念に合わない存在は、神として認めない、と言うのなら、これほど傲慢な態度はあるまいと、わたしは思う。

人間の立場というのは、そんなエライものではないのであって、立場が完全に逆ではないかと、わたしは思うのだ。


神とはいかなる方であるのか、存在であるのか。
愛であり、叡智であり、信仰の対象であり、世界の創造主であり、生命を育んでくれる大いなる宇宙意識であり … 、
などなどの、古代から伝わるさまざまな<神を表現する定義>でもって、もっと深く深く思索しないと、いけないのではないだろうか。

愛である神が、世界をこのような形で生かされているのは何故か、と考えるのが、神と世界の関係を知るための、正しいアプローチの仕方であって、

世界がこうだから、神はいない、と考える短絡思考は、あまりにも単純なモノの見方でもって、世界の創造主を否定している、傲慢の罪そのものではあるまいか。


宗教否定論もそうですね。

宗教どうしの戦いが延々と繰り返されている。だからわたしは宗教などは信じない、という人がいる。
宗教が愛であり、たがいを認め合うものであるのなら、なぜ宗教戦争があるのか。おかしい。
戦争をやるような宗教はおかしい。だから宗教などにはまるのは間違いだ。自分は宗教など信じない、という人がいる。

この人もまた、先の「神概念」と同じような思考パターンによって、宗教を否定している。

自分の勝手な「宗教イメージ」でもって、宗教が愛ならば戦争などしないはず、といった決めつけでもって、宗教を自分勝手に定義づけている。
それに合わない宗教がたくさんある以上、宗教というものそのものがおかしい、という結論をこの人はして、無宗教に陥っているわけだが、
果たして宗教というのは、そんな一面的な判断でもって否定してよいもの、なのだろうか?

あまりにもこれは、宗教に関しての知識の不足、無知ゆえの短絡思考ではあるまいか。

宗教は戦争をしない、などという決めつけでもって、宗教そのものを否定しさる権利が、たかだか人間一個人にあるのだろうか。
人生観は勝手だからといっても、宗教そのものを否定するだけの論を発表する資格が、果たしてこの人にあるだろうか。
仏陀やイエス・キリストに脱帽敬礼してから、その言を吐き給え、と言うしかないように、わたしには思えて仕方がない。

人類の歴史と、宗教の歴史、あらゆる宗教の教える教義を、どれだけこの人は知って、宗教そのものを否定しているのだろう。

あまりにも貧弱で、単純な論点のみによって、すべての根本とも言える大いなる理念存在を、否定する暴挙に走ってはいないだろうか。


神と言い、宗教と言い、根源的なるものほど、その中に含まれる理念・概念は精妙で複雑で、かつ、あらゆるものを内包しているものだ。
それゆえ、高次の概念ほど、それを真に深く知ることは極めて難しく、単純な思考では到底、その本質には肉薄できない。

白か黒か、AかBか、なんていう単純な二分法で結論を出せるような、低レベルの話ではないんですよね。

世の中に不幸が満ち溢れているように見えても、神が大いなる愛であることとは、まったく矛盾していない、という理解があり得るんですからね。
宗教の教義を奥深く理解し、信仰と愛、霊的世界の秘密、転生輪廻と永遠の生命の神秘を知れば、この世の不幸は、神さまが放置しているわけでもないし、愛の欠如でもないことがわかります。

さらには、宗教同士が戦争をすることは、宗教が平和や愛を謳っていることと別に矛盾しない
これまた、地球に生きる生命の多様さを真に知れば、その魂のルーツの違いから、さまざまなぶつかり合いや切磋琢磨が生まれていることが、理解できるようになる。
戦争という表面の争いのみをみて、その奥にある精神の煌めきを見ないでは、宗教そのものを否定するには、早計すぎる判断でしょう。
キリスト教とイスラム教の戦いにしても、双方の教義を本当に深く知ったうえでなお、なぜ争いが起きるのかを、あなたは解説することが出来るだろうか。そこまで深く宗教を知っているだろうか。それを知らずに、武器をもって戦っているという面だけを見て、単なる世俗の戦争と同じか、あるいはそれよりも下等な争いのように見るのは、これまたあまりにも短絡的な判断と言うしかないでしょう。

宗教という理念もまた、もっとも大いなる高次概念のひとつですからね。それを極めるほどに深く知悉して、判断をしているのかどうかを自らに問わないといけない。

世界の果ては、滝のようになって、海の水が流れ落ちていっているはずだ、という世界観を持っている人が、

いや世界の果ては、滝ではないよ、ずっと海が続いていて、その先をずっと進むと、ぐるっと回って元の場所に船は戻ってくるんだ。地球は丸いんだよ。
と主張する人の話を聞いて、

そんな世界観は信じられない。お前の主張するのは、妄想の世界観だ、といって否定したとする。
どちらが正しい世界を見ているのだろうか。今となっては明らかですね。


最初の人は、世界の果ては滝のようになっているはず、という概念を固執していて、

滝のようになっていない世界の果てなど有り得ない、信じられない、妄想だ、といって否定しているわけですが、
世界の不幸を放置している神など有り得ない、信じられない、といって否定する人間は、これと同じような思考パターンに陥っているのだと、わたしには思えます。

もっと謙虚になって、
神とは何か、宗教とは何か、真実そのものを探究しつつ、それを学ぶことが大切なのだと思います。

自分の考える神概念、宗教概念に固執して、それに合わない神など認めん、宗教など要らない、という人は、とてもとても傲慢な、そしてまた、短絡的な判断に陥っていないかどうかを、深く反省する必要があるのではないか。
霊的に言ったら、そういう魂はひじょうに危うい境涯にあると、わたしは考察する者ですね。




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2017年04月14日

【レオ】ブログ記事について

2010年からブログを始めたので、すでに足掛けで8年目に突入してるところ。
ということで、継続は力なり、で我ながらずいぶんと更新がんばってきたのではなかろうか。などと自負しつつ。

ブログ記事について、あらためて考えてみるのでした。

なんのために、こうしてブログをつづっているのだろうか?


無名人のブログですから、ランキングサイトにでも登録しないと、そうそう多くの人に読まれることはないであろう、ブログというもの。

けれども、自分としては「善き記事」を日々、書いているつもりでありまして、無神論の人のエッセイなんか読むより、よほど良いことをタダで読めまっせ〜、というものを綴っていると、これまた自負しております。ハッハッハ。


霊界の構造を考えてみたいのですが、

最初にあるのが、善と悪の分かれ目ですかね。善人界という天国と、地獄界という悪霊の住処に、死後の人間が住む処は分かれている。

当然、善人になるべく生きるのが正しいことだし、悪人になってしまっては、間違った人生を生きたと言うしかない。

ブログ記事で言ったら、善き記事を書くのは、天国的な行為だと思います。これは読者の人に、読んで、ためになる記事や、心にプラスになることを語っているブログですね。

一方では、不平不満を並べるばかりだったり、間違った考えを述べているブログもあるでしょう。
一私人の作るブログであっても、善なるものと悪なるものに分かれている。

まぁ、邪悪なブログは基本、見る必要はないですね。というか、下手に覗いて毒素を受けるより、最初からシャットアウトして、シカトした方がいいでしょう。
ネット情報はそれこそ情報の洪水の場だから、邪悪でくだらんものなど見てるのは、時間の無駄というものです。

なので、心根の善い人のブログ、善いニュースサイト、などを見るのが、最初の出発点かなぁと思いますが。

それでも、幸福の科学で学んでいる信者であってみれば、単に、内容が善であるだけでは物足りない。

そこに高度な思索なり、深い考えや洞察なりがないと、知の面において不十分に思える。
なので、善にして、知的にも洞察を含んだものが望ましい。

そういうブログでありたい。ということですね。

読者の数の多寡は、とりあえず、どーでもよろしい。
善い内容を書き、知的にもきちんとした洞察を含んだ記事を書こう。
それを読んでくれる愛読者の数が、たとえ数名、数十名であったとしても、
熱心に読みに来てくれる人は、わたしの書いていることを、心から理解して賛同してくれている方々でしょう。
言ってみたら、魂の同胞であり、仲間ですね。

そういう人に向かって、記事を日々発表しつつ、なおかつ、少しづつでも、まだ未知の人がこのブログを訪問して、幸福の科学で学ぶことのキッカケなりを得てくれたら、これほど嬉しいことはない。

これも、一つの種まきの姿だと、わたしは思っています。

ブログを訪問してくれる読者さんへの、わたしからの語りかけであるし、
さらには、自分自身の能力を鍛えるための鍛錬、という意味で、自分自身の魂にも、種を蒔いていることになっている。そう、わたしは考えています。

なぜなら、ブログで書いた記事は、自分で考えて書いた内容ですから、どこかで同じテーマでスピーチしてくれ、とか、さらに内容を濃くして語ってくれ、とか言われても、そらで行なうことが出来ますからね。
誰かと同テーマで話す場があったら、わたしはブログ記事で書いたようなことを、何も見ないでペラペラしゃべるだろうから、レオ当人だということがわかるくらいの会話は、おそらく出来るでしょう。

自分で考えて、自分の言葉で書く、ということは、自分の考えを整理してまとめる、ということですから、いくらでも別の場所で、自分の言葉で同内容を語ることが出来るようになるんですよ。
その考えを単なる思い付きで留まらせずに、確固とした考えとして確立し、それを自分のものと出来ている。ということです。
自分で考えた内容だからこそ、自分のものに出来ている。自分の言葉で語れる。今後、いつ、どの場所においても。ということです。
コピペだけやっているだけでは、こういう力は身につかないでしょう。読んで貼り付けるだけでは、書く練習には全くなっていないからです。

これは、自分で努力して記事を書く、考えて記事を書く鍛錬を続けていくことで、自分の頭の中をも整理している。ということだから、
もし、読者がまったくいなくなったとしても、自己鍛錬の意義は残る、ということです。
だから、読者がゼロでも、続ける … かどうかはわかりませんが、ブログを書き続ける意義は、やはりあるのです。

それは、他者への誘い、という種まきでありながら、
自分の能力を鍛えるための、種まきにもなるのですから。

ということで、頑張りましょう。
いつまで続けられるか、チャレンジし続けよう(笑)。




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2017年04月13日

【レオ】忙中閑あり

忙中閑あり。
忙しいさなかにも、閑(かん)、ひまはあるものだ。

毎日仕事で忙しくて、肉体的にも精神的にもいっぱいいっぱいで、閑などまるでない、というなかれ。
それであっても、ゆとりの時間、暇の時間をわずかでも作ればいい。
それが10分、15分でも、心からの解放を得られる「寂」の時間を得る。

安岡正篤さんは、戦争中、激しい空襲のさなかでも、20分の短時間に悠々と座禅をする時間を持ち、心を極める努力をしていたそうです。

忙しいさなかでも、寂なる時間を持つ、閑たる時間を持つ。
それは時間的な余裕を持つ、という意味だけでなしに、

その忙しい時間の真っ最中にも、心のどこかにゆとりを持つ。心がいっぱいいっぱいにならず、ゆとりの心の空間を持つ。
それが大事なのではないかと、最近は思うようになりました。

物理的に、ゆとりの時間が持てないのなら、仕事でアップアップしている、その業務時間の中においてこそ、心の解放を得られないだろうか。
100の仕事をしている時に、心が100でアップアップでは、ゆとりどころではありませんね。
ならば、120の心の大きさを持って働けばよい。さすれば、100の気持ちを仕事に割り当てても、あと残り20の余力がある。心の余力がある。
それが、心のゆとりの部分であって、同じ時間内の「閑」の時空間ではあるまいか。

安岡さんは、忙しい、という言葉の「忙」という字は、心が亡くなる、と解けると言っています。
忙しい中に忙殺されていると、まさに忙殺の「忙」ですね。心が亡くなる。心を見失ってしまう。

これではいけないのでしょうね。
心が亡くならないように、忙殺されてしまって、自分の心の全てが失われるのではなく、なお余力があって、ゆとりの部分があるほどに、大きな心を持って生きればよいのではないか。

これは仕事の技術の向上によっても得られるかと思いますが、
仕事の覚え始めというのは、どうしてもわからないことだらけで、アップアップ状態で仕事をしますよね。
けれども、仕事内容を覚えて熟達すれば、時間当たりにこなせる仕事量も増えるし、仕事スピードもアップする。
ルーティンワークを軽妙にこなすことが出来るようになると、時間の余裕も生まれるし、心にもゆとりが生まれます。一挙両得です。

こうした、心の自由を得て、その上で生きれば、仕事の合間にイレギュラーな事件が起きても、心は泰然自若として、余裕を持って対応できる。アップアップにならんのです。

だから、100の仕事をしながらも、120の心、150の心、200の心をもって、心のハンドルに自由な遊びを持って生きたいものです。

忙中閑あり。

そういう意味でも、わたしはこの言葉を解したいと思うのでありました。

ここ数日のあいだに、しばしば思ったことですけどね、ハハハ。
忙しく仕事をしているあいだでも、ブログ記事は書けるのです。



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2017年04月11日

【レオ】死んだ後に、相手から返ってくる善念と憎しみについて

つづきです。

スピリティズムによる福音 -
スピリティズムによる福音 -



善行は最も冷え切った心をも和らげます。この世においては忘れられてしまうかもしれませんが、肉体の被いから自由になった時、善行を受けたその霊はそのことを思いだし、その記憶がその人に対する罰となります。彼は自分が恩知らずであったことを嘆き悲しむことになります。
次の人生で自分の過ちを改め、恩義を返そうとし、善を施してくれた人に仕える人生を求めようとすることもまれではありません。




これは、アラン・カルデックがテーブルターニングで得た霊界通信です。高級霊からの通信ね。

その霊が言うには、
善行を行なって、その相手がなんの感謝もすることなく、忘れられてしまったとしても、
その相手が死んで霊になると、自分がいかに与えられていたかを思い出すのだ、とあります。

善行を受けたその霊はそのことを思いだし

ですね。
人は肉体に宿っているあいだは、本来の精神の自由度を失い、ひじょうに鈍感な精神状態になっている。
だから、人を傷つけても、相手の苦しみには鈍感でいられるし、あるいは、人から善を施されて感謝をしなくても、平然としていられる。
相手がどのような優しい気持ちで、そのことを成したのか。もし、それを生前から感じられるほどに、魂が敏感であったなら、きっと涙を流して喜び、感謝することも出来たのに。
肉体に宿っているあいだの人間というのは、他の人から向かってくる、善い思いにも、悪い思いにも、いずれも鈍感であるがゆえに、平然と自分勝手に生きているのかもしれません。

ところが、死んで肉体から離れると、魂は本来の鋭敏な姿を取り戻す。
肉体の覆いが取れて、魂そのものが世界に晒されるので、人の気持ちがストレートに自分に影響を与えるのを感じるようになる。敏感になるんですね。

精神エネルギーというのは、いっとき浮かんでは消えてしまうものではなくて、ある人が発した思いは、それが善い思いであれ、悪い思いであれ、エネルギーと存続して活動を続けているのかもしれません。
それゆえ、その残存エネルギーの存在を、霊になった魂は感じ取れるのかもしれませんね。
すると、どうなるか。

他の人に与えた苦痛が、苦しみのエネルギーとして感じられる。自分に対する恨みや憎しみの思いが、ストレートに自分を攻撃してくるのを感じる。
したがって、他人を多く苦しめた人は、多くの人からの憎しみの念を、死後になると、ストレートに全て受けざるを得なくなる。
過去のその時点の憎しみだけでなく、相手が不成仏の場合はずっと、その恨みの思いが自分に向かってくるわけでしょう。
動物を屠殺した人が、死後、それらの動物たちの怨みの念を受けて苦しむ姿が、霊界通信であったと思いますが、あれですね。
某首相も、人々から攻撃され続けた結果、その集合念によって病になって倒れたとか。人が発する精神エネルギーは、かように物理的な力を実は持っている。
肉体は滅びても、精神のエネルギーは残っている。それゆえにこそ、死後にも、精神のカルマは自分に返ってくるし、来世にも追いかけてきて、存続するのでしょうか。
(*注;不当な恨み・つらみは、発した本人のものなので、発した人に跳ね返っていくのが基本ですけどね)

これとは逆に、多くの人に愛を与え、感謝された人は、その死後において、相手から伝わる感謝の思い、善なる思いを受けて、いっそう光り輝く境涯に達するのでしょう。
他の人から返ってくる喜びのエネルギーは、その人自身の徳となり、魂の器の大きさとなり、霊格ともなる。
偉大なる神霊は、地上にて多くの人を愛し、助け、その死後においても神として信仰され続け、何億、何十億、あるいはそれ以上の人からの感謝と信仰の思いを受けますね。
信仰の力は、偉大なる神霊の霊格を高めることにもつながっている。そういった話もありました。

人は、自分以外の他の人に、愛を与えたか、それとも苦しみを与えたかによって、そのような死後の違いを持つ、ということでもありましょう。



このように、疑わずともあなたはその人の道徳的進歩に貢献することができたことになり、次の教訓の意味を正確に理解することができるようになります。
「善が無駄になることは決してありません」。そればかりではなく、落胆することによって善を行う気力を失うことなく、私心を棄てて善を行ったことの功績を得ることができるのですから、自分自身に対しても働いたことになります。  




地上においては、愛を与えても、相手はそのことに気づかず、感謝もしてくれないかもしれません。
しかし、それが本当に霊的なる意味での、正しい愛であったならば、死後において、その相手に、その真心が伝わることになる。
相手の人は、自分がいかに恩知らずであったかに気づき、愕然とする。
カルマの刈り取りですね。来世、この恩を返さなくてはいけない。自分は人生をやりなおさなくてはいけない。という反省が生まれることにもつながりましょう。
ま、地獄に堕ちた場合は、改心を終えたのちにようやく、そうした気持ちになるのでしょうから、生まれ変わりは、反省した後になるのだと思いますけどね。

ゆえに、善行は無駄にはならない。
それは、相手の霊的成長のキッカケにもなる、ということです。
そしてまた、自分自身の霊的進化の証しともなる、ということ。
神は、こうした世界を創られていて、そこでさまざまな人間同士の結びつきが生まれることを、長い年月のあいだ、見守り続けてくれているのでしょう。
わたしは、そう思います。



ああ友よ。あなたたちの前世と現世のすべてのつながりを知ることができたなら。お互いの進歩のための、人類の一人一人を結びつける関係の広さを、一目で見ることができたなら、創造主の善意と英知に大いに感心するでしょう。神はあなたたちがいつか神のもとにたどり着くことができるように、生まれ変わることを許すのです。




以上の洞察は、
お釈迦様のように悟りを開かれた方が、三世を見通す力を得られて、ある人と別の人の魂同士の関連をつぶさに見たりしたら、

その摩訶不思議な人間同士の結びつき、縁の不思議さを、しみじみと感じられるものなのかもしれません。
仏神が創られた慈悲と愛の世界、そこにある善意と叡智の限りない深さに、感嘆の思いを抱かざるを得ませんね。

人間はそうした世界の中で、転生輪廻をし続けて、愛を学んでいる存在なのではないでしょうか。




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2017年04月10日

【レオ】人から感謝されなくとも、善行を行なうことの意味とは? 〜アラン・カルデックが受けた霊言より〜

アラン・カルデックの本を読み返していたら、ひじょうに含蓄の深い文章に遭遇したので、紹介・解説してみたいと思います。


スピリティズムによる福音 -
スピリティズムによる福音 -

該当文章はそれなりに長い文脈の中で語られているので、文章の順を入れ替えたりしつつの、一部抜粋による、わたしなりの解説になりますが、



不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。あなたたちは他人のために働くのではなく、自分たちのために働いてばかりいます。




わたしたち人間は、現在の、自分と他人の関係しか、目に入っていない。という指摘があります。
自分が誰かに、何らかの善行を行なった時、その瞬間の、相手の反応しか見ておらず、あるいは自分自身、その前後の自分の気持ちばかり見ている。
どういうことかといったら、お互いの過去世からの関係や、未来世の関係までは、視野に入っていない。という意味であったり、
あるいは、その相手の死後の状態ですね。それから自分自身の死後の心の状態。そういうところまでは見えていない。
善行の結果、どのような未来が訪れるのか。善行の意味、霊的意味を十分にはわかっていない、ということですね。

それゆえにこそ、お人好しは損をする、みたいな言葉にもなってしまって、感謝もされない、赤の他人への善行は虚しい。だとか、恩知らずに親切にする必要はない。などという考えにもなりがちになるわけですが、それは、善行の本当の意味、霊的な意味を知らない、この世的なる考え方ゆえの間違いですよと。
そういうことですね。

説明が長くてすみませんが(笑)、大事なところなので、念入りに言葉を重ねておきたくて、こんな風に述べているわけですが。



善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。
あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、恩恵を受けた者があなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。




たとえ、相手が感謝してくれなかったとしても、その善行に意味がないわけではない。感謝のあるなしは、問題ではない。
なぜなら、その善行を見ている神は、それを「よし」と見ておられるのだから。相手が感謝してくれなくても、いいではないか、というのが、まず一点。

これは、相手が理解してくれなくても、その善の霊的な意味は、神さまが知ってくださっている。神さまがよしと見てくださっているのであり、あなたの霊的な覚醒を、神さまは喜んでくださっているのだ。
ということでもありましょうけれど。
とはいえ、このことは、信仰心が深くなければ、当人の自覚もまた得られないものだから、真の意味で体得するのは難しいですね。

ボランティアの善行にも通じると思いますが、対価なくして、ボランティアの善行をどこまで行なえますか?

自分の貴重な時間を使って、たとえば、具体的に誰かから感謝されるのでもないような、そんなボランティア活動を行なう時。
神さまが観てくださっているから、喜んで、その善を行なうのです、という境地に、あなたは到達しているでしょうか?
それとも、そんなことに時間を使うのなら、わたしは自分の趣味に時間を使うわ、といって、ボランティアなどしませんよ、という道を選ぶのか。
そういうテーマにもなりますね。

感謝もされない善行を、あなたは行なえますか?
無報酬のボランティアを、あなたは行なうことが出来ますか?
続けられますか?

けれども、カルデックが受けた霊言には、次のような言葉もあります。



あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。  
一時的に忘れられた善行が、後になって善い実を結ばないと誰に言い切ることができるでしょうか。反対にそれは、時間をかけて発芽する種であるのだということを信じてください。




誰かに善行を行なったとしても、感謝されないなどということは、いくらでもありますね。
むしろ、感謝してくれる人の方が少なく、感謝してくれるような人は、人間が出来ている、稀有な人、立派な人、ということかもしれない。
大部分の人は、人から受けた恩はそれほど感じずに、当たり前と思って暮らしていたりして、
本当の意味で、たがいに感謝し合えるような暖かな人間関係というのは、この地上世界においては、まだまだ不十分にしか実現できていないかもしれない。

それでもなお、人は、他の人に善行を行なうべきである。

という、神の与えた命ですね。それは、何ゆえか?

あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。

忍耐力を試すため、とあります。
これは、忍耐力を鍛えるためである、という意味に取ることも可能でしょう。

感謝されなかったとしても、その善行には意味がある。霊的に価値あるものとして、神から嘉される行為である。
相手からは感謝されないかもしれない。それでも、その善行そのものに意義を見出しなさい。大切な価値あることだと信じなさい。神が観ていることを信じなさい。

そうした思いと理解でもって、淡々と、ただひたすらに、他の人に愛を与え、善を行ないなさい。
結果や報酬が得られかったとしても、行ないなさい。

善行は、得られる報酬や、結果主義者が求めるような、即効性のある結果や評価のために行なうべきものではない。
それは、その善行そのものに意味があるのだ、それ自体に喜びが伴い、愛そのものに価値があることを悟るため、であるのだ。

そんなような意味にも、解することが出来るのではないか。

忍耐力を試すため。

この世的なる結果や報酬のためではなくて、ただ、善そのもののために、愛そのもののために、善を成すこと。
それは言い換えると、相手のために尽くす行為と思いそのもののために、生きなさい、という悟りですね。これを掴みなさい、ということでしょう。

何らかの報酬や、相手からの感謝や、すぐさま神さまが頭をなでなでしてくれるような、そうしたものがすぐ得られるような世界だったら、
人は、そうした目的のために、善を成そうとするでしょう。
報酬のために、感謝されんがために、神さまからすぐ褒めてもらうために。

けれどもそれは、善そのもののための善とは違う心であるし、愛そのもののために行なう「与える愛」とも違う心になってしまいますね。

だから、すぐには結果は得られない。この世的なる結果は得られない。
それでもあなたは、その善を行なうことが出来ますか?行ない続けることが出来ますか?

何ゆえに?善そのものに、霊的意義を掴めますか?

それを続ける中で、あなたはどこまで真実を悟れますか?この世的な即席の結果や、報酬がなくても、善そのものの中に意味を掴み、善を生きる貴方となれるでしょうか?

そのためには、時を耐えるということ。忍耐の中を生きるということ。
あなたの忍耐力を鍛える、という課題をも同時に、あなたに与えることになるでしょう。

この世で、霊的なる修行をする、ということは、すぐに結果は出ない。その霊的なる意味も、にわかには理解できない。そうした世界での修業ですから、だからこそ、忍耐力を鍛えるという意味をも、魂修行の中に織り込むことが出来る。

善を行ない、愛を与えて生きることが出来るようになるまでに、同時に人は、忍耐の意味を学んでゆくことが出来る。



あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。




神さまが、人が善を行なっても、感謝されないことが多いような世界を創られたのは、そうした未熟な世界を放置せんがためにそうしているのではなくて、
善を行なう私たち人間の忍耐力を試すため、あるいは鍛えるため、そういった、深い深い意味があってのこと、なのでしょう。
だから神さまは、この地上世界を不幸のままに放置しているわけではないんですよね。
人が魂修行をするために、霊的なる魂修行を、より一層すすめるためにこそ、そうした世界の存在を、許しているのだということ。
感謝もしない未熟な人間たちを赦しているのは、それが魂修行の場であるからなのでしょう。

 … 





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【レオ】ほんとうに真理をわかっている人は … たとえ話が上手い、平易な言葉で価値ある内容を語れる、言葉・表現が詩的で美しい

@ たとえ話が上手い。
A 平易な言葉で説明することが出来る
B むろん、内容のあることを語っている
C 言葉・表現が詩的で美しい


などといった特徴があると、わたしは考えます。
他にもいろいろあると思いますが、パッといま浮かんだのが、このあたりですかね。

哲学などは、内容は難しいけれど、シュタイナーは例え話が上手いです。カントは例えが抽象的でわかりにくいので、シュタイナーの方が分があるでしょう。これは盟友のガンちゃんとも一致した意見ですけどね。
たとえ話が上手いということは、その概念を本当に深く理解しているということ。
だからこそ、身近で、誰にもわかるような具体例をあげて、たとえることが出来る。
偉大なる人は、たとえ話が上手な人が多いと思います。カントも座談の名手だから、きっと座談会などでは、わかりやすい話をしていたと思いますね。


それから、平易な言葉で語ることが出来る、ということ。これ、大事ですね。
専門用語や四字熟語などを多用すると、どうしても文章は抽象的で難しくなりますけど、それを子供でもわかるような、わかりやすい話にして、語ることが出来るかどうか。
総裁先生は、不成仏のヘビを成仏させるには、ヘビの怨みつらみを理解してあげる力が必要。そのためには、ヘビにもわかるような、平易な言葉で説得するだけの悟りの力が要るのだと、以前、教えてくれたことがありました。
誰にでもわかるような、平易な言葉を使って、奥深い内容を語ることが出来る。平易な言葉で語ること。


では、たとえ話が上手で、平易な言葉で語れれば、それでいいのかといったら、
下世話な話を、卑俗なたとえ話でしゃべりまくる人間が、真理を悟った人間と呼べるはずもありませんからね。
やはり、その語る内容そのものに、深い精神性がなければ、価値のある普遍の真理とは言えない。


そしてまた、真理はそれが奥深いものであるほど、言葉に語られるときに、うつくしい表現をおのずと求めるものでしょう。
救世主の言葉はみな美しい、詩的な表現に満ちていて、それでいてなお、精神的にきわめて深い内容を持つ、永遠の真理ですからね。
美しい言葉、うつくしい表現、詩的なる言葉。これらもまた、必須の条件のひとつではあるまいか。

真理にかなった内容は、言葉にした時にも、うつくしい言葉と表現を求め、それゆえ、たとえ話にして語っても、その内容は心に深く響く内容を持っている。そしてそれはまた、平易な言葉によっても表現できるもの。

こんなことを思いながら、仕事帰りの道をさきほど歩いておりました。ハハハ。




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2017年04月08日

【レオ】真実を語る者は近づき、虚偽を語る者は遠ざかる  … 真理から … 

つづきです。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -

霊的修行、霊性の開発における注意点として、シュタイナーはつぎのように述べています。



このような修行を通して、この蓮華はますます完全に生長していく。見霊能力の開発は、この修行如何にかかっている。
たとえば、考えたり、語ったりする事柄が、外界の諸事象と一致すればする程、この能力は一層速やかに開発される。
虚偽の事柄を考えたり、語ったりする者は、十六弁の蓮華を、その芽生えにおいて摘みとる。
誠実で、正直で、公正な態度は、促進的に作用し、
噓をついたり、不誠実であったり、欺瞞的であったりすることは、破壊的に作用する。




その人が考えること、語る内容が、外界の事象と一致すること。
すなわち、真実を考察し、語るという訓練ですね。
性格的にはこれは、誠実な性格、正直な性格、公正なる態度によって、促進されることでしょう。
誠実なればこそ、真実を語る。正直であるからこそ、真理を語りたいと思う。

これに対して、ウソをついたり、虚偽を平気で語ったり、不誠実な性格であること、欺瞞を平気で行なうこと。
こういう特徴を持っている人間は、外界の事象と一致しない、デタラメや歪んだ映像を語っているわけですね。
それは、真実ではない、というだけではなくて、そうした真実に反することを述べて平然としている性格になってしまうと、
その人の霊的能力の開発が遅れる。というよりも、霊的器官そのものが病となって、破壊される、ということでしょう。

肉体器官であっても、健全に管理すれば、正しく機能してくれますが、間違った使い方をしたら、故障して、具合が悪くなりますね。

あるいは、メガネを使って、外界をきちんと見ようとしても、そのメガネそのものが歪んで狂った性質になると、外界はきちんと見えなくなる。
外界をきちんと見ないで、虚偽を語る、ウソを言う、ということは、みずから、自分のメガネを破壊して、モノが歪んで見えるような自分を、みすみす作り上げている、ということにもなりましょう。

嘘は、真理から遠ざかる。虚偽も、真実から遠ざかる。
これらは、世界をいっそう深く正しく観るための、霊的能力の開発を阻害する。むしろ、その能力を歪めたものにし、破壊する作用をもたらす。

頭のいかれた自己中の人間が、霊的現象にのめり込むと、妄想や幻覚を真実と勘違いして、いっそう狂ってゆくのを見ると、よくわかるかと思います。霊障、悪霊現象のたぐいは、世界の真実を見るのではなく、虚偽や妄想にふりまわされる人間が陥る、霊的混迷の世界といって、いいのかもしれません。

真実を語ろう。ウソを語るのではなく。
真理を語ろう。虚偽に陥るのではなく。
誠実な人間になろう。不誠実な人間になるのではなく。
公正な人間になろう。欺瞞を平気で行なったりするのではなく。

前者は正しい道を歩んでおり、後者は間違った道に迷い込んでいる者です。



現実と一致しない事柄を考えたり、語ったりするとき、たとえ主観的には自分が良き意図を持っていると信じていたとしても、修行者の霊的感覚器官の中で何かが破壊される。





現実と一致しないことを考えたり、語ったりする、ということは、

外にある世界や人間、生命を、正しく見ていないということであり、

その人の内面にある「ウソ」や「妄想」「誤謬」が激しいほど、その人の魂の内面は、外なる世界と、離反している、ということ。
世界を正しく見ることから遠い、そのような迷える我の状態は、悟りのまさに正反対の世界であり、盲目の人間の状態そのものですね。

世界と自分が分離している。合致していない。世界を正しく見ていない。他の人を正しく見られていない。自分の内面の虚妄にのみ閉じこもり、歪んで割れたメガネで外なる世界を見ているから、何を見ても、散り散りバラバラの歪んだ映像に見えている、ということでしょうか。

これは、単なる思考の過ち、というに留まらず、その人の、魂そのものの認識能力、霊的器官そのものを、破壊する行為を、その人は日々おこなっている。ということです。
自分を破壊し、霊的成長をみずから阻害している、ということを、自覚しないといけませんね。


ここまでの3つの記事を総括するだけでも、
重要なポイントがいくつかあるので、まとめておきますと。


正しい道を歩んでいる者は、

@ 忍耐の大切さを知っている
A 論理的思考力、理性の鍛錬をしつつ、霊性の開発に取り組む
B 世界をあるがままに見、誠実で、正直な心を持っている



一方、その反対にある、間違った道を歩む者は、

@ 忍耐を知らず、せっかち、結果主義である
A 論理的思考や理性が欠如し、霊現象に興味本位で飛びつく
B 嘘つき、不誠実、虚偽・欺瞞を平気で行なう者



という違いがあることがわかります。





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posted by ガンレオ at 10:54 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】太古の霊能力と、現代的な霊的認識力の違い

幸福の科学の教えは、信者は基本的にみな学んでいると思うので、敢えて別の神秘主義者である、シュタイナーの思想を例にとって、記事を書いているところです。
他の思想家の感想文を書くのも、基本的にはこういったスタンスゆえで、過去の歴史上の思想家たちの教えを、いま現在の視点から振り返る。
幸福の科学の一信者である私が、そうした過去の名著を読むと、こんな風な理解になります、という解説本というか、感想ブログですね。
そんな趣旨なんですが。

前記事で取り上げた、シュタイナーの著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の、感想のつづきを書きます。この著作には、興味深い記述が沢山ありますのでね。勉強になるのです。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -



この十六弁の蓮華を別の仕方で開発しようとする行法も存在する。しかしそのような行法はすべて、真の神秘学を否定している。なぜなら、それによって身体の健康が損われ、道徳の頽廃が生じるからである。そのような行法はここに述べたものよりも実行しやすい。
本書の行法は時間がかかり、努力を要する。しかしそれは確実に目標へ導き、道徳的な力を強めてくれる。  
蓮華を不健全な仕方で開発すると、或る種の見霊能力が現れても、その能力は主観的な幻想や空想と客観的な霊的体験との相違を区別できないばかりではなく、日常生活を迷いに陥れ、節操を失わせる。そのような場合、修行者は臆病で嫉妬心や虚栄心の強い人、あるいは高慢で我儘な人などになりやすい。




16弁の蓮華、とありますが、これはシュタイナーが霊視して観た「霊的器官」の形を、象徴的にそのように表現しているものです。
蓮華様のかたちをした霊的器官が、霊能者においては、活発に活動している、という指摘ですね。
一方、ふつうの五官でしか世界を見られない通常人の場合は、この霊的器官がまだ開発されておらず、開花していないと。
霊視すると、そのような違いが観察される、とのこと。

それはともかくとして、興味深いのは、その続きのくだりですね。

霊的器官の開発には、王道の開発方法と、それとは別の邪道というか、正式ではない開発法がある、との指摘です。

霊的体験も、悟りに伴う正しい体験もあれば、ドラッグによって強制的に体験しようとするような、そうした体験もある。
精神が異常な状態に置かれることで、神秘的な体験をすることがあるようですが、その場合に見たり聞いたりする、霊の姿や言葉は、果たして、まともに聞いてよいものなのだろうか。
千日回峰の行者などが、意識が朦朧とした状態で、見たり聞いたりする霊の姿や声には、迷える霊のものが多いのではないだろうか。
ドラッグによる神秘体験は、ハクスリーやディックなどの体験も、このような類のものではないかと、思うことがありますが。

こういう方法での体験は、幻想や空想に陥りかねず、客観的な霊的体験とは違うものを含む危険性が高い。というか、ほとんどの場合は、よくない体験になりかねないのではないでしょうか。
当人に悟りの力がなく、単に、第六感的な感覚が一時的に開いたとしても、その人には、そのビジョンを理性的に、客観的に洞察・分析する判断力は無いでしょうから。
思考力が未熟なままでの、霊的妄想は、それが妄想であるがゆえに、かえって人を、誤謬と迷いの世界へ放り込むだけのことかもしれない。

その点を考えると、シュタイナーがこの文章のあとに述べている、次の文章の意味も、よくわかるのではないでしょうか。



十六枚の蓮弁のうちの八枚は、すでに太古の時代に開発されており、修行に際してそれらが自然にふたたび活性化されるということはすでに述べた。修行者の努力は、したがって他の八枚の蓮弁の開発に向けられねばならない。
行法が間違った形式をとる場合、太古の時代に開発された部分だけが活性化されて現れ、新しく形成されるべき八枚は凋んだままの状態におかれる。論理的思考や理性的態度に対してあまりにも無関心な行法の場合に、このようなことが生じる。
神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。




人類は、太古の時代には、素朴な意味での「霊能力」を実は持っていた、という話は、よく聞きますね。
ふつうの魂であっても、霊的世界を感じ取り、霊の姿を見たり聞いたりすることが出来た。

これは要するに、太古の時代に開けていた霊能力であって、これがシュタイナーの指摘している、16枚の蓮華器官のうちの、8枚分の器官のことらしい。
この部分が活発になると、霊的感覚が開かれ、たしかに霊的世界を見たり聞いたり出来るそうですが、しかし現代においては、ほとんどの人はこの器官は閉じている、とも言います。潜在化してしまって、いまは活動していない、眠れる器官と化している、ということですね。

それが閉じているからこそ、人類は、思考の力を鍛えたり、理性の鍛錬に励んで、みずからの認識力を鍛える歴史を歩んできたのだ。
というのが、シュタイナーの霊的進化論の要旨ですが、

これは、宗教の時代が中世末期から、徐々に失われる半面で、理性の時代が到来して、政治哲学や人権思想その他の、啓蒙主義哲学の文明が勃興してきたのと、似ているように思います。

そうした理性の時期、思考力を鍛える時代を経て、その後になって、ふたたび、宗教の時代が帰ってくる。
理性を含んだ、宗教理解の時代が、そこには現れてくることでしょう。

素朴な霊能力の時代が過ぎ、その後、霊感を失った人類は、論理的思考力や理性を鍛える時代を生きてきましたが、
それではやはり、世界の真実は掴み切れずに来ましたね。
それゆえ、今という時代に、霊性の時代が復活しつつある。
それは、単なる、素朴な霊性の復活ではなくて、理性的な目を持つに至った、進化した人類がふたたび学ぶ、さらなる高みの霊の時代、ということです。

ゆえに、素朴な霊能力の開発は、単なる先祖返り的な過去戻りでしかないわけであって、そこに理性や思考力を含んだ、より高次の霊的認識を得るのでなければ、現代的な意味はない。
とわたしは思うし、シュタイナーが何度も指摘しているのも、その点ですね。
高度な思考力や理性を欠いた人間が、単に、霊能力は面白い、霊能バンザイなんて形でのめり込んでも、その人には、真理を理性的に考察する力がない。霊的に見た姿や声を、正しく分析して判断するだけの見識が備わっていない。
見たものをそのままに盲信して、自分の力に己惚れる。
それは、単なる太古帰りの素朴な霊感体質というに過ぎず、優れた魂の証明でも何でもないのですけどね。むしろ、悪霊に翻弄されかねない、未熟な人間としての危険性の方が高い、と指摘してあげてもいい。

シュタイナーが指摘しているが如くに、

神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。

このことをよくよく注意して、神秘と理性のバランスを取った修行こそが、現代的な、霊性の時代の修行方法ではないのか。
と、わたしは思う者であります。




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2017年04月07日

【レオ】第一に忍耐することを特別に学ばねばならない。

いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) -



第一に忍耐することを特別に学ばねばならない。




「忍耐の大切さ」というのは、深い精神修行を語る人は、みな等しく述べているポイントだと思う。

総裁先生も、いちばん難しかったのは「忍耐」であった、と確か述べていことがあったかと思います。

忍耐、忍耐、忍耐。

その対極にあるのが、せっかち、であるとか、焦り、であるとか、あるいは、早急に結果を求める結果主義ですね。
こういう、手っ取り早い手段によって、成果を得んとする心。
これは、忍耐とは正反対の、時間を耐えることを知らない心ではないか、と思います。

本当に、長い時間を待つことが出来るだろうか。
10年と言わず、30年、50年、70年。
あるいは、今世の全生涯を通しても、望んだ成果が得られないとしても、その目的を目指して努力し続ける意志がありますか?
真理を求めるというのは、そのくらい、耐えて耐えて、求めて求めて、それでもなお得られぬかもしれない、永遠のテーマではないでしょうか。

結果主義者というのは、霊的に言うと、天狗・仙人のような世界に通じるものであって、王道ではない道につながっているようですしね。

王道というのはやはり、忍耐の先にある真理を、着実に、地道に求めてゆく姿勢なくして、辿れない道ではあるまいか。
物質主義ではなく、精神性を大切にする心。
あるいは、結果主義ではなくて、心がけや動機を大切にする考え方。
長い時をかけて、魂の成熟を目指す、着実なる進歩の道を歩む者は、決して焦ったり、結果を早く得ようともがいたり、性急な態度は採らないものですね。
忍耐づよく待つ心がある。淡々と、日々を努力して生きることを知っている。その大いなる心が、その人の魂に落ち着きを与え、外見にもその落ち着きが現れるのではあるまいか。

ルドルフ・シュタイナーは著書「いかにして超感覚的世界の認識を可能にするか」で、続けて、つぎのように述べています。



魂と霊の育成のために、私はどんな努力も惜しまない。
しかし高次の存在たちが私のことを悟りを得るにふさわしいと見做してくれるまでは、まったく静かに待ち続けるつもりだ」。
この思考内容が自分の性格の一部分になるまでに深くそれを心に作用させうる人は、正しい道の上に立っている。
その時はすでに外見の上にもこの性格的な特徴が現れてくる。眼差しは落ち着き、身のこなしに確かさが加わり、決断力が増してくる。神経質な要素も次第になくなる。





悟りとは、安直に手に入るようなモノではありませんからね。
それに相応しい魂にみずからがなるまでは、決してわからない世界のはずでしょう。
その悟りが得られるのは、いつの日か。それは定かではないけれども、その日を夢見て、淡々と、努力精進を当たり前のように、日々実践できる人ほど、王道を歩んでいる仏道修行者と言えるのではないでしょうか。
そういう人の特徴は、落ち着いた眼差しや、穏やかな性格などとして、現れてくる。
繊細な魂は、得てして神経質だったりしがちだけれども、やがてそうした神経質さも消えてゆき、本来の、繊細なる精妙なる心へと、成長してゆけるのではないか。
それが、王道を歩んでいるかどうかの、一つの物差しなのかもしれません。

次の言葉も、興味深い指摘ですね。



次のような言い方は何の役にも立ってくれない。「私は前世の生活を知りたい。その目的のためにこそ神秘学を学びたいのだ」。むしろこのような願望をすべて捨て去り、しばらくは何も意図せずに学ぶことができなければならない。このような意図をもたずとも、学習に対する喜び、その学習内容に対する畏敬と帰依の念が強められねばならない。そうすることによってのみ、成就させるにふさわしい真の願望を持つことをも、同時に学べるのである。





まるで超能力願望か何かのように、スーパーマンのような超能力や、霊能力を得たい、あるいは自分個人の隠された秘密だとか、前世のことを知りたい、だとかいう目的ですね。
そういう能力獲得願望のために神秘学を学ぼうというのは、ある意味、興味本位の態度で、摩訶不思議な世界に興味を持っているだけの話で、修行態度としては不純でしょう。
宇宙の叡智だとか、大いなる神秘そのものを知りたい、だとか、途方もない秘密ばかりに興味を持って、あるいは摩訶不思議な秘密ばかりに興味を持って、それ目的で真理を学んでも、その真理の本当の意味は理解できないだろうなぁ、と私は思います。
永遠の真理は、仏神への信仰の世界であり、仏神から流れる慈悲の世界でしょう。そうした叡智を知るのに、信仰なき態度、愛なき心でもって、その秘密を知らんとしても、本当の意味での理解は決して出来ないでしょうからね。
単なる知識欲だけで、神秘を理解できると思ったら大間違い。それは邪まなる態度、興味本位の気分でもって、神の叡智を覗き見しようという邪心ではあるまいか。そういう反省もあり得るはずですからね。
シュタイナーが言うように、畏敬の念と帰依の心なくして、神秘学の奥義を知ることは出来ない。字面だけ暗記しても意味はない、それは理解ではない、ということですね。



真の忍耐の中での温和と寡黙とは魂のために魂界を、霊のために霊界を開示してくれる。

直ちに魂と霊の世界を見聞きできるなどと期待するな。

ふさわしい成熟に達したなら、いつかはそうあるべき自分になるであろう』という想念をその間にも深く心中に刻み込んでおけ。恣意的に高次の力を引き寄せようなどとは決して思うな」。これははじめて道を歩むに際して、すべての神秘学徒が師から受ける教えである。この教えに従う者だけが進歩する。この教えを守らねば、どんな努力もむなしい。




これは、霊能力信仰に陥りがちな、邪な態度で真理を学ぼうとする者に対する警告であり、鉄槌であろうと、わたしは思います。 知ったつもりになるな。理解できたと思うなよ。ということですね。 外面的に、知識的なことを理解したつもりでも、魂の認識として本当にわかっているのか、どうか。 心の変革を行なわないでいて、神秘を知ることが出来るなどとは、思うなかれ。ですね。



あなたの知っている秘密の知識を伝授して下さい、しかし私の今までの感情と表象はそのままにさせておいて下さい。
もし師に対してそのように要求するとすれば、その人はまったく不可能な要求をしていることになる。その人は単なる好奇心、単なる知識衝動だけを満足させたがっている。このような態度では神秘知識を獲得することは決してできない。




自分のいま現在の、不完全な理解力、わがままな性格、問題の多い性格や考え方はそのままにして、まるで変えるつもりもなく、要するに、正しき心の探究は<無し>で、変革の意志などサラサラ無い。 
そうした現状維持の自分であるにも関わらず、神の叡智、永遠の真理を知りたい、というのは、本来、知る資格が無い分際で、それを知りたいと主張している<わがまま勝手>以外のなにものでもない、ということ。 
神の叡智を知りたくば、己の心を、神の使徒たるに相応しい、神近き心を持つための自己変革を行なう以外に無いはずなのに。 心は未熟なままで、神の叡智を教えてくれ、という自分勝手、わがままですね。そんな甘っちょろい態度で知ることの出来る叡智など、この宇宙には有りませんからね。 
幼稚な精神が知ることの出来るのは、その幼稚なレベルに相応しい範囲での、ささやかな理解でしかないでしょう。 亀が、亀の歩ける範囲の世界をすべての世界だと思い込んで、慢心していたように。







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2017年04月06日

【レオ】蒔いた種を刈り取ることが出来る「ありがたさ」

ふつう、カルマの法則というと、前世で犯した悪さの報いを受けるとか、そういった重苦しいイメージを持っている人のが多いのではないだろうか。

なぜそうなるかと言えば、
人は、人生で悩み苦しんだりする時に、神秘やスピリチュアルの知識を求める。
そして、そういう経緯でカルマの法則を知ることが多いがために、

苦しみの原因は前世にある。
前世かくかくしかじかの行いをしたがために、あなたは今世このような苦しみを担うはめになったのである。

という理解が、カルマ理解の中心になりがちだから、ではないだろうか。

アドラーの霊言を読んでいて、ふと、そう思ったので記事に書いてるんですけどね。

蒔いた種は刈り取らねばならない。

前世、よくないことをした結果、今世、苦しみが結果として、現れてきている。

マイナスの原因が、マイナスの結果になっている、という原因分析ですね。
これによって、自分の悩みの原因を知りたい、解決したい、ということでしょうか。


けれども、公平に言って、カルマの法則というのは、
悪因悪果だけではなくて、善因善果も同じくらいあって、不思議はないはずなんですよね。
善人の魂の方が、悪人の魂の数より多いなら尚のこと。

悪因悪果よりも、善因善果を、もっと思う必要もあるのではないだろうか。

これは、今世、自分に優れた才能があったり、善き性格が備わっていたりしたら、
自分の魂の兄弟姉妹が、前世がんばってくれたということでもあろうし、

あるいは、積極的人生のすすめとしては、
今世、善い思いと行ないを続けていけば、その結果として、善き結果が現れてくる。
それは今世の収穫であることもあれば、来世の収穫にもつながる、カルマの善き働きの面ですね。そこに注目したい、ということ。


ふつう、そちらにはあまり目が向いていないのではないだろうか。

けれども、自分が持って生まれた性格や特技、得意なこと。こういったものは、大抵の場合、前世どこかで自分が体験して、磨いてきた能力の結果であったりするわけでしょう。

たとえば、今世、子供の頃から絵が上手だったとしたら、それは偶然ではなくて、おそらくは前世のどこかで、趣味レベルかプロの画家かは知りませんが、絵を描くということをそれなりの期間、この魂は経験を積み重ねているはずなんですよね。


今世の才能は、前世までの努力の蓄積である。

これは真実だと、わたしは思います。

対人能力にしても、人との付き合い方が非常に上手な人というのは、前世においても、対人能力を磨いた人生を生きたのではないでしょうか。
商売で多くの人の相手をした、だとか、多くの人と交流するような人生を生きた過去世を持っている、だとかね。

学問的な知性にしても、過去世よく勉強した魂は、生まれ変わった来世でも、やはり勉強がよく出来るようになる可能性が高いんですよね。
運動の才能にしても、そう。

才能とは、過去、自分が成してきた努力の質と量の蓄積のことである。

こういってもいいのではないでしょうか。


だから、

蒔いた種は、刈り取らねばならない。
という、マイナスイメージのカルマ理解だけではなくて、

蒔いた種を、刈り取ることが出来る「喜び」
という視点も持つ必要があるでしょう。

それは、前世の自分に対する感謝にもなるし、
来世の自分のために、いまの人生を「生き切る」ことの大切さを知る。
そういう責任感にもつながるでしょう。

発展的に、肯定的に、自分の人生を捉えよう。

今世、努力したことの多くは、必ずしも直接的な実りにはなっていないかもしれない。

絵を描く勉強をしたけれど、画家やイラストレーターにはなれなかったかもしれない。
けれども、少しだけでも絵の腕を磨いたことは、来世にも、絵を描くことの上手な才能として、持ってゆくことが出来るんですよ。
ということ。

野球部に入って、厳しい練習をしてきたけれども、プロ野球選手にはなれなかったかもしれない。
けれども、そこで鍛えた根性だとか、運動神経だとか、持続する精神、その他。あらゆる精神的特質や、肉体を操るセンス、とかですね。
こういった鍛錬の蓄積は、来世にも、なにがしかの才能の一端として、持ってゆくことが出来る、ということ。


蒔いた種を、刈り取らねばならない、ではなく、刈り取ることが出来るのだ、ということ。

善き種を蒔いて、善き収穫を得ようではありませんか。

それは来世の収穫になるかもしれないし、来来世の収穫になるかもしれないけれど、確かにその種は、何かの実りを生んでいるのであって、決して消えることはないのである。
それを信じようではありませんか。





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2017年04月05日

【レオ】褒めて伸ばすか、欠点を注意して教えるか?

基本的には、人は「褒めて伸ばしてあげる」方が良いのだと思う。

当人的にも、褒められながら成長していった方が、喜びながら成長できるのだから。
それに対して、良くやっても褒められず、失敗した時ばかり注意するといった「減点主義」スタイルの教え方をする人は、他人を伸び伸びと生長させることは出来ないに違いない。

仕事に関しても、
リスクを減らすために、チェックを増やしたり、書類を増やしたり、あとは経費削減とか、こういったマイナスチェックに主眼を置く人は、
ミスは少なくなるかもしれないが、ちんまい人間になる危険性が高いでしょう。
官僚的なお役所仕事には向くかもしれないが、スケールの大きい人物にはなりにくくなる。
リスクや失敗を恐れるあまりに、過度に神経質になりすぎると、人は伸び伸びと生きる大らかさを失う。

得てして、仕事一点張りでクソが付くほど真面目すぎる仕事人間には、減点主義のタイプが多いように思う。
しかし、このやり方では、部下は伸び伸びと成長するのは難しいだろう。
最初のうちは、小さな失敗は大きな経験やで〜!、くらいの大らかさでもって教え、積極的に褒めて、伸ばしてあげるのが、先輩や上役の度量であり、愛情ではあるまいか。と、わたしなどは思う。

減点主義であって、欠点にばかり目が行って、ミスをすると注意するが、成長した部分は別に当たり前、褒めてもあげない、なんていうのでは、教え方としては下の下だと、わたしは思うんですね。
本来はその逆で、褒めて褒めて伸ばしてやり、ときどき危ない点は注意すると、そのバランスが大事だと思うのだけれど。

減点主義者というのは、欠点や失敗には厳しいが、長所や成長の伸びしろは見てあげない。出来て当たり前、出来ないと注意したり叱る、というやり方では、親が子供を教える場合にも、上手くいかないだろうと、わたしは思う。子供の立場になってみればいいのだ。

頑張っても、それは当たり前で、ダメなときは叱るというのは、
最初から、成長先のハードルが高すぎるんですよ。
親の目で見たハードルの最低ラインが高すぎて、そこに到れば、当たり前。行けない場合は、減点で足りていない、叱る、ということでしょう。

これは、姑と嫁の争いなんかも似たところがあって、姑は自分のやり方を良しとしていて、それに近いところまで行けて当たり前、足らざる場合は、ダメな嫁だと言って叱るわけで、そうなると、嫁の方はふてくされるのが当然なんですが。

結局、
減点主義者というのは、エゴイスティックで自己中心な人、くそまじめすぎるタイプに、多いように思うんですね。
エゴイスティックというのは、自分のやり方を良しとしていて、というか、それを最上級のように思っていて、そこに近いか近くないかで、他の人の在り方に、優劣をつけるわけでしょう。自分の立場でしか実はj見ていない。
まったく違うタイプは理解できず、褒めてもあげずに、自分のやり方こそを良しとして、それに固執して、そこを合格点として、至らざる場合はその足らざるを叱る、注意すると。

失点ばかりを注意されて、喜んで頑張る人はいませんから、これはやはり、教え方の未熟、みずからの度量の狭さといって、反省すべきところがあるのではないかと思う。

足らざるを注意するのなら、足りているところは、その倍くらい褒めてあげて、ちょうどいいのではあるまいか。

要は度量の問題。寛容さだとか、大らかさだとか、懐の深さ、キャパの広さ。自分と違った在り方を良しとする、魂の器の大きさですね。
これは、指導者、リーダーの必須条件の一つではあるまいか。

クソまじめに過ぎて、あとは自己視点に偏りすぎて、偏狭な減点主義者になっていないかどうか。
子供や部下に対して、褒めること少なく、注意することばかり多い、そうした態度で生きていないかどうか。

生かす愛のレベルというのは、これを克服して、自己の視点からは徐々に離れていき、その相手の成長そのものを見守る。そういった境地でこそ芽生えてくる、他人を生かせる視点の獲得、ではないかと思うのでありました。




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