2017年02月15日

【レオ】頭がいいなぁー、この人 〜わたしは軍師的な<頭の切れる人>が好きらしい〜

この記事はAmebaのLEOブログで書いただけで、ガンレオ共同ブログには転載してなかったので、遅まきながら転載しよう!!
清水富美加さんの過去世に、名軍師の過去世があると知ったので!

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LEOブログより転載、追記あり
http://ameblo.jp/space-people/entry-12204138002.html

頭の良さといっても、どんな点での頭の良さかによるので、一概には言えないと思いますが、

論理の切れやシャープさ、教養と思考力の深さ、鋭さ、そんなところで、頭いいなーこの人と感じた人はといえば、

ふたたび霊言に登場したキッシンジャー博士ね、この人の著作を読んだときに、頭いいなーこの人、と感じました。「外交」という分厚い本ですけどね。近現代のヨーロッパからアメリカまでを鳥瞰した外交史に脱帽です。

外交〈上〉 -
外交〈上〉 -
外交〈下〉 -
外交〈下〉 -

この翻訳を監修したのが岡崎久彦さんですが、岡崎さんの著書も読んでいて、頭いいなーこの人、と感じます。
二人とも、圧倒的な教養と、その教養をベースにして隙のない論理を立てて、結論をビシッと出してくるんですよね。しかもその結論も一つで決めつけたりはせずに、変数がある場合には、ケース・バイ・ケースで判断が違ってくることも踏まえて、論述してくる。

過去世を見ると、二人とも歴史に名を残す軍師なんだそうです。中国の歴史書に登場する方らしいですね。軍略家の頭の切れが、わたしは好きなのかもしれない。
そういう魂であって、今世は外交畑で働いたお二人ですが、外交の筋を読み取るためには、自分の国の情報と動きだけでなく、他国の動きやその奥にある動機も読み取れないと、その後の外交で取るべき道筋が見えませんから、相当の博識と洞察力、考察力が必要になるわけだから、頭が切れる人でなければ務まらないんですよね。

昭和の軍人で言うと、石原莞爾が頭いいなーこの人、と戦争論の講義を読んでいて思いました。論理の切れがある人って、わたしは好きなんだなーきっと。そういうタイプが頭がいいと感じます。

哲学書だと、プラトンの「国家」を読んだときに、問答に登場するソクラテスのセリフ、思考過程を追って読んでいるときに、なんてソクラテスって頭がいいんだろう。と思ったし、
それを整然と著述しているプラトンも同じく、あったまいいなーこの人、と感心しながら読んだものです。
知を極めるというのが、自分にとっては憧れなんでしょうねー。だから、アッタマいいなーこの人と思える人に出会えると、素直に衝撃を受けて驚き、感銘を受けるんでしょうね。

むろん、他にも数え上げればキリがないくらい、頭のいい人というのはいますけどね。
あげるとキリがないのであげませんが(笑)。

あーいたいた、盟友のガンちゃんね。

わたしが、ガンちゃん頭いいと思うよー、なにしろ何を言ってるかオレも理解できないくらいだから、と茶化すと、ぜってー思ってないだろ?!と返事してきますけどね。

真面目に褒めても信じてくれないんだけども、まぁー茶化すと、って書いちゃってるけど、半分は真面目に言ってんだけど、信じてくれない(笑)。

ま、冗談は置いとくとして、(・∀・) ← 冗談かよ!!

最初に、論理の切れ、と書きましたけど、論理的な思考力って大切だと思うんですよねー。

対談本でも総裁補佐先生が、数学などをやったことで論理的思考力を鍛えられたのかなーという話が、何度か出てましたけど、

縁起の理法といい、原因結果の連鎖といい、これを正確に読み解くためには、緻密に論理を辿れる思考力がないと、無理ではないかなーとやはり思うので。

まったくトンチンカンなものを原因だと勘違いしてしまったのでは、物事の正確な判断すら出来ないし、原因を究明して、それを改める作業もできない、要するに、反省も出来ないってことになりかねませんからね。

論理のつながりがない、論理が飛躍してつながっていない、なんとなくそんな感じがする、とかいうのでは、ちょっと思考力としては危うすぎるので、やはり緻密性が必要でしょう。

科学の勉強などをすると、本当の原因を突き止めるために、いろんな実験とか行いますからね。
Aという条件によって結果がどう違ってくるかを正確に判断するためには、他の条件(BとかCその他の条件)は同じにして、ただ一つの特定条件(A)の影響を観察したりする。それは実際に、器具を使っての実験もあるし、アインシュタインが行なったように、光速についての思考実験もありますが、

どのような条件づけのもとに、どういう結果が想定されるのか、とか。

その反対に、この結果を引き起こす原因は何か。
さまざまな原因が想定されるかもしれないけれど、直接原因はこれ、間接原因はこれこれ、それらが複合的に影響してどうこう、など、大きな問題になるほど、高度な思考力が要求される。

歴史の洞察にしたって、ローマがなぜ滅亡したのか、その原因を述べよと言われても、いろんな学説があるでしょう。
主原因はこれ、間接原因はこれ、等々。
その洞察の深さ、鋭さによって、説得力も違ってくるでしょうしね。
社会学においても、ものごとの原因を究明する思考力、知性は要求される。
それがないと、ある行為によって生じる後々の結果を正確に予想も出来ないわけだから、たとえば、思考力のない政治家が下手な政策を取ると、大変な失政を招いたりもする。

原子分子の理論を発見するまでの歴史だって、思考による考察が先行してますからね。
それぞれの元素の質量が決まっても、どうも測定値と数値が一致しない。これは何でだろう。単一で存在しているものと、ふたつの原子がくっついて一つの分子を作っているものがあると考えると辻褄が合う。酸素や水素は2原子で1つの分子を作っているに違いない。とかね。

こんな思考と測定による検証が行われて、目に見えない世界の探究は行われてきたわけで、ミクロはそうした細胞や原子の世界から、マクロは宇宙の起源と果ての話まで。

その最終回答はいまだに見つかっていないけれども、こうした科学の発展においても、高度な論理思考が要求される。直感だけではわからないし、説明になっているとは認めてもらえないのが、科学的思考というものですからね。やはり論理性が要求される。

幸福の科学の科学とは、物理学や化学といった具体的な科学という意味ではなくて、科学的な思考にも耐えうる、理証を持った宗教の教え、幸福論である、という意味だと思います。

この科学的な思考力は、自分個人の心の問題、その原因を精査し、正しい原因を突き止めるためにも必要だし、大きくは、社会の問題や世界の問題の、原因と結果の連鎖、それを読み解く力にもなるものでしょう。

そう、思うのです。

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以下、追記 <2017-2-15>


幸福の科学の霊言では、歴史上有名な天才軍師の名がたびたび登場していますが、そうした方々が現代に数多く生まれ変わっている。

過去の名が有名な人もあるし、現代への転生者が著名な知識人や政治家であって、その人の過去世を訊くと、「実は、あの有名な天才軍師が前世であった … 」なんて話が多いですね。

わたしは天才軍師に憧れるので、そうした過去世を持つ人が、現世においても頭のいい人だったりすると、その共通性に、とても感動するのです。

過去世を知らない時点で、わたしが愛読していた著作家の人たちがいるのですが、
この記事でも書いたように、キッシンジャー博士とか岡崎久彦さんね。このお二人は、先入観なしに文章を読んでも、圧倒的な教養力と、その教養を元にした切れのある論理的思考に、読んでいるだけで唸らされます。頭いいなー、この人、といって、感心しながら読んだものですが。

過去世の名前を知らずとも、今世のその人の識見を読むだけで、教養力と頭のシャープさはわかりますからね。匿名で書かれていてもわかりますよ。内容で判断する、というのはそういうことで、知名度で眩まされるのではなくて、中身そのもので良し悪しを判別するのが、真の読書力でしょう。

なので、自分が感心して読んだ人が、実は過去世の名軍師と聴くと、ああ納得!です。

明智光秀 … 。教養人で、智将ですね。信長や秀吉よりも、その教養は遥かに上で、知略の面でも別に劣っていたわけではない。
現在の評価では、主君への反逆者であって、旧い観念から抜け出せなかった古典的教養人で、それゆえ、時代の先を見ていた信長や秀吉のように、天下人になる器ではなかった、みたいに言われることもあるけれど、わたしは個人的には、明智光秀のような人物は好きだし、尊敬しますね。堅実な思考と、伝統を大切にする心は大切でしょう。信長暗殺は、やってよかったことだと、いまでも思っています。あの破壊者がそのまま天下を支配したら、恐怖政治の雰囲気が漂う国になっていたかも、と思いますから。

黒田官兵衛も出て来てましたね。息子の長政は、なぜか韓国の大統領に転生していたようで、同時代に父親の官兵衛は、日本の国で知識人として言論活動を行っていた。この方の思考もシャープで鋭いですよね。文章が簡潔で切れのいい調子で、国際社会の裏システムを読み解いて、とても勉強になる。

劉邦に仕えた天才軍師・張良も好きですし、霊言を読んだら、軍略の大要というか、やはりその智謀の元に何があるかの話は、読んでいてワクワクしました。

軍師の頭の良さというのは何でしょう。
自分の国がどう動くべきか、ということを決めるためには、主観的に「こうしたい」「ああしたい」なんていう欲求レベルで動いてるのではダメであって、国家同士の関係には、友好国や敵国の動向もからんでくるわけですからね。
自国の内情を知るだけではなく、敵国についても知悉していないといけない。そうした広い視野で物事を見る大きな目と、さらにそれらの細部にも目が行く緻密な観察力もなくてはいけないのです。
そうした識見の高さ、圧倒的な情報量・教養をふまえて、何がベストの対策なのかを考える、そして実行する。
彼を知り、己を知れば、百戦危うからず、という孫子の言の如く、
自分を知るだけでは足らず、相手をも知って、その上で戦う、戦略を練る。戦わずして勝つことが最良の戦略。
孫子の転生が、戦国時代最大の武将の武田信玄その人であることにも、納得です。

諸葛孔明の戦略を見破って、蜀軍を撤退させてしまった司馬懿仲達。司馬懿がそんなところにいたとは!!

それから、徐庶ね。あれは正史の方でも同じ話があるんでしょうか。演義の方の話なんでしょうか。確認していませんが。
最初、劉備のもとに、まだ孔明が現れる前、その直前の話ですが、徐庶という、これまた天才的な知略の持ち主が現れて、劉備軍の軍略を立てるんですよね。そしたら、敗けてばかりの劉備軍が大勝してしまった。
戦略というのはスゴイなー、という典型例ですが、このとき働いたのが徐庶ですね。そして初登場時には、ついに孔明という天才が登場したのか?という現れ方で、間違えられていたわけですが、しかし孔明に勝るとも劣らない天才だったわけです、徐庶自身も。

しかし、この徐庶が劉備側にいては厄介だからといって、魏は、徐庶の母親を捕虜にするわけです。母親思いの徐庶は、本当はそのまま劉備に仕えたかったのに、母を放置するわけにいかず、劉備の元を去って、魏に向かう。
その後は、やむなく魏に仕える生涯を生きた、悲しい軍師、それが徐庶という人ですが、この人が劉備の側にいたら、孔明や龐統と並んで「三大軍師」と呼ばれたことでしょうに。




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posted by ガンレオ at 08:24 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】幸福の科学信者ブログについて考える その2 <2016-09-10の記事>

といっても、すでにこういったテーマで記事を書いたこと何度もあるので、今さら改めて新規な視点が出せるわけでもないんですけど … 、

在家信者の行動の一端として、こうしたものがあってもいいんじゃないか、くらいのスタンスでやれば、別に大仰に考える必要はないと、わたしは思うんですけどね。

近刊の総裁先生のご著書で、スマホやネットの危険性に関してお話があるとのことなので、この危険性については重々注意して、ネット依存の度が過ぎてはいけないとは思いますが、
まぁ一部、在家信者の中には、こういったブログ発信によって、当会情報を発信してみるとか、そういうものがあってもいいとはやはり思います。
なにも全員がやるべき、などと言っているわけではないし、この方面で何か役に立てることがあると思えるなら、その人はその信念のままにやればいい、と私は考えます。適材適所はここでも有り得ると思いますので。

むろん、幸福の科学および幸福実現党の名を出して、信者ブログ、党員ブログを書くのなら、発言内容にもそれ相応の責任が生じるのは当然だし、本部のチェックを受けずに自由にアップできるからといって、好き勝手でデタラメな発言をして許されるわけがありません。

幸福の科学という団体はきわめて自由な教団であって、基本は所属している各人の自由選択によって、各行事の参加なりお布施なりをすることが許されている、寛容かつ自由な雰囲気をもった自由教団だと思います。
とはいっても、その自由には責任が伴うというのが、幸福の科学においては当初より基本的な精神として語られていたことですから、在家信者が自由にブログを作り、自由な発言をするといっても、信者を名乗る以上、幸福の科学の教えを捻じ曲げ、改悪して逆宣伝をしたり、滅茶苦茶な解説をしたりするようでは言語道断。マイナス行為を行なうブログがあったら、その霊的責任は当然甚大なものになるはずで、それはいずれ、その人個人が死後、みずから独りで担うことになるでしょう。

哲学者カントは霊言の中で、つぎのように述べていました。



いろいろな考え方を、万人が発信できるわけです。
私もよく分かりませんが、今、インターネットとかいう世界では、各人が「出版社の機能」を持っているような、あるいは「言論人の機能」を持っているような、そういう情報発信ができるようになってますよね。
私たちの時代から見れば、一般人の言論などというのは、ほとんど無価値に近い、隣近所での話にしかすぎないような内容です。そういうものが堂々とほかの言論と一緒になって混ざってくるなかで、真偽を見極めるというのは、とても難しいことではないかと思います。




個人が好き勝手に情報をアップできる、というインターネットの世界ではありますが、それゆえそこには当然、読む値打の全く無い、無価値の発信内容も多いし、あるいは個人の愚痴や不平不満でしかない、害悪の垂れ流し発言でしかないものも多いわけであって、玉石混交といっても、玉は滅多に含まれているはずがなく、圧倒的に多いのはただの石ころ。読む値打もない一般人の言論にすぎない。まさにカント先生の指摘している通りだと思います。

そうした中で、情報発信をするのなら、幸福の科学の信者としては、出来うる限り、玉に近づくべく頑張っている、そうした内容に向けて常に努力精進して、そうした良質の内容をこそ発信すべきだと思います。それは当然の責任だと思います。
それが出来ないのなら、むしろ黙っていた方がいいし、ネットの大海に余計な石ころを増やすだけの行為は無意味でしかないでしょう。

とはいってもネットの世界はすでに存在してしまっていて、これは世界中の人がアップし続けることをやめない限り、これからもずっと多くの石ころが毎日限りなくあがってくるはずで、そこで本当に知る価値のあるモノのみを選択する、良質のもののみに触れて、あとは無視する。こういう道を選ぶしかないようにも思えてきます。あとは完全に縁を切るかですけどね。関わるのなら、情報の取捨選択能力と、時間配分の出来る意志が必要でしょう。
ネットに散乱する無数のデータを眺めつつ、それらの真偽をきびしく見極める目をもって対応するしかない、そして無駄な時間は出来る限りカットする。必要最小限の時間以外はネットに取られないようにする。そうした努力と工夫なくして、振り回されず利用することなど出来ようはずもありませんから。

その判定の自信がなければ、ネットなどには一切かかわらず、著名な人物の書いた良書をのみ信頼して読むとか、そういった安全な道を選んだ方がいいのかもしれません。

とはいえ、わたし自身はすでに自分でブログをやっている以上は、
自分自身、できうる限り、善き内容のものを発信して、読んだ人にとって精神的なプラスになるようなものを書けたらな、と思って、これからも書き続けるつもりでいるんですけどね。
書き手としたら、読者が読んで、時間の無駄にしかならないような愚劣なものは書いてはいけない。読んでためになるもの、有益なものを厳選して書く努力をすればよい。それ以外にない。
だから、幸福の科学にとって、善き宣伝になるようなものが書けたらいいな、と思って、ブログを書く。
一在家信者のブログにすぎないけれども、幸福の科学で学んでいる人間としての発言として、内容的におかしくないもの、信者として恥じないような発言内容、学んで得たと信じていること。そういったものを、自分個人の責任において発信していくしかありません。

その内容が、幸福の科学にとってマイナスになるような内容であったら、多くの信者さんから忠告や警告が来るだろうし、あまりにそうした苦情が多い場合はブログを畳んでおとなしくしていた方が良いでしょうしね。
そうでない限りは、教団にマイナスのイメージを与えるのではなく、幸福の科学の一信者の意見として、そんな意見があってもおかしくはないな、確かにそうだ、と賛同してもらえる信者の読者が多ければ、それはそれで、別に存在意義があると解釈してもいいと思いますけどね。

内容の良し悪しは、多くの信者さんの判定によって自然となされるでしょう。善い内容なら人気が出るでしょうし、つまらなければ流行らず廃れる。悪質なものは通報されて問題視され、どのみち、まともな信者からは相手にされなくなる。そうしたものが害悪を流す場合は問題ですが、これは誰もが勝手に発信できてしまうネットシステムそのものに伴う問題ですから、それはそれで対処するしかない。
マイナスの事例が出るからといって、プラスの可能性を捨てるのは、包丁は危険だから、わたしは料理は素手でやる、と考えるようなもので、正しい判断だとは私は思いません。

などなど、いろいろと考えるべきことはありますが、一般論として … 、
信者を名乗る以上、自由な発言にともなう責任はありますが、だからといって、あまりに過大な要求を一ブログに求めるのは問題ありでしょうしね。
一般の人たちが自由にブログをやっているものと比べて、内容的に見劣りするブログでしょうか。ふつうの目で見て、なかなか良い内容が多いブログだ、ということであれば、それは努力のたまもので、善い評価を与えてもらってもおかしくはないはずですしね。ブログを封鎖する必要まではないと思います。
逆に、こうしたものは全く要らない、となったら、自由の気風に反するようにも思えますしね。

まぁー総裁先生のお話をまだ拝聴していないので、早急な判断は出来ませんが、いまのところの私はブログに関して、ネットに関わることに関しては、そんなスタンスで接していますけれども。

記事を書く際に参考にするのは、ネット情報ではなくて、実際に手に取って読んだ本の感想が多いはずなので、ネットに振り回されて、ネット依存になっているとまでは思わないですし。
そもそも、ネット情報だけに依存して何かを書いても、そのネタは月並みで、誰もがすぐに発見できるような元ネタにしか過ぎないですから、よほど鋭い洞察力なり見識でもって感想記事などが書けるだけの腕前がなければ、魅力的な記事など書けようはずもないと思うので。

それ以前の、何の加工処理もされてないネット情報のコピペばかりでは、単なる情報伝達に過ぎず、大した魅力はない。
というか、そこには個性の刻印がないので面白くない。付加価値が感じられないので、単なる複製情報を読むくらいなら、オリジナルサイトを見れば済む話ですから、わたしとしては自分で書いてこそのブログだと思ってますけどね。

自分がいま学んでいる本を題材にして取り上げ、テーマ設定も自分で行ない、その論点で記事を書くからこそ、その記事には個性の刻印がなされていると、わたしは思うんですよね。

その記事がアップされるまで、今日なぜ、その記事テーマがブログにアップされたのか、読んでいる人にはわからないだろうし、予想外のネタのことも多いでしょう。
なぜそうなるかといったら、たまたまその日、わたし個人が読んでいた本がその本だったからで、今日のこの日に、この題材でこの記事を書く、というところに、わたしレオという個人の個性的なるブログであることの意義があると、わたしは思うのです。

個性的なブログ発信をする人が増えることは、信者がどのように物事を考え、判断する人たちであるのか、そのサンプルデータを多数、世の中に提供するという点でも、意味があることと思います。

大勢の信者、むろんそれは、まともな信者という意味ですが、正しき心の探究を日々なしており、その学びや理解力のつたなさはあろうとも、公式サイトの発言には見劣りがしようとも、現在進行形で学んでいる在家信者のさまざまな姿が、色とりどりに発信される場があってもいいのではないでしょうかね。

ネットを見ているのは、信者か信者でないかは関係なく、いまではかなり多くの人が見ているわけですから、そこに、まともな信者側からの発信内容、それも善き内容のモノが複数存在する必要もあるのではないか。とも思います。

あらゆるところに幸福の科学への関心を誘うためのキッカケが、網の目のように張り巡らされていってよいのではないか。ブログはそうしたキッカケの、とある一つの手法という目で見て、これからいっそう魅力的な磁場を有志が作り上げていけばいいんじゃないかな、と考えているんですけどね。
賛同してもらえる方は、レオのブログを読んでくれているのでしょうし、そんなのどうでもいいという人は、まったく別の世界で生きていってるのでしょうから、それはそれで各信者の自由ということで、いいのではないかなと考えるものです。


 … おしまい。



関連過去記事
幸福の科学信者ブログについて考える
http://ameblo.jp/space-people/entry-11987945262.html




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posted by ガンレオ at 07:46 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする