2017年04月17日

【レオ】ハイエクとソクラテス

近代に出た経済学者ハイエクと、古代ギリシアの哲人ソクラテス。


 


大川隆法先生による当人の霊言によれば、この両者は同じ魂の転生の姿であるという。


 


そう言われて、なるほど、言われてみれば、似ているな、と思える人、どれだけいるでしょうか?(笑)。


 


二人とも頭がいい、なんて理由ではダメですよ。頭がいい人なんて、歴史上いくらでもいるんだから。


 


わたしは先ほど、渡部昇一さんの著書を読み返していて、ある文章を読んでいたら、「あー、なるほど、ここか。」と、えらく合点がいってしまったので、せっかくなので記事に書いておきます。


 



法的枠組みにおいて強制力が行使されてはならないという、いわば否定の論理がまず先行することをハイエクは強調します。本書には書かれていないけれども、ハイエクが日本に来て講演したときに、「自由主義の法律はDon'tであるべきである。であってはいけない」といいました。  

ハイエクが是認する法律の特色は「否定」です。「これこれをせよ」という法律ではなく、「これこれすべからず」という法律を求め、否定されていること以外はやっていいというくらいでないと、自由主義ではないというわけです。


 


ハイエクは、統制経済・計画経済の社会主義を批判しました。


そして、その対極にあるものとしての、自由主義を強く勧め、アダム・スミス以来の自由主義経済こそが本道である、と述べたのだと思います。


 


自由、自由、自由。


 


自由であるためには、強制や決まりごとは極力少なくしておかないといけない。または、あれをやれ、これをやれ、といった強制的な行動指針を持った法律を、たくさん作ってはいけない。ということですね。


 


基本的には、大きな枠組みの中で、たとえば国家という大きなシステムの中では、


最低限、これはやってはいけないよ、という最低限の決まり事、ルールのみを課しておき、


それを逸脱しない限りにおいては、出来る限り、自由であるべきこと。


 


こういう考え方が、ハイエク流の自由主義でしょう。


 


むろん、それは、何でもかんでもやっていい、無制限の自由ではないのは、言うまでもないことです。


言ってみれば、崖から転落しないための柵は設けられていて、そこから外に出たら危ないから、柵は設けるよ。


けれども、その柵の内側では、どんなことをしてもいいですよ、自由ですよ。ただし、他の人には迷惑をかけないようにね。


 


そういった、最低限の防波堤は作った上での、自由、ということでしょう。


 


だから、引用文にあるように、ハイエクは、


 


 


「自由主義の法律はDon'tであるべきである


 


と言い、さらには、


 


「これこれすべからず」という法律


 


 


にのみ抑えるべきであって、その最低限の戒めのみを守れば、あとは出来るかぎり自由にしてよい。


それが、ハイエク流の自由ですね。


 


最小の「戒め」を持った、大いなる自由、とでも言うべき立場でしょうか。


 


 


ここまで解すると、これは、ソクラテスにまつわる、とあるエピソードと非常に似ていることに気づきます。


 


そう、あの、ソクラテスの守護霊であるダイモンですね。


ソクラテスの守護霊ダイモンは、ソクラテスに対して、


 


〇〇〇をしてはいけない。


 


という風に、それはしてはいけない場合には注意したけれども、


それに違反しない限りにおいては、ソクラテス本人の自由意志と決断に、すべてを任せていたように思います。


 


ソクラテスの守護霊ダイモンこそは、まさに、ハイエクの言うような、


これだけはやってはいけない、けれど、それ以外なら貴方の自由にするがいい、という考えをそのまま、指導方針としていた神霊ではないでしょうか。


 


幸福の科学の霊査によれば、この守護霊はアポロンだった、と以前、言われていたと思います。


魂の兄弟ではないのでしょうけれどね。如来同士の指導関係なので、別の神霊が、ソクラテスの指導に当たっていた、ということなのでしょうか。


 


いずれにしても、


最低限の「やってはいけないこと」のみは指摘するが、


それに違反しない限りにおいては、人間は自由である。


ソクラテスよ、貴方も自由である。あなたの判断で考え、決断し、行動しなさい、ということだったのでしょうか。


 


あれをせよ、これをせよ、という指示だし指導では、地上の人間は、守護霊の操り人形の如くになってしまい、自分で考えることを辞めてしまうでしょう。


なんでもかんでも、守護霊にお伺いを立てて、指導されるがままに動くのでは、自由な生き方とは言えないし、魂の学びもない。


 


これは、自由主義という政治思想、経済での考え方にも、そのまま適用されるのではないだろうか。そんな風にも思います。


 


人類は、自由の解放に向かって、歴史の歩みを進めてきたけれども、まず初歩の学びとしては、何をしてはいけないのか、ということを学ぶ必要があったのかと思います。


 


思い返せば、ユダヤ教の十戒にしても、イスラム教の戒律主義にしても、仏教の戒律にしても、これをしてはいけない、という「破ってはいけない」ルールを、人々はまず学ぶように指導されていたと思います。


 


その上で、どのように生きればいいのか。


 


自由に生きる。


 


しかして、その自由の意義を知らず、またもや、間違った生き方を人はする。そこに新たな学びがある。


 


真の自由を知るために、最低限の制約、ソクラテス的Don’tがある。ソクラテスの守護霊が言った「〇〇〇をしてはいけない」という考えと、


 


ハイエクの、これこれすべからず、に反しない限りは、自由な経済原理を確立すべきだ、という考え方。


 


哲学と経済という、違った世界の話のように見えて、その実、その背後にある理念は、まったく同一の考え方によって貫かれているのではないか。


そんな風に、ふと思ったのでありました。


 


 


 




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2017年04月16日

【レオ】信仰は、独りよがりであってはいけない。だから他の人の信仰からも学びましょう

LEO幸福人生のすすめ、より転載 (2017-03-20 の記事)
http://ameblo.jp/space-people/entry-12258060095.html



信仰とは、人が人生において出会う目覚めのうち、もっとも大切なものだと、いまの私は思います。

深い挫折や苦しみの中で、人はそれまで、関心も持たないで生きていた<神さま>へ。初めて目を向けることがある。
無神論や無宗教が当たり前のようになってしまっている、いまの日本では、信仰に目覚めるというのは、それほど難しいことになってしまっている。

自分の力では、自分を救うことが出来ず、
家族や、友人・知人・先輩に答えを求めても、わからない。

神さまに教えてもらうしかない。救ってもらうしかない。
そこまで行かないと、心が神さまの方を向かないのは悲しいことだけれど、
その恩知らずの愚かな人間であっても、神さまは待っていてくれるんですよね。
そして、たしかに、魂の救いを与えてくれる大いなる存在だと、わたしは思います。

神さまに向かって、答えを求めるとき、救いを求めるとき、祈るとき … 、

人は基本的に言って、独りだと思います。
自分ひとりで、神さまと向き合い、信仰とは何か、祈りとは何か。自分はこれからどうしたらいいのか、その答えを求めるもの。
自問自答のようでありながらも、そこにはさまざまな気づきがあったり、深い苦悩もあったり、悩みや葛藤、深い思索、さまざまな経験を経て、

人は、自分と神さまの関係を模索する。

一生、神さまのもとにあって、神さまを信じて生きていこう、と決意する者あり。

一時のみ、神の救いを求めたものの、悩みが解決したら、喉元過ぎれば熱さ忘れるが如く、
ふたたび、神さまとは無縁の人生を生きてしまう人もあり。

一度は信じた神さまを、みずから捨てて、神などやはり存在しないと、無神論に戻る人あり。

いろんな人がいるのでしょうが、わたしはそこで、ちょっと待てよ、とやはり言いたいと思うのです。

キリスト教にしても、仏教にしても、イスラム教にしても、世界の人たちがこれらの教えを信じてきた期間は1500年から2500年 … 。そういった長い歳月のあいだ、多くの人たちから、尊い教えだと信じて敬われ、いま現在も世界中に数億から数十億の信者をもつ世界宗教を見て … 

その教えの真実を判断するのに、わずか1冊や2冊の本を読んだり、自分の個人的な思惑や体験のみで、一蹴してしまっていいのだろうか?と思うんですよね。

テーマとしては、最大、最重要の事柄が、この神と自分の関係、信仰という世界の話だと思うのですが、
そのことの意義や価値を真に知るためには、

単に、自分一個の主観的な思いなしや、感情的なる判断で、結論を出していいのだろうか。
自分はそんなに賢い人間だったろうか。
自分の人生観は自分で決めるといっても、世の中には、賢者と称えられている数多くの偉人がいたはずではないか。そういう人たちの意見や声を、もっとよく聞いてから、よくよく判断して結論づけた方がいいのではないだろうか。

自分の小ささを知り、謙虚となって、傲慢さを去り、
過去の偉人や、現在の智慧ある人の意見を、もっと虚心坦懐になって聞いてみてもいいのではないだろうか。わたしは、そう思うのです。

キリスト教の素晴らしさを知るために、

聖書を手にとって、わずか数ページを読むだけで、投げ出してしまった人は、なんと勿体ないことをしているだろうか。

聖書を読むだけでなく、アウグスチヌスやトマス・アクィナスやベルナルドの思索に触れてみたら、そこには何と深い人生への洞察と、魂への探究があるだろうか、と思わずにはいられない。

2つ前の記事で書いた、三浦綾子さんのキリスト教エッセイは、幸福の科学の信者であっても、いまだ到達しえていない、深い宗教的な悟りの言葉が、無数に煌めいている。

教えを初めて読むということは、まだその教えを知ったことにはなっていない。
真理は体得しないと意味がない。
特に、心の教えは、自分の魂によくよく深く熏習させて、みずからの魂でもって体得しないと、わかったことにはならない。
最強最高最大の教えを、ただ目で読んだことがあったとしても、それを本当に知った人と、目では見たが魂では掴んでいない人の差は、驚くほどに違っているものだと思う。

やはり、真に知らねば、と思う。それは、魂でもって掴む、ということだ。

そのためには、自分一個の、ひとりよがりな信仰体験だけでは、やはりそう簡単に掴めるものではないので、他の多くの先人たちや、信仰をともにする法友たちの体験なども、謙虚になってよく聞き、よく学び、みずからの今後の人生の指針とする。そういった謙虚さが、やはり必要なのではないかと思うのです。

独りよがりの信仰問答に陥って、疑問を呈して、退転したりしないように。
退転の際には、その心、かならずや驕りの気持ちがあるはず。他の人の体験話に素直に耳を傾ける気持ちなく、自分の主観をあまりにも重視し、感情的に結論を決めつけていたりするものでしょう。要注意ですね。




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posted by ガンレオ at 12:21 | Comment(0) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする