2017年02月08日

【レオ】ぽん吉が … 

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ぽん吉が、AmebaのLEOブログの、アメーバピグの部屋に訪問してきていた!!(笑) Goopyなんて名前にしちゃって。
皆さん、どう思いますぅ?
アンチと化した分際で、わたしLEOのアメーバピグ部屋に、何の用があるんでしょうか?
こちらとしては、何の用もないんだけど、邪悪な退転者などにはね。

しかも、先月の1月だけでなく、去年の11月も。

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お前、なにしに来とんねん?

気持ち悪いから、訪問禁止にしといてやったよ。

まったく、お前のようなやつが、ピグを作成している姿を想像しただけでも、気色が悪いわ。
二度と来るな。
 … って、もう部屋にも入れんようになってるけどね(笑)。

あのキチガイのことだから、訪問のためだけに、新たなIDで別ピグを作るくらいのキチガイ行為はしかねないけどね〜。

まじめに生きろや、哀れな異常者よ。

少なくとも、幸福の科学の信者を30年やってきたんだろ。反省のひとつくらい、やらんでどーする?
0点で落第するだけなら、いったい何のための30年だったんだい?

本当に、可哀想なやつだ。


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posted by ガンレオ at 17:27 | Comment(1) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】厳父慈母 〜やさしさ8割、厳しさ2割、の人となる〜

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厳父慈母、という言葉がある。
むかしの家では、こういうタイプが多かったのではないだろうか。

厳格な父親とやさしい母親。厳しさとやさしさを、両親のそれぞれが担っている、という関係。

父は厳しいが、母はやさしく、子供を見守り、育ててゆく。

これは、主が教えてくれている、優しさ8割、厳しさ2割、という人生の奥義にも合致していて、このバランスのもとでこそ、人は健全に、魂を成長させることが出来るように思う。

 

近頃では、この反対に、慈父厳母、という家もけっこうあるように思う。

わたしの知り合いにも、こういう家はあって、そこでは、お父さんはひじょうに優しくて、子供を怒ったり叱ったりはまずしない。しかし、お母さんが厳しいのである。厳しく子供を叱って教導している。

これは役割分担が、厳父慈母とは正反対になっているだけで、同じことだろう。片方が厳しければ、片方はやさしい、というのは、子供を育てる両親の役割分担としては、ひじょうに大切だと思われる。

 

 

厳父厳母、なんて家もありますが、父も厳しい、母も厳しい、なんて家では、子供は窮屈に感じて、家を早々に飛び出してしまうかもしれませんね。

やさしさを知らない家庭で育ったら、その子はぐれてしまうかもしれない。優しさを知らずに育ってしまって、その子自身、他の人への優しさを持たない人間になってしまうかもしれない。

あるいは、両親を反面教師として学び、逆に、他の人に優しい人間になることもあり得るけれど。ぐれてしまう可能性が、わりと高いのではないだろうか。

 

あるいは、慈父慈母ですね。

両親とも優しいのは結構だけれども、優しいばかりで、子供が悪さをしても、まったく叱ることもないような家では、子供は放縦のままに育って、ワガママなボンボンになる可能性が出てきますね。実際、そういう家庭は、現代では多いように思う。

 

慈 … 慈しみ、という言葉が当てられているけれども、この「慈」というのは、決して叱らない、怒らない、優しさだけの思いとは、違うのではないかと、今では思います。

 

仏教でいう慈悲というのは、仏があまねく、すべての生命に対して抱かれている優しい、育みの心かと思うけれど、そこにはなおかつ、厳しい眼も含まれているのではないかと思うのです。

仏が、人間に対して思っているのは、すべての生命を平等にあまねく愛しながらも、彼らの自己責任をも問う「厳しさ」が、そこにはある。

仏は、その慈悲の中に、厳父慈母の両方の思いを体現していて、人をやさしく見守りながらも、厳しく叱る父親のような眼でもっても、見ているに違いありません。

 

人は、やさしくされたら嬉しいけれども、やさしくされるだけだと、甘えてしまってダメな人間になりかねません。厳しくされないと、脇が甘くなってしまう危険性がある。だから、道を踏み外したら、厳しく折檻する父親のような厳しさも、ときには受けないといけない。

 

優しさ8割、厳しさ2割という、仏の教えは、人が健全に成長していくための、慈悲の世界そのものでもあるのだと、わたしは思います。

 

塾で講師をしていた時に、

やたらと厳しい先生がいましたが、その先生が来ると、生徒たちは緊張してシーンと静かになるんですよね。授業を聞いているあいだも私語は禁止。しゃべったりしたら大声で怒鳴られる。

でも、そんな緊張しまくりの、ピリピリした授業では、生徒たちは息が詰まるだろうし、その先生の科目自体を、嫌いになるかもしれません。

厳しさ2割どころか、厳しさ10割なので、これは、仏法真理に適ってない、教育の在り方なのだろうと、今では思います。

 

一方では、優しいだけの授業でもダメなんですよね。先生が怒らないで、優しい人だとなると、子供はつけあがるものです。ワイワイガヤガヤ、授業になっても落ち着かなかったりする。

優しい先生はこうした時に、ビシッと怒ることが出来なかったりしますが、それもまた欠点だと、わたしは思うのですね。優しいことは大切だけれども、教え子たちが道理をわきまえない行動を取った場合には、厳しく叱るのでなくてはならない。

 

わたしはどのような講師だったかというと、

それは基本は、優しい先生です(笑)。自称ではなく、他の先生からも言われるし、生徒たちからも言われたので、実際そうだったんですが。

ただそれでも、厳しくなる時には叱りましたよ。

体罰禁止と言われていたけれども、言うこと聞かずに騒いでる生徒がいたら、教科書で頭をはたいたしねー(笑)。

生意気な生徒の場合は、ドアから出ていけ。二度とこの塾に来なくて構わん!とまでいって説教した生徒もいましたが。そこまで叱ると、さすがにシュンとして、それ以降その生徒は授業の邪魔はしなくなりました。

面白いのは、生意気な発言をする生徒を叱ると、逆に、他の生徒からは、先生がよく言ってくれたといって感心され、他の生意気な生徒も、わりと従順になることでした。そのへんは、まだ子供なので、わりと可愛いところがあります。本音はどうだったかは、わかりませんが(笑)。

少なくとも、授業を任されている以上は、授業そのものを理想形に持っていくのが先生の使命であって、暴言を吐いたり生意気な発言をする生徒、あるいはガヤガヤうるさい生徒を放置していて、叱ることも出来ない、はたくことも出来ないでは、まともな授業など出来ようはずもない。

怒られることがないとわかっていたら、そういう生徒を自重させる力はゼロ、ってことになりますからね。収拾がつきません。体罰はいけないと言われようが、頭をはたくくらいはやっていいと私は思いますけどね。それでクビにするなら、すればいい。クビが怖くて講師が出来るか!です。

自己保身を第一にしたら、なんにも出来なくなりますが、いざとなったらいつでも自分を捨てられると思えば、子供の教育第一に考え、なにをすべきかという理想の教育に邁進できるはずだと、わたしは思います。

 

要は、教育の現場であっても、家庭であっても、厳父慈母ならぬ、厳しさと優しさの両面を体現することが必要、ということでしょう。

そして、あくまでも優しさが基本であり、これが8割、優しい人間になることが、とても大切。とてもとても大切なんだと思う。

けれども、残りの2割には、厳しく叱るような、厳しさ2割の人格も必要なんだと、やはり思います。

 

ひとりの人格、自分の中に、優しさ8割、厳しさ2割の人格を兼ね備えること。それが理想ではあるまいか。

そう、思うのです。

 

 

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posted by ガンレオ at 06:27 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】自分では語るほどの独自意見を持っていない、だから偉い人に代わりに語ってもらう、ってどうなの?

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自分には、語るべきほどの内容は無い。
だから、偉い先生方に語ってもらう。立派な記事を書いている、プロの人の文章を読んでもらおう。幸福の科学や幸福実現党で言ったら、職員や幹部の語っていることをコピペして読んでもらえばいい。自分のような未熟な一信者や一党員のつたない意見を語るよりも、そちらのがいい。

 

なんていう考えで、コピペばかりしているのだとしたら、それがすでに学びからの「逃げ」だと私は思いますけどね。

 

自分で語らなければ、それは楽ですよ。責任も生じないし、難しい勉強もそんなにしないでいいんだから。

大切なことは、総裁先生が語ってくれる内容をコピペすればいいのだし、あるいは幹部が語ったことをコピペ宣伝すればいいのだし … 。

といって、いつまで経っても自分では語ろうとしない。

 

自分で語る気がない以上は、勉強だってそんなに真剣にはやらないで済みますから、それではいつまで経っても、こういう人は、自分で優れた意見を言えるようにはならないでしょう。決して、なりえない、と思いますけどね。

なぜなら、そうなるための努力をまったくしていないんだから。語れるような自分になるための、いっそうシビアな勉強と、語るための努力・工夫をしようとの意欲を、最初から持っていない。放棄してしまっている。

 

すべては、偉い立派な先生方の語ることにお任せして、自分はその内容をコピペすればいいんだ。自分のつたない意見なんて、語っても仕方がないし、どうせ世間には通用しないんだ。

 

これは一見もっともなようであって、けれども、自己修行の観点からしたら、明らかな逃げ、言い訳だと、わたしは思いますけどね。

 

よく、自分は空海を尊敬している、と言いながら、

空海さんは偉いんだよ、といって仰ぎ見るばかりであって、空海がどんな考えを持っていたのか、その考えを知りたいといって、著作を読んでみようとか、そういう努力をしない人を見かけます。

あまりも偉い空海さんの考えの深さは、我らのような凡人には計り知れないので、そんな難しい本は読まない、とくるわけですね。

 

あるいは、イエスさまの教えに関しても、イエスさまは神の子だから、あのような人間離れの生き方が出来たのであって、私たち凡人には、そんな「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」なんて出来ようはずもない。イエスさまを尊敬もうしあげはするけれども、その生き方を真似るなんて無理だし、そもそも望むべくもない。

 

こういう考えをする人がいますが、

 

あまりにも、先生たちを、偉大なる高台の上に持ち上げてしまって、だから凡人には真似の出来ない存在だ。我らに出来るのは、そういう方々を崇めるのがせいぜいで、その方々の本心が奈辺にあったのかなど、知る由もないし、そもそも無駄な努力というものだ。

といって、偉人を、人間ではないから、凡人が学ぶ対象にあらず、ただ仰ぎ見るのみ、みたいに捉えて、著作も読まないし、教えにも興味も持たず、知らんぷり、となるわけです。

 

巷の人たちに聞いてみるといいですが、

それは、お釈迦様は偉い人だったんでしょう。孔子さまも偉い人だったんだろうし、ソクラテスも偉い人だったんでしょう。

くらいは言うことでしょう。

けれども、こういう人たちのどこが偉いのか。どんなことを語ったから偉いのか。その内容までは知らない人があまりにも多いでしょう?

偉いのは認めるけれど、その内容を知ることには無関心、興味なし、ということなんだと、わたしには見えるのですが、違いましょうか。

 

結局、偉さの高台に持ち上げてしまって、人間的努力の対象外に祭り上げてしまう。

すると、お釈迦様が、なぜ人間の身体に宿って生まれてくださったのか、その意義が失われてしまうんですけどね。

偉大なる方であっても、ひとりの人間として生まれ、人間的努力をしながら、悟りを開き、多くの人に愛を与え、知恵をさずけたその偉大さに、学びなさい、という意味があるのに。

 

イエス様にしても、トマス・アクィナスは言っていますが、すべての人が目指すべき目標となるべくして、イエスさまは一人の人間としてお生まれになったのだ。ということですね。

天にいます見えない神であっては、凡人には学びようもないですが、そうした存在がひとりの人間として肉体に宿って生まれ、生き、死んでいったのを見る時に、

わたしたちは、その師の生き方に学び、出来る限り、師の生き方をみずからも体現すべく、人間的な学びの対象として、一人の人間としての先輩として、学ぶべきはずなんですよね。

 

それを、こうした方はもはや人間ではない、あまりに偉大な神のごとき人だから、その教えは余人の理解を超え、神の領域の教えであり、我らに出来るのは崇めるばかり。

なんていって、実は、真似をして生きることの厳しさから、逃れる言い訳をしているんではあるまいか。

 

先に書いたように、

自分では、語るべき内容を持っていない、自分のようなつたない人間が何かを言うより、すでに立派な見識を持った、諸先生方に代わりに語ってもらえばいい、というのは、上にあげたのと同じ思考パターンの人であって、

 

要は、自分としての努力を放棄していて、自分が優れた意見を述べる人間になるためには、どうしたらいいのか、そのための努力をしよう、という観点が欠落しているんですよ。言い換えれば、逃げている。

 

自分で語るのは、責任も生じますからね。つたない内容では恥ずかしいから、相当な勉強をしないと、ひとかどの文章なんて書けやしませんから。

表面的な情報収集しかしていないレベルでは、深い洞察の入った鋭い論点なんて、出てきようもないですからね。

要するに、そういう低レベルの自分の意見などを見られるよりも、プロの記事や偉い人の文章をコピペしまくって、それを羅列した方が、いい内容の総合デパートになるではないかと。

 

これが、コピペばかりのブログの出来る、裏側の理由というか、わたしから見たら、そう見えるということですけどね。

自分でなぜ書かないのか。書けないのか。最初から書く気すらないのか。そういう問題ですね。

 

逃げ、でしょう。自己責任、自分の責任のもとに、考えをまとめ、その成否を世間に問うだけの覚悟もないんではないでしょうか。

そう、問わざるを得ないと思います。

 

やはり、幸福の科学の信者たる者、情報の受け売りレベルでは話にならんのですよ。

少なくとも、何十年も信者をやっておりながら、語るのは総裁先生、職員の方々、自分には語るべき見識など無い、なんて状態では、話になりません。

 

書く時間が無い、などというのも、言い訳でしかないでしょうね。

どんなに忙しくたって、一年365日もあって、そのあいだに、ひとつか二つの論文をも書く時間がまったくない、なんてことは、あり得ませんからね。

書かないのは、書けないからではないでしょうかね。書けるのに書かない、ではなくて、書けるような見識を持っていない、ということではないか。

 

しかし、書けるような見識というのは、実際に、無数に文章を書きまくってみて、書くことの難しさを知る中で、自分を鍛え上げる努力なくしては、決して身に付かないんですけどね。

ただ漫然と、情報収集を10年して、コピペで代弁ばかりしてもらったって、最初から自分で語る気がないんですから、いつまで経っても、この人は自分の言葉で、優れた意見を言えるようにはならないでしょう。そのための努力をしていないからです。当然の帰結ですね。

 

あえて、そう、苦言を述べておこうと思います。

 

コピペ依存体質は、他力依存の、他人の褌で相撲を取ろうとする、人任せの行為ですよと。

 

少しは、自分で考え、自分で表現する苦労と、それを克服して初めて得られるものがあるのだ、ということを、もっと考えるべきだと思います。

偉い先生に学んでいるのは、自分自身もそうした先生のような人間に、いつしかなりたいと思っての師事ではないのでしょうか。

それがいつまで経っても、先生におんぶにだっこで、自分では何も深く考えもせず、語る際の工夫や努力もしないで、先生にしゃべってもらいます、では話にならないんですよね。

 

要は、そういうことです。

 

 

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posted by ガンレオ at 00:00 | Comment(4) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする