2017年02月26日

【レオ】理想と現実、正義と悪の戦いとユートピア建設 〜ぽん吉とピア健と救国のコウは、倒すべき悪である〜<加筆あり>

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わたしのスタンスは、

宗教を学ぶ者は、信仰のもとに生き、みずからの正しき心を探求すること。
そうしたみずからの宗教的なる人生でもって、宗教の素晴らしさを実践しつつ、教えそのものを広めることが出来たら最高かな。

その過程においては、ユートピア作りのための根本精神として、すべての人の仏性を信じ、性善説のもとに生きたいと思うけれども、現実的には、この世には正義と悪の戦いというものがある。

悪を押し止め、そのうえで正義を貫くことが大切で、
正義と悪をごった煮のままに放置することが、いいわけではないのは自明の理ですね。
善悪の玉石混交というのは、三次元世界においてのみ現れる、仮の世界の玉石混交にすぎません。
三次元世界の存在自体がすでに、悪であっても善と同居しうるという、そうした寛容な特殊な舞台として最初からあるわけで、だからといって、
そうしたアナーキーを見て、それを放置するのがいいわけではないでしょう。それでは学びの意味がない。

三次元の善悪が入り混じった混乱した世界において、
善を選んで、悪を排せ、そこに善悪を分ける智慧を学ぶことができるのでしょう。

悪を許すのが寛容さではない、ということです。寛容なる三次元世界において、悪が出現する。その悪をどうするか。放任するのが寛容さか?違うでしょう。悪を排して、善を推し進めるところに、智慧が得られるのではないでしょうか。

だから、私にとって、多くの人を害する悪は、倒すべき敵であります。
宗教者でありながら、主を冒涜し、所属していた団体に罵詈雑言を浴びせる、ぽん吉やピア健のような仏敵法敵を、黙認して済まそうというのは、戦いを避ける臆病であり、弱々しき善人そのものじゃないの?と考えます。
以前あったアンチの大量乱入の際に、見て見ぬ振りをして傍観していただけの人も、嵐が過ぎ去るのを待っていただけなら、同じことですよ。更新してなかった人は別として、ブログ村に参画し上位におりながら知らんぷりでは情けない。

正義の(義)とは、善悪を分ける智慧であり、正邪を分かつ判断力のことでしょう。そして、その義を断行するためには、勇気がいる。
それは、愛のための戦いであり、正義の戦いであると、日本の神々もおっしゃられていたはずですね。
義を見てせざるは勇なきなり、になっていないかどうか。
宗教的な許しという観点に逃げ込んで、義と勇を忘れていないだろうか。

大きな例と比較すれば、
ヒトラーやスターリン、それから現在の中華人民共和国による横暴な侵略主義に対して。正面から受けて立つ勇気があるかどうか。
反論も受けない場で、勝手に批判するのは簡単ですが、いざ敵を前にした時に、それと正面から対峙してディベートできるかどうかですね。
見て見ぬ振りをして嵐が過ぎ去るのを待つだけの人は、政治家になったら、中華人民共和国に対してタカ派の意見など言えませんよ。戦って傷つくのが嫌なようでは、相手がいないところでは理想論を掲げられても、いざ凶悪な敵を前にしたら、沈黙して融和的な態度を取るのではないでしょうか?
きれいごとだけでは悪には勝てませんよ。 

ブログ村における悪とは、ぽん吉やピア健のような、脱会アンチであり、信者籍を持っている間にも、法を捩曲げながら、反省もせず、自己変革の意思すらなかった輩ですね。
幸福の科学にとって、獅子身中の虫のごとき、信者籍を持ちながら邪見をばらまく人間がそれだと思います。

彼らと戦って、結果的に彼らが本性を表し、牙をむきだしてきたのは、隠していた本音を出しはじめただけの話です。
私がやったのは、それを先んじて明らかにしたことであって、そういう意味では、すこしばかりの良いことを行えたかな、とすら思っています。悪を見破って暴いた、というに過ぎません。

正義を打ち立てるには、悪を放任するのではなく、悪を滅ぼして、その先に健全なる正義の世界、天の秩序を打ち立てるべきだと思います。

綺麗事の理想論だけではダメで、現実主義も必要で、これは国際政治でも同じところがありますよね。
アメリカ主導の戦後世界でも、アメリカは理想主義と現実主義の双方に揺れて、アメリカ自身がはっきりしなかった。それが20世紀の世界を混乱させたところがある。
アメリカ自身が世界正義の何たるかを模索しながら、その識見定まらず揺れていたところに、世界の混乱が生まれる余地があったのでしょう。世界の警察官を自称しながらも、すべての悪を取り締まることは出来ず、それどころか、警察官自体が悪事に手を染めたりするので、正義の何たるかがますますわからなくなっていく。
真の世界リーダーの不在が、世界正義の樹立を打ち立てることが出来なかった理由かと思います。

イギリスは現実主義の伝統があって、政治改革も思想も現実主義で、経験重視の穏健な考え方を取りますね。
一方、フランスは、フランス革命に代表されるように、理想主義に傾きすぎて、あまりに急進的で過激な変革をやろうとしすぎて、その後の大混乱につながったりしましたが。

フランス革命を応援したトマス・ペインの理想主義と、
フランス革命を批判したエドマンド・バークの保守の立場、現実主義の漸進主義の対立を見ると、
この双方を融合するのが大切なのかなーと。
どちらにも半面の真理があるので、どちらの主張にも一理ある。

わたしはユートピア建設という理想の実現のためには、
善悪を分けて。悪は封じるというリアリズム政治が必要だと思ってます。
悪に対して黙ってスルーするのではなく、断固として対峙して、打ち倒すまで戦う!

とりあえず、ぽん吉とピア健との戦いは、私にとってはそうした、善悪の観点からの戦いですよ。
その意味で、この二人に連なる救国のコウも、そのままで許すつもりはさらさらない。
法を捩曲げること夥しい、この邪見の輩の悪事は、世間に知らしめて、警告しておく必要がある。そう考えるものです。


http://gunleo.seesaa.net/article/422483210.html


2016-11-23 09:30:14 初投稿日


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posted by ガンレオ at 10:07 | Comment(1) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

【レオ】サイコパスについて その3 〜ぽん吉という名のサイコパス〜

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サイコパスには人間的な感情が欠落していると言っても、すべての感情を失っているわけではありません。確かに恐怖や不安は感じにくいのですが、負の感情のすべてが低下しているということではないのです。  

たとえばサイコパスにも「妬み」の感情はあります。

 


サイコパスは、感情欠落しているように見えるといっても、「嫉妬」の感情はあるようです。


自分が関心を持っている領域で、妬む相手がいると、激しく嫉妬する。


自己中であり、自己肥大が過剰であるサイコパスの嫉妬は、むしろ、ふつうの人以上に猛烈な嫉妬感情を彼らに与えさえするのかもしれません。


自分がいちばん目立ちたいのに、相手にされず、他の人が注目されていることほど、彼らにとって許し難い、自己への攻撃は無いからでしょうか。


その嫉妬自体が、エゴによる誤った感情なのですが。


 


サイコパスは自分自身を「強く、自立的な一匹狼」として捉えている

 


 


これも、他人への共感感情を持たないから、みずから孤立を招きがちな、サイコパス特有のエゴでしょう。


孤立していることを、自分の性格が原因だとは考えずに、自分はアウトローの一匹狼なのだ。自分はあまりに優秀すぎるので、誰も自分のことを理解することが出来ない、自分は誰にも理解されない天才なのだ。


みたいな感じで、彼の強烈なエゴは膨れ上がり、その心の中は傲岸不遜の自惚れで、実は膨れ上がっている。


しかし、それを表に出しては、ますます他の人から嫌われるので、見せかけ上は、謙虚なふりをしたりするのだけれど、それは口先だけの話でしょう。


自分など大したことがない、などと口では言っても、心の中は、自分こそヒーロー、傑出した人物なのだ。なぜ世間はそのことがわからんのか。


などと思いあがって、そのギャップに苦しんでいるのかもしれません。


 


P吉も、独りよがりの「われ独りにて立たん」みたいなカッコつけしいセリフを、しばしば使ってましたが、これがまさに、自分を「強く、自立的な一匹狼」に見立てようとの、エゴ心理そのものです。


 


 


自分には社会のルールを破る権利が与えられている──サイコパスはそう信じている

 


 


社会の常識やルールを平然と破るのは、彼らがあまりにも傲慢で、自分勝手だからでしょう。社会のルールや法よりも、自分一個の意志と行動が上である、優先されるのだ、といって思いあがっている。


 


ドストエフスキーの「罪と罰」では、主人公のラスコリニコフは、天才や偉人は社会のルールを破る権利がある、資格があるのだ、といった過激論文を書いて、それが彼の敵たる判事の目に止まり、怪しまれるんですよね。


その主張そのものが危険思想なのですから、当然、怪しまれてしかるべきでしょう。


 


ルールを平然と破る人間は、なぜそんなルールに自分は縛られないといけないのか。そんなルールは関係ない、オレは自由だといって、好き勝手な行動をしたがりますが、


そうした自分勝手主義は、自由とは何の関係もない、悪魔の論理ですね。


かつて1億年以上昔に、悪魔が人々を惑わした、お前たちは自由なのだ、神でさえその自由を邪魔することは許されない、そうした自由なのだ、といった悪魔の自己中にすぎません。


 


ロバート・ヘアは「サイコパスも良心の呵責や罪悪感を口にすることがある」と言います。しかしそれは実際に心が痛んでいるからではありません。他人から責められたときに「自分が悪いと感じているように見せる」ことが有効な処世術だと理解しているからです。

 


 


ロバート・ヘアという人は、サイコパスという概念を世に広めた犯罪学者です。わたしも著作をかつて読んだことがあります。


 


彼らは、良心の呵責や罪悪感ですら、見せかけの演技で、それがあるように見せかけるんですよね。


本当は、良心の呵責など全く感じておらず、罪悪感など持ってもいないのに、自分でも、これはいけないことだと思っていますよ、でも正義のためにやるしかないんです、自分が悪役になってでも暴れるしかないのです、などという詭弁論理を立てて、自己を正当化しようとする。


しかし実際には、自分が悪いことをしているなどとは、さらさら思ってやしないのです。世間を騙すために、さも悪いことをしている自覚があるかのように見せかけているだけ。世間をも欺こうとするのが、サイコパスの常套行為なんですよね。それが彼らの処世術なのですから。


 


彼はサイコパスが一般人とは異なる言葉づかいをすることに注目していました。文の構造、語彙の選び方、しゃべる速度、リズムが違う、というのです──この点に注目した後世の研究者たちが、r-a-p-e(強姦)といった単語を用いてサイコパスに情動反応が起きるかの実験を行うことになります(実験結果については第1章参照)。

 


 


サイコパスの中には、性的な言葉や、暴力的な言葉に、過剰反応するという特徴がある人もいるそうです。


なので、文面の中にr-a-p-e(強姦)という単語を入れて、それを読ませたりすると、ふつうの人は、まったく気づかずに読み飛ばしてしまうところが、サイコパスはその単語を読んだ途端に過剰な反応をするそうです。脳波の変化、つないだ機械のメーターの針が、激しく振れる、ということです。


どこぞの誰かも、性犯罪などに異常な執心を示していますよね。典型的なサイコパスの特徴を示している。そう、観察することが出来るかと思います。


 


 


 … つづく。


 


 


 


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posted by ガンレオ at 08:24 | Comment(2) | レオブログより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする