2017年02月02日

【レオ】自分の頭と心でよく考え、自分の言葉で語ること(2016-09-22の記事)〜LEO幸福人生のすすめ、より転載〜

http://ameblo.jp/space-people/entry-12202356817.html

総裁先生の御法話テープをダビングしながら拝聴していたんですが、

他の人に真理の話をする際に、これを読めばわかります、では勉強が足りていない。やはりもっとよく学習して、自分の言葉で語って、オススメできるようにしましょう、というお話がありました。

とっさの場合に、手元にいつも適当な献本用書籍があるわけではないでしょうから、相手に合わせて、その場ですぐに適切な真理の話が出来るよう、そのために日々の学習をよくやって、自分自身の言葉で語れるようにしておかないといけない
それが学習であって、そういう学習が出来ているからこそ、他の人に伝えられるのだということですね。
入会したての初心者は別として、何十年も真理を学んできたのなら、そのくらいの負荷を自分にかけて学ぶのは、当然の学習態度であると私は考えます。

真理の話を聞いていると、声聞の位にあるといいますが、聴いてるだけの段階は、学習ではなく、探究の段階なんですよ、というお話もありました。
皆さん、話を聞いていたら学習だと思っているでしょう、違うんです、これはまだ探究なんです。
話を聞いて、それを持ち帰って、自分でよく考えて理解するところまで行って、学習なんですと。そういうお話も出てきました。

やはり、単に一度聴いてそのまま忘れてしまったら、聴いたことはあるものの、何だかうろ覚えなので、自分の言葉ではしゃべれませんからね。

学校の勉強だって、授業で一回聴いたくらいで、自分でスラスラ語れやしないでしょうし、どの教科にしたってね。
授業で教わったら、家に持ち帰って、もう一度そこを振り返って復習する。何度も理解が行くまで、よく復習をして、ようやく身に付いてくる。
暗記ものにしても、式を覚えて応用力をつけるにしても、何度も反復練習と復習するのが不可欠だったはずで、真理の勉強ならなおさらですね。
一度聴いて、なんとなく話を聞いたので、情報が入った。だいたいこんな話だった。

では、ただの情報の受け取りに過ぎなくて、これをきちんと学習して、知識レベルにまでもっていかないと、自分で語れるような知識にはならないんですよね。
情報のままだと、時間が経つとどんどん忘れていってしまって、そんな話もあったっけなー。なんて言って、何か似たような話が出た時に、あ、聴いたことある、それ。くらいの認識で止まっていたりする。

智慧の法 (法シリーズ) -
智慧の法 (法シリーズ) -

「智慧の法」でもお話があったかと思いますが、さまざまな情報収集をしても、それを自分の頭でよく考え、心の中に落とし込むくらいによく理解しておかないと、自分の言葉で自由自在に語れるようにはならないですよ。
それは単に、情報の収集をしているだけだからで、自分の理解になるまで読み込んでないからであって、右から左に流してるだけでは、そこまでの力は出てこない。言論力は出てこない。
これは話す力もそうだし、ディベート力ですね、あとは、作文能力、書く能力だって、成長しませんから。

やはり聞きっぱなしの、情報をかき集めてるだけでは、不十分、ということでしょう。

何度も書いていますが、渡部昇一さんの師匠筋にあたる清水幾太郎さん、霊言でも出て来てましたが、この方は、読書は書くことによって完結する、自分で書いてみて、初めて読んだことの理解が出来るようになる、とよく述べています。
インプットだけでは独りよがりで、わかった気になっているだけで、実はあまりわかっていなかったりする。
それをアウトプットしてみると、初めて自分の理解の未熟に気が付いて、いっそう真剣に学ぶようにもなるし、アウトプットすることによって、自分の頭の中の整理も出来、復習にもなっているから理解が進むとか、そういう効果があるということでしょう。

学生たちに、読書感想文を書かせるのは、そのためだ、とのことです。
自分の言葉で書かねばならないとなると、人は真剣に読もうとするからで、効果がまったく違ってくるんですよね。

総裁先生は、最新刊の中でおっしゃってましたが、
「スマホではいろいろと調べられるので、非常にありがたいことだなとは思います。」といって、機械文明の発達をかならずしも否定はなされず、そのメリットも述べながらも、

ただ、こういうものだけでは情報源としては足りない、プロとしてモノを書くには、それ以外の周辺のきちんとした本も読まないと、勉強としては足りていない、とおっしゃっていました。
このレベルの情報だけに頼っていると、大学生の答案レベルのものしか書けないでしょう、とも。

誰もかれもがスマホやネットから情報を得るようになると、それは単なる未加工のデータ・情報でしかありませんから、それをどう見るか、どう判断するか、といったところまで踏み込んだ思考が出来なければ、どの人もみな同じようなことを言っているだけのコピー人間になりかねません。
そのあたりの危険性は考えていた方がいいといったお話を、総裁先生はなさってくれたのだと思います。

やはりこれは、情報レベル、データ収集レベルに過ぎなくて、自分で考えるところまでは行っていない、単なる情報収集の世界に過ぎない。
そこに留まってはいけなくて、自分で理解し考えて、自分の言葉で語れるようになってこその、学習なのだと思います。

個別性、特別性、という言葉もあったし、付加価値を生んでいるかどうか、という言葉でもって、やはり個性をもった各人の魂がある以上は、さまざまな勉強をしながらも、その人ならではのオリジナリティーのある考えの発信や、意見を持つための勉強が必要なのだなぁと、考えさせられました。

ネット情報は、単なる情報レベルのデータの散乱にすぎないものなので、それに振り回されすぎず、本当に役に立つ必要なデータをのみ掴んだら、あとは自分でよく考え、よく学び、自分の言葉で自由自在に語れるくらいの人間になろうと、努力することが肝要なのだと思います。


凡事徹底と静寂の時間 ~現代における“禅的生活"のすすめ~ (OR books) -
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posted by ガンレオ at 11:11 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】考える力 〜何も資料が無いところで、どれだけのことを自分は語ることが出来るだろうか〜2016-04-22の記事・追記あり

むかしから、よくイメージに浮かぶのは、

真っ白な部屋 … 何もモノが置かれていない、ただ真っ白な部屋にポツンと独り置かれたときに、

さぁそこで、どれだけのことを自分は考えることが出来るだろうか。

なんの刺激物もない状態で、自分の心の中から素材を引き出してきて、その素材をもとに何か考えを構築して、積み上げていく。
そうした作業がどれだけ出来るだろうか。

そういうイメージというか、課題ですね。


結局、学生時代の試験でもそうだし、人生でさまざまな問題にぶつかった時もそうだけれども、
目の前にすぐ手に取れる参考資料や答えが必ずあるわけではない、ということ。

頼れるのは、自分自身の中にある「考える力」なのだから、
何もないところであっても、自分の心や頭の中から、アイデアや答えを導き出せるように、自分を訓練しておかないといけない。

いつでも教科書やノートを見ていいわけではないし、本を手に取りながら考えられるわけでもない。
今でいったら、電池が切れたらネットもスマホも使えませんから、そういう場合に頼れるのは、自分の頭と心ですね。
結局、いざという時に頼れるのはココであって、これを鍛える以外にない。

その鍛錬の場のイメージとして、

果たして、何も置かれていない真っ白な部屋に、自分ひとり、ぽつねんと置き去りにされた時に、
そこで1時間、2時間と、考えを集中して、何かを生み出すことが出来るだろうか。

そんなことをときどき思うんですよね。

前にも書きましたが、映画「アポロ13」で、宇宙船が故障して電力を最低限以外は使えない状況で、乗組員たちが使ったのは、自分たちの暗算能力でした。
電子計算機を使えないとなったら、紙に鉛筆で数字を書き込んで、自分で計算しなくてはいけない。
ふだんはコンピュータ依存で、なんでもかんでもやってもらっていても、いざとなったら、自分でも解ける力を持っていなければ、電卓がなければ三ケタの計算も出来ない、というのでは情けないし、危険です。

瞬時に判断し答えを出す必要がある場合は、ネットにアクセスして情報収集する人よりも、ふだんからよく物事を考えて、自分なりの意見を持っている人の方が、優れた判断をさっと出来るに違いありません。

やはり機械は幾ら発達しても、人間の思考力を超えることは出来ず、補助としての役割でしかないと、わたしは思います。

人間は、人間みずからの思考力を高めるにしくはない。

というか、そこを忘れてしまっては、勉強しているつもりが、ぜんぜん勉強になってないよ、ってことにもなりかねませんから。


試験の際には、徒手空拳で、いや、鉛筆と消しゴムくらいは持っているでしょうが、それ以外の参考資料はなしにして、

それで問題に答えないといけない。自分の頭や心の中から、答えを引き出してこないといけません。

なので、白い部屋に何も持たずにいるイメージですね。
そこで自分はどこまで、自分独自の自分なりの思考を展開できるか、論理的思考もそうだし、イマジネーションの飛翔もそうですけれど。

いやなに、別に刑務所の独房に入れられたときに、退屈しないで済むための訓練ではありませんからね、お間違いなく(笑)。

でもこれって、結構、本質的な意味で、とても重要なことではないかと、わたしは思ったりしていますね。

手元にメモを持たないでもスピーチが出来るためには、こういう訓練を日頃からやっておかないとねー。



以下、追記


手元にメモも持たないでスピーチ、といったら、
よく研修での話し合いとか法談とかありますよね。そのあとで発表、なんていうのもあったりする。

完璧なメモでもあれば別ですが、そういう即興の話し合いの場というのは、簡単なメモくらいしか取れませんね。大勢からさまざまな意見が出た場合などは、なおさら、そう。ポイントをちょっとメモ書きしておくくらいしか出来ない。

で、発表係にさせられて、さぁどれだけの話を自分は出来るだろうか。代表の発表係として、うまく話し合った内容を語れますか。どうでしょうか。という問題です。


ちなみにわたしは、こうやって記事をたくさん書いているのを見ても推定できるかと思いますが、
発表係というのをさせられると、滔々と話します(笑)。10分くらいしゃべってくれ、と言われても、平気でそのくらいは話してしまいますよ。時間を与えられたら、勝手に肉付けして話を膨らませてしゃべるし、あとは、聞いている人がわかりやすいように、かみくだいた表現で語ろうとするので、なおさら話す時間は長くなる。別にメモなんて取らなくても、だいたいの内容は覚えていて、しゃべることが出来ますから。

いちばんのポイントはどこか。柱や要点はどこか、というところを幾つか押さえながら、あとはその周辺のことを肉付けして、幹と枝を分けてまとめながら、話をしてゆく。そうやって話したら、あっという間に10分くらい過ぎちゃいますし。
だいたい、支部で法談内容を発表してください、なんて言われると、時間オーバーして話しちゃって、司会からストップが入るくらいなので、わたしはしゃべりすぎ、記事の文章も長すぎ(笑)ということで。

要するに、しゃべれと言われたら幾らでもしゃべれるし、書けと言われても延々と書くことがありますよ。
それは日頃、そのテーマについてよく考え、自分で思うことがあったら、そのことを付け加えて話すからで、要するに、自分独自の考えを日頃から練っていたら、いくらでも話すことはあるし、書くことだってある。

これは、情報の受け売りしかしていないレベルでは、出来ないことだと思いますが。
聞慧、思慧、修慧、という教えもあるように、ただ聞いているだけではそこまでは行けず、聞いたことを、あとでよく自分なりに思索して考え、できれば瞑想体験を通して、さらに深く心の中にきざみ、深い深い智慧を得ないといけない。そういう智の発展段階があるんでしょう。認識の発展段階ですね。

そのチェックポイントとしては、
何も持たずに、そらでどれだけの話をすることが出来るか。テーマを与えられて話してください、と言われて、そのテーマについてどこまで持論を展開できるか。自分の言葉で、自分が考えたことを、どれだけの深みでもって話すことが出来るか。書くことが出来るか。

それが、その人の現時点の実力だろうな、と私は思いますけどね。
なにもなくても、語れなくてはならない。書けなくてはいけない。そうでなければ、その人の実力とは言えんでしょう。当人の力であるならば、なにも資料などなくても、スラスラと話せなくてはウソというものです。

わたしも、子供時代はちょー緊張しいで、人前に出るなんて、それだけでも嫌で嫌で、顔は真っ赤になるわ、心臓はドキドキするわで、そんな場に出ることすらイヤだったんですが、
社会人になって、なぜか知らないけど、やたらと発表係をやらされているうちに、

レオ君は、発表が上手だねぇ、滔々としゃべっていたじゃないか。足なんか組んじゃって、自信満々の発表だったね、なんて上司から言われたりしてね。新入社員1年目のときですが。実際はもう、前日から嫌でねー。大きなホールに100人以上集まってディスカッションして、その話し合いの結果をチームごとに発表するんですが、わたしは前日から、明日の発表はレオ君ね、と指名されていて、もうそれが嫌で嫌で(笑)。

しかし、いざ発表になると、滔々としゃべっているという … 周りから見ると、まったく動じないで自信満々に見えたというね。いまから思い返すと笑っちゃいますが。

これは支部での法談発表でも同じような体験があって、まぁ発表係をやらされる。イヤなんだけれども、いざしゃべり始めると、滔々としゃべって時間オーバーしても、まだしゃべっていて、司会から、もう時間ですので、といって静止されて、ようやく話すのをしぶしぶやめるというね(笑)。
なんというか、厚かましいというか、図々しいというか。いや、そうではない(笑)。
長年生きてきたので、子供時代からは想像できないくらいに、すでにいろんなことを思い、考えてきたんですよ、たぶんね。だから、そうしたことどもを思い返して、発表の場におりながら、さまざまな思いを滔々としゃべっているうちに、時間が過ぎていく。なにも手元に資料がなくても関係ないです。言葉は、自分の心の中から出てくるんだから、それを話しているだけなので。
自分の中にすでにある考え、思い、知識を、心素直にして話してゆけば、手元に資料なんて今さら要らないです。

ということで、何もないところで、どこまでしゃべれるか。書けるか、というのが、その人の真の実力ではないだろうか。そんな風にわたしは考えます。
この記事だって、なにも見ずに、真っ白な空欄に向かって、勝手に文章をどんどん書き込んでいるだけですからね。で、その言葉はどこから出てくるかといったら、わたしの心の中にある思い、思念、考えでしょう。

これがわたしの考えであり、主張であり、思いであり、メッセージである。
いまの自分から出てくる、わたし自身の言葉を使った、わたしの意見発表であると。

信者ブログとは、かようにして、それぞれの信者が何を考え、何を思っているのか。各人各人の悟りの発表の場でもあって、そうした個々の人の意見がさまざまに繰り広げられて、賑わってこそ、幸福の科学の信者のメッセージの場が華やかに、にぎやかに、色とりどりの花が咲き乱れる場になるのではないだろうか。そんな風にも思います。

コピペしか出来ないブログが100集まったって、そんなのは大した意味がないでしょう。そんな複製行為なんてのは誰だって出来るのだから、コピペブログが100増えたってしょうがない。
けれども、
自分独自の意見を持ったブログが100集まったら、それは大きな力となるし、いろんな信者たちの独創的な意見があちこちで花開いて、にぎわいを見せること必定でしょう。

自分の言葉で語れるブログが増えてこその、幸福の科学信者ブログの素晴らしさが、世間に訴えられるのではないでしょうか。
それがわたしが、ブログ村を見ていて、思うことですね。


おしまい。







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