2017年02月28日

【レオ】ミケランジェロ 〜「ルネサンスの歴史(下巻)」より〜

 




 



ミケランジェロの章も面白いんですよ。



「芸術家列伝」を遺したヴァザーリは、ダ・ヴィンチではなく、このミケランジェロの方と交流が深かったようで、それゆえミケランジェロのエピソードがふんだんに語られているんですよね。



そして、モンタネッリが書いた「ルネサンスの歴史」の画家の章は、このヴァザーリが伝えるエピソードを主な資料としているので、生き生きとしたミケランジェロ像が伝わってくるのです。



15歳ころのミケランジェロは、こんな人だったそうです。



みずからに娯楽を許さず、友人を求めず、若い娘に目もくれず、陰鬱寡黙で喧嘩早かった。

ある時、ピエトロ・トリジアーノという男と諍い、こっぴどく殴られて、鼻が曲がってしまった。それ以来、ますます人間嫌いになり、性格がひねくれた。


 … とあります。



後世のわたしたちは、ミケランジェロの名を知っていても、この人が喧嘩早くて、若い頃に喧嘩をして殴られ、鼻がそれ以降ずっと曲がっていた、などということまでは、なかなか知りませんね。



それが原因で、人間嫌いになって、性格がひねくれたのかはわかりませんが、他人との関係は結構、面白おかしいエピソードが多いので、偏屈なところがあった人なのは間違いないのでしょうね。




恩人ロレンツォにとことん敵対するサヴォナローラを、熱烈に崇拝するようになったのは、主としてこの性格の類似のためであろう。


 … とも、あります。



ロレンツォというのは、コシモ・ド・メディチの孫で、フィレンツェの第一人者ですね。事実上の支配者であり、当時のイタリアの群雄割拠状態を、この人が中心になってまとめていた、というほどの大政治家です。



そのロレンツォが、ミケランジェロを可愛がったわけですが、宗教改革者のサヴォナローラは、ロレンツォに敵対していた人物だったわけです。



俗世に生きる政治家ロレンツォと、清廉潔白な宗教人生をよしとするサヴォナローラでは、根本の生き方からして違うので、フィレンツェの目指すべき道が、まったく正反対の方を向いていた。



ミケランジェロは、ロレンツォがパトロンになってくれていて、その保護を受けているのに、敵対者のサヴォナローラを崇拝するという、めんどくさい立場に自ら立っていたわけです。




それはともかくとして、



面白いのは、やはり有名な作品を描いていた時のエピソードなので、それを紹介しておきましょうか。



ミケランジェロは、ローマ教皇ユリウスとも仲が良くて、この教皇からの依頼を何度も受けて、仕事をしていたんですが … 



ある時、システィーナ礼拝堂の天井画を描いてくれ、とミケランジェロに依頼するんですよね。



しかしミケランジェロは、




自分の本業は彫刻であって、壁画の技法には通じていないと弁明し、その仕事にはラファエロの方がずっと適任であると提案もしたが、ユリウスは頑固に言い張って、遂に彼を陥落させた。

ミケランジェロは不本意のままに仕事にとりかかり、この作品が自分の最高傑作として美術史の中に永遠に残るようになろうなどとは、夢にも思わなかった。

仕事の膨大な量を考えて、5人の弟子をフィレンツェから呼び寄せたが、すぐに怠惰だと言ってクビにしてしまい、結局は独力で、この巨大な仕事に当たることになった。



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↑ この超大作を、たった独りで描いたのだといいます。毎日切れ目なく描きどおしで、それでも4年かかったそうです。



面白いのは、これを描いていた時の、ミケランジェロと教皇ユリウスのやりとりです。



この全期間を通じて、恐るべき教皇の虜囚となり、高い足場の上にへばりついていたのである。

仕事場に入って来るのは、教皇ユリウスだけだった。毎日教皇は礼拝堂へやって来て、足場の上にあがり、ミケランジェロの傍らに腰をおろして叱咤激励し、かれが少しでも愚痴をこぼすと、常に肌身離さず例の木杖を振り回し、ぶっ叩くぞと脅しつけた。

この言語に絶する苦闘の4年間は、ミケランジェロを20年分も老け込ませ、その身体を変形させ、視力を弱め、性格をさらに捻じ曲げた。


そりゃあ、そーでしょうよ(笑)。



4年間も、寝っ転がった姿勢で、天上を見上げながら絵を描き続けていたら、身体がどうかしたって不思議はありません。目も悪くなるでしょう。 



そんな思いまでして、こんな超大作を描き切ってしまったミケランジェロは、やはりスゴイ。 




だから、



この大仕事が完成すると、ローマ内外から大勢の見物人が詰めかけた。


 … そうです。



こんなミケランジェロですが、ミケランジェロ自身は、もともと彫刻家から出発していて、生涯、絵を描くことよりも、彫刻の方を好んでいたそうですよ。




そう言えば、あの有名なダヴィデ像も、ミケランジェロの作品ですしね。



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これは、身の丈が5メートル以上もあるので、それを見物人が観るには、下から見上げる形になるでしょう?



だから、下から見上げた時に、ちょうど均整の取れた肉体美に見えるように、上半身は意図的に大きめに作られているんだとか。



真下から見上げると、上半身は遠いから小さくなるでしょ?だから大きめに作った方が、見上げた場合には、ちょうど良い見え方になるんだって。



スゴイですね。考えていることのレベルが違う。



 



 



 




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2017年02月27日

【レオ】レオナルド・ダ・ヴィンチ 〜「ルネサンスの歴史(下巻)」より〜

ルネサンスの歴史 (下) 反宗教改革のイタリア (中公文庫) -
ルネサンスの歴史 (下) 反宗教改革のイタリア (中公文庫) -

(レオナルドが)フィレンツェ最高の評価を得ていたヴェロッキオの工房に入ったのは、1467年のことである。

幼い頃から異常な画才を示していたレオナルドは、森羅万象に注目し、それを素早く描き取った。

いつもスケッチブックを携帯し、夜は枕の下に入れて寝た。


 



レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)



師匠のヴェロッキオ(1435-1488)



 



なので、レオナルドが師匠に弟子入りしたのは、15歳。



その時、師のヴェロッキオは、まだ32歳の若さです。



 



なのに、次のようなエピソードが伝わっているんですよね。



 



ヴェロッキオはこの少年の才能に驚嘆し、「キリスト洗礼図」の左半分を任せ、自分が右半分を受け持った。

出来上がって見ると、弟子の方がずっと見事な出来栄えだったから、師匠はその後、画筆を取らなくなった、とヴァザーリは伝えている。


 



 



「キリスト洗礼図」というのは、↓この絵ですね。



Andrea_del_Verrocchio,_Leonardo_da_Vinci_-_Baptism_of_Christ_-_Uffizi.jpg


 



左半分をレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、とありますが、



厳密に言うと、いちばん左端の、振り返っている天使の子が、レオナルドの作らしい。



 



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この画像ではタッチの違いがよくわかりませんが、



以前とあるテレビ番組で、上の絵の全体を映した映像を見たのですが、左端の天使の子だけ、明らかにタッチが違うんですよね。



光り方の加減と陰影のつけ方に違いがあるようで、この子がいちばん目立って見える、というか、浮き上がってくるような立体感と存在感があるんですよね。実物を見たら、その違いがいっそうよくわかるであろう、明らかな違いが見られる。



 



そういう違いを実際に知ってみると、この絵を弟子レオナルドに手伝わせてみたら、自分以上の腕前を見せられて衝撃を受けて、師のヴェロッキオが以後、筆を取らなくなった、というのも、本当のことなんだろうなーと感じさせられますよ。



 



 



モンタネッリの「ルネサンスの歴史」は、文章表現が面白いので、エピソードをいろいろと知りながら読まされているうちに、ドンドン読んでいってしまうんですよねー。



 



例をあげると、レオナルド・ダ・ヴィンチの天才性を表現するのに、こんな書き方をしています。



 



かれは疲れを知らぬ働き手で、描き彩る他に、数学、物理、天文、植物、医術の論文を貪り読み、飽きれば馬を森へ乗り入れて長い散策を楽しみ、あるいはリュートを弾いて歌を歌った。


 



なんでも出来ちゃう人だったんですねー。さすが万能の天才!!



 



それからレオナルド・ダ・ヴィンチは、完成作が少ないことで有名ですね。



そのことが、次のような文章で説明されています。



 



かれの作品の多くが完成を見ぬままに放棄された。

この画家は自作に満足したためしがなかった。描いてはやり直し、前金をポケットに収めて、締切期限に無頓着だったから、たいていの注文主は頭に来た。

とにかく、期限通りに出来上がったためしがないのだから、注文主は、かれほど芸術的良心の強くない他の画家に、あらためて注文し直すことになった。

それでもレオナルドは気を悪くしなかった。実際に描きあげる作業は弟子に任せたっていいと思っており、それよりもアイデアの方が大切だと考えていた。


 



理想主義者で完璧主義者だったのか、絵筆を取っても、途中で描くのをやめてしまったり、そして別のことに次々と手を出したりと … そういう人であったらしい。



やりたいことが多すぎて、絵だけに没頭できなかったのかもしれません。



 



だから、かような評価を得ることになってしまったのでしょうね。



 



哲学や神学にも情熱を感じたが、深く研究するだけの時間がなかった。

あまりにも多くのことに一時に興味を持ったから、どれもこれも、本質を洞察するに留まらざるを得なかった。

しかし、本質を見抜く直感力には素晴らしいものがあった。


 



ふつうは、どの学問も、一人の人間が一生かけて研究努力しても、その本質を見極めることは難しい。



けれどもレオナルド・ダ・ヴィンチは、宗教から哲学、芸術に科学に医学に天文学に … と、あらゆることに研究の目を向け、興味を持っていたわけです。



 



それでも人生の時間は限られているから、すべてを詳細に極めつくすことは到底できなかったのだけれども、ただ、それぞれの学問の本質は、直感的に見抜いていたと。



 



諸学問それぞれの本質を、直感的に掴んでしまっただけでも、十分に天才と言うしかないですけどねー(笑)。



レオナルド・ダ・ヴィンチのような万能の天才は、10人くらいに分裂して別々に生きるくらいで、ちょうどいいのかもしれない。そのくらい魂のエネルギー量が大きいというか、才能の泉が広く深い、ということなのでしょうね、きっと。



 



他にも、興味深いエピソードが沢山書かれていますので、ルネサンス時代の巨人たちの人となりを、ざっと知りたい人は、このモンタネッリの「ルネサンスの歴史」、オススメですよ。



 



 



 



 



 



 




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【レオ】ルネサンス時代、いいねぇ〜

ルネサンス時代の画家・著作家のヴァザーリが遺してくれた「芸術家列伝」。

ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなどのことが詳しく描かれていて、とても貴重な資料であり、読み物としても面白い。

芸術家列伝3 ― レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ (白水Uブックス1124)/白水社

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ダンテの「神曲」を訳してくれた、平川祐弘さんの訳で白水社から出ているんですが、
これを元ネタにして書かれた、モンタネッリの「ルネサンスの歴史」も面白いのです。

学術的な本では大衆には読まれない。
だから学問的にどうこう、というよりも、多くの人に親しまれるようなルネサンスの本を書こうと、「ルネサンスの歴史」は、そういう本です。だから読みやすく、楽しい本になっています。


ルネサンスの歴史 (上) 黄金世紀のイタリア (中公文庫)/中央公論新社

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ルネサンスの歴史 (下) 反宗教改革のイタリア (中公文庫)/中央公論新社

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こういった著作を日本語訳で読めるのだから、現代の日本人は恵まれていますね。




ヴァザーリの名著「美術家列伝」のなかで、14世紀初から16世紀末までの時代が、初めてルネサンスという名で呼ばれた。

((中略))

ヴァザーリがルネサンス、すなわち「再生」と言ったのは、古典文化の復活という意味である。
ゴート、ロンゴバルド、フランク等蛮族のもとに雌伏した中世1000年の後、ようやくラテン文化がよみがえり、怨みを晴らしたというのが、かれの考えであった。

「ルネサンスの歴史」モンタネッリ




イタリア半島は、ローマ文明の発祥の地であり、大ローマ帝国の中心地だったのに、
5世紀のゲルマン民族の大移動と侵入以降は、蛮族の支配下に置かれてしまった。

このゲルマン民族たちが、ローマ法王と結ぶことで、キリスト教が中世ヨーロッパの精神的支柱となっていくわけですが、
キリスト教が広まって、ローマが宗教の中心にはなったものの、かつてのギリシア・ローマ文化は、異端の地位に置かれ、忘れ去られていった。

これが復興したのが、ルネサンスにおける「再生」の意味ですね。古典復興。キリスト教の中世には失われていた、ギリシア・ローマ文化がふたたび注目され、甦った。





だが、古典文化の復活というだけではルネサンスの意義は尽くせないのであって、古典復興はヒューマニズム(人文主義)と呼ばれるルネサンスの一側面に過ぎず、この側面の代表者がペトラルカなのである。
長い中世のあいだに古典は散逸し、辛うじて残った写本類は主としてベネディクト派の修道院に保存され、時には奇特な修道士がそれを筆写した。
これら古文献を必死に探索し、一心に研究した本の虫たちを、ヒューマニスト(人文主義者)という。
古文献はイタリアにもっとも多かったから、当然ヒューマニズムもイタリアに興った。




以上は、「ルネサンスの歴史」上下巻本の冒頭の数ページに書かれている記述です。
これだけでも、非常に重要な指摘がなされている名文だと思います。


ルネサンス時代は、単に古典が甦った、というだけの時代ではない。
イタリアの諸都市は、交易も盛んに行ない、経済的な発展もしながら、それぞれの実力を養っていた。そういう時代ですね。
そうした経済的豊かさがあってこその、文化の興隆であり、華やかな芸術や、壮大な建築物が創られたわけです。
豊かな時代であるからこそ、芸術が花開く磁場が出来たわけで、だからそこに偉大なる魂たちが、多数生まれ出てきたのでしょう。

キリスト教一色だった中世の停滞に対して、過去の失われたギリシア・ローマ文化が復活して加わることで、近代ヨーロッパの土台が再建された、ということですね。ここに神の世界計画があったのだと、歴史を振り返ってみれば、確かにそう感じられる。

キリスト教だけでは足りない部分が、ギリシア・ローマの失われた精神の復活によって、補強された。そこにヨーロッパ文明の2つの大きな土台がある、という意義づけですね。

ギリシア・ローマ文明 → 中世キリスト教 → 両者の融合

という歴史の歩みは、ヘーゲルの弁証法的歴史観とも見事に合致しています。


それから、キリスト教は異端の説を排斥して滅ぼした、みたいな決めつけがあるけれども、
このとき復活したギリシア・ローマの古文献を、長らく保存してくれていたのは、実はキリスト教の修道士たちだったわけですよ。

彼らは祈りの日々を送りながらも、古代の資料などを書写して、保存に励んでいたわけで、そうした埋もれていた写本の類が、このルネサンス時代に芽生えた興味・関心によって、再発見されていったわけです。

当時はまだグーテンベルクによる活版印刷が出る前、その前哨のときですから、本を入手できても、写本を手書きで書き写すしかない。
人文主義者たちは、写本を集めて収集し、それらを貸し合ったりして、知識の習得に励んでいたわけです。
わたしはペトラルカの著作を随分読みましたが、この方は教父アウグスチヌスに傾倒しており、その著作の言も非常に魅力的な考察で満ちており、読んでいて非常に勉強になります。


モンタネッリは、ルネサンスの意義は、単なる古典復興ではなく、復活した古典をベースにしつつも、そこに新たなる精神の息吹が吹き込まれたことで、大いなる繁栄を見たものだ、と述べていますが、

古典をしっかりと学ぶこと、伝統的なるものを大切にする心は、とても大切なことですね。

単に新規なものを生み出すだけなら、軽薄な一時の流行でしかない可能性が高いけれども、
古典の精神を尊重しながらも、新たな時代を模索する精神には、深みと重みがありますから。



幸福の科学による21世紀ルネサンスもまた、これと同じく、
それは新たな宗教の誕生のようでありながらも、2600年前の仏教精神の復権の意味もある。
古典復興と新たな教えの融合というところに、新しさと同時に、精神の深みと連続性がある。

芸術に関しても、教育に関しても、政治に関しても、長い人類の歴史のなかで煌めいてきた、光の天使たちの業績を尊重しながらも、
これからの新時代を切り拓かんとしている「幸福の科学」の運動こそは、21世紀のルネサンス運動そのものではないでしょうか。

当時活躍した多くの魂たちが、この現代のルネサンスに登場して、活躍してくれるであろうことを想像するだけでも、楽しく感じれてきますし、事実、未来はこの道の先にたしかに拓かれていくことでしょう。







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2017年02月26日

【レオ】理想と現実、正義と悪の戦いとユートピア建設 〜ぽん吉とピア健と救国のコウは、倒すべき悪である〜<加筆あり>

わたしのスタンスは、

宗教を学ぶ者は、信仰のもとに生き、みずからの正しき心を探求すること。
そうしたみずからの宗教的なる人生でもって、宗教の素晴らしさを実践しつつ、教えそのものを広めることが出来たら最高かな。

その過程においては、ユートピア作りのための根本精神として、すべての人の仏性を信じ、性善説のもとに生きたいと思うけれども、現実的には、この世には正義と悪の戦いというものがある。

悪を押し止め、そのうえで正義を貫くことが大切で、
正義と悪をごった煮のままに放置することが、いいわけではないのは自明の理ですね。
善悪の玉石混交というのは、三次元世界においてのみ現れる、仮の世界の玉石混交にすぎません。
三次元世界の存在自体がすでに、悪であっても善と同居しうるという、そうした寛容な特殊な舞台として最初からあるわけで、だからといって、
そうしたアナーキーを見て、それを放置するのがいいわけではないでしょう。それでは学びの意味がない。

三次元の善悪が入り混じった混乱した世界において、
善を選んで、悪を排せ、そこに善悪を分ける智慧を学ぶことができるのでしょう。

悪を許すのが寛容さではない、ということです。寛容なる三次元世界において、悪が出現する。その悪をどうするか。放任するのが寛容さか?違うでしょう。悪を排して、善を推し進めるところに、智慧が得られるのではないでしょうか。

だから、私にとって、多くの人を害する悪は、倒すべき敵であります。
宗教者でありながら、主を冒涜し、所属していた団体に罵詈雑言を浴びせる、ぽん吉やピア健のような仏敵法敵を、黙認して済まそうというのは、戦いを避ける臆病であり、弱々しき善人そのものじゃないの?と考えます。
以前あったアンチの大量乱入の際に、見て見ぬ振りをして傍観していただけの人も、嵐が過ぎ去るのを待っていただけなら、同じことですよ。更新してなかった人は別として、ブログ村に参画し上位におりながら知らんぷりでは情けない。

正義の(義)とは、善悪を分ける智慧であり、正邪を分かつ判断力のことでしょう。そして、その義を断行するためには、勇気がいる。
それは、愛のための戦いであり、正義の戦いであると、日本の神々もおっしゃられていたはずですね。
義を見てせざるは勇なきなり、になっていないかどうか。
宗教的な許しという観点に逃げ込んで、義と勇を忘れていないだろうか。

大きな例と比較すれば、
ヒトラーやスターリン、それから現在の中華人民共和国による横暴な侵略主義に対して。正面から受けて立つ勇気があるかどうか。
反論も受けない場で、勝手に批判するのは簡単ですが、いざ敵を前にした時に、それと正面から対峙してディベートできるかどうかですね。
見て見ぬ振りをして嵐が過ぎ去るのを待つだけの人は、政治家になったら、中華人民共和国に対してタカ派の意見など言えませんよ。戦って傷つくのが嫌なようでは、相手がいないところでは理想論を掲げられても、いざ凶悪な敵を前にしたら、沈黙して融和的な態度を取るのではないでしょうか?
きれいごとだけでは悪には勝てませんよ。 

ブログ村における悪とは、ぽん吉やピア健のような、脱会アンチであり、信者籍を持っている間にも、法を捩曲げながら、反省もせず、自己変革の意思すらなかった輩ですね。
幸福の科学にとって、獅子身中の虫のごとき、信者籍を持ちながら邪見をばらまく人間がそれだと思います。

彼らと戦って、結果的に彼らが本性を表し、牙をむきだしてきたのは、隠していた本音を出しはじめただけの話です。
私がやったのは、それを先んじて明らかにしたことであって、そういう意味では、すこしばかりの良いことを行えたかな、とすら思っています。悪を見破って暴いた、というに過ぎません。

正義を打ち立てるには、悪を放任するのではなく、悪を滅ぼして、その先に健全なる正義の世界、天の秩序を打ち立てるべきだと思います。

綺麗事の理想論だけではダメで、現実主義も必要で、これは国際政治でも同じところがありますよね。
アメリカ主導の戦後世界でも、アメリカは理想主義と現実主義の双方に揺れて、アメリカ自身がはっきりしなかった。それが20世紀の世界を混乱させたところがある。
アメリカ自身が世界正義の何たるかを模索しながら、その識見定まらず揺れていたところに、世界の混乱が生まれる余地があったのでしょう。世界の警察官を自称しながらも、すべての悪を取り締まることは出来ず、それどころか、警察官自体が悪事に手を染めたりするので、正義の何たるかがますますわからなくなっていく。
真の世界リーダーの不在が、世界正義の樹立を打ち立てることが出来なかった理由かと思います。

イギリスは現実主義の伝統があって、政治改革も思想も現実主義で、経験重視の穏健な考え方を取りますね。
一方、フランスは、フランス革命に代表されるように、理想主義に傾きすぎて、あまりに急進的で過激な変革をやろうとしすぎて、その後の大混乱につながったりしましたが。

フランス革命を応援したトマス・ペインの理想主義と、
フランス革命を批判したエドマンド・バークの保守の立場、現実主義の漸進主義の対立を見ると、
この双方を融合するのが大切なのかなーと。
どちらにも半面の真理があるので、どちらの主張にも一理ある。

わたしはユートピア建設という理想の実現のためには、
善悪を分けて。悪は封じるというリアリズム政治が必要だと思ってます。
悪に対して黙ってスルーするのではなく、断固として対峙して、打ち倒すまで戦う!

とりあえず、ぽん吉とピア健との戦いは、私にとってはそうした、善悪の観点からの戦いですよ。
その意味で、この二人に連なる救国のコウも、そのままで許すつもりはさらさらない。
法を捩曲げること夥しい、この邪見の輩の悪事は、世間に知らしめて、警告しておく必要がある。そう考えるものです。


http://gunleo.seesaa.net/article/422483210.html


2016-11-23 09:30:14 初投稿日




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posted by ガンレオ at 10:07 | Comment(1) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

【レオ】サイコパスについて その3 〜ぽん吉という名のサイコパス〜

サイコパスには人間的な感情が欠落していると言っても、すべての感情を失っているわけではありません。確かに恐怖や不安は感じにくいのですが、負の感情のすべてが低下しているということではないのです。  

たとえばサイコパスにも「妬み」の感情はあります。

 


サイコパスは、感情欠落しているように見えるといっても、「嫉妬」の感情はあるようです。


自分が関心を持っている領域で、妬む相手がいると、激しく嫉妬する。


自己中であり、自己肥大が過剰であるサイコパスの嫉妬は、むしろ、ふつうの人以上に猛烈な嫉妬感情を彼らに与えさえするのかもしれません。


自分がいちばん目立ちたいのに、相手にされず、他の人が注目されていることほど、彼らにとって許し難い、自己への攻撃は無いからでしょうか。


その嫉妬自体が、エゴによる誤った感情なのですが。


 


サイコパスは自分自身を「強く、自立的な一匹狼」として捉えている

 


 


これも、他人への共感感情を持たないから、みずから孤立を招きがちな、サイコパス特有のエゴでしょう。


孤立していることを、自分の性格が原因だとは考えずに、自分はアウトローの一匹狼なのだ。自分はあまりに優秀すぎるので、誰も自分のことを理解することが出来ない、自分は誰にも理解されない天才なのだ。


みたいな感じで、彼の強烈なエゴは膨れ上がり、その心の中は傲岸不遜の自惚れで、実は膨れ上がっている。


しかし、それを表に出しては、ますます他の人から嫌われるので、見せかけ上は、謙虚なふりをしたりするのだけれど、それは口先だけの話でしょう。


自分など大したことがない、などと口では言っても、心の中は、自分こそヒーロー、傑出した人物なのだ。なぜ世間はそのことがわからんのか。


などと思いあがって、そのギャップに苦しんでいるのかもしれません。


 


P吉も、独りよがりの「われ独りにて立たん」みたいなカッコつけしいセリフを、しばしば使ってましたが、これがまさに、自分を「強く、自立的な一匹狼」に見立てようとの、エゴ心理そのものです。


 


 


自分には社会のルールを破る権利が与えられている──サイコパスはそう信じている

 


 


社会の常識やルールを平然と破るのは、彼らがあまりにも傲慢で、自分勝手だからでしょう。社会のルールや法よりも、自分一個の意志と行動が上である、優先されるのだ、といって思いあがっている。


 


ドストエフスキーの「罪と罰」では、主人公のラスコリニコフは、天才や偉人は社会のルールを破る権利がある、資格があるのだ、といった過激論文を書いて、それが彼の敵たる判事の目に止まり、怪しまれるんですよね。


その主張そのものが危険思想なのですから、当然、怪しまれてしかるべきでしょう。


 


ルールを平然と破る人間は、なぜそんなルールに自分は縛られないといけないのか。そんなルールは関係ない、オレは自由だといって、好き勝手な行動をしたがりますが、


そうした自分勝手主義は、自由とは何の関係もない、悪魔の論理ですね。


かつて1億年以上昔に、悪魔が人々を惑わした、お前たちは自由なのだ、神でさえその自由を邪魔することは許されない、そうした自由なのだ、といった悪魔の自己中にすぎません。


 


ロバート・ヘアは「サイコパスも良心の呵責や罪悪感を口にすることがある」と言います。しかしそれは実際に心が痛んでいるからではありません。他人から責められたときに「自分が悪いと感じているように見せる」ことが有効な処世術だと理解しているからです。

 


 


ロバート・ヘアという人は、サイコパスという概念を世に広めた犯罪学者です。わたしも著作をかつて読んだことがあります。


 


彼らは、良心の呵責や罪悪感ですら、見せかけの演技で、それがあるように見せかけるんですよね。


本当は、良心の呵責など全く感じておらず、罪悪感など持ってもいないのに、自分でも、これはいけないことだと思っていますよ、でも正義のためにやるしかないんです、自分が悪役になってでも暴れるしかないのです、などという詭弁論理を立てて、自己を正当化しようとする。


しかし実際には、自分が悪いことをしているなどとは、さらさら思ってやしないのです。世間を騙すために、さも悪いことをしている自覚があるかのように見せかけているだけ。世間をも欺こうとするのが、サイコパスの常套行為なんですよね。それが彼らの処世術なのですから。


 


彼はサイコパスが一般人とは異なる言葉づかいをすることに注目していました。文の構造、語彙の選び方、しゃべる速度、リズムが違う、というのです──この点に注目した後世の研究者たちが、r-a-p-e(強姦)といった単語を用いてサイコパスに情動反応が起きるかの実験を行うことになります(実験結果については第1章参照)。

 


 


サイコパスの中には、性的な言葉や、暴力的な言葉に、過剰反応するという特徴がある人もいるそうです。


なので、文面の中にr-a-p-e(強姦)という単語を入れて、それを読ませたりすると、ふつうの人は、まったく気づかずに読み飛ばしてしまうところが、サイコパスはその単語を読んだ途端に過剰な反応をするそうです。脳波の変化、つないだ機械のメーターの針が、激しく振れる、ということです。


どこぞの誰かも、性犯罪などに異常な執心を示していますよね。典型的なサイコパスの特徴を示している。そう、観察することが出来るかと思います。


 


 


 … つづく。


 


 


 




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2017年02月24日

【レオ】サイコパスについて その2 〜まさに、ぽん吉そのもの〜


サイコパスの場合、「私はあなたを愛している」と言う時と「コーヒーを飲みたい」と言う時で、なんら脳波の動きが変わらなかったのです。


 


要するに、愛の言葉をささやいている<つもり>に過ぎなくて、機械的に<愛>という言葉を使っているだけ。それがサイコパスならではの特徴なのでしょう。


愛を打算で使って、異性を騙す結婚詐欺だとか、そういう犯罪者ですね。


 


サイコパスは「こういう状況では、他人はこう感じ、こう考えるものらしい」と、テストの答えを探すように相手の気持ちを読解し、操るのです。  

サイコパスは自分に共感性がないことに、薄々気づいてはいます。そして、他者に共感的なふるまいをまったくしないと自分にとって不利になるということを頭で理解しています。そのため、他の回路を使って対応するのです。

 


 


アダム・スミスは「道徳感情論」という著作で、道徳的行為は、共感にもとづくと述べていますが、


サイコパスには、この共感能力が無いわけです。本当の意味での、他者への愛情だとか、そもそも関心すら無い。


彼らにあるのは、極度な自己愛と、自我我欲、自分勝手な欲望でしかないのだから。


 


けれども、そんな彼らであっても、見せかけ上は、他者への優しさを見せないと、自分に不利になる、ということはわかっている。あるいは、優しい<ふり>をした方が、他人をうまく騙せる、ということは知っている。


老人を詐欺で騙す犯罪者とかいますね。優しげに近づいていって、言葉巧みに欺いて、老人たちから金をだまし取ったりする詐欺犯罪者。典型的な、自己中サイコパスといっていいでしょう。


こういう、道徳観念の欠落した、他者の苦しみに無関心の自己中人間こそ、サイコパスの特徴でしょう。


 


彼らは、他者への愛を、打算の上で叫ぶかもしれません。他の人への愛のために、自分は生きている、とか何とか。


けれども、その本心は、まったくそんなことには無頓着で、そうした方が自分に有利か、不利であるか、という打算的な判断でのみ、そうした見せかけの愛を演じているに過ぎません。


 


ただし、サイコパスは徹頭徹尾自己中心的で他人のことを一切かえりみない、ということではありません。  

サイコパスも「こいつは自分の仲間だ」と認めた人間に対しては「たとえ自分の損になっても人のためになる」ことをします。仲間が得をすると、自分も間接的に得をすることを知っているからです。

 


 


これまた、友情的<疑似>行動ですら、彼らは行なう、とのことですが、


やはり根本にあるのは、打算ですね。自分に利害のある味方に対しては、応援することがある。


けれどもそれが真の友情でないことは、自分にとって付き合う益がなくなった途端に、その相手との関係を断ち切る自分勝手を見れば、簡単にわかります。


どこぞのP吉は、かつてのお仲間を、関係が深いあいだは応援しながらも、自分と立場が変わったら、あっさり見捨てて罵っていました。


結局、こういう手合いのサイコパスにあるのは、自己中精神のみであって、他の人との真の友情など、結びようが無い、ということでしょう。


 


こういう人が地獄に堕ちると、孤独地獄、無間地獄というところに堕ちることになるのだと、わたしは推定していますが、


肉体に宿っているあいだに既に、その人生は<孤独地獄>なのかもしれません。


 


その証明として、著書にも次のような指摘があります。


 


サイコパスも悩み、苦しむことは当然あります。  彼らの悩みとは、いったいどんなものでしょうか。  

中国の武漢大学の研究チームが2015年に発表した研究論文によれば、サイコパスの一番の悩みは孤独感が強いことだそうです。彼らは、なかなか他者との信頼関係を築きにくい面があります。信頼関係を築けたと思っても、人の痛みがわからず、サイコパス特有のふるまいが一般人の感覚からは外れたものに見えるせいで、一時的な関係性で終わってしまいます。  

自分の周囲から、人が離れていってしまうことが繰り返されると、徐々に「人間関係は短期的に終わるものだ」ということを想定して行動するようになり、ますます破綻を招く──そうして孤独感を募らせていくようです。誰も自分のことを理解してくれない、と。  

他人に共感できない人間なのだということが周囲に知られたら「あいつは危険だ」と思われ、ますます孤立を招きかねません。カミングアウトするのも難しいのでしょう。

 


こういう説明を読むと、彼らは憐れむべき、同情すべき人間なのかな、と錯覚してしまいそうですが、 そういう孤独を作っているのが、まさに自分自身の<自分勝手な心>が原因なのですから、自己反省して、その自分勝手さを改めるしか、この重い病を治す方法は無いのです。


 


勇気を持って、自分のエゴと対決し、それを脱却しないといけない。


 


仏教で教わる<無我の教え>は、そうした自己中、エゴの心を離れるために、もっとも優れた教えといっていいのではないでしょうか。


 


 




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posted by ガンレオ at 15:03 | Comment(1) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】良心を持たないサイコパス

「サイコパス(文春新書)」から、興味深い箇所を抜粋紹介しようと思います。



ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。ウソが完全に暴かれ、衆目に晒されても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。
((中略))
精神医学ではサイコパスというカテゴリーではなく、「反社会性パーソナリティ障害」という診断基準になります。




サイコパスというのは通称で、精神医学の専門用語ではないそうです。
反社会性が著しい性格の持ち主であり、そういう精神障害を持った人物、ということになるようです。

しかし障害だからといって、同情的に扱うだけでは済まされないところがありますね。
なぜなら文中にあるように、彼らは「ありえないようなウソをつき」「考えられない不正を働いても」平然としているからです。
こんな迷惑な人間を、放置しておくわけには行きませんから、やはりその異常性は暴露して、医者にかかってもらわないといけません。



近年、脳科学の劇的な進歩により、サイコパスの正体が徐々にわかってきました。脳内の器質のうち、他者に対する共感性や「痛み」を認識する部分の働きが、一般人とサイコパスとされる人々では大きく違うことが明らかになってきました。




脳を原因とするのは、間違いでしょう。それは唯物論、唯脳論の立場から考えているから、脳が<原因>だと勘違いしているのであって、実際は、脳の問題以前に、魂の問題がある。
その肉体に宿っている<魂>の方に問題があるから、そうしたサイコパス傾向を持った人間となっている。サイコパス脳になっている、ということではないか。

その意味では、脳は原因ではなく、<結果>ですね。サイコパス魂が宿った脳であるがゆえに、他者への共感性を示すはたらきが欠落している。脳のその箇所が働いていないというのは、魂に共感能力が欠けているからでしょう。
脳はあくまでも、魂の道具でしかないので、脳に表れる特徴は、その魂の特徴の結果でしかない。原因は、その魂の成長度合い、未熟さにこそある、というのが真実でしょう。



サイコパスの特徴をいくつか挙げてみます。

・常習的にウソをつき、話を盛る。自分をよく見せようと、主張をコロコロと変える。
・ビッグマウスだが飽きっぽく、物事を継続したり、最後までやり遂げることは苦手。
・傲慢で尊大であり、批判されても折れない、懲りない。




ひじょうに納得性のある、特徴の列挙ですね。ズバリそのまま当てはまってしまっている人物を、わたしは知っています(笑)。
これに該当する人物が、他にもいますね。

問題なのは、こうした特徴の背後にあるのが、強烈な自己中意識、エゴ肥大、ということでしょう。
要するに、自己中心、自分勝手、自分さえよければいい、そうした自分が自分がという、自分中心の世界観を彼らは持っている。
よく、地球が<自分を中心に回っている>と勘違いしている、自己中人間が世の中にはいるものだ、と言われますが、まさにこうした人物こそが、サイコパスである、ということです。



このようにサイコパスは尊大で、自己愛と欺瞞に満ちた対人関係を築き、共感的な感情が欠落し、衝動的で反社会的な存在です。また、無責任な生活スタイルを選択するといった傾向があります。




サイコパスは自己中心なので、基本、他の人に関心が無い。関心がないからこそ、他の人に共感的な態度を持つことがない。ゆえに、他の人の心がわからない。感じ取れない。
ということではないかと思います。

他の人のことを考えないから、自分勝手な行動を取り、それが結果的に、社会のルールを無視した異常行動、という行動パターンになるのでしょう。
傍から見ると、デタラメで滅茶苦茶な生き方をしているように見える。無責任な生活態度、というのも、これでしょうか。

彼らは、自分勝手であるがゆえに、社会のルールを無視した、反社会的な行動を平気で取って、しかもそうした行動を取りながら、自分が悪いことをしているという自覚がない。



普通の人はそういう反道徳的な行為をしません。やらない方が安全だからです。通常は「安全だ」という判断すら意識に上ることはなく、自動的に「うしろめたい」といった気持ちが生じ、その行為にブレーキがかかります。




ふつうの人は、ルール無視の反道徳的な行動はしませんね。
そんなことをしたら、多くの人から嫌われて鼻つまみ者になってしまうことを、常識的に理解しているからです。
そもそもわざわざ、そんな反道徳的なことをやろうと思う以前に、良心の声をきちんと聞いて、そんなことはしてはいけない、とわかっているからです。

この著書には、他にも興味深い指摘が多数あるので、一部抜粋して、列挙してみましょうか。



サイコパスは、他人がどうなろうと、その相手を思いやるということはありません。

他者への共感性や思いやり、恥の意識、罪の意識がすっぽり欠落しているのです。

サイコパスが犯罪を行う場合、しばしば「スリルの追求」が動機となります。




サイコパスは、他人への関心が無く、自分への関心ばかりで生きている自己中心者なので、
他人に嫌われながらも、自分が注目されることを望んでいるのでしょう。
だから、悪さをしてでも、目立ちたがったりもするわけです。

相手にされない「無視」が、いちばんイヤなことであって、無視されるくらいなら、悪さをしてでも注目を浴びたいという、屈折した心理も持っているかもしれません。
人間としては最低の生き方ですけれどね。哀れな話ですが。

そうした動機があって、悪さを行なう。
悪さを行なっておきながら、そのことがバレないように隠ぺいしたりして、そのバレるかバレないか、糾弾されるかしないか、といった瀬戸際の悪事を行ないながら、そのスリルを楽しんでいるのかもしれません。
これまた、屈折した異常者の心理と言うしかありませんけどね。
そのスリルを感じる心も、自分勝手な自己中の好み、願望に過ぎないという意味で、やはりサイコパスは自分中心の哀れな人間、ということになりそうです。



社会通念上「普通の人はこういうことをしない」とされている倫理的なハードルを、サイコパスは平気で乗り越えてしまう、というより、ハードルなどもとから存在しないかのように振る舞う。




ふつうの人が、当然守るべきルールだと思っている、社会規範や倫理を、サイコパスは守りません。
平気で破って、平然としている。というか、ルールやハードルがあることを知らないかのごとく、振る舞っている。これまた、あまりに自己中であるがゆえに、自分にはルール無用、とでも思いあがっているのかもしれませんが。



普通の人は「自分も他人も、普通はルールを守るだろう」という性善説を信じて行動しています。「ウソをついてはいけない」とか、科学者であれば「科学的なプロセスを踏んだ結果しか許されない」といったルールです。




彼らサイコパスには、性善説は通用しない。本性が善であるというには、彼らの性質はあまりに自分勝手で邪悪であるがゆえに、韓非子流の性悪説でもって対峙した方が、彼らのようなサイコパス相手には適している、とさえ思います。
悪の危険性が高い人物に対しては、悪に対する防衛が必要ですね。北朝鮮のような横暴な国家に対しては、その性は善である、と楽観的に捉えるのではなく、危険な悪と捉えて、対処法を考えた方がいいのと一緒でしょう。



そうしたルールを平気で無視し、しかも一抹の罪悪感も抱かず平然としていられる人間に対しては、ウソや不正を見抜くことはなかなか難しい。




悪人は、善人なら言わないようなウソを平然と言うので、彼らのウソを見破るためには、それなりの見方が必要なんですよね。
常識では考えられないような嘘でも、彼らは平然とつくのだ、ということを知っていなくてはいけない。その理解のもとで対処しなくてはならない、ということです。


 … 続く、かも(笑)。




その他の参考文献;

「診断名サイコパス」 ロバート・ヘア
「良心をもたない人たち」 マーサ・スタウト
「犯罪の心理学 なぜ、こんな事件が起こるのか」 中村希明
「平気でうそをつく人たち:虚偽と邪悪の心理学」 スコット・ペック
「なるほど!とわかるマンガはじめての嘘の心理学」 ゆうきゆう
「面白いほどよくわかる!犯罪心理学」 内山絢子

大川隆法総裁先生の著作多数 … 。などなど。




ロバート・ヘアの著書は随分以前に読んだのだけれど、ネット上で、常習的な嘘つきに多数遭遇したので、ウソをつく人の心理状態はどういうものなのか、を知ろうと思って、ちょっとばかり乱読・研究してみました。
今後も、このテーマは研究の余地あり!!ですね。




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posted by ガンレオ at 08:01 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】楽しい時も、苦しい時も、流れ去ってゆく時の中にある … 

楽しい時は、ずっと続いてほしいものだと思うけれど、
そうは行かずに、流れさってゆく。
楽しい時ほど、あっという間に、流れ去ってゆくようにすら感じるものだ。


ふつうの日々は、ふつうに流れさってゆく。
毎日毎日のルーティンをこなす時間は、平凡な日々だ。
平凡な日常は、当たり前のように繰り返され、現れては過ぎてゆく。


厄介なのは、苦手なことが眼前にあらわれる時 … 。
明日は〇〇があって嫌だなー。明日が来なければいいのに … 。
なんて思ったことは、ありませんか?

けれども、そんなイヤな日であっても、待ってはもらえず、
明日が来ると、遠慮なく目の前に現れてくる。
厄介ごとの真っ最中には四苦八苦で、人は夢中で頑張るしかない。


けれども … 、
そうした厄介な時間であっても、やがては過ぎ去ってゆく。
その一日を頑張って乗り越えれば、またふつうの明日がやってくる。
休息のとき、やすらぎの時、楽しい時が、またやってくる。

時は過ぎ去ってゆく。目の前に現れては過ぎ去り、
人は、永遠の時を生きてゆく。

困難を乗り越えたとき、
人は新たな力を手に入れているものだ。
厄介ごとは、努力して乗り越えるうちに、いつしか苦手なことではなくなっている。
かつて苦手だった問題が、ふつうの問題に変わっている。
それは、自身が成長したから。魂の力が成長したからだろう。

だから、今度現れるときは、それは厄介な時間では、もはやない。
それは、ふつうの明日になっている。
苦手な問題が待ち受ける明日は、来なければいいのに、ではなくて、
なんの心配もない、ふつうの明日がやってくるだけのことだ。

そこにもはや、心配はないし、不安もない。

逃げていては、魂の力は成長しない。
苦手なことは、いつまで経っても苦手なことで、
いやな明日が来るのを、何度も怖れなければならなくなる。

しかし、その問題に挑戦して、克服した勇者にとっては、
魂の成長という褒美があり、
怖れていた明日が、怖れる必要のない日々に変化するという、
面白い体験が得られるものだ。

困難は、
自分の力を鍛えるための、肥やしであり、砥石であり、
人の魂を鍛えるための、課題に過ぎなかったことを、知ろうではないか。


人はそうして、永遠の時のなかを、生きている。
楽しい時も、苦しい時も、ふつうの時間も、
目の前に現れては、過ぎ去ってゆく。

諸行は無常である。
あらゆることは常ならず、流れ去って、時を刻んでゆく … 。

仏さまの創られた世界は、なんと素晴らしい世界であることか。
その世界の奥にある仏の慈悲を知ったとき、
人は、感謝の心を持たずに、いられなくなってくるのだと思う。

世界と、人々の存在と、仏さまの慈悲に、感謝して、生きよう。





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posted by ガンレオ at 07:13 | Comment(2) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

【レオ】21世紀のルネサンスは、日本から起きる

イタリアの著作家モンタネッリの「ルネサンスの歴史」。
ひと頃、研究資料として何度も読み返して、線を引き引き読んだ本ですが。

これと、ブルクハルトの「イタリア・ルネサンスの文化」を合わせて参考資料として、自分なりにルネサンス時代のイタリアを理解しようと、反復学習をしました。20年以上前になるかなぁ(笑)。

で、その時に作った人物生没年表が、このあいだ部屋を整理していたら出てきました。

この生没年表の、いちばん最初に書かれている名は、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世ですね。
それから順に、後から生まれて活躍した人が、年代順にズラッと書かれている。ワープロで打ったんですが。

トマス・アキナスの名が早々に出てきます。この方が生きたのは13世紀です。
それからしばらく後には、ダンテの名が出てきます。ダンテは、13世紀から14世紀にまたがって活躍した著名な文人。
文人だけれども、上に紹介した著作では、最初に登場するのは政治活動においてでした。
イタリアの有力都市フィレンツェにおいて、皇帝派と教皇派に分かれての派閥争いが盛んで、ダンテもそうした政局の中で活動していたんですよね。
しかしダンテの政治活動は失敗し、国から追われて、流浪の身となる。その流浪のさなかに書かれたのが「神曲」です。

そんな感じで、当時のイタリアの政治動向や、経済発展と絡めて、文化と芸術がいかにして花開いていったかの流れがある。
ルネサンス時代には文芸復興があり、芸術が花開いたというけれども、そうした文化が花開くためには、パトロンの存在が欠かせませんね。あとは芸術をバックアップするための資金がいる。商売で大成功した豊かな人たちが芸術のパトロンとなって初めて、経済繁栄と文化の興隆が同時に起こり得たのですから。

日本は長引く経済不況で … とはいっても、世界の国々の中では、これほど経済的に大成功した国家はないわけで、そうした国に、偉大なる芸術が花開かないわけがない。

ということで、ルネサンスの再来が、この日本で起きるのは理の当然。
かつて、ルネサンス時代に活躍した多くの芸術家や建築家、その他の文化文明の担い手たちが、いまの日本を選んで転生してきても、なんの不思議もありません。

そういえば、キムタクの守護霊も、ルネサンス時代のイタリアに出て、絵を描いていたみたいなことを確か言っていたような、そんな覚えがありますが。

いま盛んに収録開示されている芸能人の守護霊霊言の解説でも、また「ルネサンス」の言葉が出ていましたね。

芸能界の闇を暴く!!
そこに存在している闇の世界を、神の光によって照らし出し、浮き上がらせているのが、いまの段階であって、
その後に来るのは、神が創り出す、真の芸術の繁栄になることでしょう。

さきにあげた紹介本には、無数の有名人が出てきますが、章立てにおいて、そのものズバリ、人名がタイトルになっている著名人を列挙すると、

ダンテの次に来るのは、ペトラルカ、ボッカチオ、になります。
わたし、ペトラルカの評論、大好きです。

この後に来るのが、教会の分裂時代ですね。それからミラノやヴェネツィア共和国の物語や、スフォルツァ家の話などが出てくる。
ルネサンス時代に大きな地位を占める諸都市が、次々と力を持ってゆく歴史が語られている。
フィレンツェの支配者は、かの有名なメディチ家ですね。コシモ・ド・メディチと、その孫ロレンツォの活躍。

こうしたルネサンス・イタリアの勃興と時を同じくして、東ローマ帝国がついに終焉を迎える。
コンスタンティノープルの陥落 … 。
イスラム教を国教とするオスマン・トルコが来襲し、西ローマ滅亡後1000年近くも持ちこたえていた東ローマが、ついに滅ぼされてしまう。この時の戦いは、凄まじい戦いだったことが、絵図を見るとわかります。突端に城壁で囲まれて築かれた難攻不落の大都市が、海と陸、全面をオスマン・トルコの大軍に囲まれて、籠城戦を戦うが、ついに力尽きて、敵軍の侵入を許してしまう。
キリスト教色で作られていた建物は破壊され、イスラムのモスクと入れ替わってゆき、ここはトルコの首都イスタンブールとなる。
わたしにとっては、この戦いも非常に興味が強くあって、気になる歴史の一大事件ですね。

そして、アメリカ大陸の発見。

後半期には、宗教改革で活躍した巨人が、たくさん出てきます。

サヴォナローラに、ウィクリフ、フス、ルターにカルヴァン。ツウィングリ。
「黄金の法」に登場した光の指導霊に、霊言でもその名が出てきた天使たちが沢山います。当会の職員に、こうした方々の転生者がすでにいること、信者の皆さんなら御存じのことかと思いますが。

政治家というか国王としては、フランス王や神聖ローマ皇帝たる、ハプスブルクの皇帝とか、そういう存在も大きいですね。
政治と軍事、これと並行して、宗教改革、芸術家の活躍がある。
マキャベリが現れ、画家ではレオナルド・ダ・ヴィンチに、ミケランジェロ、ラファエロが出てくる。
宗教改革に対する反・宗教改革の旗手が、カトリック側からも出てくる。ロヨラを初めとするイエズス会の伝道者たち。ザビエル。

ルネサンスの一番最後に出てくるのが、ジョルダーノ・ブルーノですね。
宇宙は無限であり、他の天体にも別の生命存在がいる、と語り、コペルニクスの地動説を支持したりした異端の罪で、火あぶりの刑にあって処刑されてしまう。
宇宙人リーディングの先駆けとも言えるような、あるいはSF小説の宇宙人物語にもつながってゆくような、ブルーノの主張が叩かれていた時代でもある。

このルネサンス時代は、中世を一極支配のもとに置いていたキリスト教からの離脱、という意味合いもあったけれども、芸術家が描いたのは宗教画ですからね。単なる宗教否定ではないことを知らなくてはいけないでしょう。
ミケランジェロに天井画を描かせたパトロンは、カトリックの総本山ローマの教皇だしね。
宗教改革は、キリスト教の否定ではなく、キリスト教の改革。真の宗教を知るべきだ、という、すべてのヨーロッパ人への宗教の解放だったはずですね。

そういう意味であっても、いま日本で行われている、幸福の科学による、宗教改革、政治改革、経済繁栄のための提言、幸福実現党という政党の立党。
それから、幸福の科学学園とHSUの設立を中心とした、教育改革。
そして今、改革の端緒についたとも言うべき、芸術改革。芸能方面の改革などは、まさにルネサンス改革の象徴とも言うべき、真の芸術、神の芸術の開花のために、前準備なのではなかろうか。

そんな風に感じながら、ルネサンスの再来が、いま日本に起ころうとしているのだということを、感じるものであります。

ダンテは七大天使の一人でしたよね。その天使の名が、とある霊言で出て来ていたでしょう?
その他、当時、ルネサンスのイタリアで活躍した人が多く、すでに、いまの地上に生まれていることを、わたしたちは知っている。
楽しみな時代がやってきたと、そう思うべきなのではないでしょうか。

願わくば、そのルネサンスの繁栄を、担う側の人間として生きたいものですね。
反ルネサンスの側にまわって、神の世界計画に反対する側の人間になど、決してならないように、注意しましょう。




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posted by ガンレオ at 16:40 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】孤独…人間にとって一番つらく苦しい状態

孤独。
人間にとって、いちばん辛く苦しいのは、孤独であること、なのだという。

実際、誰も知り合いがなく、
誰も語り合える相手がおらず、毎日一人きりでいたら、その侘しさは、やがて耐えがたいものになるでしょう。

孤独の辛さを経験したことのある人は、孤独ほど悲しい状態はないことを、知っていることでしょう。

話し相手がいることを、当たり前のように思っている人よ。
その相手がもしいなかったら、自分の毎日はどうなるかを、考えてみたらいい。
愛する相手を失ったときの喪失感、その悲しみは、孤独の辛さを教えてくれる。
話し相手がいることの有り難さと、その人がいないときの悲しさを、教えてくれる。

あの世においても、いちばん深い地獄にあるのは、絶対の孤独ですね。孤独地獄といい、無間地獄というけれど、誰も語る相手がいない世界で、何十年何百年と過ごす孤独の辛さは、いかばかりか。
その隔離状態の厳しさが、そこに堕ちた人の罪の深さを表している、とも言えましょう。

エドガーケイシーのリーディングでも、人にとって一番辛いのは、孤独であること、だと述べられていました。

愛を他の人に与えるのではなく、その反対の人生を生きたら、人は、愛が得られない世界に堕ちてゆく。
孤独の世界とは、そうした世界ではあるまいか。

むろん、魂の経験と学びのために、時として人は、人生の中で、孤独な時を持つことがありますね。
しかしそれは一時的な孤独の時に過ぎないのであって、そうした悲しい経験の中で、愛を与えることの大切さを知りなさいということなのでしょう。

与える愛に目覚めた人が、一生涯のあいだ、ずっと孤独ということは有り得ません。
もし自分は生まれてからずっと孤独であり、これからも孤独なんだと言い張る人がいたならば、それは、愛を与えていない人生を生きているからだと思います。

あの世においても、孤独地獄になど堕ちたくないように、この世においても孤独な人生を生きたくはないものですね。

孤独から脱却するためのキーワードこそは、愛。
他の人に愛を与えて生きなさいという、人生の秘技なのでしょう。


スマホで投稿。駅のホームで立ちながら書く。


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posted by ガンレオ at 10:54 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

【レオ】文は人なり、その人固有の表れ 2013 / 文は人なり 2014

LEO幸福人生のすすめ、過去記事より2編転載

文は人なり、その人固有の表れ
http://ameblo.jp/space-people/entry-11654586883.html
2013-10-27


これだけいっぱい文章を書いていると、読んでくれる人の目に多く触れるだけでなく、自分自身の目にも、自分の主張や好みなどが明らかになってきます。
書いてみなければ、それほど明確ではなく、曖昧模糊としていたものが、書くことによって、よりいっそう明らかになることもある、ように思えます。

書いてきた記事の、テーマ分けなんかを見ると、自分の関心領域の比重がわかってしまうし、それは、読んでくれている人にもおのずとわかってしまうことですね。
そういう意味ではちょっと恥ずかしい気もしますが … 。

まぁ、自分が深く関心を持っている分野で、より良い記事を書ければよいかなー、それで少しでも誰かのお役に立てれば、それでよいかな。そんな気持ちがいたします。

文は人なり、といえば、書く内容がその人を表している、ということもあるけれど、
その人の文章の書き方「文体」というものがありますね。その人独特の言い回しだとか、好き好んで使う表現の仕方、などなど。

小林秀雄氏と田中美知太郎氏の対談を読んでいたら、そうした文体のことが少し出てきて、ちょっと面白い箇所がありました。
お二人とも既に故人ですけれど、田中美知太郎さんはプラトン研究や、その翻訳を多くなさってくれてた哲学者、哲学研究家ですね。
この方が対談のなかで述べているのですが、
プラトンの文体は、初期のものと、晩年のものではだいぶ違っている。
したがって、著作の年代がわからないものに関しては、プラトンの書き方、文体から類推して、書いた年代を逆に特定していく。
プラトンの著作に関しては、そうしたことが行われているそうですね。

近現代の著作物は、誰が何年に発表した作品なのか明白なので、逆に、こうした文体の変化や相違というのは、それほど研究されてないらしいですが、
はるか昔の古典などは、書かれた年代を特定するために、著者の文体の変遷なども、追うことがあるらしい。プラトンの文体はしたがって、かなりの研究がされているみたいです。

一方、プラトンの弟子のアリストテレスの著作は、オリジナルの著作というより、ノートやメモ書きを後で編集して本にしたものが多いので、アリストテレス自身の正確な文章はよくわからないんだそうです。だからアリストテレスの文体研究は、あまり行われていないらしい。

ところで、この田中美知太郎さんは、西田幾多郎さんの授業を受けていた教え子でもあるんですよね。
で、田中さんが言うには、西田先生の哲学授業は、難しくて何を言っているか皆ほとんどわかっていなかったけれど。
アリストテレスの講義のときだけは、なぜか授業が生き生きとしていて面白かった。
そんなことを、別の対談本で述べていたのを読んだことがあります。
とっても意味深な感想だなぁと思って、ほぉ〜ってなった記憶があります。

話が脱線してしまいましたが、
要するに、文体を見れば、その人の考え方や特徴がわかる。
同じ人物のものであっても、書かれた年代が違えば、その文体も違ってきて、書いた人の心境の変化や考え方の変遷までも、辿ることが出来る。

文は人なり。面白いですね。
自分自身の文章をみても、いまの書き方と、むかしワープロで書いていた時とは、まったくといっていいほど違ってしまっています。
それは単に、書き方だけが変わったのではなくて、内面が変わってきたからこそ、その表れである文章も、違ってきているということだと思います。

その人の書き方、考え方、文章の展開の仕方は、やはりその人特有の精神のたまもので、他の人がなりかわって書けるものではないと、つくづく感じます。
いくら真似て似せようとしても、書き手の精神が違う以上は、やっぱり出てくるものも、おのずと別の文章になってきてしまう。
その人ならではの文章に、自然と変わってくるんですよね。文は魂の表れですから


ちなみに、文の書き方を覚えるためには、最初は、自分の好む作家の表現の仕方を真似していくことが、上達の早道なんだそうです。
真似て書いていても、いつしか自分独自の書き方に、自然と変わっていって、知らず知らずのうちに、自分の文体というものが出来上がってくるに違いありませんから、最初は真似でも全然かまわないらしいですね。

カント哲学を学んだフィヒテのデビュー作などは、まるっきりカントが書いたかのような文章でしたけど、後期のフィヒテはまったく違った書き方になっていましたから、
やはり最初は、尊敬する人物の書き方に影響を受けて、それを真似た書き方をしていても、やがて徐々に、その人特有の書き方というものが出来上がっていく。そんな風に感じます。
絵描きさんにしても、最初は誰か、自分が好きな絵描きさんの真似するとこから始めて、やがて徐々に、自分の作風を作っていくように思いますけれど、その変化は長年月の努力に比例して、自然と出来上がっていくものですね。
魂そのものの表現形式は、やはり魂の在り方や性質と直結していて、その人にいちばん合った表現の仕方が、いつしか出来上がっていくように思います。
文体も画風もみな、こうして、作者特有の、唯一無二の作風として、現れてくるように思います。

総裁先生も初期のころからおっしゃっていましたね。
幸福の科学で学んでいると、総裁先生が語るがごとくに、同じように考え、同じような言葉を使って話すようになり、似てくると。
それはとっても良い傾向だと、わたしには思われます。それこそ、しっかりと教えを学んでいることの証左ですからね。
けれども、同じ先生から学んでいても、やはり学ぶ側には千差万別の個性があるから、みな同じくコピー人間になるわけではありません
総裁先生の教えを学び、同じようにものを考える傾向性が身に付いても、
そこからまた、各人独自の表現形式の違い、現れ方の違い、みたいなものも出てきますね。

根本の幹にはしっかりと、主の教えが燦然と輝きながらも、
そこから派生したさまざまな枝である、各人各人は、個性的な発言や、個性的な行動を取って、この教えを世界へと展開していきます。

さまざまな個性は、唯一無二のものであって、他の人に変わりようがない。
その人の個性は、その人独自のもので、話し方から文章の書き方まで、実際には二人と同じ人はいませんね。

面白いなーと思います。

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文は人なり
http://ameblo.jp/space-people/entry-11949249649.html
2014-11-07


文は人なり、と言いますが、

文章には、その書き手の心の状態、性格、雰囲気、その他、いろんなものが現れていて、とても面白いと思います。

しかも、同じ書き手であっても、時とともに変遷して変わっていくことがある。
子供時代に書いた文章と、大人になってからの文章では、むろんかなり違った書き方になってるだろうと思います。

もっとも、ある程度の年齢になると、その人特有の書き方なり、表現方法なり、というのが自然と固まって来て、
たとえば、著者名が書かれていなくても、その文章を読めば誰が書いた文章かがわかってしまう。
そのくらいの独自性や、個性の表現形式としての文体、というものが確立する
ようにも思います。

人間の生涯においても、半世紀くらい生きると、だんだんその人の考え方というものが固まって来て「有(う)」という状態になるそうです。仏教用語ですね。
そうやって、心の状態が固まればなおのこと、文体にも、著者独特の特徴が、いっそう明確に表れてくるものかもしれません。

別の例で言うと、ちょっと話は変わりすぎるかもしれませんが(笑)、
新連載のマンガなどをみると、第一話ではまだ絵柄が安定していないのに、ずーっと話が進んでいくと、どのキャラも容姿が安定して定まってくる。
あんなような感じで、たくさん書き続けていくと、その人の文体というものが、ある一定の型となって定まってくる。そのような感じとも言えましょうか。

たとえば匿名で文章を書いたりして、著作を発表したとしても、
その著作をつぶさに研究されたりすると、その書き手は実は作家の誰それではあるまいか、などと推理されて、やがて候補が絞られて、かなりの精度で特定されることがありますね

文壇では、匿名作家の正体を探る、などということが、わりと昔からよくあったようにも思います。
女流作家でも、以前は女性という立場で出すと批判されることも多かったため、男性名義を使って作品を発表していた人もいますね。
けれども文体に、女性ならではの繊細表現があったりするようで、この作家は女性ではあるまいか、などと推定されたりして、見る人が見れば、独自の特徴があるようで、いろいろ気づかれることが多いようです。

短い文章ではわからなくても、ある程度の文章の分量があると、その人特有の言葉づかい、好んで使う単語などが頻出して、特徴がハッキリと出るのでわかるんですよね
古代の哲学者のプラトンには著作がたくさんあるけれども、その文体や内容表現をみて、それが本当のブラトンの真作なのか、それとも誰かが真似して書いた偽作なのか、そうした判定がなされているはずだし、
あるいは、本物のプラトンの著作であっても、書いた年代によって、微妙に思想や表現の仕方が違うので、その違いによって、書かれた年代を特定する、なんてことも行われているらしい。

いずれにしても、書き手の個性、モノの考え方、思想、といったものは、長い文章を書けば書くほど、より一層鮮明に、ハッキリと現れてくるので、
そのくらい、文章というものには、その書き手の個性・魂が具現化して現れるものなのだ、ということなのでしょう。
わかってしまうということです。

ただ、言葉には、言い回しとしての特徴、というだけではなしに、
そのことばに込められた「思い」というものがありますね。

まったく同じような文章を書いたとしても、その書き手の心がどういう状態であるのか。
喜びに満たされた、幸福な心の持ち主が書いた文章と、
見せかけだけ、それらしく丁寧に書いている文章とでは、
その文章に込められた「思い」がまったく違っているので、
必ずしも、言葉づかいだけで、その文章の良し悪しは決められないところもあるのだろうな、ということも、最近はよく感じます。
文章全体から醸し出される、雰囲気、オーラといったもの、本屋に並んでいる本も、単なる文字や文章を束ねた、物体としての本というのではなくて、
実はそれぞれの本から、オーラのようなものが発散されている、とも言われています。
思いが込められている文章からは、たとえ印刷されたものであっても、そこから作者の思いが、やはり発され続けているのだな、ということ。
ならば、文章とは、単なる言葉の羅列ではなく、そこに込められた思いこそがその本質であって、大切なのは、書き手の心なんだな、と思わずにはいられませんね。

したがって、たとえブログの記事程度のはなしであっても、
自分で文章を書く時にも、気が滅入っているときや、疲れている時に無理に書くのはダメだな、今日はやめておこうと、書くのを止めることがよくあります。
やはり、善き心の状態があってこそ、善い思いが流れ出してきて、それが善い言葉にのって、リズムが生まれるように思います。
気持ちがマイナスのときや、疲れているときには、思いの方も弱っていると思うので、控えた方が賢明かな、と思うのですね。

文章なり、言葉なり、物語でも思想でも同じことだと思いますが、
その中に込められた、作者の思い、というものが、実はとても大切なものなんだな、ということを、つくづく感じる、今日この頃であります。


おしまい。



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posted by ガンレオ at 23:58 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】文章にも、その人の魂の特徴が表れる<2016-01-28の記事>

眼に表れる、その人の魂の特徴という記事を先日書いてみましたが、

文章にも、その書き手の人の、魂の特徴が表れる、と言えるかと思います。
文は人なり、ということが、これに相当すると思いますが、

たとえば、幸福の科学カテゴリにある信者ブログも、その書き手の信者さんの個性なり、性格、特徴といったものが、ひじょうによく表れているのではないか、と思いますよね。

何年も書いていると、その記事の数もかなりの数にのぼっていきますから、
その人の考え方だとか傾向性、好みのジャンルだとか、好んで使う表現だとか、いろんな特徴が明確に知られることになってくるでしょう。

なので、試しにブロガーさんたちの記事をぜんぶ一か所にまとめて、シャッフルして、
誰が書いたかを隠して、記事だけを並べてみて … 、

さぁ、どの記事を誰が書いたでしょう?などといったクイズを出してみたとしても、
よくブログ村に来ている人が読めば、どの記事を誰が書いたのか、けっこう正確に当てられるのではないかと思います。

特徴があるんですよね。文体、使う語彙、表現方法。文の切り方、つなぎ方。
文章のテクニック的な特徴だけでなく、考え方そのものが出るから、文章をみれば書き手がわかる。
そういうことが言えるのではないかなぁと思います。


仏典なんかでも、作者が不詳とされていますけれど、その経典の内容をよく調べてみると、前半と後半とでは、どうも内容に違いがありすぎる。
あるいは文体、表現の特徴が違いすぎる、などといった研究から、これは時代をまたいで書き加えられたものではないか、だとか。後半部分は、弟子筋の人間が書き加えたものではないか、などといった文書研究も成り立つんですよね。

旧約聖書のイザヤ書なども、前半と後半では作者が違うのではないか。書かれた時代が違うのではないかといって、これは第一イザヤ、第二イザヤという、時代を異とする別々のイザヤの文書がまとめられたものではないか、などと推定されたりするわけです。場合によっては第三イザヤもいるのではないか、とかね。

プラトンの著作なんかでも、その文体や思考パターンから、これは前期の著作で、これは晩年の作品だろう、とか年代推定がされて、分類されたりしています。
また、プラトンが書いたと言われているものでも、これは偽作だろう、と喝破されたりするものもあったりして、プラトンの書簡などには偽作もけっこうあると、今では考えられていますね。
真作と偽作では、その思考レベル、内容に落差がありすぎるので、ばれてしまうんですよね。

そういうこともあって、別に署名がなくても、内容から判定する、という方法があるわけです。
面白いなー、と感じますね。優れた見識を持った人の洞察力というのは、そういった違いまで見抜いてしまうところがあるわけで、その推理の課程を知ると、自分自身の推理力の鍛錬にもなりますね。

わたしは、自分のブログ記事を、始めた頃と今の文体などを比べてみても、微妙に違っているなぁと自分でも感じるので、同一人物であっても年と共に変化していくことは、むろんあるというのもわかります。
けれども、本質的なところは同じというか、やはり同一性を保っているなぁ、とも思いますね。
徐々に変わっていく部分というのは、微妙な修正というか、技巧的な成長だとか、あるいは考え方の成長によって文体がより高雅に進歩していく、ということもありますが、その反対の場合もありますからね。

やはり、心がよき方向に練れていって、純化されて美しい魂にと成長していけば、その表現形式であるところの、文章力、言葉の表現力というものも、上がっていくだろうな、と思います。
一方では、心が荒んでいって、人間不信や社会への不信がつのっていけば、若き日には純粋な文章を書いていた人が、晩年にはその美しさを失って、文章力が劣化して落ちてしまっているかもしれません。

いずれにしても、文章というのは、心の表れというのが本当のところでしょうから、
見せかけだけで美しい文章を書くことも出来ないし、その反対に、邪な文章を書こうとしても、心美しい人にはそうした文章は書けなくなっていくものですね。
テクニック的に、表現だけを取り繕ったり、あるいは、悪ぶって書こうなどと無理をしても、やはりそうしたことは長続きしないものでして、
結局、その人の書く文章には、いま現在のその人の心境、モノの考え方、といったものが、かなりストレートに出てくる、というか滲み出してしまうものでしょう。

それが何とも言えない、その人なりの魂の生地というか、雰囲気みたいなものですね。文章がかもしだす人柄、そういったもの。

心うつくしくしてこそ、文章もまた美しいものへと変わっていくものだと思います。

これは、仏教でいうところの、
正思と、正語の関係に、なんとよく適合することではないでしょうか。

魂修行の課題にあるところの八正道、その中にある、思いを正す修行と、言葉を正す修行。
まさに、その修行のひとつの例のようなものかと、わたしは思うのですね。

そういう意味からしても、よく自らの心を治め、穏やかなものにしていきながら、
読んで心地よい、流れるような美しい言霊が、魂の奥から流れ出してゆくように、
そうした言葉を思い、そうした言葉をつづっていける人間となれるように、心がけてゆくこと。

そうした視点を持つことが大切なのではないかなーと、思うのです。










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posted by ガンレオ at 23:53 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】漢字の読み間違い、書き間違い、などなど … 

仕事中に … 

〇〇って、漢字でどう書くんだっけ?
〇〇は、なになに偏になになに、でいいんだっけ?
などと、ときどき訊かれる。

で、わたしは割と答えることが出来るんですが、
今日も仕事中に、2つか3つ訊かれたんですよねー。
で、いつものごとく答えた。

そしたら、レオさんは何でそんなに漢字知ってるんですか?と。

いや、漢字そんなに知ってるわけじゃないけど、
本をたくさん読むから、なんとなく覚えてるのかなぁーと。

けれども、書く方はあやしいですよね、やはり実際に、書く機会が少なくて、
コンピュータ変換に任せきりで、手書きで書かないと、書く方は覚えない。
複雑な漢字なんて、なおさら、そう … 。

薔薇とか、一度は覚えても、ふだん書かないから、すぐ忘れちゃうね。
でも、読む方は、本をいろいろ読んでるから、だいたい読めるし、字が間違えてたりすると、それはちょっと違うな、というのは何となくでも気づくでしょう。

正確に書けなくても、読む方では見慣れてるから、なんか間違った漢字だと、それは違うよ、というのは、不思議とわかりますね。
これは視覚的に、図形のようにして覚えていて、それと違うから違和感を感じて、違うと判断できるのでしょうか。


読むことは、読み仮名のふられた本をたくさん読めば、読んだ本が多いほど、漢字を読む能力は上がるでしょう。
明治時代の小説を読んでいたら、英吉利や仏蘭西なんて書かれてても読めるだろうし、あとは、へんな漢字も覚えますしね。木乃伊とか、木偶の坊とか、そんなの。

でも書く方は難しい … 。

読む方は、読む量が多い読書家になれば、自然と、読める漢字は増えていくでしょう。

書く方はそれと同じことで、書く量を増やしていかないと、どうしたって覚えようがない。
むかしの人は、手紙を手書きで書いていたから、随分と難しい漢字を書けたはずですね。教養人ともなると、今では読めないような字でも、平気で書いていたりするのが、むかしの教養主義の時代だと思います。
いまは機械に変換を任せきりで、本も読まないから、

読めない、書けない。

そのうち、ひらがなばかりの時代になったりしてねー。
クイズ番組のタレントの解答なんかは、すでにそんな状態が多々見られますが。


メールでやりとり出来ちゃう時代だからこそ、どこかで、手書きで字を書くプロセスを、導入した方がいいのかもしれない。
手紙は手書きで書くとか、報告書は手書きで書くとか。

やはり、手書きで、字が上手な人はいいですよ。読みやすく綺麗な字が書ける人は、感心されますからね。
わたしも、自分で言うのは何ですが、字は上手いですよ。自賛ではなくて、他の人から言われるので、
あとは私の字はテレビで放送されたことがありますのでね。上手い字ということで、テレビで使用されたことが複数回あるので、字は上手なはず、です(笑)。

いまは仕事で、手書きで字を書く機会が多い、というか、毎日書くので、これはこれで、いいことだなー、と感じています。

読むことを覚えるのは簡単だけども、書く方はそれより、難易度が高いですからね。
小学校の漢字テストでも、読む方は何となく適当に読んでみたら、当たっちゃった、なんてことがあり得るけど、
書く方は、当てずっぽうで適当な字を書いても、まず正解になることはないでしょう。
書く方は、正確に、正しい漢字をきちんと覚えないと、なんとなく、では通用しないのです。

がんばりましょう!!(笑)。




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posted by ガンレオ at 16:53 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

【レオ】最近は、すぐスーピー寝ちゃうけど … 

中高生くらいのときは、まぁー寝つきが悪かった … 。

さぁ寝よう、と思って、電気を消してベッドに横になっても、

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羊が一匹、二匹、 … 、101匹、 … 1001匹、 … 、じゃないけれど、なかなか寝れないことが、しょっちゅう〜。
一瞬で寝てしまう人たちが羨ましいくらい、まぁーなかなか眠りに入れない。

電気は暗いままなんですけどね。
寝れないからといって、起き出して、マンガを読んだりテレビを見たりするわけじゃないし。
だいたい子供部屋にテレビなんて無いしねー。

というわけで、寝れないなぁー、とか思ってるうちに、いろんなことを頭の中で考えてしまっている … 。

あれがこうなって、あーなって、こう。それがどうして、こうして、 … みたいな感じで、
延々と、思いつくことを辿って、考えている自分がいる。

いま思うと、なんにも見ないで、頭の中の記憶だけで、論理を積み上げ物事を考える訓練を、この時にもやっていたのかもしれないなぁー。
というか、そういう傾向があるから、なかなか寝付けないのかなー。

でも、いまは、すぐ寝れちゃうし!!(笑)。
トゥルースリーパーのお蔭かもしれんけど。いや、そのお蔭だったっけ。


なんにも見ないで、そらで考えを構築するって、言ってみると、自分の内面に沈潜して思索する作業と、ひじょうに似ているというか、その原点だと、いまになって振り返ると感じます。

確かに学んだことや記憶したことは、いちいちその場で見返さなくても、頭の中にある内容を元にして考えればいいのだから、暗闇の中で寝転がっていようが、ぜんぜん問題ない。

それどころか、記憶の海からひっぱり出して考えるのだから、さらに、それを元にして論理を辿るのだから、記憶力の鍛錬にもなっているのでしょう。

わたし、記憶力はいい方だと、子供の頃から言われていたので、
トランプをひっくり返して、カードを当てる「神経衰弱」ってゲームあるでしょう。2枚めくって、同じ数のカードが出たら、自分の持ち札に出来て、さらに続けてもう一度チャレンジできて、どれだけ多く集められるか、っていうゲームね。
あれ、勝率が99%くらいですよ、わたし。5、6人でやってもね。

以前も書いたけれど、ひっくり返って散らばった置き方自体を、一枚の絵のごとく、ビジョンとして記憶する。斜め30度に曲がったのが、3だな、とか。まっすぐなのが、キングだな、とか。そうやって、短期記憶で覚えてしまう。

一夜漬けの勉強と、きちんとした長期記憶のための勉強は、違うところがあるけれども、覚える、という意味では同じでしょう。
面白いというか、不思議ですが、短期的な記憶をするための部分と、長期的な記憶の貯蔵庫は、どこか置き場が違うようなイメージがありますね。
一日だけ覚えておけばいい、試験が終わるまで覚えておいて、あとは忘れてもいい、なんて知識の場合は、ちょっと集中して、ここに溜め込んでおけ!!みたいな領域が、やはりあるような感じがする。
パソコンのメモリ領域みたいに、でもシャットダウンすると消えてしまう、一時記憶領域ね。
一晩寝ちゃったら忘れるのでは困るから、一日くらいは覚えてないといけないけれど。

それに対して、やはり長期的な記憶に回す方は、同じことを何度も反復復習して、忘れないように記憶を定着させる努力が必要だし、あとは、余程に強烈な印象をともなって、それゆえ忘れたくても忘れない記憶とかね。
これは、人生における、衝撃的な体験だとか、苦い思い出だとか、そういうものも、これに相当するでしょう。忘れたくても忘れられない。強烈な印象とともに、記憶に刻み付けられている。
こういったところが、あの世に還ったときに、スクリーンに映し出されるシーンかもねー。

勉強に関しては、やはり反復して学習する以外に、記憶を定着させる正当な方法は無いように思います。
大学時代に学んだことですら、社会人になったら、すぐに忘れていきましたからねー。もうそれは、使わないでいると、不思議なくらい、ドンドンうろ覚えになっちゃって、たしか、〇〇〇だったような気がするー、とか、なんか、見た覚えがあるな、これ。とか、そんなレベルに落ちますからね。

本当に、魂の学びになるような勉強というのは、何度も何度も反復学習して、暗誦するくらいにまで、できたら勉強した方がよいのではないだろうか。

正心法語を暗誦しているように、たいせつな真理の学びは、諳んじられるくらいにまで、反復して学習できているだろうか、と自身の勉強を振り返れば、

自分はすでにそれを読んだから … なんていって、学んだ気になってノホホンとなど、していられないでしょう。

知ってるつもり、と、本当に知っている、ということは、似て非なるものですからね。
やはり、本当に、魂の認識として身につくところまでの学びをこそ、目標とすべきでしょう。




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posted by ガンレオ at 08:22 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【youtube動画】過去と未来の間を生きる ―大川隆法総裁 心の指針147―  <幸福の科学 HAPPY SCIENCE 公式チャンネル より コピペ>




これらの<幸福の科学>公式アップロード動画は、以下のページをチェックすれば、誰でも更新動画をすぐに観ることが出来ます。↓ オススメのアドレスです。登録しておくと便利!!

https://www.youtube.com/playlist?list=UUWQ-PP0FbSMmwwu1-1GXzAQ&feature=plcp










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posted by ガンレオ at 00:44 | Comment(0) | 幸福の科学関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

【レオ】紹介した本はかならず読む、もしくはすでに読んでいること

ブログにて、新刊情報などの速報をあげて、紹介したりしてますが、

基本わたしは、自ブログで紹介した本は、ぜんぶ読んでいます。幸福の科学の新刊は、当然ほとんど全て購入して、読破しています。会内経典もかなりの数、拝受していますしね。
ブログ上で、発売前に紹介した本は、発刊したあとで、かならず購入して読んでますし、
それ以外でも、自分が好きで紹介している古典や歴史その他の本は、自分でしっかりと読んだうえで、記事にして感想文を書いている。

紹介というのは、そういうことですね。
自分がその中身を知らないのに、紹介文など書けようもないし、感想など書けるわけもないのですから。

したがって、いまは清水富美加さんの自伝が話題になっていますが、まだ読んでないので、紹介記事を書こうにも、まだ書くわけにはいきません。
読んだ上で、感想文を書きたくなったら書く。

それが、わたしのスタンスですね。


知り合いの読書家が、別の読書好きの友人に、ある本を勧められたそうです。中学生の頃の話。

わたしはその頃、本なんか殆ど読まなかったので、よく本を読む人間がいるんだな、と思っていただけでしたが、
その、本を勧められた人物は、その本を買って読んでみたそうです。
そしたら、予想していた以上に面白かったんだとか。

で、最初に、その本を勧めてくれた読書家の友人に、お礼を言ったんだそうです。

お前、いい本を勧めてくれたよ。面白かったよ。と。

すると、その読書家の友人の返事。
あ、まじ!!面白かったんだ?
じゃあ、俺も読んでみよう。


え????

お前があの本おもしろいっていうから、オレは読んだんだぞ。
ってことは、ひょっとして、お前、読んでもいない本を、オレに勧めたんかー!!?


そうだよ。

シレっと、その友人は答えたそうです。


まぁ、結果的に面白い本だったのでよかったようなものの、これは勧め方としては、非常に無責任でしょう。
自分が読んでもいない本を「オススメ」って、どういうことやねん!!
面白くなかったら、噴飯ものですぜ?


実際、わたしは、他の人から本を勧められて、読んではみたけれど、ぜんぜん面白くなかった。
という経験が何度もありまして、
そういう場合、あとで感想を聞かれたりして、ひじょうに困るんですよねー。
だいたい、自分がすでに購入していて、読まないといけない在庫が、もう数百冊どころか千冊を超えるくらいあるものだから、最近など尚更、人から勧められた本など、読んでる暇など無いのです(笑)。
よほどの絶対保証のお勧め本なら、読まないこともないけれど、その場合、読んだ結果に責任取ってもらうからねー。

というほどのもんですよ。


以前、映画のDVDの5巻本を貸してあげた相手が、何か月経っても返却してくれないので、いい加減に返せ!!といって説教したら、
お詫びにといって、一冊のSF小説を付けてきたことがありました。

お詫びに、この小説をどうぞ、といって渡されたんですけど、

面白いのか?と訊いたら、

いや、半分しか読んでないんですけど。
だって … 。


ふざけんなよ。ですよ。
借りたモノを何か月も返さないばかりか、お詫びに寄越したオススメ本は、自分では完読すらしていないという。そんな本をどうして勧められるのか、君は?

と問うてやりましたが。


人にモノを勧めるというのは、責任が生じることですからね。

むろん人それぞれ、感性や知性も違うから、ある人にとって面白いものが、別の人には全然おもしろくなかった、なんてこともあるでしょう。そんなことはわかっている。

けれども、人に勧める以上は、少なくとも自分自身が、その作品なり著作を、きちんと読破して、その全貌を知っていなくては話にならないと、わたしは思うんですけどね。

映画を勧めるのに、最後までは見ていない、途中で見るのを辞めちゃった映画なんだけど、なんていうのを勧める人がどこにいるでしょうか。


だからわたしは、ブログでオススメする本なり映画は、当然、自分でちゃんと読み、観ますよ。

新刊情報でアップした本も、発売されたらすぐに、大抵の場合はちゃんと買って読んでいる。
だから、いままで新刊情報でアップしたコピペ記事の紹介本は、その感想文を書けと言われたら、ぜんぶ書けますからね。
それだけの責任感をもって、新刊情報をアップしているつもりです。


やはり、情報を宣伝するに際しても、単なる受け売りのコピペではダメであって、本当に自分自身がその情報にどれだけ精通しているのか。よくよく考え、理解した上で紹介しているのか、どうか。

そのことについて、自分自身の言葉でもって論じてみよ、と問われたときに、わかりました。では書きましょう、といってOKできるほどの見識があるのだろうか。それだけの読み込みをしているのだろうか。
そういう厳しさを自分に対して持つ必要性があるのではないかなー。

コピペ記事に質問なり、問題提起の意見が来たら、どうしますか。
誰か、別の人が書いた記事だから、むずかしい質問には答えられない?書いた人に聞いてください?
もし、そんな返答しか出来ないようなら、その人には他人の記事をコピペ宣伝する資格は無い、とわたしなら考えるでしょう。自覚が足りていないからです。記事内容の宣伝を担うことの、責任と自覚、それから理解が足りていない。
受け売りレベルの情報伝達が危ういのは、本川達雄氏が指摘していたが如く、そのことに関しての理解が足りていない、理解しようという努力、そのための時間の懸け方、労力の懸け方が足りていないから。即席で複製するばかりで、自分自身で考えていないから。
 … ということではないかと思います。

よくよく考えて、ネット情報との関わり方は工夫しないといけないのではないか。そう思うのですね。





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posted by ガンレオ at 19:39 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】眼に表れる、その人の魂の特徴 <2016-01-26の記事>

LEO幸福人生のすすめ、より転載
http://ameblo.jp/space-people/entry-12121840898.html


目は口ほどに物を言う、ということわざがありますね。

人の顔や表情というのは、その人の心がもっともよく表れている部分ではないかと思います。
手や足に魂の特徴が出るかといったら、運動神経の優れた魂は筋肉質だったりとか、そういった特徴は出るかもしれないけれども、
優しさ、賢さ、穏やかさ、謙虚そうな雰囲気、元気のある魂、だとかいった気質的なものは、顔の表情に表れるものだし、口元もそうだけど、なんといってもやはり一番特徴が出るのは、眼ではないかと思います。

優しい眼、賢そうな眼、鋭い眼とか、眠そうな眼とか、いろんな眼がありそうですが、

目じりが下がっていたり、吊り上がっていたり、といったところにも魂の性格が出ているんじゃないでしょうかね。
吊り上がった目つきをしているけど、実はすっごい優しい人だとか、その反対に、すごく優しそうな眼をしているけれど、ほんとは冷たい人間だとか。
稀にはいるのかもしれないけれど、基本はあんまりそういうアベコベなことはないでしょう。

総裁先生は以前、自分で鏡をみたら、その顔つきをみて愕然とした、みたいなことをおっしゃっていたことがありますよね。

わたしたちも日頃、鏡を見て、朝などは髪をとかしたり、髭を剃ったりと、いろんなことをするでしょうが、自分の表情がどんな状態であるか、目つきがどうであるか、口元がどうかとか、あまり気にしてはいないのではなかろうか、などと、自分を振り返っても考えさせられます。

笑顔が大切だといい、顔施ともいいますが、自分が笑っている時の顔って、実は案外、自分自身では知らないですしね。
笑っているときは、誰かが自分の笑顔を見ているかもしれないけれど、自分では見られないでしょう。
写真に取られたり、ビデオで撮影でもしてもらいでもしないと、自分では見る機会がないですね〜。

だからといっては何ですが、ニコッと笑った顔がどんなものか、練習したりとか。役者さんなんかは、するのかもしれませんね。

以上は、表情の話ですが、初めて誰かと出会ったとき、自分はどんな点に注目するでしょうか。
人によっていろいろだと思うけれど、わたしはやはり、眼にいちばん注目してるような気がしますね。

なぜだろう?と考えてみるに、やはりそこに一番その人の魂の特徴が、もっともよく出ているのではあるまいか、という無意識的な関心があって、眼に注目するのではないかなー、などとも思います。

その人の第一印象と、その後、さまざまな交流をした後に感じる、そのイメージと、どれくらい違いがあるでしょうか。
第一印象が結構あたる方でしょうか。それとも外れる方でしょうか。

第一印象は、本当にその人を一瞬見ての直観みたいなものですね。何となく感じる雰囲気だとか、オーラだとか、そういったものを瞬時に感じ取るわけだから、ある意味ひじょうに不思議な、霊的な感覚なのかもしれません。

そんなに膨大な情報を知っているわけでもないのに、人は初めて出会った人の、第一印象というものを持ちますね。
それがどこまで的を射ているか、当たっているか、直観能力の鋭さ、みたいなところもあるかもしれませんが、これも単なる当てずっぽうというわけでもなく、直観能力の優れた人は、一瞬でその人の特徴を何となくつかんでしまって、それが結構当たっている、ということも多いのではあるまいか。

自分自身振り返ってみるに、第一印象と、その後のイメージの変化って、どれくらいあるだろうか。
第一印象がけっこうそのまま、ずっとその人の印象として続く方だろうか、どうだろうか。

その答えは、あえて書くまい(笑)。みなさん、御自身ではどうか、考えてみたらいかがでしょう。

自分が誰かを見る時の、第一印象だけでなく、

自分が誰かに見られる時の、第一印象も大事ですね。

容姿というだけでなく、服装だとか、身だしなみも無論大事だし、何より大事なのはやはり表情とか、目つきとか、雰囲気とか、そういったことかなぁ、とも思います。

努力によって変えていけるもの。容姿の美しさといっても、外面的な端正さというだけではダメであって、もっと内面から出てくる美しさ、優しさ、やわらかさ、そういったものが大事かなーと思いますね。

優しいまなざし、優しい目つきの方が、やはり人からは好かれるし、
だから、もし自分がきつい目つきだなーと思う人は、心の方を優しい気持ちに変えて行けば、徐々にですが、目つきの方も優しげな目つきに変わっていくはずだから、頑張った方がいいですよね。
きつい眼をしていたら、それだけで第一印象はあまりいいものにはなりません。
たとえ実際には優しい性格だったとしても、そうは思ってもらえず誤解されたりね。けれど、そうした目つきになっているからには、やはりどこかにまだ、冷たい部分があるのかもしれませんしね。

動物の話なども記事でよく書いたりしてますが、
動物たちは、自分たちを可愛がってくれる人を、瞬時に見抜いてしまいますね。
可愛がってくれる人には、すぐになついてくるけれど、そうでない相手には、警戒して近づかない。
ウーって唸って威嚇したり、びくびくして警戒してみたり。反応は瞬時に出ますね。不思議です。

これは、動物たちは、その人から発されているオーラを、霊的に見ることが出来る。キャッチすることが出来るから、などとも言われていますね。
動物を愛する優しい心根の人は、あたたかなオレンジ色のオーラを発しているんだそうですね。
だから動物たちは、ひと目でその人が優しい人だとわかって、安心して近づいてゆく。
ムツゴロウさんなどは、警戒心の強いオカピーですら心を開いて近づいていってましたし、
志村けんさんも、志村どうぶつ園の園長として、いろんな動物にすぐ懐かれて、その人柄がしのばれますね。
最初はビクビクしていた捨て犬のチビちゃんが、たしか30分もしたら、志村けんさんに心を開いてましたから。まぁー、優しい人というのは、どうぶつたちにはすぐわかるのでしょう。

子どもに好かれやすい人も、やはり心の優しい人が多いのではないかと思いますね。
人はやはり、動物であれ、子供であれ、あるいは大人であっても、自分に対して優しい雰囲気をもった人は、それとなんとなく感じ取ってしまうのではないだろうか。
そんな風に思います。
それは、その人から発される雰囲気というか、オーラというか、あるいは優しい眼差し。いろんな要素があるのでしょうが、一言でいえばやはり、その人の魂の人柄が、霊的にキャッチされているのではないかなー。

だから、やはり人は、自分が出会う人に対して、優しい心をもって接していくことが大切ですね。
それは単に、言葉づかいといった表面的な技巧ではなくて、心の奥底から優しさがにじみだしてくるような、そうした本当の優しい心を持ちつつ、接していくことの大切さ。
幸福の科学でいうところの、与える愛に生きる人間の姿が、そこにあるのではないかと思うのです。



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posted by ガンレオ at 19:13 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】旬なテーマと、自分個人の興味関心と … <2016-08-27の記事>

LEO幸福人生のすすめ、より転載
http://ameblo.jp/space-people/entry-12194223597.html


ガンちゃんと共同ブログを始めたばかりの頃は、
どうせ誰も読まないだろう、誰にも知られてないし … 、

ということで、わたしが書く記事は、ガンちゃん宛の私信のような文章でした。
いまはもう削除しちゃいましたけどね。

そのうち何十人かが読んでくれるようになったので、その人たちに向かって語りかけるように書こうと。
そうやっているうちに、文章の書き方が変わってきて … 。

語りかけるといっても、ほとんどの読者は、どんな人なのか全くわからないので、良い反応なのか、そうでないのかもよくわからないけれど、頻繁に訪れてくれるようなら良い反応なのだろうと。

で、あまりアクセスが伸びない記事は、テーマ的に関心が薄いのかなぁとか。
いろいろ自己チェックをするために、ブログ内に記事ごとのアクセスランキングを置いたりして … 。

これ(記事ランキング)見ると、興味関心の度合いが歴然なんですよね。
旬な話題の場合は、中身がどうあれ、そのテーマ・題材であることによって、こいつは何を書いてるんだろう?と思われてか知りませんが、アクセスが増えます。

一方、旬な話題でも何でもない、わたしレオ個人の興味関心で、勝手なテーマで書いている時は、そのテーマに関心がある人しか読みに来ないので、アクセスはそれだけ少なくなったりする。

需要と供給の関係がここにもあるわけで … 、

旬な話題というのは、テーマ的にも需要が大きいので、アクセスが増えますね。
ただ、アクセスはしてもらえるんだけれども、してもらっても、読み応えありと思ってもらえるためには、それなりの内容を書かなくてはいけませんからね。
その話題にわたし自身が無知であっては、いくら旬な話題であっても何も独自の意見など書けようもないし、そんなものを無理して書いても、書くのも大変だし、読んだ方も面白くないでしょう。
月並みな意見を書いても面白くないのは、書く方も読む方も一緒。

なので、話題のテーマであっても、自分なりの意見がある場合しか書きません、というか、書けません、ハハハ。


それと対極にあるのが、別に需要があるテーマでもないけれど、わたしレオが個人的に関心のあるテーマですね。
気ままに書けるのは、むしろこちら方面でのテーマ記事であるわけで … 、

これは読者がいようがいまいがお構いなしに、わたし個人が常日頃から興味関心があって追求しているテーマ、してきたテーマだから、幾らでも書くことは思いつきます。

思いつきますが、それまた面白い文章が書けなければ、たまたま読みにきてくれた人がいても面白くないでしょう。
そうなると、極端な場合、単なる独り言のようなものになってしまって、誰も読んでくれない、なんてことにもなりかねません。


旬な話題は、旬であるがゆえに、そのテーマ自体にみな関心を持っているから、題名だけでもアクセスが増えるけれど、あとは中身が勝負ですね。

一方で、別に特段の興味関心を読者一般が持っているわけではないけれど、わたしレオ個人が強い関心があって書いたテーマの記事があって、これは題名だけでは読んでくれない。
旬な話題ではないから、よほど魅力的な題名なら読んでくれるかもしれませんが、よほどの愛読者でないと基本はそんなに読んでもらえないでしょう。一私人のブログであってはね(笑)。

なので、よほど中身が魅力的で、説得力のある面白い内容を連発できるようでないと、自分の振った話題に人を引き付ける、ということは至難なんですよね。旬なテーマで書くより余程むずかしい。
ある程度、いつも読んでくれる固定ファンが出来たら読んでくれますが、それを超えて読まれることはないと。

いずれにしても、中身が面白くなければ通用しないわけですが、後者の方がいっそう難しいですね。
だって自分には関心がある話題でも、世間的には別に旬な話題でも何でもないテーマで書いて、それで面白い記事を書かねばならないんですから。

 … ということで、


世間が求めているものと、自分が書きたいこと、という両極があって、
そういった両面の視点があって、いろいろなテーマを元に記事を書いているんですが … 、

最近は、自分一個が興味関心を持っていることよりも、大勢の人にとっていま必要な知識は何だろう、とか、そういうことを主として考えてることが多いんですよ。
どんな本を読む時でも、無意識のうちに、ブログ記事に何を書こうかと常に考えるようになっちゃったので … 。

本を読む時も、以前だったら、自分の興味関心のままに、いま自分が読みたい本を好きに選んで読んでいただけなんだけども、
いまは、読んだら記事に書かないとなー出来たら、と思うことが多いので、記事の題材になるような、そういった本を優先的に選んで読む傾向が強まってるんですね。ブログを始めて以降の自分を振り返ってみると。

だから、個人的には別にそんなに興味がなくても、これはいま調べておくべきテーマだな案件だな、と思ったら、そういった関連の本を選んで買って読み、勉強してから、そのことを書いてみる、とか。
そういった変化が、ブログをやっていることによって、自分の身に起きてきました。
なるべく、多くの人にとって重要なテーマ、いま必要なテーマを追いかけようと。

そういう気持ちがあると、個人的な興味関心を超えて、もっと外への関心を持つことも出来るようになって、読書範囲がいっそう広がることになります。
だってそうでもなければ、中国の内情がどうなっているか、とか、北朝鮮の実態なんて、そんなに一番の関心は無いですからね、本来だったら。
でも、そういった国々の内情や、今後の動きの予測が出来るだけの知識を持っていないと、大きな目での判断が出来ないだろうし、単に自分一個の趣味の世界で生きてるわけにはいかんし … 、

と思ったりもして、よーし、このへんの識者の著作をよく学んで勉強しようと。そういう気持ちになれますね。
そして読んだ上で理解がある程度いくと、その内容をまだ知らない人たちに、わかりやすく伝えられるような記事を書きたいなーとか。そんな風にも思います。

だから、たとえば台湾の記事などは、勉強しつつ記事にして、またそれから勉強をして、もっと台湾のことを知ろうとか。そんな影響が自分自身にも跳ね返ってくるので、勉強もいっそう捗って、学びに終わりはないなーとつくづく感じる今日この頃です。

清水幾太郎さんは、書くことによって読書は完結すると言ってましたし、物書きの先輩を見ていても、書くために調べる、勉強する、読むという姿勢の人が多いので、読むことと書くことが連動しているのがプロの人たちの立場なんだなと、あらためて考えるようになりました。
まぁー情報処理してるだけの著作家は、書くために膨大な資料集めをして読んでいるのは知っていましたが、斜め読みではやはり足らんと思うし、本質を押さえた学び方が出来るようになるためには、読み手のこちら側がしっかりした人間観・世界観をまず持っていることが大事ですからね。

だから一般人であっても、正しい宗教をよく学ぶことの方がやはり先決だと思うし、その上で多くのことを学びながら、ブログなどをやり始めると、書くために何を知るべきか、という視点も入ってきて、自分への刺激も増えるし、読み手の視点も注意するようになったりするので、学び方自体がいっそう深くなりえるのではないかなー。
そんな風にも感じます。


 … つづく。



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posted by ガンレオ at 19:10 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

【レオ】自作は1時間、コピペは1分、その差にあるのは<自助努力>

なんども書いていますが、

自分で記事を書いたら、誤字脱字のチェックや校正も含めて、一記事あたり1時間くらいはかかるのが普通でしょう。それだけの自助努力があって、初めて自作の記事というものは出来あがる。

一方で、ネットにころがる既出の記事を、拾ってコピペするのにかかる時間は、1分もかからない。
自助努力などと呼べるレベルの労力はまったくかからずに、誰でも即席ラーメンのように簡単に出来てしまう。
それが「コピペ」と呼ばれる作業ですね。


わたしも、コピペを使いはしますが、それが中心になることは当然ありません。サブであり、補助的な紹介記事にすぎませんよ。
あくまでも、自分が学び、自分が考えたことを、自分の言葉で語らないと意味がない。
そう考えているからですが。

コピペ情報は、重要な速報を伝えるものではあっても、所詮はどこか他のサイトやブログで誰かが書いた、誰か別の人の作品です。
紹介の意義はあっても、自分の努力とは言い難い。だから出来れば、紹介しつつも、オリジナルサイトに誘導して読んでもらうのが、紹介の本義というか、本来の在り方でしょう。

それも、たまのコピペならともかく、毎日山のようにコピペしまくりでは、どういう神経をしているのか?と疑わざるを得ません。
丸ごとコピペしてしまって、ぜんぶ自分のところで読んで済ましてもらう、なんてのは、他人の努力を横取りして搾取する「盗っ人行為」に等しいもので、仏教で戒める「不偸盗」にすら相当するかもしれない。

だから、自分で書かないようでは話にならん。というのが、わたしの意見です。

他人の記事のコピペばかりしている人は、他人の褌で相撲を取ろうとしているだけの、完全他力依存の、自助努力を欠いた人間に自分がなっていないかどうか。反省したらよろしい。

自助努力しているかどうかは、その作業を繰り返してきた結果として、自身の能力が上がる、という結果を得ているかどうかを見れば、わかります。

自助努力がないところには、自身の成長がありません。
いつまでも他人におんぶにだっこで、誰かに代弁してもらっていたら、自分の言葉で語ることなど、永久に出来るわけがないのでね。

総裁先生の、つぎのような言葉がありますからね。(「宗教のすすめ」より)



「いかに分かりやすく、簡潔に伝えられるか」ということが、ある意味で、みなさんの悟りがどれだけ進んだかということと関係します。
「幸福の科学の本をたくさん読めば、分かるようになります」と言うだけでは、十分ではありません。
みなさん自身の言葉で、伝えることが出来なければいけないのです



他人の書いたものをコピペして、これを読めばわかります、これが情報です、とやるだけでは、どこに「みなさん自身の言葉」があるでしょう?

やはり、何かの情報を聞いたり、本を読んだりした結果、その学びを、自分の言葉でもって語るところにこそ、自分自身の学びの成果は表れるのだ。
ニュースを読んでも、まるごとコピペばかりで、そのニュースに関して自分としては、どう思うのか。独自の感想を語れなければ、読んだ意味すら無い。
だから努力して、自分自身の言葉でもって、やはり語らなくてはならない。いつまでも他人におんぶに抱っこでは、どこに自分自身の修行があるのだろうか。

そう、言わざるを得ないと思うのです。




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posted by ガンレオ at 08:26 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【レオ】トランプ大統領と安倍総理 〜楯突く者は一人残らずぶっ潰す〜

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楯突く者は一人残らずぶっ潰す

 

私の言葉じゃないですよ(笑)、トランプ大統領が大統領選のさなかに語っていた言葉だそうです。

過激ですねー。しかし、ここまでハッキリものを言うトランプ氏の度胸と胆力、勇気には素晴らしいものがある。

上の言葉 … わたしも同じ考えを持ってますから、あ、ということは、最初の否定が否定じゃなくなっちゃうねー。でもまぁいいか。トランプ大統領の方針、大賛成〜!!

 

 

日本の国会答弁などを見ていると、首相ほか閣僚たちは、官僚のつくった草稿を読むことには熱心だけれども、想定外の質問に関しては、途端にしどろもどろになってモゴモゴ口調になってしまったり、ろくな答えも出来ずにだんまり、なんてことが時々ありますね。

菅総理のときなど特にひどかった … 。ひたすら目線は下に向いて、草稿を朗読するばかりで、質問に答えるつもりなんかさらさらない。そういうことを訊いているのではない、と更なる追及を受けても、草稿にない文面は読みようがないから、ひたすら官僚作文を朗読している。

 

即興で答えられない、ということは、独自の見識を持っていない、ということです。

むろん、あらゆることを知っているわけには行かないから、準備が必要なのはわかるけれども、どんなテーマであっても、自分なりの持論くらいはあるでしょう。それを即興で答えるくらいの度胸は、やはりいるのではないか。

前もって準備され、作られた文章しか読めないようでは、質疑応答の名に値しないでしょう。

 









トランプ トランプ
 

Amazon



 


トランプの演説方法は確立されていた。原稿はなく、いくつかのトピックが決まっているだけ。


 


大川隆法先生も、ご講演のすべてを、原稿なしに、そらで一時間二時間という長時間のご法話を、いくらでも行ってくださっていますが、


トランプ氏も、原稿なしに、自分の意見をドンドン話せる人のようです。確かに演説の姿を見ると、下にある原稿を読んでいる風ではなくて、堂々と前を向いて話をしています。


 


ぶらさがり取材、というのがありますね。


トランプ氏は、自分に反対の意見を持つ記者の取材でも、平気で受けるんだそうですよ。


しかも、きわどい質問であっても逃げずに、その場で即興で答える。


だから、あとで揚げ足を取られて、その発言を批判されたりもするんですが、当のトランプ氏はそんなこと知ったことか、と言わんばかりで、相変わらず、自分が思うことをストレートにガンガン世に訴え続けています。さすがです。


この度胸と勇気、胆力、敵をも恐れぬ強さ。タフネス。本物の政治家が、ここにいる。


 


日本では、小泉首相がマスコミのぶら下がり取材をジャンジャカ受けて、平然として即興で答えていましたが、安倍首相はこれをやりませんね。逃げている。予想外の質問を受けた場合に、下手なことを言ってしまって、あとで揚げ足を取られては大変でしょう?


菅総理が逃げていたのは、言質を取られることを極度に恐れていた、あの人ならではの保身術だし、安倍総理にも、自身への批判を恐れる臆病さがあるから、小泉さんのようにはパフォーマンスが出来ないでいるのではあるまいか。


 


安倍首相は、自分に好意的な海外メディアの取材は受けるが、厳しく追及してくるメディアには、窓口すら開かないことで、保身を図っているようです。


先の紹介本「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」には、著者である記者の、つぎのような言葉があります。
 

官邸のナイーヴな懐柔策に対して反抗的な態度を取ったせいだろうか、その後、今に至るまで私が現役の総理大臣にインタビューする機会は一度もなかった。ワシントン・ポストは第二次安倍政権が成立してから、安倍首相に3回も単独インタビューしている。ウォール・ストリート・ジャーナルやブルームバーグも単独インタビューを掲載した。  外国メディアの中で影響力が大きいニューヨーク・タイムズを、安倍首相はあからさまに避け続けている。「批判的な記事を書かれる」と官邸が思っているメディアの取材は、意図的に受けようとはしないのだろう。


 


この著者は、一方では、アメリカでのメディア取材をつぎのように論じて、日本の政界取材と正反対であることを、暴露しています。
 

海外メディアの記者を国内メディアと同じようにあしらえると思ったら、それは大間違いだ。日本の記者クラブメディアは、「首相は来月、外遊でどこそこに行く」といった、事前に伝えられる当局の動きが「飯のタネ」になっている。つまり、当局のリークがなければ、ニュースが作れないわけだ。一方、海外メディアの記者は自分で考えたテーマに沿って取材をするため、当局の動きだけに頼って記事を書いているのではない。権力側に「アクセス」する必要はさほどないから、それを遮断される弱みがそもそもないわけだ。


 
こういうメディア文化の違いがそもそもあるから、政府がメディアをコントロールするなど問題外である、メディアの死ではないか、と日本のマスコミに危機感を抱きながら、

アメリカの政治家の記者会見は、次のようである、と論じています。
 
記者から次々とタフな質問を浴び、完全にアドリブで答えていく。これが民主主義国家のあるべき記者会見のスタイルだ。安倍首相の記者会見は、この理想からあまりにもほど遠い



本来、記者クラブはメディアが権力に対抗するために生まれた組織だ。今こそ記者クラブメディア同士で連帯し、安倍政権のメディア・コントロールと真剣勝負で戦うべきだ。


 
記者クラブは、官邸から政治情報をもらうために、なれ合いの関係になってしまっていて、情報をもらうかわりに批判的なことは書かない、書けない、というのでは、お隣の共産社会のメディアと変わらないではないか、ということですね。


国民の代わりに、選ばれた政治家がきちんとやっているかをチェックし、批判するのが、メディアの使命ではなかったのか。政権と戦う意志が皆無の従属メディアに、メディアとしての存在意義があるのか?という問題提起ですね。


 


これに対して、ワシントン・ポスト取材班による著「トランプ」には、これとは正反対の、アメリカ政府とアメリカのマスコミの関係が描かれています。


だいたい、トランプ氏がマスコミから叩かれまくってきたのは、周知の事実ですが、そのトランプ氏自体が、マスコミに対して遠慮なく、思うがままの発言を繰り広げてきたのですから。


しかもその言は、本音を隠すことなく、問題の本質をズバリと突いた、痛快な言で満ちている。


 


あなたには、大統領になる資質があると思いますか?といった趣旨の質問に対して、トランプ氏は即答。


 



「ああ、いくらだって大統領らしくなれる。これまでのどんな大統領よりも大統領らしく振る舞えるよ。ただし、エイブラハム・リンカーンは別だ。リンカーンにかなう奴はいないからな」


 
守護霊霊言では、初代の自分は、リンカーン以上だ、みたいなことまで言っていたような記憶がありますが(笑)。

 


それから、プーチンとの関係を揶揄されるかのような質問に関しても、次のような見事な切り返し。


 
最初のターゲットはマスコミだった。



ロシアのリーダー、ウラジミール・プーチンの「トランプは傑出した人物」という発言に対して、アメリカの大統領候補が最も厄介なライバル国の独裁的なリーダーから称賛されるのは、喜ぶべきこととは言えない、と報じた記事を嘲笑った。



 「プーチンが人を褒めるのが、そんなに気味の悪いことなのか? いや、気味悪くなんてない、良いことだろう? 相手と仲良くやっていけるなら、それに越したことはない、違うか?」  

さらに、自身のこうした発言は必ずマスコミにねじ曲げられて、あたかもプーチンを支持しているかのように報道される、とトランプは言った。

「そういう連中が大嫌いだ。だからと言って、殺しはしない。嫌うだけだ」。

歓声があがると、トランプは負けじと声を張りあげた。

「記者の中には大ぼら吹きのゲス野郎がいる。本当だ、間違いない。だからって、殺りはしない」


殺っちゃったらマフィアでんがな〜(笑)。

 
このトランプ氏の、即興の返答、タフネスと度胸と正直な返答、そこにユーモアまであるんだから、人気が出ないわけがありません。


大嫌いだ、大ぼら吹きのゲス野郎。だからといって、殺しはしない(笑)。


どぎつすぎて大爆笑。こんな大統領がアメリカのトップにいたら、他国は迂闊なことは言えないし、出来なくなりますね。トランプさん一人の存在が、世界平和のための抑止力になるんじゃないかなー(笑)。


 



トランプに反論する者がいた。するとトランプは「そいつをつまみだせ」と警備員に指示してから、にやりと笑って、付け加えた。「でも、怪我はさせるなよ。丁重にお引きとり願え」  そうして、聴衆に向き直ると、こう言った。「どうだ、トランプ集会より楽しいものはないだろう?」


 
こんな楽しい集会なら、わたしだって参加したいわ!(笑)。そして当然、聴衆と一緒になって、拍手喝采するね!!

 


ある人は、トランプ氏の発言の数々を聞いて、つぎのように評したそうです。
 


ドナルド・トランプはわかりやすい言葉で話している。ちょっとわかりやすすぎるぐらいだけど、そこが新鮮なんだ


大川隆法先生も、トランプ大統領はどんな国民にもわかるような言葉で語っている、と指摘なされていましたね。


それは、自分の発言に責任を取る態度の表れでもある、と。


 


誰にでもわかるような主張をすれば、それが実現できなかった場合に、国民からの糾弾を受けて、責任を取らざるを得なくなるわけです。


ということは、それだけのリスク覚悟で、トランプ大統領は、誰にでもわかるような言葉でもって、国民にアピールしているわけです。


 


それに対して、我が国の安倍総理はどうでしょうか?


アベノミクスは、わかりやすい言葉でもって、説明されていたでしょうか?抽象的な言葉でもって、成功と失敗どちらになっても誤魔化せるような、そうしたあやふやな言葉ではなかったでしょうか?


消費税増税の失敗を、安倍首相は自身の責任として受け止める覚悟があるでしょうか。それとも外部に責任を転嫁して、なにもなかったように誤魔化そうとしてはいないでしょうか?


 


ここに、本当の元首と、形だけの見せかけの元首の差を見るのは、わたしだけではないでしょう。


 



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posted by ガンレオ at 08:08 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする