2017年02月16日

【レオ】あなたは、感謝の気持ちをもって、日々を生きていますか?

日々の仕事をしながら、最近よく思うのだけれど、
 

感謝の気持ちを持ってくれる人には、無償であっても、優しい気持ちで接してあげたいと思うものだなぁーと。

 

一方では、それを当たり前と思っていて、感謝の気持ちのひとかけらも無いような人だと、その人に対しては、最低限の対応しかしたくなくなる。

 

ギブ&テイクではないけれど、それが<人情>というものでしょう。

お金が関わる仕事関係、サービス業であっても、やはり人間が行なう以上は、互いに感謝の気持ちがあるところには、喜びの仕事がありますが。

お金を払っているのだから、当然。お金をもらっているのだから、やるのが当然。こういうお金を介したギブ&テイクこそは、感謝の失われた、悲しい関係ではあるまいか。そこには喜びは無いと、わたしは思うのです。

 

 

感謝の大切さ。

 

「太陽の法」にもありました。スズメが出てくるお話。幸福の科学の信者ならば、何度も読み返して、頭に入って忘れていないであろう、有名なお話ですが。

 

お天道様の存在。陽の光が燦々と輝き、世界を照らしてくれていることへの感謝の気持ち。

これを人間たちは持っているだろうか、というスズメの問いですね。

それから、空気があること、水があること。これらを当たり前のことだと勘違いしてやしないだろうか。空気や水があることに、感謝している人間がどれだけいるだろうか。

 

「太陽の法」で、この話を読んでいながらも、

果たして、1年365日を生きるあいだに、その一日たりとも、陽の光に向かって、ありがとう神さま。今日も暖かな光によって、世を照らし、私たちに愛のエネルギーを与えてくださって、本当に感謝いたします。

そういう殊勝な思いを抱いた日が、一日とて、あったろうか。

あるいは、空気の存在に、ありがとう神さま、という感謝の思いが、一日だけでも心に浮かんだことが、あったろうか。あるいは水を飲みながら、あー美味しい、だけではなく、この水の恵みを与えてくださっているのは、神さまなのだ。ありがとう神さま … 。

 

そのような思いを、抱いた日があったろうか。一年のうち、どれだけの時間。神さまに、与えてくれていることへの感謝を、しただろうか。

そう振り返ってみると、

 

感謝、感謝、と思想としては知っておりながらも、実践という面で見たら、ぜんぜん未熟で出来ていない自分がいないだろうか。そういう反省があって、しかるべきではないだろうか。

 

日々の仕事を行ないながらも、

 

感謝をし合う間柄には、喜びがあり、

一方で、

感謝の無いところには、単なる義務関係や、ギブ&テイクの冷めた関係しかないことを思う時、

 

人と人のあいだに必要なのは、与える愛という、互いに感謝し合う、喜びの気持ち、助け合いの精神であると同時に、

 

自分たちに、あらゆるものを与えてくれている「神さまへの感謝」を、私たちはどれほど蔑ろにし、怠っているかに、気づかざるを得ないと思うのです。

 

生命を与えてくれていること、生かし続けてくれている、この尽きぬ生命エネルギー。

それは、肉体生命のことだけでなく、霊的生命のエネルギーですね。すべての存在を在らしめてくださっている、根源的なる神さまの愛を、私たちは、自分自身の心のうちに、感じ取らないといけない。

それを知らぬは、恥ずかしいことだ。

それを感じないのは、鈍感さだ。

 

他の人への感謝の気持ちがなく、当たり前だと思っている人は、

神さまから与えられている多くのことにも、まったく気づくことがない鈍感な人間に、なってゆくのではないか。

神さまへの感謝の有無は、他の人間への感謝の有無とも、密接に関係している。

 

信仰は愛であり、愛は信仰であるのだから。

 

人と人のあいだに、互いに感謝の思いでもって、相手の存在と助力を有難いことだと思える、そうした信頼関係を構築したいものですね。

そうした関係には、喜びがあり、幸福があり、そこに、神さまの存在に気づくための、大切な愛の学びがあるのだと、わたしは思います。

あなたがいてくれて嬉しい、ありがとう。
神さま、ありがとうございます。
そう言える人間になりたいものですね。
 

 


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posted by ガンレオ at 17:30 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】ベガの戦士vs悪質レプタリアン 〜奴隷貿易で働いた悪人は誰だったのか?〜

某芸能プロダクションの社長霊言の「キーワード」に、<レプタリアン>の文字があったせいか、
今朝の起き抜けに、ふっと、こんなテーマが思い浮かんだ。

 

当会映画「UFO学園の秘密」で描かれていた、ベガの戦士と、悪質レプタリアンの戦いのシーンが、なぜか頭に浮かんで、この映画と重なるんですよね。気のせいかもしれないけど(笑)。

 

ベガの戦士は、愛する人たちを守るため、彼らの美しい心を守るために、邪悪な心を持った悪質宇宙人と<バトル>をしていましたよね。愛と正義の心でもって、戦っていた。

 

既刊の『地球を守る「宇宙連合」とは何か』にも、次のような文言があります。アンドロメダの総司令官の言葉です。

 

やはり、宇宙にも正義があるんですよ。「許していいこと」と「許してはいけないこと」があるのです。





私は、「守るべきものを守る」「宇宙の正義を守る」ということに対して、強い正義感を感じています。やはり、「宇宙において、悪は許すまじ」と思っておりますので、宇宙的正義の実現ということを、強い使命としてになっています。

我らは今、「宇宙における悪の軍団は絶対に許さない」という強い意志の下で結束し、戦おうとしています。

 
善なる心、美しい心でもって、調和して生きている人たちの幸福を、脅かす悪は、断じて許してはいけない。
人々を守るために、愛のために戦うというのは、宇宙的正義であって、普遍のテーマであるのだということ。

そういうことが、幸福の科学の<宇宙人リーディング>を数多く読むと、わかってきます。

 

 

歴史を振り返れば<奴隷貿易>という人類史の巨悪が思い浮かんできます。

この巨悪が、なぜか悪質レプタリアンのイメージと重なってくる。植民地主義や奴隷貿易。人間を捕獲して、奴隷として売り払い、巨額の利益を得るという … 。

まさに人を人として思わず、巨額のお金を儲けるための、物品か何かのように扱っていた、過去の悪行ですね。そういうものの一つに、奴隷貿易というのがある。

 

今回の悪質芸能プロダクションの実態というのは、こうしたかつての<奴隷貿易>を行なっていた悪質証人の姿と、重なりはしないでしょうか。

こういう悪事をやらかしていた魂たちが、人を売り物として扱って、みずからの私腹を肥やし、しかして、そうした売り物とされた人間たちは、まるで<奴隷>のごとく、こき使われて働かされている。彼らには人権など無いとでも言わんばかりの横暴と、権力による強制でしょう。

 

キリスト教を信じているはずのヨーロッパ諸国家が、なぜに、植民地主義などという行為に走ったのか。その背後には、悪質な意図を持った一部の魂たちの暗躍がなかったか。

未開の民族を啓蒙する、という美名のもとに、支配し、隷属化させ、彼らの人権を踏みにじった、悪質な魂たちの存在。

 

彼らの悪を許してはいけない。

過去において処罰を受けていないのなら、その過去の悪事をも暴きつつ、彼らに正義の鉄槌を振り下ろさないといけない。

愛の世界を守るために、正義の剣は振り下ろされる。邪悪を倒し、滅ぼすために。

 

悪のカルマの刈り取りは、現文明においては、違った形として現れているので、わかりにくいようにも思えるけれど、

深く物事の真実を穿ちみれば、確かに、過去の悪行のカルマの刈り取りは、現世においても行なわれているんですよね。

マヤ文明で生贄の心臓を抉っていた人が、外科医となって、人の命を救うことで、悪しきカルマの解消を果たさんと、努力することが許されているように。

 

悪質宇宙人や、侵略者、植民地主義の首謀者、それから、奴隷貿易商人たち、他の人を人とも思わず、愛の正反対の行為を行った魂たちは、いつの日にか必ずや、その悪しきカルマを刈り取るための<課題>に直面させられる。自分の悪事の本質を、みずから見つめざるを得ない状況に追い込まれ、いやでも改心せねばならぬ仕儀に立ち至る。

 

今回の某プロダクション社長の守護霊霊言。まだ拝聴していませんが、ことは宇宙的スケールの問題にまで関わっているようですから、

上のような、地球の歴史上のカルマの刈り取りも、このエル・カンターレ降臨の時代に、一挙に噴出して、その解決のときを得ているのかもしれません。

 

主の正義の光は、芸能界の闇をも照らし出し、そこに巣食う悪の存在を暴かんとしている。

本来の光の世界へ戻すべく、そこに生きる人たちが、愛と喜びの活動が出来るようにと、いままさに、照らし出しているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 



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posted by ガンレオ at 08:29 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする