2017年02月01日

【レオ】<【本格】試練の時期をどう過ごすか> を読んでの感想

今日の【本日の格言】も素晴らしい!!




【本格】試練の時期をどう過ごすか 2017.02.01

厳しい試練のときには、単に他力を願うのではなく、自分自身の責任であるとして、自己を律し、そこから脱出しようと努力していく−これが基本です。そうした姿勢をこそ、仏神は祝福するのです。

『愛、無限』 P.35





これは本当に、実体験からして、よくわかります。


「愛、無限」を初めて読んだ時には、その深い意味を理解していなかったと思いますが、その後の十数年の経験を経て、痛感する体験をいたしましたのでね(笑)。


 


厳しい試練のとき … 


 


人は、自分ひとりの力では耐えられず、他力の救いを願い、神の救いを求めるものでしょう。


けれども、そうした時に、すぐさま救いの手が差し伸べられることは少ない。


 … というか、あからさまな救済の手がすぐに降りてきたりはしないものです。


本当に深い信仰心を持っている人には、すかさず奇跡が起きるのかもしれませんが、なかなかそうは参らないでしょう。


 


なので、こんな苦しい時にこそ助けてほしいのに … なぜ神は助けてくれないのか。守護霊は助けてくれないのか。などといって、苦しみの中で不平をかこったりするわけですが。


 


実はその時に、霊的にはどういう状態にあるのか。肉体に宿った「愚かな自分」は気づいていなかったりするんですよね。


 


総裁先生は以前、人生というのは、地上の当人と守護霊が二人三脚をしているようなものだ、という話をしていたと思いますが、


だから過去の人生行路を見てみると、足跡が二人分ついている。自分の足跡と守護霊の足跡ですね。


ところが、自分にとって本当に苦しかった時期の足跡だけは、なぜか一つしかない。それを見て、ああ、あの苦しかったとき、やはり自分は独りで歩かされていたのだ。守護霊からも見放され、神からも見放されていたのだ。


と悲しむわけですが、実はそうではない。


 


いや、違うのだよ。あのとき、お前は一人ではもはや歩けないほど苦しんでいた。だからあの時は、わたし(守護霊)が、お前を背負って歩いていたのだよ。だから足跡は一つしか付いていないのだよ。


 


こんなような話ですね。これは守護霊のところを神さまに置き換えても同じことですが、


要するに、本当に苦しい時、人は実は自分ではもはや歩ける状態にはなく、実はその時点で、守護霊に背負ってもらっている状態にある、もしくは、神さまに支えてもらいながら息絶え絶えになりながらも、その苦しみの中で悶えている。生き抜こうとしている。


本当に苦しい時には、まさにそういう状態にあって、支えてもらっているんですよね。


 


真面目に純粋に生きている人であってみれば、神や守護霊が見放すはずもありません。


だから実は支えてくれている。


支えてくれているのだけれども、それをあからさまには言わない。自分で乗り越えることが大切なのだということを学ばせるためには、安易に、困った時の神頼みを知らせては、当人のためにもならないから、だと私は思いますが。


 


しかし実際は、すでに支えられているんですよ。本人が気づいていないだけでね。


まぁ不真面目な人が苦しんでいる時は別かもしれませんが、真面目に誠実に生きている人が出会う人生の苦しみのときは、必ずや守護霊は背負ってくれているし、神さまはその掌で支えてくれているはずです。


 


これは遠藤周作の「沈黙」のテーマにも関わると思うけれども、


神はなぜ沈黙しているのか、答えたまわないのか、と嘆いている時に、実はすでに答えは臨んでいるのかもしれないのですよ。その答えを見いだせるかどうかは、当人の悟り次第のところはあるとはいえ … 。


 


わたしは苦しい時に、なぜ守護霊よ、この時にこそ救ってくれないのか、答えを教えてくれないのか、といって他力の救いを求めたんですが。


自力では無理だ、この苦しい状態から抜け出す知恵が、自分には無い。助けてください、主よ、神よ、守護・指導霊よ、と祈っても、


 


返ってきたのは、


 


安易に他力を願うなかれ。すでに他力の救いは与えられている。


いまのお前に必要なのは、自力である。


道は無数にある。どの道を進むかを選ぶのは、あなた自身である。守護霊や神が決めるのではない。


いまの置かれた状況で、どの道を進み、人生を歩み直すのか。どの道を選ぶのも自由である。どの道を選んだとしても、人生を切り拓くことは出来る。しかし、どの道を選んでも、その道特有の苦しみがやはりあるものだ。


しかし、選ぶのはあなたなのである。それが人生の意味であり、修行であるのだから、自分で考え、決意し、勇気を持って、もう一度、道を歩き始めなさい。


 


そういったインスピレーションでした。


 


救いはすでに与えられている。その救いとは、いまの悩みに対するストレートな答えではありませんでした。真理はすでに与えられている。守護霊の導きも与えられている。だから救いはすでに降りているのだ。


しかし、それを知ったうえで、答えはわたし自身が出さねばならない。そうでなければ私の学びにならないからですね。


 


人生の試練の時に、今までに学んだ真理を使って、自分はどのような答えを出すのか。


その答え方次第によって、わたしの魂の鍛錬になるわけだし、悟りの階梯を一段上がれるかの瀬戸際にあるわけなんですよね。


守護霊に試合をしてもらっては、自分の試合になりません。課題に勝利しても、自分が課題を克服したことにはなりません。


 


だから安易に答えを求めるなかれ。答えを出すのは自分である。真理に基づいて、自分で考え、自分で決意し、自分で意志せよ。今こそ、自力が必要なのである。そのために真理を学んできたのではないか。


いままで学んできた真理の学びを参考にして、どうするのか、どの道を歩むのか。決めなさい。自分で決意し、選び、勇気を持って生きなさい。


それでこそ初めて、あなたが地上にて、新たな学びを得た、ということになるのだから。


 


そういって、ストレートな答えは決して教えてもらうことなく、さまざまなヒントはありながらも、どうすべきかを選び、決断するのは、自分の意志に任されたんですよね。


しかし、その背景には、すでに他力の恩恵はあったわけです。救いもすでに与えられていた。


その救いの手のひらの上で、自分はどう歩むのか、決意するのか。それは自力でやらなくてはなりません。


 


背負ってもらいながら、なおかつ、さらに詳細な答えまで教わったのでは、勉強にならないということなんでしょうね。


肝心の、人生のいちばん大切な問題に出会ったその時に、真理を学んで得た知恵でもって、道を切り拓いていかないといけない。自分が歩むべき道を選ばなければならない。


守護霊が、そっちの道がいいよ、と教えてくれるのを願うのではなく、選ぶのは自分。


Aを選ぶのもよし、Bを選ぶのもよし、Cを選んでもかまわない。どれを歩めとは言えない。それを教えては、人生修行の意味が失われるからだ。


そのようなインスピレーションを受けつつ、最後の決意と決断は、自分でするしかありませんでした。


いちばん邪魔をしていたのは、自分のプライド、偽我でしたけどね、今から考えると。つまらないプライドが邪魔して、その道は歩みたくない、だの、こっちは心配だの、勝手な注文づけをして、選択できずに迷って苦しんでいたようなものです。


けれども、そのプライドを捨てて、ゼロから歩み直せばいい、何も要らない、といって覚悟して歩きだした時、やはりその道の先に、自分の人生の未来はあったようです。


 


いまは、その道を歩いている自分がいる。


 


他力の恩恵、神の救いは素晴らしい。常に支えられている、というのが真実なのだと、いまでは思います。


そして、支えてもらいながらも、人は生きているものなのだと。他力のもとにありながら、自力で人生を生きているのが、人の真実の姿ではないだろうか。


しかし、他力は目に見えないからといって、神は自分を見放した、守護霊は助けてくれない、なんて思ってしまっては、これはとんでもない勘違いと恩知らずですね。そういう時には実は、背負って歩いてくれているのかもしれないのに。


悩み苦しみの中にある時に、自分のちっぽけな自我のワガママで、苦しんでいないかどうかを、よく振り返った方がいいですね。そして、苦しみの中にある時に、神への感謝と守護霊への感謝の気持ちがあるかどうか。他力の救いがすでに与えられているのに、神は自分を救ってくれない、守護霊は助けてくれない、などといって不平不満を並べていないか、どうか。


ささやかな一歩としての自力すら放棄して、他力の救いを求めていないか、どうか。


 


【本日の格言】を読みながら、そんなことを考えた次第です。


 


おしまい。


 


 



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posted by ガンレオ at 09:28 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする