2017年03月10日

【レオ】品性のある人は、下品な言葉は嫌い

 … なのだから、下品な言葉は見ただけで、弾かれるもの。

ということが、下品な人たちには、わかっていないらしい。


下品な人たちは、その邪悪な不平不満を、思うがままにブチまけることに夢中で、
その怒りを言葉の表現そのものの中に投入してゆく。
怒りの激しさは、言葉の激しさとなり、激しい憎しみは、暴言、悪口雑言の嵐となって、
心が邪悪な怒りに満ちているほど、その言葉もいっそう醜く汚いものになってゆく。


地獄の悪霊、悪魔たちの、言葉の汚さ、下品さを見るがよい。

そこに表れているのは、心の醜さであり、その心が荒れているからこそ、言葉も荒く汚いのだ。


ベーという悪魔の言葉の下品さは、霊言を読めばわかる。
これを見れば、
似たような、下品な言葉づかいをして憚らないP吉のような人間は、この手の悪霊に好き放題操られる理由が、よくわかる。
言葉と思いの邪悪さが、ものの見事にシンクロして同通しているからですね。
心が同じ邪悪さで共通しているから、類は友を呼ぶで、悪魔・悪霊の手先になるわけだ。
傍から見ると、その同類ぶりがよくわかるのに、肝心の当人はまるで自覚が無い、魔の操り人形となっている。

いかに邪悪な意志を持った悪魔・悪霊であっても、
心が善性で満ちた人に、完全に取りついて操ることは出来ない。
心が違っていて、同通できないからだ。
接続できない以上、操ることも出来ないのは、理の当然。

波長同通の法則があるお蔭で、
人は、自分の心を正しくコントロールして、善に生きれば、悪に翻弄されることなど決してないのだ。
悪魔・悪霊は、その人のそばにいる、操れる人間を使って、間接的に惑わしてくることはあるかもしれないが、
その人本人を、直接的に惑わして、操ることなどは出来はしない。
家族全員が善人であれば、その家庭に入ることすら、悪霊には出来ない。
光の出城とは、そういうことだ。


品性の低劣な人たちは、自分の不平不満を、世に喧伝して聞いてもらいたいのだろうか、
あいにくなことに、

多くの人は健全な心の持ち主であって、善なる心を持って生きているのだ。
だから、彼らに共鳴してもらうためには、
自分自身が、善い思いを持ち、善き言葉を発する、品性のある人間にならないといけない。
邪悪な思いを、激しい言葉で訴えても、まともな人には知らんぷりされるのだから。

そのことを、下品な人たちは知らないのかもしれない(笑)。

といっても、下品な心のままで、言葉づかいだけ丁寧を装っても、その心根の卑しさは、その言葉の中身に出るからね。
善人をあざむくことは出来ないよ、ということも、付け加えておきましょう。


おしまい。




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【レオ】品性が大事 魂の善悪の分かれ目

儒教で言われる「君子」という言葉には、「品性」の出来た人間、という意味合いが含まれるそうだ。安岡正篤さんの言葉。

司馬遼太郎さんは、武士たちによって保持されてきた日本人の「品性」ということを語っている。

「自助論」を書いたスマイルズは、幸福の科学の霊言に登場して、品性や人格について書いている著作について語っている。
自助論のもう一つの側面には、「人格を高める」という意味があって、これが大切だと述べています。

品性とは何だろう。

上品、下品、という言葉がありますが、
八正道の観点でたとえば考えてみたら、

上品な人は、言葉づかいも丁寧でしょう。しかし、下品な人は、言葉づかいが下劣ですね。

あるいは、

上品な人は、その心根が善性で満たされていて、優しい心の持ち主だろうけれど、
下品な人は、自分勝手で、わがままであったり、要するに、エゴイストの自己中、すなわち、霊的に言うと、悪霊的な心であることが多いのではないか。

正語、正思、さまざまな観点で見ても、その心の状態の善悪が、歴然と見分けられる。

品性の出来た人間と、出来ていない人間。
上品な性質の人と、下品な人間の違い。
それは、心の状態の良し悪しに、その多くを負っている。

言葉を見ればわかるし、その元にあるのは、心ですね。心の良し悪しがあって、それが言葉の美しさと汚さになって、現れている。

世の中には、さまざまな人間がいて、そこには当然、品性の高い人間と、下品な人間が、玉石混交の状態で混ざって生きています。

ネットにも、その縮図の世界が展開しているから、
当然ネット世界にも、品性の高い人もいれば、下品な人間もいる。

姿形は見えないことが多いですが(写真でも掲載していない限り)、
言葉が展開する世界ですから、
その人の語る言葉を見れば、品性の良し悪しは、おのずと明確に分かれることでしょう。

品性の高い人は、善を志向し、言葉も丁寧だし、その思いも生産的で発展的、愛と喜び、優しさ、同情心、そういう思いが多いのではあるまいか。

一方の、
品性の悪い人は、自分勝手な文句だとか、不平不満、他人の悪口、そういう自分を棚に上げての、他への文句ばかりを言っている。生産的で、あたたかな思いだとか、人間としての優しさに欠けている。

こういう違いを見たら、魂としての善悪。天国的な魂であるか、地獄的な魂であるかが、まさに、その言葉づかいに表れる「品性」の違いとして、あからまに表現されている。

清水富美加さんの自著のレビューを見ると、さまざまなレビューが寄せられています。
その他の本や映画の感想などでも、ネットでは、意見をもの申したい人のレビューが多く出回りますが、
どんなに面白い本や映画であっても、偏屈で否定意見を述べている人が必ずいますね。で、その人の意見は、単なる自己中な不満に過ぎず、じゃあ、あなたは何か素晴らしいモノを持っているのですか?と問うたら、そんなものは有りはしない。
不平不満ばかりを言っている人間には、注意しましょう。それは単なる、毒でしかないのだから。ネットに出ているといっても、重要な発言というわけでもない、単なる一人の毒舌が、活字になっているだけのこと。

ネットにおける発言の玉石混交というのは、無名の個人の発言に過ぎないのに、それがまるで大きな発言であるかのように、過大に評価して反応してしまうことにも、あるのかもしれません。無視がいちばんです(笑)。

善き言葉を語りましょう。
善き思いを抱きましょう。
正しく一生懸命に生きている他の人に対しては、優しさと、同情心と、出来うれば、応援して励ます人間愛が欲しいものです。
その心は、必ずやその人の語る言葉にも、善き言葉づかいとなって表れる。

下品な言葉づかいをする人は、その心根自体が下品です。
品性の高い人間が、下品な言葉づかいや、暴言悪口を言い続けて、善き言葉をまるで言わない、なんてことはあり得ないことですから。

言葉を見れば、その人の「品性」がいかなるものかが、わかる。
品性の大切さ。忘れずに生きてゆきたいですね。







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2017年03月07日

【レオ】そこに価値があると信じる人こそ … 

真に学び、理解することが出来る。

どういうことかといったら、

人は「何かを学ぶ以前」には、その「何か」について、まだよくは知っていない。
しかし、知ってはいないけれども、その「何か」には、学ぶだけの重要な意味がある。

そう思ったことは、真剣になって学ぶだろう。
少なくとも、わたし自身は、そうだ。

何かを学ぼうとする時、その「何か」を知りたいと思う。知ることで、自分の認識力や判断力、教養が広がると感じる、想像する。
だからこそ真剣になって、その「何か」を学ぼうと努力する。

「学ぶ」以前に、その「何か」には重要な価値がある、そう「信じる」ところから、わたしの学びは始まる。学ぼうとする「意欲」は生まれるのだ、と思う。


歴史を学ぼうと思うとき、それが、自分には関係のない、どーでもいいこと、などと思っていたら、その「歴史」に興味すら覚えないだろう。
興味がわかないことを、学ぼうとなどするわけがない。
世界の国どころか、日本の歴史にも興味がわかなければ、歴史には全く興味の無い人間になってしまうかもしれない。

宗教もそうだ。
仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、あるいはその他の宗教でもいいけれども、
その「宗教の教え」を学ぶことに、価値がある。大切な「何か」がそこにはあるのではないか。
そう想定して考える人は、一生懸命になって、その宗教の教えを学び、理解しようとするだろうけれど、
宗教など、どーでもいい、興味なし、となれば、学ぶどころか、本の一冊さえ手に取ろうとはしないだろう。

学ぶ以前に、そこには「何か」大切なものが隠されているのではないか。自分はまだ知らないけれども、多くの人にとって大切な、何かがあるのではないだろうか。

価値の再発見、ですね。


その著者は、その価値を知っていて、その本を書いている。宗教にしても、歴史にしても、文学にしても。
そのものを著すことが大事なことだと思って、その書を書いたに違いない。

わたしは、その「何か」をまだ見たことがなく、読んでもいないけれども、何かがあるに違いない。


わたし自身は、聖書を初めて手に取った時、
その本には、神について知るための手がかりがあるはずだ。きっと「何か」があるはず、と期待して、読んだことを覚えている。

価値の再発見。素晴らしい何かがあるはずだという期待。


人は、自分が知らないことを、新たに知ろうと欲する時。
まずは、価値あるものの再発見、そのことへの期待を持たないと、前に進まないのではないか。

数学を学ぶにしたって、
数学や算数なんて、生きる上で別に必要ないや、といって価値否定に走れば、
その人は、数学的な考えを学ぶどころか、そもそも興味すら持たないようになるだろう。
ピタゴラスが三平方の定理を発見しようが、ライプニッツが微分積分法を発見しようが、その人にとっては、そんなことはどーでもいい、関心の外のことなのだ。

しかし、関心がなく、知ろうともしないということは、そこにある「価値」を、その人は決して「再発見することなく」生きてゆくことを意味するだろう。

わたしは、いろいろなことを知りたいと思うし、
価値のあることは、出来得るかぎり多く、知りたいと思う。

自分の身の回りで起こること、自分にとって喫緊の重要テーマだけでなく、
自分の外に広がる世界には何があるのか。
世の中はどのように動いているのか。どのような歴史を人は歩んできたのか、その歴史を知りたいし。
偉大なる宗教の教えや、科学の発見、素晴らしい文学、音楽・芸術、その他。

人類がいままで築いてきた、偉大なることの全てを、出来うれば、知りたいと思う。

知れば知るほどに、
自分が今まで学んできたことは、それらのうちのほんの一部に過ぎず、
世の中には、まだまだ自分が知らない「大切な価値あるもの」が、たくさんあるのだということがわかってくる。
知れば知るほどに、自分の足らざるを思い知る。無知の知、とは、そういうことだと思う。


そこに「価値あるもの」が眠っていると、信じることが出来るか。期待できるだろうか。

価値の再発見の前には、期待の心が必要だ。それがキッカケとなって、探究心が生まれてくる。興味が生まれてくる。
どーでもいいことだ、という無関心からは、探究心は生まれてこない。

真理の探究、菩提心は、
真理そのものに価値があることを、潜在的に知っているからこそ、人はその真理を切実に求めるのではないだろうか。

神の存在を知り、神の教えを知り、神の愛を求めて、
必死になって、その道を歩まんとする時、

いまはまだ到達できていない、その素晴らしい世界の存在を、
実は、自分の心の深い部分は、知っているのではないか。

過去世において、法縁深く、よく宗教の教えを学んだ者は、
神の教えを求めることが、当たり前のようにして、
若き日から、探究の気持ちを持つに違いない。
それは、心の奥で、実はすでに知っていることだから。

その他の学問や芸事にしても、
自分がかつての生涯で、よく経験したことは、その「価値」や「面白味」をその人は知っているのであろう。
だからこそ、そのことにすぐ興味関心が湧いて、手を伸ばし、当たり前のように学んだり、体験を深めたりしようと、意欲するのではないか。


大切なのは、そこに価値があるのだ、ということを、
まずは、信じること、から始めるのでなくてはならない。

価値を知らない人には、
その価値を知る人が、切々と語って、そこに大切な何かがあることを、
感じさせないといけない。
そうでなければ、知らない人は、興味すら覚えないからだ。

伝道の必要性とは、そういうことなのかもしれない。






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2017年03月05日

【レオ】「考える」ということ

総裁先生は「八正道の再発見」で、

反省が出来ない、出来ない、というけれど、
反省が出来ないのではなくて、それ以前の「考える」ということが出来ない人が、ほとんどなのである。
ということを、おっしゃっていました。冗談まじりですけどね(笑)。

要するに、自分の心を見つめて深く反省するためには、じっと静かにして、自分の心を見つめる時間を持たないといけない。
そのためには、集中力も必要だし、孤独な時間も必要だし、その孤独に耐える忍耐力も必要だし、それから、

ひとつの物事をずっと考える、考え抜くこと。すなわち「考える」という習慣を、まずは身に着けていないと、そもそも、反省行への入り口にすら立てない、といったお話です。

すぐにテレビをつけないといられない、誰かと話していないといられない、独りで黙っているのは耐えられない。などなど … 。
なにか、すぐに手を出して、刺激になる情報を求めて、新聞を手にしたり雑誌を手にしないといられない、じっとしていられない。
という性格では、自分の心をじっと見つめて観察する、どころか、ものごとを集中して「考える」力すら、まだ身についていないのだ、ということですね。

「反省」が出来ないのではなく、実はそれ以前の「考える」ということが、実はまだ出来ていないのである、ということ。

何かを見て反応して、いろんなことを思うのは、考えているのではなく、「反応」しているに過ぎないのだ、ということ。

「考える」というのは、そういうものではなく、
外的な情報に条件反射で、あれを思い、これを思いと、思いがポコポコ勝手に浮かぶ状態を言うのではなくて、

自分で意志して、これから5分後に、こういうことを考えよう、このテーマで考えてみよう、といった風に、自分の意志によって思考をコントロール出来ること。

外的な情報に振り回されている状態は、自分が主体性を持って「考える」レベルには、まだ達していない「反応」人生、ということなのでしょうね。

一方の、「考える」習慣を持った生き方というのは、自分で主体的に意志して、考えるテーマを決められる。自分でこれを考える、と決めた方向性で、ものごとを集中して考え抜けること。
そうした集中思考、主体的なる思考を、みずからコントロールできる状態だということ。


独り座して、黙考する、とか。
瞑想状態で、自分の心の奥深くにあるものに、思いを馳せるとか、そういったことは、

ひとり静かに、心を落ち着けて、自分の心にあるものに集中して、そこに何があるのかを、徹底的に観察することなくしては、出来ないことかと思います。


人は、外的な事物を見てばかりであったり、誰か他の人と話しているばかりであったり、あるいは、本を読んだり新聞を読んだり、テレビを見たりもそうですが、
そうした「反応」ばかりに時間を使っていると、自分自身の心と向き合う時間が無いし、そもそも、自分の心を知らずに生きている人が、相当数いるのだろうなぁと。
そんな風にも思いますしね。


なにも無いところで、たとえば目を瞑る、電気を消して、刺激物を消し去る。
その状態で、自分の心と、一時間二時間と向き合えるだろうか。
それだけの精神集中と、自分の中にある思考や思いにのみ目を向け、それを観察できるだろうか。
第三者の目でもって、自分自身の心と、対峙できるだろうか。

これが出来ないと、自分の心を振り返り見て「反省」する、ということは、なかなか出来るものではないのでしょう。奥は実は思っている以上に「深い」ということでしょう。


レオナルド・ダ・ヴィンチは、

立派な画家は、孤独でなくてはならない、と言っていたそうです。

そのこころは、

作品を創るときに、自分と語り合う環境を作るため、なんだそうです。
孤独でないと、自分自身が、自分のものにならない、と言っています。
人間は独りでいるとき、はじめて、自分を、完全に自分のものに出来る、と。
自分の心に何があるのか。
それを知るためには、孤独の時間がどうしても要る、ということなのでしょう。

優れた作品を残したいと思うなら、画家は自分と深く語り合いながら、作品の制作を進めるべきだ、と。

多くの人と付き合うことも大切だけれども、他の人たちの意見に振り回されてばかりいると、自分の心が何を願っているか、何を求めているかが、わからなくなったりしますね。
それでは、自分の心の奥から湧き上がるテーマ、心そのものが描きたいと思う絵が何であるかが、わからなくなる、ということでもあるでしょうか。

心を見つめる時間を持つ … 大切なことですね。





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posted by ガンレオ at 15:46 | Comment(2) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】パクリについて <2016-12-20の記事、追記あり>

わたしは、あからさまなパクリ行為は大嫌い。

しかし、ある時、会社の後輩が、
いやぁ、ぼくらの世代は、パクリなんか当たり前ですよ、とか言ってきました。

それは違うだろ!とわたし。

誰かの作品に啓発されて、似たようなアイデアを使ったり、そういったインスパイアですね。
刺激を受けて、似たようなものを書く。模倣する、というのはいいでしょう。
まったく完全なモノマネではなく、しかも、インスパイアの場合は、オリジナルに対しての敬意があるでしょうからね。

最初は誰しも模倣、ものまねから入るものだし、そこから努力を積み重ね、自分独自のものを生み出すように成長するのが、習いの常でしょうから。

オリジナルの傑作に対して、大いなる尊敬の気持ちをもって、モノマネをする。
オマージュ作品とかも、こういうものですね。
オリジナルに似てはいても、やはりそれは、オリジナルを称えるがための模倣であって、あえて似たようなアイデアやストーリーを描いて、大本の作品を称えている。

しかし、パクリ行為というのは、これとは違って、ひそかに盗むことではないかと思います。
盗作というのも同じことですね。
実際には、完全な盗み行為であるのに、さもそれが自分のオリジナルアイデアのようにして書く。
そこには、他者の努力のたまものを盗んで、その作品やアイデアにともなう世間の喝采を、自分のものにしてしまおうという貪欲がある。

優れたアイデアを見た場合に、それを著者に黙って、こっそり盗んで、バレないように隠れて、さも自分が考え出した、オリジナリティーある作品やアイデアのように見せかけようと企んでいる。明らかにこれは企みですね。
そして、オリジナルが優れていれば、当然その作品に対しての賛辞が得られるでしょう。
これまた、本来は、オリジナルの作者が得るべき賛辞をも、その盗作者は盗んでいるわけですよね。

作品を盗むだけでなく、その作品への絶賛評価をも盗んでいる。
他人の努力と功績を盗んで、それを自分の手柄にしようとしている点で、こうした盗作やパクリは<悪>だと、わたしは思います。

中国や韓国が、日本人の作品を、許可も取らずに勝手にアイデアを盗んで、ソックリの作品を作ったりしていたら、これは盗みであり、悪であると私は思います。

仏教で言っても、これは<貪>でしょう。
自分の努力や成果でもないものを、得ようと欲する。他の人が生み出した果実のみを欲しがる。それへの賛美を欲しがる。自分が得るには値しない評価を求める思いは、貪欲というしかありません。

それから、<盗むなかれ>の不偸盗にも完全に引っかかっていると、わたしは思う。

それが盗みでない、パクリでない、悪意でない、と言うためには、
オリジナルの著者に敬意を表して、なおかつ出来れば、著者の許可を取ってアイデアの借用を許してもらうとか、これは誰それの作品へのオマージュです、とか、そういった敬意を表しての作品づくりをするはずだと思うんですよね。

それをやらずに、ひそかにパクるのは、盗みであり、貪であり、悪である。
わたしは、そう思います。

インスパイアして、似たような作品を作るといっても、やはり単なる亜流で二番煎じであっては、オリジナルを超えられないのが普通ですしね。
なぜ、そうなのかと言ったら、
オリジナルには、その作品の背後に遥かに深い思索と思いがバックボーンとしてあって、それが結実しての、その作品であるのに対して、

盗んだ人のパクリ作品には、それだけのバックボーンなり、背景がないからでしょうね。
出来上がった結果のみパクったとしても、それを生み出すための根源部分を、その盗作者自身は持っていないから、いくら結果だけ真似しても、それは単なるイミテーションの二流であり、深みがないんですよね。

オリジナルの作者は、類似のレベルの作品を、今後もドンドン生み出してゆくことでしょう。
しかし、それをパクっただけの人は、自分自身でアイデアを生み出す能力は持っていない。
オリジナルの優れた作品を生み出すためには、その人自身に、どれほどのバックボーンとしての、蓄積なりイマジネーション能力なりがあるかに係っている。
結果だけ盗んでも、その大本の才能自体を盗むことは出来ない。
それが、オリジナルのアイデア者と、パクリ者との決定的な差かと思います。

中国や韓国が、アメリカ製品や日本製品を解体して、その技術を盗んで安売りしようとも、それを超える新技術を、彼らはいつまで経っても創造できないのではないか。
結果だけ盗むという行為は、そこまでに到る技術開発や創造の力を身につけることをサボって、出来上がったものだけを盗む行為でしかない。
どうせ学ぶのなら、作る過程で必要となる、オリジナル者の考え方、その才能にこそ学ばないと意味がない。
そうでなければ、自分自身の才能が育つことは、金輪際ないのだから。


だから、パクリはダメです。

たまたま、同時期に同じアイデアのものが出る。そういう偶然はあるかもしれませんが、その場合は、双方ともに、傑作の名をほしいままにすることでしょうしね。
優れたアイデアは、その背後に、深い思いと発想、思索、熟考、作者の実体験から来る重みとか、いろんなものがあるんですよね。
そうでなければ、スゴイオリジナル作品、オリジナルアイデア、というものは出ないはず、ということです。

やはり、バックボーンとしての、みずから考える力、創造する力をこそ、みずからの内に育てていきたいものですね。
模倣に終始したら、終生、たんなるパクリの模倣しか出来ないままに、過ごすことになりかねませんからね。






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posted by ガンレオ at 09:23 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

【レオ】ラファエロ 〜「ルネサンスの歴史(下巻)」より〜




レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、と来たら、ラファエロを書かないわけにはいかないですよね〜。




ということで、「ルネサンスの歴史」から、ラファエロのエピソードをひっぱり出そうとしたんだけれども、



ダ・ヴィンチやミケランジェロと違って、ラファエロは若死にで、わずか37歳で亡くなってしまっています。



なのに膨大な作品を遺している。音楽家でいったら、モーツァルトのような天才肌の人だったんでしょうね。とはいっても、ダ・ヴィンチやミケランジェロも、若いうちから天才的な才能を発揮していたから、3人ともが天才肌なんだろうけども。




ラファエロの名は高まり、教会、修道院、公私の団体から注文が殺到した。若い画家は昼夜兼行で制作にあたった。

かれを仕事から引き離すことが出来たのは、女性の魅力だけだった。かれは、褐色の髪の愛らしい感じの女を特に好んだ。美青年で、粋で、気前がよかったから、女はいくらでも集まってきた。

((中略))溢れるばかりの才能がある上に、物腰が柔らかだったから、同僚の好感を買った。



ダ・ヴィンチも美青年だったそうですが、ラファエロも美青年。ミケランジェロだけが、そうではなかったらしいね〜。



けれども、同じ美青年でも、ダ・ヴィンチは女性に関心なし、だったみたいだし、ミケランジェロも感心なさそうなので、恋に生きたのはラファエロだけ、みたいな感じでしょうか。



ラファエロは、先輩であるダ・ヴィンチとミケランジェロ、双方の画風から影響を受けているそうですが、その生き方は二人とは違って、まさに自由奔放のルネサンス人。



それゆえ、



その時代には、ミケランジェロやレオナルドよりも、ラファエロの方が受けた。かれの方が、生き方においても、芸術においても、その時代の理想をよりよく代弁していたからである。


と、モンタネッリは、ラファエロのことを評しています。



女遊びが過ぎて早死にした、とも書かれちゃっていますけどね(笑)。



ラファエロには、女性を描いた絵が多いですが、その表情は柔和で、優しさが滲み出してくるような、そんな画風ですね。




わたしがいちばん好きなラファエロ作品は、↓「アテネの学堂」ですが、



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この絵には、歴史上の有名人が沢山描かれているんですよね。




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ギリシアの三大哲学者を中心にして、それ以前のピタゴラスやヘラクレイトスもいるし、智慧の女神ミネルヴァ(アテネ)とアポロンがいますね。科学者のアルキメデスもいる。



如来がめじろおしです(笑)




他にも、ゾロアスターとか、プトレマイオス、パルメニデス、ヒュパティア、なども描かれていて、ラファエロ本人もちゃんと中に入っています。




プラトンとアリストテレスが、中央で並んで歩いてきていますが、これには次のような意味があるそうです。




WS000304.JPG

天上界の理念を重視したプラトン哲学と、地上の事物の研究に比重が多いアリストテレス哲学の違いが、二人の指先の指し示す方向によって表されているのだとか。



 



一流の絵画は、奥が深いんですね。パッと見た印象だけではなく、その絵に秘められた多くの秘密を知ってこそ、いっそう深い観賞が出来るのかもしれません。



 



 










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posted by ガンレオ at 07:55 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする